Alle Kapitel von しおさいの街で、人狼と天使は恋をした: Kapitel 81 – Kapitel 90

96 Kapitel

第6章・第5話:深夜二時の、運命のプリン

 ——そして。ある夜。 深夜二時。 スマホが鳴った。 ぴろん♪ 画面を見る。汐音からのメッセージ。『たすけてください みちのまんなかで あしがなくなりました』 は? 続けて写真が送られてきた。暗い路上。街灯の光。コンビニの袋を抱えた汐音が——腰から下が人魚の尾に変わって、アスファルトの上に座り込んでいる。尾鰭がぺたりとアスファルトに貼りついている。 写真の端に、雲間から差した月の光が映っていた。 俺は三秒で靴を履き、原付のエンジンをかけた。 夜道を飛ばす。深夜の石垣島は暗い。街灯もまばら。虫の声だけが耳を打つ。 現場はコンビニから百メートルほどの路上だった。 電柱の影に身を寄せた汐音が、尾鰭でアスファルトをぺち、ぺちと叩きながら、涙目でこちらを見上げていた。 月光を受けた鱗が淡い水色に光っている。コンビニの袋にはプリンが三つ。「……お前」 「おなかが空いて……プリンが食べたくて……雲が出てたから大丈夫だと思ったんですけど、帰り道で雲が晴れちゃって……」 声が震えている。恥ずかしさと情けなさで目が潤んでいる。「月の光に当たると足がなくなる、って。そういうことか」 「……はい」 俺は無言で汐音を抱え上げた。 いわゆるお姫様抱っこ。腕の中に人魚の女。尾鰭が月光を受けて、淡い水色から銀色へと波打つように色が揺らいでいる。鱗がひんやりと冷たい。滑らかで、魚の肌とは違う——宝石みたいな手触り。 でも、俺の腕に回された汐音の手は——温かかった。「重い」 「重くないですっ! 人魚は骨密度が低いので人間より軽いんです!」 「口から先に出るタイプか」 「事実を述べているだけです!」 原付のシートに横座りさせる。汐音が尾鰭をバランスよく横に流す。慣れた動きだった。何回かやったことがあるんだろう。一人で。「掴まれ」 「……はい」 汐音の手が、俺の背中にそっと触れた
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第6章・第6話:人魚の血を求める影、迫る

 同じ時間を生きられる——と分かってからの日々は、前より少しだけ温度が変わった。 汐音は相変わらず弁当を作り、俺は相変わらず漁に出て、家の修繕をした。何も変わっていないように見える。でも——小さなことが変わっていた。 夕飯のとき、汐音が窓辺に座る位置が少し近くなった。味噌汁の椀を渡すとき、指が触れても弾かなくなった。代わりに耳だけが赤くなる。 俺のほうも——変わりつつあった。自覚したくはなかったが。 汐音が夕日を見ながら、ぽつりと言うことがある。「……海の色は、ずっと変わらないんですよ。三百年前も今日も、同じ青。でも——星の位置は、少しずつ変わるんです。夜の海に浮いて空を見上げると、覚えていた星座が微妙にずれてて。ああ、時間って本当に流れてるんだなって」 何気ない口調だった。でも——その横顔に、途方もない時間の重みが滲んでいた。 この女は、長い時間を本当に独りで生きてきたのだ。 星の位置のズレで時間の経過を実感するような——そんな、気の遠くなるほどの孤独の中を。 俺は——三百年、同じ空を見上げていたはずなのに、星の位置が変わったことなんて一度も気づかなかった。 汐音がこちらを見る。「カミヤさんは、気づいてましたか? 星が動いてること」「……いや」「じゃあ、今度一緒に見ましょう。夜の海に浮いて——あ、カミヤさん泳げます?」「普通に泳げるが」「よかった。カミヤさんには浮き輪を持ってきますね」「いらねぇ」「犬かきでもいいですよ」「……犬じゃねぇ、狼だ」 汐音が笑う。俺も——たぶん、口の端がほんの少し上がった。 夕日が海を赤く染めている。ハイビスカスが風に揺れて、影が畳の上を歩く。 穏やかな時間だった。終わらなければいいと——思いかけて、やめた。 こういう時間には、必ず終わりが来ることを、俺は知っている。 そして——終わりは、唐突にやってきた。 ある日。漁から帰ると、港に見慣れない連中がいた。
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第6章・第7話:廃墟の夜、ツナ缶と人魚の涙

