บททั้งหมดของ しおさいの街で、人狼と天使は恋をした: บทที่ 71 - บทที่ 80

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第5章・第12話:鎖を引きちぎる手、瑠花を抱えて駆ける夜

 船が沈み始めた。 呪いの核が消えたことで、幽霊船を海上に留めていた力が失われたのだ。床が傾き、壁から海水が噴き出す。木材がめきめきと裂ける音が、船全体に響いた。 俺は瑠花の元に駆け寄り、手首の鎖を握った。人狼の腕力で引きちぎる。蒼い鎖が砕け、金属片が海水に沈んだ。「立てるか」「う、うん——」 瑠花の足が震えていた。立てない。 腕を回し、抱え上げた。背中と膝裏に腕を通す。瑠花の体は軽かった。軽すぎた。日々の疲労と、充分でない食事で、この人はこんなに軽くなっていたのか。「しっかり掴まってろ」 走った。 傾いていく廊下を、崩れる壁を避けながら駆け上がる。天井が落ちてきたのを肩で弾き飛ばし、海水が膝まで迫る階段を一気に跳び上がった。 甲板に出た。 船が斜めに傾いている。船尾がすでに海面下に没し、船首が持ち上がっている。あと数分で完全に沈む。 栄吉の小型船は——まだあった。幽霊船の横に、ロープで繋がれたまま波に揺れている。 月(ツキ)が俺の足元から飛び出し、瑠花の体を包み込むように薄い光の膜を張った。海水から守る盾。「跳ぶぞ」 瑠花を抱えたまま、沈みゆく幽霊船の甲板を蹴った。 跳躍。 三メートルの距離を飛び越え、小型船の甲板に着地した。船が大きく揺れ、海水が舷側を越えてきた。 ロープを爪で切り、エンジンをかけた。 振り返ると——幽霊船が沈んでいくところだった。 船首の朽ちた女神像が最後に海面から突き出し、やがてそれも波の下に消えた。 ——ごぉぉぉぉん。 海の底から、長く、低く、鐘が鳴るような音が響いた。幽霊船が海底に還る音。何百年分の孤独が、ようやく終わる音。 そして——静寂が戻った。 霧が晴れていく。星が一つ、二つと戻ってくる。風が戻り、波が戻り、潮の匂いが戻る。 凪いだ海の上に、小さな船が一艘。 波の音だけが、しずかに響いていた。 ---
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第5章・第13話:夏の終わり、風鈴が鳴る

 栄吉の家の玄関先に、ターチーが丸くなって眠っていた。 その横で、海音が犬の背中に頬をくっつけたまま寝落ちしている。小麦色の腕がターチーの首にゆるく巻きつき、寝息が規則正しい。口元によだれの跡がある。平和な寝顔だった。あの海の上で起きたことなど、何も知らない顔。 栄吉が引き戸を開けて出てきた。俺と瑠花の顔を一目見て、煙草をくわえ直した。 何も聞かなかった。「——海音、起きろ。母ちゃん来たぞ」「んー……ターチー、もうちょっと……」「犬はお前の枕じゃねぇ」 栄吉が海音を抱き上げ、瑠花に渡した。海音はぼんやり目を開け、瑠花の首に腕を回して、「おかえりー」と笑った。半分夢の中の声。 結菜は奥の部屋で起きていた。 畳の上に正座して、文庫本を膝に載せていたが、ページは一枚もめくられていなかった。 俺たちが部屋に入ると、結菜の目がまず瑠花を見た。それからゆっくりと、俺に移った。 何かを察している。 この子は勘が鋭い。瑠花の目が赤いこと。俺のシャツに海水の染みが残っていること。二人の間に横たわる、言葉にならない重たい空気。全部、見えているのだろう。 結菜は何も聞かなかった。 ただ立ち上がり、「帰ろ」とだけ言って、玄関に向かった。 借家に戻った。 子供たちを寝かしつける瑠花の背中を、居間から見ていた。襖の向こうで、海音が「今日ねー、ターチーがねー」と眠たい声でしゃべっている。瑠花が「そう、よかったね」と相槌を打つ。いつも通りの声。いつも通りの夜。 何も変わっていないように聞こえる。 全部、変わってしまったのに。 海音の声が途切れ、寝息に変わった。襖が静かに閉まり、瑠花が居間に戻ってきた。 ちゃぶ台を挟んで、向かい合って座った。 蛍光灯がじじ、と唸っている。柱時計がこちこちこちこちと刻んでいる。扇風機は止めてあった。窓が開いていて、虫の声が入ってくる。りーん、りーん。夏の終わりの虫の声は、盛夏のそれよりどこか切ない。 瑠花が口を開いた
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第5章・第14話:眠れない夜——二人の娘の寝息と、蒼い炎の残像

