All Chapters of しおさいの街で、人狼と天使は恋をした: Chapter 51 - Chapter 60

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第4章・第5話:きんぴらごぼうと「仕事だから」と耳の赤い看護師

 入院生活は退屈だ。 三百年、走り続けてきた体を、八畳の病室に繋ぎ止めておくのは拷問に近い。 天井の染みは十七個。蛍光灯のカバーに挟まった虫の影は三つ。窓から見える楓の枝先は、日ごとに赤みを増している。——数える必要のないものばかり数えている。暇すぎて頭がおかしくなりそうだ。 だが、体が言うことを聞かない。 キレート療法は続いている。毎日の点滴で銀の微粒子を少しずつ体外に排出しているが、三百年の人狼の体に巣食った「月殺しの毒」はそう簡単には抜けない。再生能力は平常時の十分の一。掌を切れば塞がるのに三十秒かかる。本来なら瞬きの間に消える傷だ。 朝六時。 足音が聞こえる。規則正しい、やや早めの歩調。スリッパではなくナースシューズの底が廊下を叩く、小気味いいリズム。 もうわかる。氷室だ。 病室のドアが開く前に、俺は寝たふりをやめて体を起こした。寝たふりをしていると「サボるな」と怒られる。起きていると「もっと寝てなさい」と怒られる。どちらにしても怒られるなら、起きていた方がマシだ。「おはよう。検温するわよ」 白衣。紺のカーディガン。一本に束ねた黒髪。化粧っ気のない、白い横顔。 切れ長の目が俺をちらりと見て、すぐにカルテに視線を落とす。事務的。無駄がない。 体温計を差し出される。脇に挟む。三十六度五分。昨日より〇・三度下がった。「まだ微熱ね。今日もキレート療法、午後から先生の診察。安静にしてて」「了解」「本当に了解してるの? 昨日、屋上で腹筋してたの知ってるわよ」 ……見られていたか。「運動不足で体が鈍る」「入院患者が筋トレする必要ないでしょ。傷が開いたらどうするの」「もう開かねぇよ。塞がってる」 氷室の眉がぴくりと動いた。昨日まで残っていた腹部の切開痕を確認しようとするように、一瞬だけ俺の腹に視線が落ちる。だがすぐに逸らした。「……とにかく、安静。いいわね」
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第4章・第6話:母を看取った夜から、私は看護師になった――氷室澪という女

 その夜は、眠れなかった。 キレート療法の副作用か、体がだるい。それに加えて、満月が近い。あと五日。月が太るにつれて血が騒ぐ。理性の手綱が少しずつ緩んでいく感覚は、三百年経っても慣れない。 銀の毒が残っている状態で満月を迎えたら、どうなるか。制御を失うかもしれない。変身が暴走するかもしれない。考えても答えは出ない。考えるのは嫌いだ。 ベッドを抜け出し、廊下を歩く。 縁側に出ると——先客がいた。 氷室が座っていた。膝を抱え、少し丸まった背中。手には缶コーヒー。微糖。その匂いが、秋の夜の空気に溶けている。 白衣ではなかった。紺のカーディガンにグレーのスウェット。髪は束ねたまま少しほどけかけて、肩に黒い毛先がかかっている。 氷室のオフの姿を見ることは、めったにない。この女は起きている間のほとんどを白衣で過ごしている。休日でも診療所にいる。——居場所が、ここにしかないのだと思った。 俺と同じだ。「……眠れねぇのか」 声をかけた。氷室がわずかに肩を震わせる。「……あんたこそ」「副作用で体がだるい」「それ、明日先生に言いなさい。投与量を調整するから」 患者の声を聞いた瞬間に看護師の顔に切り替わる。いつものことだ。「……隣、座っていいか」「好きにすれば」 俺は一人分の間隔を空けて、氷室の隣に腰を下ろした。縁側の板が冷たい。足の裏から秋の温度が伝わってくる。 沈黙が流れた。虫が鳴いている。鈴虫と、松虫。重なり合う声が、夜の山に透き通っていく。 山の稜線の向こうから、月が顔を出し始めた。半月。右半分が欠けた、アンバランスな形。あと五日で、あれが満ちる。 先に口を開いたのは、氷室の方だった。「……ねえ」 缶コーヒーを両手で包み、それを見つめたまま。「あんた、どうしてあんな山の中で倒れてたの」「……言えない」「言えない、ね」 怒る気配はなかった。ただ、静かに受け取った、とい
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第4章・第7話:闇に響く賞賛、八百年を生きる吸血鬼の執着

