ログイン港に着いた。
那覇の泊港。白いフェリーが岸壁に横付けされていて、乗船口にぽつぽつと人が並んでいる。だが、カミヤが向かう先は——その奥だった。
栄吉の紹介状を握りしめて、港湾労働者の出入り口をくぐる。観光客の列とは違う、薄暗い通路。むき出しの配管と、潮と油の匂い。
貨物船『飛鳥丸』は、白いフェリーよりもずっと無骨だった。
鋼鉄の船体に、無数の傷と錆。甲板には積み上げられたコンテナ。船尾には「石垣島」の文字。
船長——比嘉栄吉の知り合いという初老の男が、鉄製の階段の上からカミヤを見下ろした。
「栄吉さんからの伝言か。ああ、きたな。——荷物は?」
「これだけです」原付をチェーンで固定した。普通の貨物船。普通の乗船。ただ、金を払う代わりに労働を提供するという約束。
石垣島までの三日間。網の修理。機器の手入れ。甲板の清掃。
普通の仕事だ。
「出港は一時間後だ。その間に、お前の相棒をもっと奥に置いておこう。揺れるが、文句は言
翌日。 海岸沿いのトンネルに潜んでいた。 コンクリートのトンネル。車一台がやっと通れる幅。照明は切れている。暗い。水の匂い。壁面に苔が生えている。 銀(シロガネ)が警報を寄越した。ドローンが上空に来ている。 遅かったか。 トンネルの向こう側から——足音。 複数。整然とした足取り。軍隊か、それに近い訓練を受けた者の歩き方。「汐音、奥に隠れろ」「でも——」「いいから行け」 汐音がトンネルの最奥部に走る。サンダルがコンクリートを叩く音がぱたぱたと響く。 俺はトンネルの入り口に立った。 五人。スーツ姿の男が二人。その後ろに——坊主頭の巨漢が一人。鍛え上げられた体。左頬に古い刀傷。元自衛官。 赤嶺剛。 その名前はまだ知らなかったが、こいつが「使える」人間だということは——立ち方を見ればわかる。重心が低い。両手はリラックスしているように見えて、いつでも懐に手を入れられる位置にある。 赤嶺が口を開いた。「そこの兄ちゃん。悪いが、そのトンネルの奥にいる女を引き渡してもらおうか」「……誰のことだ」「とぼけるな。ドローンの映像で確認済みだ。——あんたがどこの誰かは知らないが、邪魔をするなら容赦しない」 赤嶺の手が懐に入った。 銃。拳銃。黒い金属の光。 ——一度目の戦闘。 赤嶺は速かった。抜き撃ちの技術が異常に高い。元自衛官の肩書きは伊達じゃない。 一発目が胸を貫いた。 鈍い衝撃。肺に穴が開く感覚。血が口の中に広がる。鉄の味。 二発目。腹。内臓を抉る痛み。 三発目。肩。 トンネルの壁に背中を叩きつけられた。コンクリートにひびが入る。 だが——俺は立っていた
翌朝から、動き始めた。 まず影(カゲ)を監視に出した。久高の部下たちの行動パターンを掴むためだ。カゲは隠密に長けている。人間の影に潜り込み、気配を殺して情報を集めてくる。 結果はすぐに出た。 連中はドローンを三機運用していた。交代制で海岸線を飛ばし、映像をリアルタイムでホテルの部屋に送っている。特に、夜間の海岸を重点的に監視している。 理由はすぐに分かった。ドローンの映像の一つに、映り込んでしまったのだ。 月夜の海岸。水面すれすれで尾鰭を翻す——銀色の光。 連中は、それを見た。「カミヤさん……ごめんなさい。先週の満月の夜、海で泳いでて……」 「……お前なぁ」 「だって、満月の夜の海が一番きれいなんです……反省してます」 反省しているようには見えなかったが、今はそれどころじゃない。 連中は、この島に人魚がいることを確信している。あとは——誰が人魚なのかを特定するだけだ。 時間がない。「家を離れるぞ。荷物をまとめろ」 最低限の荷物だけ原付に積んだ。着替え。水。缶詰。救急セット。汐音のスマホの充電器。プリン——は、汐音が「これだけは置いていけません」と冷蔵庫から引っ張り出してきたので、仕方なくクーラーボックスに入れた。「どこに行くんですか」 「島の裏側。観光客の来ないところだ」 夜を待った。日が沈み、月が出る前の黄昏の時間帯に、家を出た。 原付のエンジンをかける。排気音が夜の空気を震わせる。汐音が後ろに跨り、俺の腰に手を回す。「しっかり掴まれ」 「はいっ」 小さな手が、俺のシャツの裾をぎゅっと握った。 月が出ないことを祈りながら、暗い道を走る。 島の北部へ。観光客の来ないサトウキビ畑の間を抜け、山道に入る。ヘッドライトの光が暗い路面を照らし、木々の影がぬるぬると動く。 虫の声がうるさい。りーん、りーん、じじじ。夏の名残の蝉と、秋の先触れの虫が入り混じっている。 三十分走って、目的地に着いた。
