All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話 イベント当日

イベント当日。診療を終えて自宅へ戻ると、窓の外はすでに薄暗くなり始めていた。真哉兄さんから指定された時間までは、まだ一時間ほどある。シャワーを浴び、髪を乾かしてから。クローゼットの扉へ掛けておいたドレスを手に取った。離婚して、一人で暮らすようになってから買ったものだった。深い青に、わずかに緑を含んだ色。光の当たり方によって、夜の水面のようにも見える。父の仕事関係の会食に着ていくためでも、優の隣へ立つためでもなく。店で見た瞬間に、自分が着たいと思って選んだ。袖を通すと、柔らかな布地が身体へ沿い、腰の位置から静かに落ちた。露出は普段よりもデコルテがと背中が空いているから、少しだけ多い。けれど、これまで社交の場で選んできた服よりも。身体の輪郭が少しだけ素直に見える。鏡の前で髪をまとめ、耳元へ小さなパールをつける。首元にも、粒の揃った細いネックレスを合わせた。結婚していた頃にも、同じように着飾る機会はあった。けれど当時は、鏡の中の自分を見ながら。まずその場にふさわしいかを確かめていた。優の妻として控えめに見えるか。父の娘として幼く見えすぎないか。誰かの目を引きすぎず。それでも隣に立つ人を見劣りさせないか。今夜も父の仕事に関係する人たちが集まる。それでも今日は、誰かの隣へ立つための装いではなかった。気になる絵を見に行く自分が、この服を着たいと思った。鏡の前で身体の向きを少し変える。照明の下で、ドレスの色が静かに揺れる。普段より丁寧に整えられた自分の姿に、胸の奥がかすかに弾んだ。着飾ることは、誰かへ評価されるためだけにするものではない。自分自身が、鏡の中の姿を楽しんでもいい。最後にバッグへスマホを入れようとしたところで、画面が明るくなった。隼人くんからだった。『もう出る?』鏡越しに自分の姿をもう一度見てから、返信する。『今から出ます』すぐに、『楽しんできて』と届く。それから少し間を置いて、『会いたくなったら、呼んでね』と続いた。迎えに行くとも、終わる時間を教えてとも言わない。私が会いたいと思った時だけ、呼んでいい。その言葉が、今夜の予定とは別の場所に。自分の戻れる時間が残されているように感じられた。『はい』と返してから、玄関を出た。***会場は、真哉兄さんの不動産会社が所有する複
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第242話 嫌な予感

「プロジェクトの話、いつする?」尋ねると、真哉兄さんは時計へ目を落とした。「始まる前に話せると思ってたんだけど、予定より人が早く来てて」「じゃあ、あとで?」「うん。ちゃんと時間は取る」そう言いながらも、意識の半分はすでに会場へ向いている。「先に、少し付き合ってもらってもいい?」嫌な予感がした。「何に?」「挨拶」真哉兄さんは、悪いことを頼んでいるという顔をしていなかった。「父さんの関係者も来てるし、プロジェクトのことを知ってる人も何人かいる」 「綾香がせっかく来てるなら、紹介しておきたい」「絵を見に来たんだけど」冗談に寄せて言うと、真哉兄さんが笑う。「分かってる。あとでちゃんと見られるから付き合って」以前にも、似たことが何度もあった。先に一人だけ。これが終わったら。あとで自由にしていいから。そう言われ、求められた挨拶を済ませているうちに。予定していた時間のほとんどが終わる。今日は違うと思っていた。真哉兄さんが、プロジェクトのことも含めて話したいと誘ったから。父の代理としてでも、白松家の一員としてでもなく。兄と仕事の話をして、気になる絵を見に来たつもりだった。