All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 251 - Chapter 260

359 Chapters

第251話 もったいない妻

『場所はわかるから、すぐに行くね』画面に表示された言葉を、もう一度読む。どこにいるのかも。何があったのかも聞かれなかった。私が連れ出してほしいと伝えたことだけで。来ると決めてくれた。そのことに。胸の奥を締めつけていたものが、少しだけ緩んだ。『はい』返信する。『真哉兄さんの会社が主催しているところです』送ると、すぐに既読がついた。『分かってる』 『もう出るところ』家で仕事をしていると言っていた。着替える時間も。ここまで来る時間も必要なはずなのに。どれくらいかかるのかとは聞かなかった。すぐに行く。その言葉だけで、今は十分だった。スマホを胸元へ抱えそうになり、直前でやめる。鏡の前へ移動し、自分の顔を確認した。化粧は崩れていない。目元も赤くはなっていない。口元へ薄く笑みを作れば。誰にも何があったのかは分からないはずだった。それでも、鏡の中の私は。家を出る前とは違って見えた。ドレスも。パールも。同じように整っている。けれど、楽しみにしていた気持ちだけが削られて。その内側へ疲れが溜まっていた。冷たい水で指先を濡らす。目元へそっと当てる。まだ帰れない。隼人くんが来るまで。真哉兄さんと優のところへ戻らなければならない。私は一度ゆっくり息を吸い、化粧室を出た。***二人は、先ほどと同じ場所にいた。真哉兄さんはスマホを手にしていて。食事のできる店を探している。優はその隣へ立ちながら。会場を行き交う人へ時折会釈を返していた。私に気づくと、優の視線が短く顔へ留まった。何かを確認するような目だった。けれど、何も聞かない。「近くの店、席を用意できるって」真哉兄さんが顔を上げる。「少し遅い時間になるけど、大丈夫?」「うん」返事をしながら、自分の声を確かめる。いつもと変わらなかった。「移動する前に」優が口を開く。「もう少しだけ、ここで案件の確認をしてもいいですか」「もちろん」真哉兄さんは、すぐに仕事の顔へ戻った。「ちょうど、父さんの関係者も何人か戻ってきたから」その言葉に、また人へ紹介されるのかと、身体がわずかに硬くなる。けれど、真哉兄さんは私の反応には気づかず、優へ続けた。「以前の複合開発のことを聞きたいって人がいて」白松家の不動産事業と、東郷側の法務が連携して進めた、
Read more

第252話 呼んだ人

「それは素晴らしい」男性が感心したように頷く。「やはり、あの事業はご夫婦二人で成功させたようなものですね」「外からは東郷先生の手腕ばかり見ていましたが」別の男性が私を見る。「家庭で支えていらした奥様の存在も、大きかったんですね」「本当に、完璧なご夫婦だったのに」女性の声が加わった。「離婚されたのは、残念です」また。完璧だった夫婦。残念な離婚。優が私の支えを認めた言葉まで。周囲の中では、私たちが別れたことを惜しむ材料へ変わっていく。「でも、今もこうしてお仕事では信頼し合っていらっしゃるんでしょう?」「もったいないですね」「本当にお似合いでしたから」好意から向けられる言葉だった。優が、妻だった私を人前で立てたから。その敬意を美しいものとして受け取り、二人が別れたことを残念に思っている。誰も。私たちを傷つけようとはしていない。それでも。胸の奥へ、細かなざらつきが広がった。私が家で支えていたことを。結婚していた頃の優が、当然として受け取っていたことを。優自身は、今になって理解した。けれど周囲は。献身する妻と、仕事で成功する夫。互いに支え合う完璧な夫婦の物語として聞いている。その内側で。私がどれほど自分を後回しにしていたのか。何も求めない妻になろうとしていたのか。優の仕事へ理解を示すたび、自分の時間や希望を小さくしていたことは、どこにも残らない。「綾香は」優が、周囲の空気を察したように口を開いた。「妻としてだけではなく、一人の人間として、私よりずっと多くのものを持っていました」私を見る目が、さらに柔らかくなる。「それを、当時の私は十分に見ていなかったんです」一瞬。周囲が静かになる。けれど優は、場を重くしすぎないよう、わずかに口元を緩めた。「ですから、離婚については綾香の選択を尊重しています」「現在も仕事では信頼できる相手ですし」「私が今さら、周囲の皆様へ惜しんでいただける立場でもありません」笑いへ逃がすほど軽くはなく。相手に謝罪させるほど重くもない。誰も不快に思わない形で。私の離婚が、間違った選択だったわけではないと守っている。また。結婚していた頃にはなかった優しさだった。なぜ、今なのだろう。私がもう妻ではなくなってから。優の生活を支えることをやめ。自分のための生活を
Read more