同じ時間を生きられる——と分かってからの日々は、前より少しだけ温度が変わった。 汐音は相変わらず弁当を作り、俺は相変わらず漁に出て、家の修繕をした。何も変わっていないように見える。でも——小さなことが変わっていた。 夕飯のとき、汐音が窓辺に座る位置が少し近くなった。味噌汁の椀を渡すとき、指が触れても弾かなくなった。代わりに耳だけが赤くなる。 俺のほうも——変わりつつあった。自覚したくはなかったが。 汐音が夕日を見ながら、ぽつりと言うことがある。「……海の色は、ずっと変わらないんですよ。三百年前も今日も、同じ青。でも——星の位置は、少しずつ変わるんです。夜の海に浮いて空を見上げると、覚えていた星座が微妙にずれてて。ああ、時間って本当に流れてるんだなって」 何気ない口調だった。でも——その横顔に、途方もない時間の重みが滲んでいた。 この女は、長い時間を本当に独りで生きてきたのだ。 星の位置のズレで時間の経過を実感するような——そんな、気の遠くなるほどの孤独の中を。 俺は——三百年、同じ空を見上げていたはずなのに、星の位置が変わったことなんて一度も気づかなかった。 汐音がこちらを見る。「カミヤさんは、気づいてましたか? 星が動いてること」「……いや」「じゃあ、今度一緒に見ましょう。夜の海に浮いて——あ、カミヤさん泳げます?」「普通に泳げるが」「よかった。カミヤさんには浮き輪を持ってきますね」「いらねぇ」「犬かきでもいいですよ」「……犬じゃねぇ、狼だ」 汐音が笑う。俺も——たぶん、口の端がほんの少し上がった。 夕日が海を赤く染めている。ハイビスカスが風に揺れて、影が畳の上を歩く。 穏やかな時間だった。終わらなければいいと——思いかけて、やめた。 こういう時間には、必ず終わりが来ることを、俺は知っている。 そして——終わりは、唐突にやってきた。 ある日。漁から帰ると、港に見慣れない連中がいた。
——そして。ある夜。 深夜二時。 スマホが鳴った。 ぴろん♪ 画面を見る。汐音からのメッセージ。『たすけてください みちのまんなかで あしがなくなりました』 は? 続けて写真が送られてきた。暗い路上。街灯の光。コンビニの袋を抱えた汐音が——腰から下が人魚の尾に変わって、アスファルトの上に座り込んでいる。尾鰭がぺたりとアスファルトに貼りついている。 写真の端に、雲間から差した月の光が映っていた。 俺は三秒で靴を履き、原付のエンジンをかけた。 夜道を飛ばす。深夜の石垣島は暗い。街灯もまばら。虫の声だけが耳を打つ。 現場はコンビニから百メートルほどの路上だった。 電柱の影に身を寄せた汐音が、尾鰭でアスファルトをぺち、ぺちと叩きながら、涙目でこちらを見上げていた。 月光を受けた鱗が淡い水色に光っている。コンビニの袋にはプリンが三つ。「……お前」 「おなかが空いて……プリンが食べたくて……雲が出てたから大丈夫だと思ったんですけど、帰り道で雲が晴れちゃって……」 声が震えている。恥ずかしさと情けなさで目が潤んでいる。「月の光に当たると足がなくなる、って。そういうことか」 「……はい」 俺は無言で汐音を抱え上げた。 いわゆるお姫様抱っこ。腕の中に人魚の女。尾鰭が月光を受けて、淡い水色から銀色へと波打つように色が揺らいでいる。鱗がひんやりと冷たい。滑らかで、魚の肌とは違う——宝石みたいな手触り。 でも、俺の腕に回された汐音の手は——温かかった。「重い」 「重くないですっ! 人魚は骨密度が低いので人間より軽いんです!」 「口から先に出るタイプか」 「事実を述べているだけです!」 原付のシートに横座りさせる。汐音が尾鰭をバランスよく横に流す。慣れた動きだった。何回かやったことがあるんだろう。一人で。「掴まれ」 「……はい」 汐音の手が、俺の背中にそっと触れた
あの港の一件から、女は——汐音は、何かと理由をつけて俺の前に現れるようになった。 朝、漁から戻ると桟橋にいる。 発泡スチロールの箱にアーサを入れて、食堂への納品がてら。ついでのように、もう一つ別の包みを差し出してくる。「あの、これ……近所の方が作りすぎたって言うので」 弁当だった。おにぎりと、ゴーヤチャンプルーと、もずくの酢の物。 近所の人が作りすぎた。嘘だ。弁当箱にわざわざ紙のメモが挟んである。『今日のおにぎりの具は油味噌です! お魚は新鮮なのを選びました!』。字がやたら丁寧で、語尾にハートマークのスタンプが押してある。近所のおばちゃんがこんなメモ書くか。 最初は「いらねぇ」と断った。 