けれど、受付で到着を待たれていたことも。真哉兄さんが、私へ声をかける前から会場の人の流れを気にしていることも。最初から私を、この場の交流へ入れるつもりだったのだと感じさせた。「何人くらい?」念のため尋ねる。「本当に数人」その答えを聞いた瞬間、やはり少しだけ嫌な予感がした。それでも、主催者として忙しそうにしている兄を。困らせるほどのことではないと思った。ただ、挨拶を何人かにすれば良いのだから。「分かった」「ありがとう」真哉兄さんの表情が、目に見えて和らぐ。その安心した顔を見た時。私が来たことを、純粋に喜んでいただけではないのだと、もう一度感じた。***最初に紹介されたのは。真哉兄さんの会社と共同で再開発事業を進めている企業の役員だった。「白松先生のお嬢さんですよね」男性は私の顔を見ると、すぐに父の名前を出した。「はい」「お医者様だと伺っています」「現在はクリニックで診療しています」「お兄様も出資されている。例の医療プロジェクトにも?」私が答える前に、真哉兄さんが自然に会話へ入る。「外部の臨床アドバイザーとして関わっ
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第243話 何度も言われた言葉

***二人目は、父の支援団体と長く付き合いのある夫婦だった。「まあ、綾香さん」年配の女性が、私を見るなり目を細める。「久しぶりね」「ご無沙汰しております」「本当におきれいになって」視線が、ドレスからパールへ移る。「もともとおきれいだったけれど、今日は特に素敵」「ありがとうございます」「少し、雰囲気が変わったんじゃない?」どう答えればいいのか分からず、口元へ笑みを置く。「そうでしょうか」「ええ。前より柔らかくなった気がするわ」女性は懐かしむように私を見る。「優さんとご一緒の時は、いつも完璧だったもの」胸の内側が、わずかに固くなる。けれど、表情は変わらなかったと思う。「お二人、離婚されたって聞いたけれど」女性の声が、少しだけ低くなる。女性の旦那様も、こちらへ注意を向けた。悪意はない。声を潜めたことで、むしろ気遣っているつもりなのだろう。「本当に驚いたの」「そう言っていただくことは多いです」「だって、本当にお似合いなご夫婦だったから」女性は、今も信じられないというように首を傾けた。「私、憧れていたのよ。お仕事も家柄も釣り合っていて、どこへ行ってもお二人とも完璧で」完璧な夫婦。何度も言われた言葉だった。並んで立てば、育ちも、仕事も、家同士の関係も釣り合っている。優はどこへ出ても礼を失わず、私はその隣で求められた振る舞いをした。意見が違っても、人前では見せなかった。寂しくても、顔には出さなかった。外から見れば、崩れる理由など一つもない夫婦だったのだと思う。「ありがとうございます」感謝する言葉が正しいのかは分からない。けれど、相手が好意から話していることも分かっていた。憧れていたものが、自分の知らないところで終わった。その驚きを、素直に口へ出しているだけなのだろう。「離婚については、円満に終わっています」私は、できるだけ穏やかに続けた。「現在も仕事では関わることがありますし」 「必要なことはお互いに協力していますので、どうぞお気遣いなく」相手が気まずさを覚えない形。これ以上、事情へ踏み込ませない形。それでいて、優との関係に問題が残っているようにも聞こえない言葉。何度か使ううちに、自然に口から出るようになっていた。女性は安心したように息を吐いた。「そうなのね。よかった」何がよかっ
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第244話 少し疲れた?