第253話 社交上手な人

声をかけられ、隼人くんが足を止める。「ご無沙汰しています」相手は、隼人くんの父親か兄の知人なのだろう。隼人くんは驚いた様子を見せながらも、雑に会話を切り上げようとはしなかった。相手の近況を尋ね。以前聞いていた家族の話にも触れる。少し離れたところから別の人に呼ばれれば、そちらへもきちんと頭を下げる。早く私のところへ来ようとしているはずなのに。誰かを無視したり。自分の目的のために、相手を粗雑に扱ったりしない。丁寧に。真摯に。けれど、必要以上に長く留まらず。少しずつ、こちらへ近づいてくる。隼人くんの姿を見た優の表情が、ほんのわずかに強張った。口元も。姿勢も変わらない。けれど、それまで柔らかく私へ向いていた目から、一瞬だけ温度が消えた。「綾瀬家の人間が」真哉兄さんも入口へ目を向ける。「今日来る予定はなかったと思うけど」隼人くん本人ではなく、まず綾瀬家の人間として見る。それが、真哉兄さんにとって自然なことなのだろう。父の協賛先。医療法人を経営する家。今後、白松の仕事とつながる可能性のある存在。今夜の会場へ現れた意味を、仕事と家の関係から考えている。「どうして来たんだろう」真哉兄さんが小さく呟く。私は答えなかった。私が呼んだ。そう言えばいいだけだった。けれど、言葉にしようとすると、胸が詰まりそうになった。兄と一緒にいても。私は、安心できなかった。兄に誘われ。自慢の妹だと褒められ。疲れていると伝えても、あと一人だけと人へ差し出された。優がいても。助けられながら、揺さぶられ続けた。それなのに。会場の入口に隼人くんが見えただけで。ようやく息を吐いていいような気がした。私が助けを求めた相手は。兄でも。元夫でもなかった。そのことを、初めてはっきりと自覚した。「白松先生?」目の前にいた男性から呼ばれる。「すみません」意識を戻す。「お食事の件ですが」「申し訳ありません。個人的なお誘いはお受けしていません」先ほどよりも、少しだけはっきりと答えた。男性は一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに引き下がった。その向こうで。隼人くんがまた別の人に呼び止められている。苛立った様子はない。相手の話へ耳を傾け、感じよく応じている。社交の中心へ入ろうとしなくても、自然に人が集まる。優とは違う形で
Read more

