تسجيل الدخول船が揺れるたびに、鎖が鳴った。
がちゃん、がちゃん、と。原付を固定したチェーンが、鉄の床板に当たるリズム。三日間、ずっとこの音を聴いている。波が船体を叩く鈍い音と、機関室から響く低い唸り。船員たちの怒声と、ウインチが巻き上げる鉄のきしみ。
貨物船『飛鳥丸』は、フェリーとは別の生き物だった。
優雅さなんてどこにもない。むき出しの配管。錆びた甲板。油と潮の入り混じった匂いが肺にこびりつく。船員たちは無口で、カミヤに必要以上の関心を持たなかった。飯は質素で、仕事は体力がいる。それでいい。余計な会話がないのは、ありがたかった。
甲板の錆を落とす。
ワイヤーブラシで鉄の表面をこすると、赤茶けた粉が風に舞って海に散る。ごりごり、ごりごり、と。単純な反復運動。何も考えなくていい。腕を動かしているだけでいい。
——なのに、考えてしまう。
ポケットの中の画用紙。胸に近いほうに入れた、あの絵。
『おにいちゃん また きてね みおん』
朝の光が、潮騒と一緒に窓から転がり込んできた。 汐音(しおね)はベッドの中で、スマホのアラームを止めた。画面に映るのは、今クールの恋愛ドラマのOPテーマ。甘いメロディがぷつりと途切れて、代わりに波の音が部屋を満たす。 ざざぁ……。ざざぁ……。 三百年、毎朝聴いてきた音。飽きない。たぶん、あと三百年聴いても飽きない。「……ん」 起き上がる。髪がぼさぼさだ。青みがかった黒髪が肩に散らばって、寝癖が三方向に跳ねている。鏡を見て、どうでもいいか、と思う。どうせ今日も海に潜るのだから。 古い家だ。木造平屋。壁は潮風で色褪せ、柱は微かに軋む。でもWi-Fiは快適に飛んでいる。これだけは譲れない。三百年生きてきた中で、インターネットは人類最大の発明だと汐音は本気で思っている。不老不死の薬より、ネット通販のほうがよほど人生を豊かにする。 台所に立つ。やかんに水を入れ、ガスコンロに火をつける。ぼっ、と青い炎が揺れる。さんぴん茶のティーバッグをマグカップに放り込み、湯が沸くのを待つ間にスマホを開く。 ハンドメイドアプリの通知。夜光貝のペンダント、売れた。星5つのレビュー。「海の光をそのまま閉じ込めたみたいです! 大切にします」。 ふふ、と笑う。 そりゃそうだ。本物の人魚が、本物の深海で集めてきた夜光貝だ。人間が潜れない深さの、月の光だけが届く海底で——尾鰭で砂を払って見つけた、一級品の夜光貝。それを丁寧に研磨して、銀の金具をつけて、防水加工もばっちり。 石垣島のマーメイド・ジュエリー。ショップ名は「sionne's shell(汐音の貝殻)」。 レビュー平均星4.9。ありがたいことに、固定客もついている。これとアーサの卸と、ミンサー織りの副収入で、生活には困らない。人魚、意外と現代社会でやっていける。 やかんが鳴る。ぴぃぃぃ、と甲高い蒸気の音。 さんぴん茶を淹れて、縁側に出る。 海が、目の前に広がっている。 エメラルドグ
船が揺れるたびに、鎖が鳴った。 がちゃん、がちゃん、と。原付を固定したチェーンが、鉄の床板に当たるリズム。三日間、ずっとこの音を聴いている。波が船体を叩く鈍い音と、機関室から響く低い唸り。船員たちの怒声と、ウインチが巻き上げる鉄のきしみ。 貨物船『飛鳥丸』は、フェリーとは別の生き物だった。 優雅さなんてどこにもない。むき出しの配管。錆びた甲板。油と潮の入り混じった匂いが肺にこびりつく。船員たちは無口で、カミヤに必要以上の関心を持たなかった。飯は質素で、仕事は体力がいる。それでいい。余計な会話がないのは、ありがたかった。 