「あ、でも」その言葉を聞いた時点で、次に続くものが分かった。「あと一人だけ」 「今来た方が、プロジェクトに関心を持ってくれていて」一人だけ。最初にも聞いた。「少し疲れた?」ようやく尋ねられる。「少しだけ」正直に答えた。真哉兄さんの表情に、短い迷いが浮かぶ。兄としては休ませたい。けれど、主催者としては今紹介しておきたい。その二つを比べる時間が、目の前で見えた。「ごめん」結局、主催者の方が残った。「これで本当に。最後にするから」怒るほどではない。私は自分の意思で来た。数人へ挨拶をすることも、想像していなかったわけではない。それでも。仕事の話をしたいと呼ばれたはずなのに。真哉兄さんと二人で話す時間はまだない。見たいと思った絵の正面にも、まだ立っていない。代わりに。私が白松家とプロジェクトへ今も有用であることだけが。仕事を受けている医師としてと言うよりも。白松家の娘であり、真哉兄さんの妹であると言うことが。会場の中へ自然に広がっていく。白松家の娘としての価値を、会話を重ねるごとに示されて。それと同時に、自分がどんどん消えていくような気がした。「分かった」また笑みを作る。それを見て、真哉兄さんは安心したように頷いた。私が笑っている限り。大丈夫だと思われる。それも、以前から変わっていなかった。***会場の奥では、グラスの触れ合う音と。低く抑えた笑い声が重なっていた。白い壁へ並ぶ絵には、それぞれ光が当てられている。けれど私は、案内状で気になっていた青と緑の絵へ、まだ近づけていなかった。人の肩越しに、時折その一部だけが見える。深い青。暗い緑。何層も塗り重ねられたらしい表面。そこへ歩いていけばいいだけなのに。新しい人へ声をかけられるたびに足を止めた。「白松さんですよね」「お父様には、いつもお世話になっています」「医療のお仕事へ戻られたとか」「東郷先生とは、今も同じプロジェクトを?」話題は、父と仕事と離婚の間を行き来する。私は一つずつ丁寧に答えた。個人的なことを聞かれても、相手へ恥をかかせない範囲で線を引く。仕事のことを聞かれれば、守秘義務へ触れない形で説明する。相手の名前と肩書を覚え、次に会った時に困らない程度の情報を頭へ残す。できる。今でも、全く問題なくできる。優
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第245話 円満な離婚

結婚していた時には。その完璧さを日常の一部として受け取っていた。最初の頃は誇らしさも、感じていた。どこへ行っても人の名前と関係を覚えて。相手に応じて話題を選び、誰にも無駄な緊張を与えない。本人は、自分が人に好かれていることを意識していないような顔をしている。けれど、優が現れるだけで、会場の流れが少し変わる。話しかけたい人が集まり。知っていることを示したい人が、名前を呼ぶ。それでも優は、誰へ対しても態度を変えなかった。ようやく私たちの前へ来た時。優は、周囲へ軽く目を配ってから、真哉兄さんへ頭を下げた。「真哉さん、お招きいただきありがとうございます」「来てくれて助かった」二人が握手を交わす。「案件の関係者が数人来てるから、あとで話したくて」「そのように伺っていました」優は、会場を一度見渡した。「ただ」口元へ、ごく薄い笑みが浮かぶ。「思っていたより、会食で顔を合わせる方が多くて驚きました」その言葉に、近くにいた人たちが笑う。「東郷先生のお顔が広いんですよ」「先生を知らない人の方が少ないでしょう」優は、過剰に否定しなかった。「皆様に覚えていただいているだけです」相手を立てながら、自分を謙遜しすぎない。誰かが褒めるために出した言葉を。無駄にさせない受け方だった。真哉兄さんも満足そうに笑う。「ちょうどいいよ。仕事だけじゃなく、こういう場で顔をつないでおく意味もあるから」その言葉を聞き。やはり今夜は。最初から純粋な展示イベントではなかったのだと思う。ギャラリーでのイベント。作品の展示。それらを中心にしながら。父の関係者。真哉兄さんの取引先。プロジェクトの関係者。優が仕事で顔を合わせる人々。いくつもの交流を、一つの場所へ重ねている。私は、その中心に自然に置かれていた。優が、ようやく私へ視線を向ける。ほんの一瞬。目が止まった。ドレスを見たのか。パールを見たのか。それとも、私が表情の奥へ隠している疲れを。最初から何か感じ取ったのかは分からない。「久しぶり」優が言った。「この間、仕事で会ったばかりでしょう」答えると、優の目元がわずかに緩む。「こういう場で、という意味だよ」真哉兄さんと同じことを言われた。「そうね」声は、いつもと変わらずに出た。優は、もう一度私の姿へ視線を滑