翌日、「前のが余ったので」と別の弁当が来た。今度はソーキそばの弁当版みたいなもので、汁が漏れないように丁寧にラップで包んであった。メモには『スープが冷めないうちに食べてください!』。 さらに翌日。ジューシー(沖縄風炊き込みご飯)と紅芋の天ぷら。メモは『紅芋は今が旬です!』。 四日目に根負けした。 飯がうまいのだ。 ぶっきらぼうに「……もらう」と言ったら、汐音は海色の瞳をきらきらさせて「はいっ!」と答えた。太陽みたいな笑顔だった。 それから毎日、弁当が来る。 親方が桟橋の上でニヤニヤしている。「兄ちゃん、あの嬢ちゃんはお前の彼女か」。違う。断じて違う。 数日後。「あの、カミヤさん。お願いがあるんですけど」 汐音が、いつもより少しだけ改まった顔で言った。「うちの裏の水道管が壊れちゃって……修理できる人を探してるんですけど、カミヤさん、そういうの得意ですか?」 「……見るだけなら」 汐音の家を初めて訪れた。 港から原付で十分ほど。海沿いの細い道を行くと、潮騒がどんどん近づいてくる。木造平屋の古い家が見えた。壁は色褪せ、屋根瓦が何枚かずれている。庭にはアダンの木とブーゲンビリアが生い茂っていて、玄関には貝殻の風鈴がぶら下がっている。からん、と鳴った。 裏に回
漁師の仕事は、二日目から見つかった。 港の手配師——というほど大げさなもんでもない、漁協の事務所にいた日焼けした爺さん——に「働きたい」と言ったら、「明日の朝四時に第三桟橋に来い」とだけ返ってきた。面接も履歴書もない。この島では、働く意思と体力があれば、それで十分らしい。 翌朝。まだ空が藍色の時間に桟橋に立つ。漁船のエンジンがぶるぶると震えている。潮の匂いが濃い。 親方は五十過ぎの、やたら声のでかい男だった。「兄ちゃん、網引けるか」 「やったことある」 「じゃあ乗れ」 南城市で栄吉の船に乗っていた経験が活きた。網の引き方、魚の扱い、船上での体の使い方。体が覚えている。「おう、やるじゃねぇか。本島で漁やってたのか」 「少しだけ」 「少しにしちゃ手際がいい。——気に入った。しばらくうちで使ってやるよ」 ありがたかった。これで飯が食える。 漁は午前中に終わる。昼過ぎ、港に戻って網を干す。日差しが強い。コンクリートの桟橋が白く照り返して、目を細めないと眩しい。網を広げる手に、潮水が乾いてざらつく感触。 背後で、足音がした。「すみませーん、アーサの納品に——」 聞き覚えのある声。 ——いや、聞き覚えなんてないはずだ。昨日今日島に来たばかりの俺に、知り合いなんていない。 振り返った。 発泡スチロールの箱を抱えた女が立っていた。お団子頭。青みがかった黒髪。白いTシャツに、藍色のロングスカート。 目が合った。 海色の瞳。 透き通るような——水面みたいにきらきらと光を散らす、海の色。 女の目が、まん丸に見開かれた。 そして——。 どさっ。 発泡スチロールの箱が地面に落ちた。蓋が外れて、中からアーサが散乱する。緑色の海藻がコンクリートの上にべしゃっと広がる。「あっ——」 女が両手で口を押さえた。「だ、だだだ大丈夫ですっ! あっ、いえ、大丈夫じゃないです、アーサが
夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」
人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。
原付は、街の灯りを次々と背中に置き去りにしていった。 コンビニの白い光も、カラオケボックスの派手なネオンも、いつの間にか見えなくなって、代わりに、オレンジ色の街灯と、遠くの国道を走るトラックのヘッドライトだけが、夜の景色に点々と刺さっている。「ねえ」「……今は黙って掴まってろ」「でも——」「落としたら面倒だ」 狼谷の声は、相変わらず低くてぶっきらぼうだ。 私は、腰に回した腕を少しだけ強く握る。怖いとか、そういうのじゃなくて——こうしていないと、現実感がすぐにふわっと消えてしま
「……は?」「な、なんだよ、これ……」 背後の男たちが、慌ててポケットから何かを取り出そうとした。たぶん、さっき黒川が見せたようなナイフか、それ以上のもの。 だけど、彼らが武器を抜くより早く。「殺すな」 フードの男が、短く言った。 それだけで、狼たちの耳が、ぴくりと一斉に動く。「骨は折っていい。深くは、噛むな。血もあんまり出すな」「——は?」 狼たちが、同時に動いた。 真っ黒な影が、風より速く、黒川たちに飛びかかる。牙が閃く。けれ