第254話 呼んでくれたから

「今日はお越しになると伺っていなかったので、驚きました」隼人くんが、真哉兄さんへ向き直る。「多分、初めましてではないですよね」一瞬。真哉兄さんが目を細める。それから、何かを思い出したように笑った。「そうですね。父の会で、何度か」「ご挨拶だけでしたが」二人は軽く会釈を交わした。「綾瀬先生の息子さんですよね」真哉兄さんが言う。「綾香が、いつもお世話になっています」妹の勤務先の院長へ向ける、礼儀正しい兄の挨拶だった。けれど、その言葉の前にはやはり。綾瀬先生の息子。という家の関係が置かれている。「こちらこそ」隼人くんは、少しも気を悪くした様子を見せなかった。「白松先生には、クリニックの方が助けていただいています」真哉兄さんは、わずかに会場の入口へ視線を向けた。「お父様はいつもお誘いしているんですが」「今回は、別件があって早めには来られないと伺っていたので」言葉の終わりに。では、なぜ息子が一人で来たのか、という問いが含まれていた。隼人くんは、意味が分からないふりをすることも。私が呼んだと、正直に言うこともしなかった。「ええ」少しだけ笑う。「父は、今日は難しいと思います」答えはそれだけだった。来場した理由を、家の予定へ結びつけない。かといって、誰かに説明を求められる余地も残さない。そのまま隼人くんは、会場の奥へ視線を向けた。綾香ちゃん、と。人前では使わない呼び方が出るかと思った。けれど、隼人くんは一度だけ言葉を止めたあと、自然に続けた。「白松先生」「せっかく来たので、絵を見せてもらえますか」問いかけは穏やかだった。周囲には、勤務先の院長が、先に来ていた医師へ展示の案内を頼んでいるようにしか聞こえない。けれど。隼人くんは、私がこの場を離れられる口実を作っている。「はい」返事をする。隼人くんが、先に会場の奥へ身体を向ける。その時。今までにはなかった動きで、私の腕へ軽く手を添えた。手首ではない。肘の少し上。ドレスの薄い生地越しに、掌の温度が触れる。強く引かれたわけではない。こちらへ、と方向を示すように、ほんの少しだけ力が加わった。それだけで。胸の奥が大きく鳴る。隼人くんから。人前で触れられたことはなかった。手をつなぐ時でさえ、いつも私から触れるのを待っていた。それなのに
Read more

第255話 心臓に悪いから

今は。ここから離れることだけを優先している。人の少ない通路へ入る。作品と作品の間が広く取られた場所で、会場の中心から少しだけ死角になる。それでも、完全に二人きりではない。向こう側では、別の招待客が絵を見ている。私はまだ、隼人くんの腕をつかんでいた。離した方がいいと思う。けれど、指が動かなかった。隼人くんが、少しだけ顔を寄せた。近くにいる人へ聞こえないようにするため。そう分かっていても、耳元へ声が落ちる距離に、呼吸が止まりそうになる。「綾香ちゃん」仕事の場では使わない呼び方。その音だけで、胸の奥がほどける。「今日は、普段よりも綺麗だけど」一度、言葉を切る。声が、わずかに低くなった。「こういう場だと心臓に悪いから、今度からやめて」意味を理解するまでに、少し時間がかかった。「え」隼人くんが、ほんの少しだけ笑う。けれど、目には冗談ではない熱があった。私を見ていた人たち。声をかけてきた男性たち。隼人くんも。会場へ入った瞬間から、それへ気づいていたのだろうか。「それは」何と答えればいいのか分からない。顔が熱くなる。先ほどまで。優の言葉で揺れていた。結婚していた頃にはなかった愛情を向けられ。もしも、と考えそうになっていた。けれど今。隼人くんの一言だけで。胸の奥へ、まったく別の熱が広がっていく。動揺したまま足を進める。ヒールの先が、床のわずかな継ぎ目へ引っかかった。「あ」身体が傾く。つかんでいた隼人くんの腕へ力が入る。次の瞬間。腰へ自然と手が回った。強く抱き寄せられたわけではない。倒れそうになった身体を支えるために。片手が背中に近い腰へ触れ、確実に重心を戻してくれる。隼人くんの身体が、すぐ近くにあった。手をつないだ時よりも。腕をつかんで歩いた時よりも。ずっと近い。身体の側面が触れそうな距離。腰へ置かれた手の温度が、ドレス越しにはっきりと分かる。私は顔を上げた。隼人くんも、こちらを見ていた。いつもより、少しだけ長く。視線が重なる。人の声が遠くなった気がした。何かを言わなければと思うのに、言葉が出ない。隼人くんの目には。会場へ入った時の柔らかな社交性も。人へ向けていた感じのいい笑みもなかった。私だけを見ている。それが、はっきりと分かった。「気をつけて」低い
Read more