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第246話 どうしてわかったの

やがて、若い女性が優の隣へ一歩近づいた。先ほど、私へ離婚について尋ねた女性とは別の人だった。父の支援する団体と関係のある会社で働いているらしい。「東郷先生」声が、それまでより少しだけ柔らかくなる。「今度、弊社の件でもご相談したくて」名刺を差し出す。仕事の話に見える。けれど、優を見る目には。それだけではないものが混じっていた。離婚したと知ったから。もう誰の夫でもないと分かったから。これまでなら隠していたかもしれない関心を。女性は、少しだけ表へ出している。優は名刺を受け取った。「担当を確認して、ご連絡します」個人的な含みを一切残さない答えだった。それでも女性は、すぐには離れない。「東郷先生ご本人と、お話しできたら嬉しいです」周囲にいた別の女性も、会話へ入る。「先生、お忙しいですものね」「でも今日は、少しお時間ありますか?」優へ向けられる声。私へ向けられる視線。離婚後も並んで立つ私たちを、比べるような目。あれほどお似合いだったのに。今は、優へ誰が近づいても問題がないのだろうか。綾香は、どう感じているのだろう。そうした言葉にならない問いが。周囲の視線へ含まれているように感じた。実際には。誰もそこまで考えていないのかもしれない。私が疲れているからこそ。必要以上に拾ってしまっているだけかもしれない。けれど、今夜は会場へ入ってからずっと。人の視線の意味を考え続けていた。ドレスを褒める目。離婚後の私を確かめる目。白松家の娘として見る目。優の隣に立った時だけ、以前の夫婦を重ねる目。一つひとつは軽くても。積み重なるたび、身体の内側が少しずつ重くなる。口元の笑みは保っている。頬が硬くなっていることも、外からは分からないと思う。私は、そういう表情を作ることに慣れている。相手を不安にさせない。その場の空気を崩さない。誰かに、気を遣わせない。けれど、呼吸が浅くなっていた。喉も乾いている。手にしたグラスには、ほとんど口をつけていない。飲み込める気がしなかった。視界の端で、青と緑の絵が見えた。今夜、見たいと思って来た作品。ここまで来て。まだ一度も、正面へ立てていない。優が女性へ答えながら、こちらを見た。ごく短い時間だった。私は、いつも通りに見えているはずだった。頬の力も。口元の
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第247話 見られているもの

青と緑が重なる絵の前まで来ると。背後の話し声が少しだけ遠くなった。完全に静かなわけではない。会場のどこかでは笑い声が上がり。グラスの触れ合う乾いた音が続いている。少し離れた壁際では。作品について説明するスタッフの声も聞こえた。それでも、さっきまで人の輪の中心にいた時より。少しだけ、息がしやすかった。私は手にしていたグラスを。壁際に設けられた小さなテーブルへ置いた。ほとんど減っていない水の表面が、照明を細く反射している。目の前の絵は、案内状の小さな画像で見た時よりも、ずっと暗かった。深い青の上に、黒に近い緑が何層も重なっている。表面には細かな凹凸があって。正面から見ると静かな水面のようなのに。少し角度を変えると、奥から別の色が浮かび上がった。暗い。けれど、沈んでいるだけではない。塗り重ねられた色の隙間に、ごく細い白が残っている。水面へ差し込む光にも。森の奥で、枝の間から見える空にも見えた。しばらく見つめていると、隣から優の声がした。「案内状で見た時から、気になってた?」「うん」「やっぱり」視線を絵から外さずに答える。「分かってたの?」