 瑠花は布団の中で目を開けていた。 天井の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。隣に敷いた布団で海音がすうすう寝息を立てている。反対側で結菜が時折、寝返りを打つ。布団がかさりと擦れる音。 二人の娘の寝息に挟まれて、瑠花は眠れなかった。 目を閉じると、瞼の裏に蒼い炎が揺れた。骸骨の手。冷たい鎖。腐った船の匂い。——あの恐怖は、きっと一生消えない。 でも、それと同じくらい鮮烈に焼きついているのは——カミヤの背中だった。 あの船長室に飛び込んできたとき、最初に見えたのは背中だった。瑠花の前に立ち塞がるように。胸を貫かれてなお立ち続ける背中。銀色の粒子がきらきらと零れ落ちて、蒼い闇の中で光っていた。 人間じゃなかった。 知ってしまった。 三百年。影から出てくる狼。再生する体。獣の爪と牙。琥珀色の瞳が、金色の炎に変わる瞬間。 ——全部、見た。全部、知ってしまった。 怖かった。怖くないと言ったら嘘になる。あの瞬間、体の芯が凍りついた。目の前にいるのが、自分の知っている「カミヤくん」ではない別の何かに変わっていく恐怖。人間の本能が、逃げろと叫んでいた。 でも。 あの人が助けてくれたのは、本当だった。 胸に穴が空いても立ち上がったのは、本当だった。「触るな」と叫んだあの声の中に、怒りと一緒に——怖いくらいの必死さが滲んでいたのは、本当だった。 瑠花は布団の中で、自分の右手を見た。 あの船の上で、カミヤの頬に触れた手。冷たかった指先が、カミヤの肌の温度で少しだけ温まった。人狼の体温は人間より高いのだと、あのとき知った。触れた瞬間に伝わってきた熱。人間じゃないはずの体から発せられる、嘘みたいに温かい熱。 あの温もりが——まだ指先に残っている。「好きに、なっちゃったな」 声にならない声で、唇だけが動いた。 涙が、こめかみを伝って枕に落ちた。 わ
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第5章・第15話:海音の泣き止められない別れ——行かないで、兄ちゃん

 朝日が窓から射し込んで、畳の上に四角い光を落としていた。 蝉が鳴いている。八月の終わりの蝉は、盛夏のそれとは声が違う。どこか急いている。残り少ない夏を惜しむように、一声一声が切迫している。 俺は六畳間で荷物をまとめていた。 荷物は少ない。旅に出たときと、ほとんど変わらない量だ。着替えが二組。タオル。歯ブラシ。栄吉にもらった釣りの本。それから——ポケットの中の、淡いピンクの巻貝。海音が最初の日にくれたやつ。 それだけだ。 一ヶ月もこの家にいたのに、荷物は増えなかった。物は増えなかった。 増えたのは——荷物にならないものだけだった。 リュックを背負い、部屋を見回した。日焼けした畳。窓の外に見える庭。風鈴がゆっくり揺れている。この部屋は、瑠花の祖母が使っていた部屋だという。二年前に亡くなった人の部屋に、三百年生きてる化け物が転がり込んでいた。おかしな話だ。 居間に出た。 台所から、味噌汁の匂いがしていた。 いつも通りの朝。いつも通りの匂い。瑠花がまな板の上できゅうりを叩いている音。とん、とん。ちゃぶ台の上には、もう白いご飯がよそってある。四人分——ではなく。 四人分、だった。まだ。「おはよう」 瑠花が振り向いた。 笑っていた。いつもの笑顔。でも目が——ほんの少しだけ腫れている。泣いたのだ。昨夜。俺が縁側で月を見ていた、その壁の向こうで。 気づかないふりをした。気づいたら、もう行けなくなる。「……おはよう」 俺が居間のちゃぶ台の前に座ろうとした瞬間、廊下を走る足音が響いた。ぱたぱたぱたぱた、と。裸足の、軽い足音。「お兄ちゃんっ!!」 海音が飛び込んできた。 俺のリュックを見た瞬間、目の色が変わった。さっきまで寝ぼけていた顔が、一瞬で凍りついた。八歳の子供が浮かべていい表情じゃなかった。「——
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第5章・第16話:触れる距離、重なる唇——しんと静まった世界