 日曜日。 澪は宗方先生の軽自動車を借りて、山道を下りた。 久しぶりの休日。本当は診療所にいたかった。カルテの整理も溜まっているし、薬品の在庫チェックもある。だが宗方先生に「たまには息抜きしなさい。それは命令だよ」と半ば追い出された。 麓の町は、村に比べれば都会だった。人口三万ほどの地方都市。駅前にスーパーとドラッグストアとチェーンの牛丼屋がある、こぢんまりした町。 ユニクロで下着とカーディガンを買った。ドラッグストアでハンドクリームと生理用品を補充した。書店で新刊の医療系ミステリーを一冊買った。 それだけで、やることがなくなった。 休日の過ごし方がわからない。東京にいた頃からそうだった。仕事以外の自分が空洞で、休みの日はその空洞を持て余すだけだ。 ——あの人、ちゃんとお昼食べたかしら。村の配食サービス、放っておいたら「箸を持つのが面倒くせぇ」とか言って、手付かずで残しそう。 浮かんだ考えを振り払う。 仕事だから気になるだけだ。患者の栄養管理は——。 もういい。何度同じ言い訳を繰り返すつもりだ、私は。 駅前の小さなイタリアンレストランに入った。一人の夕食。ペペロンチーノとグリーンサラダ、グラスの白ワイン。窓際の席に座り、本を開く。 物語に集中できない。文字が滑る。 琥珀色の目が、ちらついた。 ——「無理すんな。お前が倒れたら、ここの患者、誰が診るんだ」 あの夜の言葉。ぶっきらぼうな声。不器用な優しさ。言葉の選び方が下手で、でも嘘がなくて。 ワインを一口飲んだ。喉が熱くなった。 ——やめよう。考えるのは。 会計を済ませ、店を出た。午後七時半。十月の夕暮れは早く、もうとっぷりと暗い。街灯がオレンジ色の光を落としている。 バス停への近道。商店街の裏手を通る、狭い路地。人通りはまばらだ。 ヒールのパンプスが、コンクリートを叩く音だけが響いていた。「失礼」 声は、斜め後ろから来た。 振り返った。
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第4章・第8話:響き渡る薪割りの音とかぼちゃの煮物:手放したくない白衣の日常

 翌朝。 軽自動車のエンジンを止めて、診療所の駐車場に降りた時——裏庭から斧の音が聞こえた。 規則正しい、力強い音。「コンッ。……カァーン!」と木が裂ける乾いた響き。 あの男が、また薪を割っている。 私は白衣に着替え、ナースシューズに足を通した。鏡で自分の顔を確認する。目の下のクマが濃い。昨夜はほとんど眠れなかった。あの赤い目が、瞼の裏にちらつくたびに心臓が跳ねて、何度も目が覚めた。 ——大丈夫。いつも通りにすればいい。 左手のバンドエイドの上から、ガーゼを巻いた。噛み傷。自分でつけた傷。あれが現実だった証拠。 病室に入ると、予想通り狼谷のベッドはもぬけの殻だった。 シーツは乱暴に剥ぎ取られ、昨日まで彼を繋ぎ止めていた点滴スタンドが、手持ち無沙汰そうに突っ立っている。外から響く「カァーン!」という音の主が誰か、確認するまでもなかった。「……安静にしろって、あれほど言ったのに」 溜息が白衣の襟元に消える。田村さんはまだ眠っている。 朝食の準備。白米を炊き、味噌汁を作り、焼き鮭をグリルに入れる。 ——狼谷の分のおかず。 冷蔵庫を開ける。昨日のうちに作っておいた、かぼちゃの煮物。甘く煮含めた、小さな一品。「……これは栄養管理の一環よ。βカロテンは免疫機能の回復を——」 誰もいない台所で、声に出して言い訳した。自分でも馬鹿だと思った。 トレイに小鉢を載せ、病室に運ぶ。田村さんの分と、狼谷の分。 裏庭に出て声をかけた。「朝ごはん。中に入りなさい」 狼谷が振り返る。黒いTシャツ。うっすら汗。琥珀色の目が、朝日の中で透き通って見えた。「おう」 斧を薪の上に立てかけ、タオルで顔を拭きながら中に入ってくる。廊下ですれ違う時、狼谷の体温を近くに感じた。熱い。人間よりも少し高い体温。 ——この人は、人間じゃないんじゃないか。 あの異常な回復力。銀の弾丸。メスの傷が翌朝には消えている体。 そして——あの夜、
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第4章・第9話:満月の夜、あの女をいただく――骸(むくろ)の蜘蛛の糸