「会場に入ってから、ずっと何度も見てたから」「それはさっき聞いた」「そうだったね」優の声には、会場で人へ向けていた社交的な響きがなかった。仕事の打ち合わせで二人きりになった時とも、少し違う。結婚していた頃。二人で家にいて、優が仕事から意識を外している時の声に近かった。そのことへ気づき、胸の奥がかすかにざらつく。「五分だけ」私は言った。「何が?」「絵を見る時間」「真哉兄さんのところに戻らないといけないから」「五分で足りる?」「足りなくても、今日はそれしかないと思う」答えると、優は何も言わなかった。ただ、私と同じように絵へ顔を向けた。二人で並んで、一枚の絵を見る。その行為は、以前なら珍しいことではなかった。父の関係者が主催する展示。優の顧客から招かれた会。海外へ行った時に立ち寄った美術館。二人とも、絵について詳しかったわけではない。それでも、人の多い場所で少し疲れた時には。作品の前へ並び、誰にも話しかけられない時間を作ることがあった。思い出したくて思い出したわけではない。ただ、隣へ立つ優の気配が。身体の中に残っていた記憶を勝手に引き
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第248話 綾香を見ていたからだよ

「私が何を好きなのかを、私より分かっているみたいに話すこと」優の目から、わずかな笑みが消えた。「それは」一度、言葉を止める。「綾香を見ていたからだよ」「見ていたなら」胸の奥から、古い痛みが少しだけ浮かぶ。「どうして、結婚していた時は分からなかったの」声を荒らげたわけではない。それでも優は、答えなかった。会場の音が、再び近くなる。誰かの笑い声。スタッフがグラスを片づける音。優は、しばらく目の前の絵を見ていた。「分かろうとしなかったんだと思う」やがて言った。言い訳はなかった。「綾香が何を好きかは、俺にとって都合がよかった」「店も、贈るものも、旅行も、選びやすくなるから」「でも、綾香が何を嫌だと思ってるかまで知ったら」一度、息を吐く。「俺が変わらないといけなくなる」その答えは、思っていたよりも残酷だった。悪気がなかったと言われるより。忙しくて気づかなかったと言われるより。ずっと正確で。だからこそ、胸の奥へ深く入った。「今は?」聞いてしまう。優は私を見る。「今は、困っている綾香にも」視線が、私の顔から絵へ移る。「綾香が好きなことにも、目を向けたいと思ってる」その言葉に。身体の内側が、わずかに強張った。「そういうことを言わないで」「困らせるつもりはないよ」優はすぐに言った。「約束したから」「でも」一度、周囲へ視線を向ける。「綾香が今日、あまりに多くの人に見られているのは」声が少しだけ低くなる。「やっぱり、いい気はしないかな」「それは、優に関係ないでしょう」「分かってる」否定しない。「離婚したから」優は、少し離れたところで私たちを見ている人へ一瞬だけ目を向けた。「こういう場所で、また二人で並ぶことは想定してなかった」「俺は独身になって」自嘲するように、ごく薄く笑う。「綾香も、誰の妻でもなくなった」「当然、周りの見方も変わる」「分かってたつもりだったけど」優の視線が、ドレスの上を一度だけ通り過ぎる。「実際に見ると、思っていたより嫌だな」この人が、時々分からなくなる。離婚する前。私が何を望んでいるかを考えず。自分の生活を変えなかった人。離婚を告げられたあとも。取り乱すことなく、必要な手続きを完璧に進めた人。今は。私が疲れていることへ気づき。私が見たい絵
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第249話 都合のいい旦那だったのにな