 借家の前に、原付が停まっていた。 荷台にリュックをくくりつけた。ゴムバンドで固定する。いつもの作業。何百回とやってきた、旅立ちの儀式。 蝉が鳴いている。じわじわと、夏の最後の力を振り絞るように。空は高く、雲は白く、アスファルトの上に陽炎がゆらゆらと立ち昇っている。七月にこの島に来たときと、同じ景色。 けれど、まるで違う景色だった。 子供たちの姿はなかった。 栄吉が朝のうちに連れ出してくれた。「今日は船に乗せてやる」と言って、海音の手を引いていった。海音は泣きながらも、ターチーに会えると聞いて少しだけ目を輝かせた。結菜は黙ってついていった。玄関を出る直前に、一度だけ振り返った。俺と目が合った。何も言わなかった。 栄吉なりの気遣いだった。 瑠花と二人きりにしてくれたのだ。 借家の玄関先。日陰になった軒下に瑠花が立っていた。エプロンは外していた。白いリネンのブラウス。一ヶ月前と同じ服。洗い込んで少しくたびれた、けれど清潔な服。 風が吹いた。庭のハイビスカスの花が揺れ、赤い花弁が一枚、アスファルトに落ちた。 俺は原付に跨がった。 キーを差し込む。エンジンをかけようとして—— 止まった。 手が、動かなかった。 ハンドルを握る指が白くなるほど力が入っているのに、キーを回せなかった。 バックミラーに映る自分の顔。ヘルメットはまだ被っていない。琥珀色の瞳が、揺れている。 三百年の間、何十回も繰り返してきた別れだ。街を出る。人を置いていく。振り返らない。それがルールだった。 なのに——「……瑠花」 名前を呼んだ。 初めてだった。 いつも「あんた」か「おい」だった。名前を呼んだら、距離が近くなる。距離が近くなったら、離れるのが痛くなる。だから呼ばなかった。 でも、もう——呼ばずにはいられなかった。 瑠花が息を呑んだのが、音で——いや、空気の振動で——わかった。 俺は原付の上で前を向いたまま、言った。
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第5章・第17話:ちりん、と鳴った夏の終わり

 港に着いた。 那覇の泊港。白いフェリーが岸壁に横付けされていて、乗船口にぽつぽつと人が並んでいる。だが、カミヤが向かう先は——その奥だった。 栄吉の紹介状を握りしめて、港湾労働者の出入り口をくぐる。観光客の列とは違う、薄暗い通路。むき出しの配管と、潮と油の匂い。 貨物船『飛鳥丸』は、白いフェリーよりもずっと無骨だった。 鋼鉄の船体に、無数の傷と錆。甲板には積み上げられたコンテナ。船尾には「石垣島」の文字。 船長——比嘉栄吉の知り合いという初老の男が、鉄製の階段の上からカミヤを見下ろした。「栄吉さんからの伝言か。ああ、きたな。——荷物は?」 「これだけです」 原付をチェーンで固定した。普通の貨物船。普通の乗船。ただ、金を払う代わりに労働を提供するという約束。 石垣島までの三日間。網の修理。機器の手入れ。甲板の清掃。 普通の仕事だ。「出港は一時間後だ。その間に、お前の相棒をもっと奥に置いておこう。揺れるが、文句は言うなよ」 船長が去った。甲板に、カミヤ一人が残された。 金はある。一ヶ月分の漁師の日当から、生活費を除いた残り。栄吉が「取っとけ」と上乗せしてくれた分もある。最後の日に、茶封筒にねじ込んで渡してきた。「またいつでも来い。——網引きなら、いつでも仕事はある」 栄吉のぶっきらぼうな声が、耳に残っている。 ポケットに手を入れた。  何かが触れた。紙の感触。 取り出した。  折りたたまれた画用紙だった。 いつの間に——  リュックのポケットに入っていたのだろう。今朝、荷物をまとめているときには気づかなかった。海音が、いつ忍ばせたのか。 広げた。 クレヨンの絵だった。 家が描いてある。おんぼろの借家。赤い屋根に、青い空。庭にハイビスカス。 家の前に、四人の人間が並んでいた。 一番右に、背の高い女の人。黒い髪。笑っている。——瑠花だ。 その隣に、少し背の低い女の子
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第6章・第1話:琥珀の記憶と、潮風の島