 夜の診療所は、昼間とはまるで別の顔をする。 白い蛍光灯が落とされた廊下には、非常灯のぼんやりした橙色だけが床に染みを作っていて、消毒液の匂いが昼間の三倍は濃く鼻につく。 私はナースステーションの小さなデスクで、カルテの整理をしていた。 宗方先生はもう奥の住居スペースに引き上げている。腰を痛めていた田所のおじいちゃんも昨日退院して、入院患者はカミヤだけ。 カミヤ。 ペンが止まる。 あの夜——町で出会った男のことを、まだ誰にも話せていない。 赤い目。動かなくなった体。自分の手を噛んで、やっと正気に戻ったこと。 あれは何だったのか。 夢だったと思いたかった。でも、左手のひらにはまだ歯型の痕が薄く残っていて、鏡を見るたびに現実を突きつけてくる。「——澪」 声に振り向くと、廊下の暗がりにカミヤが立っていた。 病衣姿。裸足。琥珀色の目だけが、非常灯の光を拾って淡く光っている。「……何、こんな時間に。ベッドに戻りなさい」「話がある」 いつもの「面倒くせぇ」も、ぶっきらぼうな前置きもない。 声のトーンが違う。低くて、硬い。 私は反射的にペンを置いて立ち上がっていた。看護師の勘が、これはただ事じゃないと告げている。「——先生も呼ぶ」「ああ。頼む」 --- 宗方先生を起こして、診察室に三人が集まった。 先生は丸眼鏡をかけ直しながら椅子に座り、私はその隣に立った。カミヤは処置台の縁に腰を下ろし、しばらく黙っていた。 何かを言おうとして、やめて、また口を開きかける。 三百年生きてきた存在が、言葉を選びあぐねている。その姿が、妙に人間くさくて——胸の奥がちくりと痛んだ。「……澪。お前に話がある。信じなくてもいい。けど、聞いてくれ」
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第4章・第10話:「死ね、犬」――八百年の殺意が、月下で牙を剥く

 満月の夜が来た。 空が異様だった。雲一つなく晴れ渡り、まん丸の月が山の稜線の上に浮かんでいる。こんなに明るい夜は、この村に来てから初めてだった。 夕食後の片付けをしていると、カミヤが台所に来た。「澪。今夜は部屋から出るな」 その声には有無を言わさない重さがあった。 琥珀色の目が——いつもと違う。瞳孔が縦に裂けかけている。人間の目じゃない。獣の目に近づいている。「何か、あるの」「満月だ。俺の力が最大になる。だが——制御が難しくなる。今夜はお前の近くにいないほうがいい」 嘘じゃない。カミヤの体が微かに震えている。額に汗が滲み、腕の血管が浮き上がっている。全身の血が沸騰しているような、そんな荒々しさ。「銀の毒がまだ完全には抜けてねぇ。変身すれば、制御がさらに——」「わかった」 言葉を遮った。これ以上この人に喋らせたら、弱みを見せまいとする矜持が折れてしまうと思ったから。「部屋にいる。——十字架は持ってるから」 カミヤは少しだけ目を細めた。安堵だったのか、それとも別の何かだったのか。「……ありがとな」 私はカミヤに背を向けて、宿直室に向かった。振り返らなかったのは、振り返ったら引き止めてしまいそうだったからだ。 --- 午後九時。 宿直室の窓から、月明かりが白い帯のように差し込んでいた。ベッドに座り、銀の十字架を握りしめて、ただ耳を澄ませていた。 虫の声が——止んだ。 一瞬で。まるで見えない手が音量のダイヤルを回したように、秋の虫たちが一斉に沈黙した。 代わりに聞こえてきたのは、翼の音。 ばさ、ばさ、ばさ。 無数の、小さな翼が空気を叩く音。それが診療所の屋根の上を、壁の周りを、旋回している。 蝙蝠だ。 心臓が跳ね上がった。十字架を握る手に力を込め、窓に近づく。 月光に照らされた診療所の前庭——そこに、黒い影が立っていた。 蒼白な肌。黒い外套。
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第4章・第11話:銀の十字架が弧を描き、吸血鬼の顔が焼け溶けた――そして、彼が動いた