甲板の錆を落とす。 ワイヤーブラシで鉄の表面をこすると、赤茶けた粉が風に舞って海に散る。ごりごり、ごりごり、と。単純な反復運動。何も考えなくていい。腕を動かしているだけでいい。 ——なのに、考えてしまう。 ポケットの中の画用紙。胸に近いほうに入れた、あの絵。『おにいちゃん また きてね みおん』「き」の字を二回消して書き直した、あの丁寧な筆跡。 もう何百キロ離れたか分からない。那覇の借家も、ハイビスカスの庭も、味噌汁の匂いも、風鈴の音も。瑠花の笑い皺も、結菜のへの字の口も、海音の日焼けした小さな手も。 全部、船の後ろに置いてきた。 それでいい。そうするしかなかった。 錆を落とす手が止まらない。止めたら考えるから。 夜は、船倉の隅で体を丸めて寝る。毛布一枚。枕は自分のリュック。船員用の寝台を勧められたが断った。狭い場所で他人と寝るのは性に合わない。 眠れない夜が続いた。 影の中で、玄(クロ)が鼻先だけ出して俺の足首に擦りつける。お前も眠れないのか。返事はしない。ただ、影の中の密度がわずかに温かくなる。こいつなりの寄り添い方だ。 三日目の朝。 水平線に、島影が浮かんだ。 船長が操舵室から顔を出す。「見えたか。石垣島だ」 低い島影。青い海に浮かぶ、濃い緑の塊。空は高く、雲が白く、光が強い。沖縄本島とも違う、も
港に着いた。 那覇の泊港。白いフェリーが岸壁に横付けされていて、乗船口にぽつぽつと人が並んでいる。だが、カミヤが向かう先は——その奥だった。 栄吉の紹介状を握りしめて、港湾労働者の出入り口をくぐる。観光客の列とは違う、薄暗い通路。むき出しの配管と、潮と油の匂い。 貨物船『飛鳥丸』は、白いフェリーよりもずっと無骨だった。 鋼鉄の船体に、無数の傷と錆。甲板には積み上げられたコンテナ。船尾には「石垣島」の文字。 船長——比嘉栄吉の知り合いという初老の男が、鉄製の階段の上からカミヤを見下ろした。「栄吉さんからの伝言か。ああ、きたな。——荷物は?」 「これだけです」 原付をチェーンで固定した。普通の貨物船。普通の乗船。ただ、金を払う代わりに労働を提供するという約束。 石垣島までの三日間。網の修理。機器の手入れ。甲板の清掃。 普通の仕事だ。「出港は一時間後だ。その間に、お前の相棒をもっと奥に置いておこう。揺れるが、文句は言うなよ」 船長が去った。甲板に、カミヤ一人が残された。 金はある。一ヶ月分の漁師の日当から、生活費を除いた残り。栄吉が「取っとけ」と上乗せしてくれた分もある。最後の日に、茶封筒にねじ込んで渡してきた。「またいつでも来い。——網引きなら、いつでも仕事はある」 栄吉のぶっきらぼうな声が、耳に残っている。 ポケットに手を入れた。 何かが触れた。紙の感触。 取り出した。 折りたたまれた画用紙だった。 いつの間に—— リュックのポケットに入っていたのだろう。今朝、荷物をまとめているときには気づかなかった。海音が、いつ忍ばせたのか。 広げた。 クレヨンの絵だった。 家が描いてある。おんぼろの借家。赤い屋根に、青い空。庭にハイビスカス。 家の前に、四人の人間が並んでいた。 一番右に、背の高い女の人。黒い髪。笑っている。——瑠花だ。 その隣に、少し背の低い女の子