 翌朝から、動き始めた。 まず影(カゲ)を監視に出した。久高の部下たちの行動パターンを掴むためだ。カゲは隠密に長けている。人間の影に潜り込み、気配を殺して情報を集めてくる。 結果はすぐに出た。 連中はドローンを三機運用していた。交代制で海岸線を飛ばし、映像をリアルタイムでホテルの部屋に送っている。特に、夜間の海岸を重点的に監視している。 理由はすぐに分かった。ドローンの映像の一つに、映り込んでしまったのだ。 月夜の海岸。水面すれすれで尾鰭を翻す——銀色の光。 連中は、それを見た。「カミヤさん……ごめんなさい。先週の満月の夜、海で泳いでて……」 「……お前なぁ」 「だって、満月の夜の海が一番きれいなんです……反省してます」 反省しているようには見えなかったが、今はそれどころじゃない。 連中は、この島に人魚がいることを確信している。あとは——誰が人魚なのかを特定するだけだ。 時間がない。「家を離れるぞ。荷物をまとめろ」 最低限の荷物だけ原付に積んだ。着替え。水。缶詰。救急セット。汐音のスマホの充電器。プリン——は、汐音が「これだけは置いていけません」と冷蔵庫から引っ張り出してきたので、仕方なくクーラーボックスに入れた。「どこに行くんですか」 「島の裏側。観光客の来ないところだ」 夜を待った。日が沈み、月が出る前の黄昏の時間帯に、家を出た。 原付のエンジンをかける。排気音が夜の空気を震わせる。汐音が後ろに跨り、俺の腰に手を回す。「しっかり掴まれ」 「はいっ」 小さな手が、俺のシャツの裾をぎゅっと握った。 月が出ないことを祈りながら、暗い道を走る。 島の北部へ。観光客の来ないサトウキビ畑の間を抜け、山道に入る。ヘッドライトの光が暗い路面を照らし、木々の影がぬるぬると動く。 虫の声がうるさい。りーん、りーん、じじじ。夏の名残の蝉と、秋の先触れの虫が入り混じっている。 三十分走って、目的地に着いた。
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第6章・第8話:トンネルに響く、銀の弾丸音

 翌日。 海岸沿いのトンネルに潜んでいた。 コンクリートのトンネル。車一台がやっと通れる幅。照明は切れている。暗い。水の匂い。壁面に苔が生えている。 銀(シロガネ)が警報を寄越した。ドローンが上空に来ている。 遅かったか。 トンネルの向こう側から——足音。 複数。整然とした足取り。軍隊か、それに近い訓練を受けた者の歩き方。「汐音、奥に隠れろ」「でも——」「いいから行け」 汐音がトンネルの最奥部に走る。サンダルがコンクリートを叩く音がぱたぱたと響く。 俺はトンネルの入り口に立った。 五人。スーツ姿の男が二人。その後ろに——坊主頭の巨漢が一人。鍛え上げられた体。左頬に古い刀傷。元自衛官。 赤嶺剛。 その名前はまだ知らなかったが、こいつが「使える」人間だということは——立ち方を見ればわかる。重心が低い。両手はリラックスしているように見えて、いつでも懐に手を入れられる位置にある。 赤嶺が口を開いた。「そこの兄ちゃん。悪いが、そのトンネルの奥にいる女を引き渡してもらおうか」「……誰のことだ」「とぼけるな。ドローンの映像で確認済みだ。——あんたがどこの誰かは知らないが、邪魔をするなら容赦しない」 赤嶺の手が懐に入った。 銃。拳銃。黒い金属の光。 ——一度目の戦闘。 赤嶺は速かった。抜き撃ちの技術が異常に高い。元自衛官の肩書きは伊達じゃない。 一発目が胸を貫いた。 鈍い衝撃。肺に穴が開く感覚。血が口の中に広がる。鉄の味。 二発目。腹。内臓を抉る痛み。 三発目。肩。 トンネルの壁に背中を叩きつけられた。コンクリートにひびが入る。 だが——俺は立っていた
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第6章・第9話:泡沫の人魚、沖へ泳ぐ夜

 島の北端。人の来ない断崖の海岸。 岩肌がむき出しの崖の下に、波が打ち寄せている。ざぱん、ざぱん、と。激しい音。南の穏やかな浜辺とは違う、荒い海。 ここなら——海に直接降りられる。崖を降りれば、水際まで十メートル。 月の出まであと二時間。月が出れば汐音は人魚に戻る。人魚の姿なら海に逃げられる。深い海に潜ってしまえば、人間の手は届かない。 だが——俺の体が限界だった。 銀の弾丸の破片が、まだ体の中にある。月(ツキ)がずっと治癒を続けているが、銀の侵食が深い。腕を上げると脇腹が裂けそうに痛む。立っているだけで膝が震える。 影(カゲ)が報告を寄越した。 久高の部隊が来る。近い。ドローンが三機。私兵が十数名。赤嶺が——新たな銀弾を装填して合流している。肩を外されたはずだが、もう動いている。応急処置をしたのだろう。プロだ。 時間がない。「汐音」 名前を呼んだ。「ここで待ってろ。月が出たら、海に入れ。そのまま沖に出て、絶対に振り返るな」 汐音の顔が——凍った。「嫌です」「聞けよ」「嫌です!」 声が割れた。三百年分の感情が、一気に溢れ出したような声だった。「一人で——三百年も待ったのに、やっと会えたのに——っ!」 海色の瞳から涙が零れた。ぼろぼろと。止められない涙が、白い頬を伝って顎から落ちる。 俺はその顔を見て——笑った。 不器用に。ぎこちなく。口の端を上げるだけの、下手くそな笑い方。三百年で、こんなふうに笑ったのはたぶん——初めてだった。「死なねぇよ。俺は面倒くせぇくらいしぶといんだ」 ポケットからスマホを取り出した。汐音がくれた、あのスマホ。「これ持ってろ」 汐音の手にスマホを握らせた。「……終わったら、連絡する」 一拍、置いて。「お前が俺に持たせた意味、ちゃんとわかってる」 汐音の手が震えた。スマホを握りしめる指が白くなる。
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第6章・第10話:与那国への旅立ち、小指の約束