振り返る。四十代くらいの男性だった。先ほど、真哉兄さんから紹介された会社の関係者だったと思う。「先ほどは、ゆっくりお話しできなかったので」「はい」「お父様のプロジェクトとは別に」男性は笑う。「一度、お食事でもご一緒できればと思いまして」仕事の話なのか。個人的な誘いなのか。わざと境界を曖昧にしているように聞こえた。「どのような件でしょうか」仕事の側へ引き戻す。男性は少しだけ笑みを深くした。「最初は、仕事の話でも」最初は。その言葉で、意図は十分に伝わった。「申し訳ありません」私は穏やかに答える。「個人的なお食事は、お受けしていないんです」「そうですか」男性は残念そうにしながらも、すぐには離れなかった。「では、仕事として正式にご相談させてください」「その場合は、プロジェクトの共有窓口へお願いします」「白松さんへ直接では駄目ですか」「個別でのご相談は受けていません」声を硬くせず。けれど、余地を残さないように答えた。男性はようやく、小さく笑って引き下がった。「失礼しました」「いえ」男性が離れていく。その背中を見ながら、虚しさが残った。私に声をかける人たちは。私が何を好きかを知らない。医師として何を考えているのかも。離婚後に。どのように自分の生活を作り直したのかも知らない。父の娘。真哉兄さんの妹。優の元妻。医師。今夜、目を引く服を着ている女。その肩書きと容姿を見て。今後、自分との間に何を作れるかを測っている。私自身を知りたいのではない。自分にとって、どういう関係に置けるかを考えているだけだ。それは、私も同じなのかもしれない。社交の場で、人の名前と立場を覚え。誰がどの案件へつながるかを考える。互いを個人ではなく、関係性の可能性として見る。以前は、それを当然だと思っていた。今日は。それがひどく空虚に感じた。「綾香」戻ってきた優が、私の顔を見る。「何か言われた?」「別に」「そう」それ以上は尋ねなかった。けれど、私が話した男性の背中へ一度だけ視線を向けた。「そろそろ」優が言う。「真哉さんと話そうか」「うん」「もう少し見たいなら、あとでも戻れる」「今日は、もういい」本当は、まだ見ていない絵がいくつもあった。けれど今は。誰かに見られながら作品の前へ立つ
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第250話 連れ出してもらえますか

都合のいい旦那。別れるのはもったいなかった。外から見れば非の打ち所がなかった。目の前では。その評価を裏切らない優が、完璧に話を進めている。真哉兄さんの曖昧な提案を、法務上の論点へ整理する。私が話した臨床上の懸念を、運営体制の条件へ置き換える。誰かの意見を否定せず。けれど、決めるべきことを曖昧にしない。この人と仕事をすることは、確かに楽だった。言葉を途中まで出せば、意図を理解する。人の感情と、実務上の結論を分けられる。今夜も。私が疲れていることへ気づき。見たい絵の前まで連れ出した。真哉兄さんが、もったいないと言う理由は分かる。周囲の人たちが、完璧な夫婦だったと言う理由も。分かるからこそ。自分だけが、別の優を知っていることが苦しかった。そして今は。その別の優まで、少しずつ変わっているように見える。「綾香?」真哉兄さんに呼ばれ、意識を戻す。「聞いてる?」「うん」「相談窓口の運営主体について」「医療機関から完全に独立させるのは難しいと思う」私は答えた。「独立性を見せることと、責任の所在が曖昧になることは別だから」「その整理は必要だね」優がすぐに続ける。「契約上も、誰が説明主体なのかを明確にした方がいい」また、自然に会話がつながる。私と優が話せば。今でも仕事は滞らない。むしろ、以前より互いの境界が明確になった分だけ。話しやすいところさえあると思っていた。そのことを。周囲は、離婚しても理想的な関係だと見る。真哉兄さんは、別れるのはもったいなかったと言う。私自身も。一瞬だけ、何が正しかったのか分からなくなる。離婚を後悔しているわけではない。優と暮らしていた日々へ戻りたいとも思わない。けれど。今目の前にいる優が。結婚していた頃に、こうして私を見ていたなら。疲れていることに気づき。好きなものを理解し。困らせないと言いながら、自分の感情も隠さなかったなら。何かは違ったのだろうか。考えたくない問いが。疲れた頭の中へ浮かぶ。「そろそろ」真哉兄さんが時計を見る。「このあと、三人で食事しない?」私は顔を上げた。「終わってから?」「近くに店を取れると思う」真哉兄さんは、軽い調子で続ける。「案件の話も、ここだと落ち着かないし」「久しぶりに三人で、ゆっくり話せばいいだろ」三人
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