第256話 心強いでしょう

隼人くんの手が腰から離れたあとも。触れられていた場所だけは、しばらく熱を残していた。「大丈夫?」もう一度聞かれ、私は小さく頷く。「はい」ヒールの先を確かめるように、一歩踏み出した。足元は、もう安定している。床のわずかな継ぎ目へ踵が引っかかっただけだった。隼人くんが支えなくても、姿勢を崩す程度で済んだかもしれない。それでも。腰へ回った手と。倒れないように引き戻された一瞬の近さが、身体の中に残っていた。手をつないだ時よりも。先ほど腕へ触れた時よりも。近かった。隼人くんの胸元も。私だけへ向けられた目も。そして、その距離がなくなった今。自分の隣へ戻った空間を、少しだけ寂しいと思っている。私はこれまで。隼人くんが私へ触れないことに安心していた。急がされない。求められない。私が選んだところから先へ、勝手に連れていかれない。その慎重さが心地よかった。けれど、今夜。私は自分から隼人くんの腕へ触れた。誰かに見せるためではない。恋人らしく振る舞うためでもなかった。ただ、この人が来てくれたことを確かめたかった。腕の硬さを掌で感じ。肩のすぐ近くへ身体を置いた時。驚くほど安心した。それがなくなったあとで。もう一度近づきたいと思っている。その意味までは、まだ考えられなかった。今夜はもう。自分の中に生まれる気持ちを。一つずつ、丁寧に。確かめるだけの余裕が残っていなかった。「どの絵を見せてくれる?」隼人くんが聞く。声は、いつもの穏やかなものへ戻っていた。私は会場の奥へ目を向ける。優と見た青と緑の絵が、少し離れた壁に見えた。「あの絵が、一番気になっていました」「もう見た?」「はい」隼人くんの視線が、青い絵へ移る。ほんの短い時間だった。「そっか」誰と見たのか。何を話したのか。聞かなかった。「ほかにも、見たいものはある?」「あります」私は、その隣へ展示された小さな作品を示した。淡い灰色と白の間に、ごく細い金色が引かれている。案内状では目に留まらなかった。けれど、会場の照明を受けると、見る位置によって線が現れたり消えたりしている。「あれが気になります」「じゃあ、行こうか」隼人くんが歩き始める。私の腕へは、もう触れなかった。それでも。先ほどよりも少しだけ近い位置にいる。肩が触
Read more

第257話 人の顔見てたでしょ

「また、改めてご挨拶させてください」 隼人くんが自然に会話をまとめる。 「今日は、白松先生に作品を案内していただいている途中なので」 「あら、お引き止めしてごめんなさい」 「いえ。お会いできてよかったです」 隼人くんは最後まで感じよく頭を下げた。 私たちは、ようやく絵の前へ進む。 けれど。 数歩も歩かないうちに、今度は別の声がかかった。 「綾瀬先生」 振り返ると、三十代ほどの女性が立っていた。 落ち着いた色のドレスを着ている。 隼人くんの姿を見つけたことが嬉しいと、隠すつもりのない目をしていた。 「ご無沙汰しています」 「ご無沙汰しています」 隼人くんが応じる。 今夜の隼人くんは、普段よりもずっと整っていた。 濃紺のスーツ。 丁寧にまとめられた長い髪。 クリニックでは見せない、外向きの柔らかな表情。 会場へ入った時から。 女性たちの視線が、隼人くんを追っていることには気づいていた。 通り過ぎたあとで振り返る人。 話しかける機会を窺う人。 会話をしながらも、目だけをこちらへ向ける人。 隼人くん自身は。 それを意識していないように振る舞っている。 「今日は、お父様の代わりですか?」 女性が尋ねる。 「いえ」 隼人くんは、理由を細かく説明しなかった。 「少し、絵を見に来ました」 「先生が?」 女性が楽しそうに笑う。 「珍しいですね」 視線が、一瞬だけ私へ向けられる。 「お連れの方がいらっしゃるからですか」 直接的な聞き方ではない。 けれど、十分に意味は伝わった。 私は、反射的に何か答えなければと思った。 「白松先生に」 隼人くんが先に口を開く。 「作品を案内していただいているんです」 勤務先の関係を示しながら。 それ以上を否定する言葉も、わざわざ加えなかった。 女性は、わずかに目を細めた。 「そうなんですね」 「来月の会食にはいらっしゃいますか?」 「まだ予定を確認していません」 「父もお話ししたがっていて」 「父へ伝えておきます」 「先生ご自身とも、お話ししたいんです」 声が少しだけ柔らかくなる。 隼人くんは、変わらない笑みを保っていた。 「ありがとうござ
Read more