 その瞬間。「——その人から、手を離しなさいッ!!」 私の声だった。 気づいた時には宿直室を飛び出していた。部屋にいろと言われた。わかっていた。出たら足手まといになる。わかっていた。それでも——あの窓から見えた光景が、私の足を動かした。 カミヤが持ち上げられている。血まみれで、胸に穴が開いていて、それでも骸の腕を掴んで抵抗している——あの姿を見て、部屋にいられるわけがなかった。 私は走った。 裸足のまま。寝巻きの上に羽織ったカーディガンのポケットに、銀の十字架を握りしめて。 宗方先生が裏口から出てくるのが視界の端に映った。その手には——木の杭。いつの間に用意していたのか。先生の手が、月明かりの中で白く光る樫の木の杭を握っている。 迷わなかった。 銀の十字架を——投げた。 ソフトボールの遠投みたいなフォームだったと思う。体育は苦手だった。球技はもっと苦手だった。でも、あの時の私は、たぶん人生で一番いい球を投げた。 十字架は弧を描いて飛び、骸の顔面に直撃した。 銀が吸血鬼の肌に触れた瞬間——蒸気が上がった。 じゅう、と。焼けた鉄に水をかけた時のような音。骸の蒼白な肌が爛れ、焦げ、溶ける。顔の左半分が焼け崩れ、白い煙が月夜に立ち昇る。 骸が悲鳴を上げた。八百年の存在が上げる、この世のものとは思えない絶叫。カミヤの髪を掴んでいた手が離れ、カミヤの体が地面に落ちる。 骸が十字架を振り払おうとのたうつ。その動きが完全に止まる。一瞬——だが、それで十分だった。 カミヤが動いた。 膝をつき、血を吐き、胸に穴が開いたまま——それでもこの人は動いた。 地面に転がっていた木の杭を掴む。宗方先生が「念のため」と裏庭の樫の木を削って用意していた、あの杭を。先生がいつの間にか戦場の近くに置いていたのだ。 カミヤが最後の力を振り絞って立ち上がる。琥珀色——いや、金色の瞳が、月光を受けて燃えている。 渾身の力で、杭を骸の胸に突き立てた。 鈍い音がした。
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第4章・第12話:明後日には、彼は去る――手作りマスコットに込めた「ありがとう」

 骸との決戦から三日が経った。 私はいつも通り朝の検温に向かう。廊下を歩く足取りが重いのは、昨夜あまり眠れなかったせいだ。それ以外の理由は、考えないことにした。 カミヤの病室のドアを開ける。「検温——」 言葉が途切れた。 カミヤがベッドの上で上体を起こしていた。病衣の前をはだけて、自分の胸を確認している。 三日前、骸の腕に貫かれた傷。昨日まで生々しい赤紫色の瘢痕が残っていたそれが——消えていた。跡形もなく。肩の裂傷も、無数の擦過傷も。肌はまるで最初から何もなかったかのように滑らかで、ただ銀色の粒子の名残が微かにきらめいている。「……毒、抜けたみたいだな」 カミヤが呟いた。その声には安堵よりも、どこか諦めに似た響きがあった。 私は体温計を差し出す。手は震えていない。震えさせない。「三十六度四分。正常値」 カルテに数字を記入する。ペンの先が紙を走る音だけが、小さな病室に響く。「血圧も脈拍も問題なし。傷も完治。——宗方先生に報告するわ」 事務的に。完璧に事務的に。 病室を出る時、振り返らなかった。振り返ったら何かが崩れる気がした。 --- 午後。宗方先生がカミヤを診察室に呼んだ。 私もいつも通り補助につく。聴診器、触診、血液検査の簡易キット。先生の手つきは丁寧で、四十年の年輪が染み込んだ穏やかな所作で一つひとつ確認していく。「——うん。銀の残留微粒子も検出限界以下だ。自己再生も正常に戻っている」 先生はカルテにペンを走らせ、それから——静かにカルテを閉じた。 パタン、と。 その小さな音が、やけに大きく聞こえた。「退院だな」 先生の声は穏やかだった。丸眼鏡の奥の目が、カミヤを見て、それからちらりと私を見た。「……寂しく
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第4章・第13話: 「好きよ、ばか」――エンジン音に消えた、最後の言葉