 船が揺れるたびに、鎖が鳴った。 がちゃん、がちゃん、と。原付を固定したチェーンが、鉄の床板に当たるリズム。三日間、ずっとこの音を聴いている。波が船体を叩く鈍い音と、機関室から響く低い唸り。船員たちの怒声と、ウインチが巻き上げる鉄のきしみ。 貨物船『飛鳥丸』は、フェリーとは別の生き物だった。 優雅さなんてどこにもない。むき出しの配管。錆びた甲板。油と潮の入り混じった匂いが肺にこびりつく。船員たちは無口で、カミヤに必要以上の関心を持たなかった。飯は質素で、仕事は体力がいる。それでいい。余計な会話がないのは、ありがたかった。 甲板の錆を落とす。 ワイヤーブラシで鉄の表面をこすると、赤茶けた粉が風に舞って海に散る。ごりごり、ごりごり、と。単純な反復運動。何も考えなくていい。腕を動かしているだけでいい。 ——なのに、考えてしまう。 ポケットの中の画用紙。胸に近いほうに入れた、あの絵。『おにいちゃん また きてね  みおん』「き」の字を二回消して書き直した、あの丁寧な筆跡。 もう何百キロ離れたか分からない。那覇の借家も、ハイビスカスの庭も、味噌汁の匂いも、風鈴の音も。瑠花の笑い皺も、結菜のへの字の口も、海音の日焼けした小さな手も。 全部、船の後ろに置いてきた。 それでいい。そうするしかなかった。 錆を落とす手が止まらない。止めたら考えるから。 夜は、船倉の隅で体を丸めて寝る。毛布一枚。枕は自分のリュック。船員用の寝台を勧められたが断った。狭い場所で他人と寝るのは性に合わない。 眠れない夜が続いた。 影の中で、玄(クロ)が鼻先だけ出して俺の足首に擦りつける。お前も眠れないのか。返事はしない。ただ、影の中の密度がわずかに温かくなる。こいつなりの寄り添い方だ。 三日目の朝。 水平線に、島影が浮かんだ。 船長が操舵室から顔を出す。「見えたか。石垣島だ」 低い島影。青い海に浮かぶ、濃い緑の塊。空は高く、雲が白く、光が強い。沖縄本島とも違う、も
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第6章・第2話:名も知らぬ恩人、ついに現る

 朝の光が、潮騒と一緒に窓から転がり込んできた。 汐音(しおね)はベッドの中で、スマホのアラームを止めた。画面に映るのは、今クールの恋愛ドラマのOPテーマ。甘いメロディがぷつりと途切れて、代わりに波の音が部屋を満たす。 ざざぁ……。ざざぁ……。 三百年、毎朝聴いてきた音。飽きない。たぶん、あと三百年聴いても飽きない。「……ん」 起き上がる。髪がぼさぼさだ。青みがかった黒髪が肩に散らばって、寝癖が三方向に跳ねている。鏡を見て、どうでもいいか、と思う。どうせ今日も海に潜るのだから。 古い家だ。木造平屋。壁は潮風で色褪せ、柱は微かに軋む。でもWi-Fiは快適に飛んでいる。これだけは譲れない。三百年生きてきた中で、インターネットは人類最大の発明だと汐音は本気で思っている。不老不死の薬より、ネット通販のほうがよほど人生を豊かにする。 台所に立つ。やかんに水を入れ、ガスコンロに火をつける。ぼっ、と青い炎が揺れる。さんぴん茶のティーバッグをマグカップに放り込み、湯が沸くのを待つ間にスマホを開く。 ハンドメイドアプリの通知。夜光貝のペンダント、売れた。星5つのレビュー。「海の光をそのまま閉じ込めたみたいです! 大切にします」。 ふふ、と笑う。 そりゃそうだ。本物の人魚が、本物の深海で集めてきた夜光貝だ。人間が潜れない深さの、月の光だけが届く海底で——尾鰭で砂を払って見つけた、一級品の夜光貝。それを丁寧に研磨して、銀の金具をつけて、防水加工もばっちり。 石垣島のマーメイド・ジュエリー。ショップ名は「sionne's shell(汐音の貝殻)」。 レビュー平均星4.9。ありがたいことに、固定客もついている。これとアーサの卸と、ミンサー織りの副収入で、生活には困らない。人魚、意外と現代社会でやっていける。 やかんが鳴る。ぴぃぃぃ、と甲高い蒸気の音。 さんぴん茶を淹れて、縁側に出る。 海が、目の前に広がっている。 エメラルドグ
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第6章・第3話:人魚の少女を助けた、あの日の俺