借家の前に、原付が停まっていた。 荷台にリュックをくくりつけた。ゴムバンドで固定する。いつもの作業。何百回とやってきた、旅立ちの儀式。 蝉が鳴いている。じわじわと、夏の最後の力を振り絞るように。空は高く、雲は白く、アスファルトの上に陽炎がゆらゆらと立ち昇っている。七月にこの島に来たときと、同じ景色。 けれど、まるで違う景色だった。 子供たちの姿はなかった。 栄吉が朝のうちに連れ出してくれた。「今日は船に乗せてやる」と言って、海音の手を引いていった。海音は泣きながらも、ターチーに会えると聞いて少しだけ目を輝かせた。結菜は黙ってついていった。玄関を出る直前に、一度だけ振り返った。俺と目が合った。何も言わなかった。 栄吉なりの気遣いだった。 瑠花と二人きりにしてくれたのだ。 借家の玄関先。日陰になった軒下に瑠花が立っていた。エプロンは外していた。白いリネンのブラウス。一ヶ月前と同じ服。洗い込んで少しくたびれた、けれど清潔な服。 風が吹いた。庭のハイビスカスの花が揺れ、赤い花弁が一枚、アスファルトに落ちた。 俺は原付に跨がった。 キーを差し込む。エンジンをかけようとして—— 止まった。 手が、動かなかった。 ハンドルを握る指が白くなるほど力が入っているのに、キーを回せなかった。 バックミラーに映る自分の顔。ヘルメットはまだ被っていない。琥珀色の瞳が、揺れている。 三百年の間、何十回も繰り返してきた別れだ。街を出る。人を置いていく。振り返らない。それがルールだった。 なのに——「……瑠花」 名前を呼んだ。 初めてだった。 いつも「あんた」か「おい」だった。名前を呼んだら、距離が近くなる。距離が近くなったら、離れるのが痛くなる。だから呼ばなかった。 でも、もう——呼ばずにはいられなかった。 瑠花が息を呑んだのが、音で——いや、空気の振動で——わかった。 俺は原付の上で前を向いたまま、言った。
朝日が窓から射し込んで、畳の上に四角い光を落としていた。 蝉が鳴いている。八月の終わりの蝉は、盛夏のそれとは声が違う。どこか急いている。残り少ない夏を惜しむように、一声一声が切迫している。 俺は六畳間で荷物をまとめていた。 荷物は少ない。旅に出たときと、ほとんど変わらない量だ。着替えが二組。タオル。歯ブラシ。栄吉にもらった釣りの本。それから——ポケットの中の、淡いピンクの巻貝。海音が最初の日にくれたやつ。 それだけだ。 一ヶ月もこの家にいたのに、荷物は増えなかった。物は増えなかった。 増えたのは——荷物にならないものだけだった。 リュックを背負い、部屋を見回した。日焼けした畳。窓の外に見える庭。風鈴がゆっくり揺れている。この部屋は、瑠花の祖母が使っていた部屋だという。二年前に亡くなった人の部屋に、三百年生きてる化け物が転がり込んでいた。おかしな話だ。 居間に出た。 台所から、味噌汁の匂いがしていた。 いつも通りの朝。いつも通りの匂い。瑠花がまな板の上できゅうりを叩いている音。とん、とん。ちゃぶ台の上には、もう白いご飯がよそってある。四人分——ではなく。 四人分、だった。まだ。「おはよう」 瑠花が振り向いた。 笑っていた。いつもの笑顔。でも目が——ほんの少しだけ腫れている。泣いたのだ。昨夜。俺が縁側で月を見ていた、その壁の向こうで。 気づかないふりをした。気づいたら、もう行けなくなる。「……おはよう」 俺が居間のちゃぶ台の前に座ろうとした瞬間、廊下を走る足音が響いた。ぱたぱたぱたぱた、と。裸足の、軽い足音。「お兄ちゃんっ!!」 海音が飛び込んできた。 俺のリュックを見た瞬間、目の色が変わった。さっきまで寝ぼけていた顔が、一瞬で凍りついた。八歳の子供が浮かべていい表情じゃなかった。「——