第258話 社交の笑み

「白松さん」身体が、反射的に硬くなる。振り返る。先ほど、個人的な食事へ誘ってきた男性だった。「先ほどは、すみません」笑顔は変わっていない。「少し言い方が直接的すぎましたね」「いえ」「仕事の交流を兼ねて」男性は続ける。「今度、何人かで食事でもどうでしょう」一度断った誘いを。形だけ変えて、もう一度差し出している。「医療関係の方もお呼びします」「今後の関係作りにもなるでしょうし」私は、断る言葉を探した。「離婚された今なら」男性は、悪意なく笑った。「以前よりも、こういうお誘いはしやすいでしょう?」一瞬。周囲の音が遠くなった。何を言われたのかは、理解できている。優の妻だった頃は誘えなかった。今は、夫がいない。だから。仕事の交流という口実を使えば、個人的に近づいても問題がない。「そうですね」笑って流そうとした。口元へ、いつもの表情を作る。「でも、今は仕事が忙しいので」断っている。そのつもりだった。けれど。疲れていた。相手を不快にさせない言葉を探し。離婚を恥じているようにも。誘われたことを過剰に意識しているようにも見えないように。また、曖昧な笑みで誤魔化そうとしている。「お忙しいなら、少し先でも」男性が言う。私の笑みを。完全な拒絶ではないと受け取ったのだろう。「白松先生は」隣から、隼人くんの声がした。先ほどまでより。わずかに硬かった。大きな違いではない。普段の隼人くんを知っている私だから、かろうじて気づける程度のものだった。それでも。今夜、誰に対しても柔らかく応じていた声から、温度が少しだけ落ちている。「離婚をしたことで、個人的なお誘いを受けやすくなりたいとは考えていないと思います」男性の表情が止まる。隼人くんは、言葉を続けた。「もちろん、仕事上の交流を否定するつもりはありません」声は穏やかだった。「ただ」「すでに一度、白松先生から個人的なお食事は受けないとお伝えしたと伺いました」私が、隼人くんへ話したわけではない。先ほどの会話を聞いていたのだろう。「形式を変えたとしても」隼人くんは、相手の目をまっすぐ見る。「同じお誘いを繰り返すことは、仕事上の交流とは少し違うように思います」責める言い方ではなかった。男性が言い逃れをしなくても済むように。あくまで認識
Read more