 出発の朝は、よく晴れていた。 秋の空は高くて青くて、山の木々が赤や黄色に色づき始めている。空気が冷たくて、息を吸うと肺の奥まで澄んだ匂いが染み渡る。 こんな日に出ていくのか、と思った。  こんなに綺麗な日に。 診療所の前の小さな広場に、原付バイクが停まっている。荷台には旅の荷物が括りつけられて、カミヤはその横でヘルメットの顎紐を調整していた。 病衣ではなく、来た時のジャケットとジーンズ。澪が血の染みを洗い落として、ほつれを繕っておいた服。——そのことにカミヤが気づいているかは、わからない。 見送りの人たちが集まっていた。 こんな小さな村で、たった数週間の滞在だったのに。 戸塚が駆け寄ってきた。嶺風会のリーダー、温厚な大学院生。あの日、山中で血まみれのカミヤを見つけて、簡易担架を作って運んでくれた人。「カミヤさん、またこの山に来てくださいよ。秋の紅葉、最高なんですから。来年は一緒にトレッキングしましょう」 カミヤは少し面食らったような顔をして、それから不器用に頷いた。「……ああ。機会があれば」 辰巳のおっちゃんが肩を叩く。郵便局長で、村の情報通。骸の一件の時、見慣れない蝙蝠の群れを最初に気にしていたのもこの人だった。「若ぇの、無茶すんなよ。この辺の山道は冬になると凍結するからな、今のうちに南下しとけ」「気をつける」 千代ばあちゃんが風呂敷包みを押し付けてきた。ずっしりと重い。「おにぎり。鮭と昆布と梅。足りないかもしれないけど、途中で食べなさい」「……こんなに」「若い男の子はすぐお腹が空くんだから。ほら、遠慮しないの」 カミヤは風呂敷包みを両手で受け取って、深く頭を下げた。千代ばあちゃんの皺だらけの手が、カミヤの頭をぽんぽんと叩く。「いい子だねぇ。——元気でね」 宗方先生が最後に歩み寄った。白衣ではなく、いつものカーディガン姿。四十年この村で命を診続けてきた老医師の、穏やかで深い目。「体を大事にしなさい。君の体は頑丈だが、
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第4章・第14話:「元気でね」 欠け始めた月に呟いた一言

 カミヤが去った翌日。 いつも通り白衣を着た。いつも通り髪を一本に束ねた。いつも通り紺のカーディガンを羽織って、いつも通り診療所の朝を始めた。「大丈夫かね」 宗方先生が、朝のコーヒーを淹れながら聞いてきた。何気ない声。でも丸眼鏡の奥の目は、四十年分の人生経験が詰まった深さで私を見ている。「何が? いつも通りですけど」「……そうか」 先生はそれ以上何も言わなかった。ただコーヒーカップをもう一つ——いつもは二つしか出さないのに——三つ目を出しかけて、手を止めた。静かにカップを棚に戻す。 その小さな仕草が胸に刺さって、私は慌てて背を向けた。「午前の予約、確認してきます」 足早に廊下を歩く。目が腫れているのは鏡で確認済みだ。昨夜、あれだけ泣いたのだから当たり前だ。冷たいタオルで冷やしたけれど、完全には引いていない。 午前中は三人の患者を診た。風邪の子ども、膝の痛い農家のおばさん、定期検診の辰巳のおっちゃん。 辰巳のおっちゃんが血圧を測りながら、ぽつりと言った。「あの兄ちゃん、行っちまったなぁ。いい男だったのに」「……血圧、上が148。少し高いですね。塩分控えてって何度も言ってるでしょう」「はいはい。——でもなぁ、澪ちゃん。あの兄ちゃん、出てく時の顔、見たかい。ありゃあ——」「次の患者さん、呼びますね」 遮った。これ以上聞いたら、白衣の下で組んだ腕がほどけてしまいそうだった。 --- 夜。 一日の業務を終えて、カルテの整理をしていた。 五十音順にファイリングされたカルテの束。あ行、か行、さ行—— 指が止まった。「狼谷」。 カミヤのカルテ。 そっと抜き出す。表紙を開く。宗方先生の端正な字で記された病歴。入院日、主訴、治療経
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