瑠花は布団の中で目を開けていた。 天井の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。隣に敷いた布団で海音がすうすう寝息を立てている。反対側で結菜が時折、寝返りを打つ。布団がかさりと擦れる音。 二人の娘の寝息に挟まれて、瑠花は眠れなかった。 目を閉じると、瞼の裏に蒼い炎が揺れた。骸骨の手。冷たい鎖。腐った船の匂い。——あの恐怖は、きっと一生消えない。 でも、それと同じくらい鮮烈に焼きついているのは——カミヤの背中だった。 あの船長室に飛び込んできたとき、最初に見えたのは背中だった。瑠花の前に立ち塞がるように。胸を貫かれてなお立ち続ける背中。銀色の粒子がきらきらと零れ落ちて、蒼い闇の中で光っていた。 人間じゃなかった。 知ってしまった。 三百年。影から出てくる狼。再生する体。獣の爪と牙。琥珀色の瞳が、金色の炎に変わる瞬間。 ——全部、見た。全部、知ってしまった。 怖かった。怖くないと言ったら嘘になる。あの瞬間、体の芯が凍りついた。目の前にいるのが、自分の知っている「カミヤくん」ではない別の何かに変わっていく恐怖。人間の本能が、逃げろと叫んでいた。 でも。 あの人が助けてくれたのは、本当だった。 胸に穴が空いても立ち上がったのは、本当だった。「触るな」と叫んだあの声の中に、怒りと一緒に——怖いくらいの必死さが滲んでいたのは、本当だった。 瑠花は布団の中で、自分の右手を見た。 あの船の上で、カミヤの頬に触れた手。冷たかった指先が、カミヤの肌の温度で少しだけ温まった。人狼の体温は人間より高いのだと、あのとき知った。触れた瞬間に伝わってきた熱。人間じゃないはずの体から発せられる、嘘みたいに温かい熱。 あの温もりが——まだ指先に残っている。「好きに、なっちゃったな」 声にならない声で、唇だけが動いた。 涙が、こめかみを伝って枕に落ちた。 わ
アスファルトは、さっきよりも少し湿っていて、鼻をつくカビ臭さが混じっていた。頭上には、ビルの壁が迫ってくるようで、空が細く切り取られている。「ね、名前、なんていうの?」「……ナギ」「ナギちゃん。いいね、その名前。芸名にも使えるよ」 名前を呼ばれても、心は少しも弾まなかった。 路地を抜けると、突然、視界が開けた。 そこには、真っ暗な駐車場が広がっていた。ビルの陰に隠れるようにして、何台かの車が停められている。その向こうには、窓ガラスの割れた古い廃ビルが、夜空に黒い影
夜の街って、こんなに明るかったっけ。 駅前のロータリーを抜けるとき、私はぼんやりそう思った。ネオンがぎらぎらして、カラオケと居酒屋とパチンコ屋の看板が、空に向かって喧嘩みたいに明滅している。「……うるさい」 思わず口からこぼれた声は、自分でも驚くくらい掠れていた。 トートバッグの紐が、汗ばんだ手からずり落ちそうになる。中身は、昨日の夜に慌てて詰め込んだもの——スマホ、財布、替えのTシャツ一枚、くたびれたタオル。それだけ。 家出、なんて大層なものじゃないのかもしれない。逃げた、が正しい。 だって、あの家にいたら、次は死ぬかもしれないって、本気で思ったから。 ***「テメェ、誰
本当に、海はあった。 国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。「……」 言葉が、喉の奥に張り付いた。 朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。「本当に、海だ……」「偽物の海ってなんだよ」「プールとか、ゲームの中のとか」「それはそれで現実だろ」「うるさい。今はロマンチックなやつ」
夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」