 漁師の仕事は、二日目から見つかった。 港の手配師——というほど大げさなもんでもない、漁協の事務所にいた日焼けした爺さん——に「働きたい」と言ったら、「明日の朝四時に第三桟橋に来い」とだけ返ってきた。面接も履歴書もない。この島では、働く意思と体力があれば、それで十分らしい。 翌朝。まだ空が藍色の時間に桟橋に立つ。漁船のエンジンがぶるぶると震えている。潮の匂いが濃い。 親方は五十過ぎの、やたら声のでかい男だった。「兄ちゃん、網引けるか」 「やったことある」 「じゃあ乗れ」 南城市で栄吉の船に乗っていた経験が活きた。網の引き方、魚の扱い、船上での体の使い方。体が覚えている。「おう、やるじゃねぇか。本島で漁やってたのか」 「少しだけ」 「少しにしちゃ手際がいい。——気に入った。しばらくうちで使ってやるよ」 ありがたかった。これで飯が食える。 漁は午前中に終わる。昼過ぎ、港に戻って網を干す。日差しが強い。コンクリートの桟橋が白く照り返して、目を細めないと眩しい。網を広げる手に、潮水が乾いてざらつく感触。 背後で、足音がした。「すみませーん、アーサの納品に——」 聞き覚えのある声。 ——いや、聞き覚えなんてないはずだ。昨日今日島に来たばかりの俺に、知り合いなんていない。 振り返った。 発泡スチロールの箱を抱えた女が立っていた。お団子頭。青みがかった黒髪。白いTシャツに、藍色のロングスカート。 目が合った。 海色の瞳。 透き通るような——水面みたいにきらきらと光を散らす、海の色。 女の目が、まん丸に見開かれた。 そして——。 どさっ。 発泡スチロールの箱が地面に落ちた。蓋が外れて、中からアーサが散乱する。緑色の海藻がコンクリートの上にべしゃっと広がる。「あっ——」 女が両手で口を押さえた。「だ、だだだ大丈夫ですっ! あっ、いえ、大丈夫じゃないです、アーサが
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第6章・第4話:弁当から始まる、日常の魔法

 あの港の一件から、女は——汐音は、何かと理由をつけて俺の前に現れるようになった。 朝、漁から戻ると桟橋にいる。 発泡スチロールの箱にアーサを入れて、食堂への納品がてら。ついでのように、もう一つ別の包みを差し出してくる。「あの、これ……近所の方が作りすぎたって言うので」 弁当だった。おにぎりと、ゴーヤチャンプルーと、もずくの酢の物。 近所の人が作りすぎた。嘘だ。弁当箱にわざわざ紙のメモが挟んである。『今日のおにぎりの具は油味噌です! お魚は新鮮なのを選びました!』。字がやたら丁寧で、語尾にハートマークのスタンプが押してある。近所のおばちゃんがこんなメモ書くか。 最初は「いらねぇ」と断った。 翌日、「前のが余ったので」と別の弁当が来た。今度はソーキそばの弁当版みたいなもので、汁が漏れないように丁寧にラップで包んであった。メモには『スープが冷めないうちに食べてください!』。 さらに翌日。ジューシー(沖縄風炊き込みご飯)と紅芋の天ぷら。メモは『紅芋は今が旬です!』。 四日目に根負けした。 飯がうまいのだ。 ぶっきらぼうに「……もらう」と言ったら、汐音は海色の瞳をきらきらさせて「はいっ!」と答えた。太陽みたいな笑顔だった。 それから毎日、弁当が来る。 親方が桟橋の上でニヤニヤしている。「兄ちゃん、あの嬢ちゃんはお前の彼女か」。違う。断じて違う。 数日後。「あの、カミヤさん。お願いがあるんですけど」 汐音が、いつもより少しだけ改まった顔で言った。「うちの裏の水道管が壊れちゃって……修理できる人を探してるんですけど、カミヤさん、そういうの得意ですか?」 「……見るだけなら」 汐音の家を初めて訪れた。 港から原付で十分ほど。海沿いの細い道を行くと、潮騒がどんどん近づいてくる。木造平屋の古い家が見えた。壁は色褪せ、屋根瓦が何枚かずれている。庭にはアダンの木とブーゲンビリアが生い茂っていて、玄関には貝殻の風鈴がぶら下がっている。からん、と鳴った。 裏に回
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