第259話 深く考えられない

女性たちも。一瞬だけ、互いの顔を見た。「そうなんですね」笑みは崩れていない。「今度、先生にもぜひご一緒いただきたい会があるんです」「日程をいただければ確認します」「先生ご本人へ直接お送りしても?」「事務局を通していただければ」柔らかく。けれど、個人的な連絡へはつなげない。女性たちは少しだけ残念そうに見えたが、気分を害した様子はなかった。最後には。「また、お父様にもご挨拶させてください」と笑顔で離れていった。隼人くんは、その背中を追わない。すぐに私へ顔を向ける。「ごめん」「何がですか」「なかなか絵を見られないね」「隼人くんは、知り合いが多いんですね」「この辺の人は、父か兄の知り合いだから」「でも、皆さん隼人くんを知っています」「家族だからね」隼人くんは、特別なことではないように答えた。今日の会場で。隼人くんを知らない人はいない。それでも。本人は、その人脈を自分の価値として使おうとはしていない。話しかけられれば、丁寧に応じる。名前を覚え。相手の立場へ合わせた挨拶を返す。けれど、自分から人の輪の中心へ入ろうとはしない。必要な礼儀を果たしながら。私との時間へ戻ってくる。その繰り返しだけが。今の私には救いだった。***けれど。二人で絵を見る時間は、ほとんど続かなかった。隼人くんへ声がかかる。私へも声がかかる。仕事の相談。父や兄の話。病院の話。優との離婚について、遠回しに確かめる言葉。「東郷先生とは、今も良い関係なんですよね」「本当にお二人は、離婚後も理想的ですね」「今は、もう自由にお付き合いできる方を探していらっしゃるんですか」「白松さんなら、すぐに次の方が見つかるでしょう」笑って答える。否定する。話を仕事へ戻す。また笑う。何度も同じことを繰り返す。「今度は、もっと少人数の会で」「お食事だけでも」「お父様を通すほどのことではありませんから」「離婚されたのなら、もう東郷先生へ遠慮する必要もないでしょう」一つひとつは。強く拒絶するほどの言葉ではないように思える。相手は冗談のつもりかもしれない。好意を示しているだけなのかもしれない。だから。私はまた、笑って誤魔化そうとした。「お気遣いありがとうございます」「今は仕事が忙しくて」「そういうことは、まだ考
Read more

第260話 何も感じられない

何人目かの相手が離れていく。今度こそ絵へ戻ろうとして。私は、作品の題名さえ目に入っていないことに気づいた。淡い赤。白い背景。それ以上。何も感じられない。さっきまでなら。色の重なりや。光の見え方を考えようとした。今はもう。絵を見るために目を上げることさえ、少し苦しかった。会場の音が、大きく聞こえる。笑い声。グラスの触れ合う音。名前を呼ぶ声。香水と酒と花の匂い。視線。私を知っていると言う人。私をこれから知りたいと言う人。私が誰の娘で。誰の妹で。誰の元妻かを確かめようとする人。もう疲れた。胸の中へ。ようやく、はっきりとした言葉が浮かんだ。ここから抜け出したい。誰にも笑わなくていい場所へ行きたい。何を求められているのか、考えなくていい場所へ。「綾香ちゃん」隼人くんの声がした。顔を上げる。隼人くんは、私を見ていた。しばらく。何も言わない。それから。会場を一度だけ見渡した。先ほどまで人へ向けていた柔らかな表情が、消えていた。怒っている顔ではない。苛立ちを露わにしているわけでもない。ただ。こういう場に慣れた人が。誰が何を求め。どこまで付き合えば角が立たず。どこから先は時間を渡す必要がないのかを、冷静に見切った時の目だった。少し冷めている。仕事の顔とも。個人的な感情を見せる顔とも違う。今ここにいる人々と。この場の仕組みそのものを。一歩引いた場所から見ているような目。「隼人くん」呼ぶ。「怒っていますか」自分でも。なぜそう尋ねたのか分からなかった。声が硬く聞こえたからかもしれない。私へ話しかけた男性を見る目が、普段より冷たかったからかもしれない。隼人くんはすぐには答えなかった。もう一度、会場へ視線を向ける。それから私へ戻す。「やっぱり」声は穏やかだった。けれど、先ほどより低い。「まずは、ここをきれいに出よう」怒っているとも。怒っていないとも答えなかった。今は。感情を話す場所ではないと判断したのだと思う。私たちが仕事の関係なのか。個人的な関係なのか。それを人へ説明する必要もない。誰かへ何かを主張する前に。私をこの場所から出すことを選んでいる。「出ようか」今度は、少しだけ柔らかく言う。その言葉を聞いた瞬間。身体の奥から、力が抜けそうにな
Read more
PREV
1
...
2425262728
...
36
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status