 久高嶺臣は——短刀を振りかざしたまま、動かなくなった。 違う。動けなくなったのだ。 目の前で、人間の体が——崩壊していく。 銀縁眼鏡の奥の瞳が濁った。白麻のスーツの下で、皮膚に皺が刻まれていく。みるみるうちに。髪が白くなり、抜け落ちる。背が縮む。手の甲に老斑が浮かび上がる。指が細くなり、関節が膨らむ。 人魚の生き血の効力が——切れたのだ。 三百年分の時が、一気に肉体に刻まれていく。「馬鹿な……まだ、足りない……もっと、血を……」 崩れ落ちる久高の手から、短刀が落ちた。かちん、と。岩に金属が当たる、硬く乾いた音。 膝が折れた。腰が曲がった。顔の肉が削げ落ち、頬骨と顎の骨が浮き出る。歯が抜けた。眼窩が窪んだ。 皮膚が紙みたいに薄くなって、その下の血管が透けて見えた。そして——血管すらも干からびていく。 久高嶺臣は、三百年の時に追いつかれ、崖の上で——塵のように崩れていった。 風が吹いた。 白麻のスーツの中に、もう何も残っていなかった。灰のような、砂のような、乾いた粒子が風に散っていく。銀縁眼鏡だけが草の上に転がっている。 他人の命を啜ってまで生に執着した男の——末路。 怒りはもうなかった。あるのは、静かなやるせなさだけだ。 残された私兵たちは、主を失い、散り散りに去っていった。スーツを脱ぎ捨て、武器を置き、島の闇に消えていく。 赤嶺だけが残っていた。 関節を極められた体勢から解放され、崖の上に座り込んでいる。久高の残骸——いや、もう骨すら風化しかけた跡を、無表情に見つめていた。 俺は赤嶺に背を向けた。「……行けよ。お前はまだ、やり直せる」 赤嶺が何か言いかけた。口を開き&m
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第7章・第1話:西の果て、帰れない海

 フェリーの甲板に、潮の匂いが濃い。 石垣島を出て三時間。外洋のうねり、重油の混じった風、そして胃の底を削るようなエンジンの重低音。人狼としての鋭すぎる五感は、大型フェリー特有の騒々しさに、とっくに限界を迎えていた。手すりに両肘をついて水平線を睨む。ただ睨む。 酔っているわけではない。三日間揺られた貨物船でも平気だったし、漁師として網を引くこともできる。だが、この「逃げ場のない鉄の箱に閉じ込められて揺られる」という不自然な感覚は、陸の獣である俺にとって、本能的な不快感でしかなかった。早くこの箱を降りて、硬い土を踏みたい――その一心で、俺は不機嫌に水平線を睨み続けていた。「カミヤさんカミヤさん、大変! スマホが台湾の電波掴んじゃった! ローミングってどうやって切るの? え、待って、これ国際通話料かかるやつ? やばい!」 隣で、能天気な声が風に飛ぶ。 振り返ると、汐音が甲板の上でスマホを高く掲げたり低く構えたりと忙しない。潮風に吹かれた青みがかった黒髪が、お団子から何本もほつれて頬に張り付いている。海色の瞳が画面に釘づけで、足元のデッキが大きく傾いても平然としている。こいつは揺れに強い。当たり前だ。海の生き物なんだから。「……こっちに聞くな。数日前に教えてもらったばかりだろうが」「あ、そっか。えーと、設定、設定……あ、これかな?」 汐音が指先を忙しく動かし、自力で画面を切り替えていく。俺は自分のポケットに入っている、彼女から持たされた「板切れ」の重みを感じた。いまだに電源を入れるのすら、少しだけ躊躇う代物だ。 やっと設定を直したらしい汐音の画面には、ハンドメイドアプリの通知が山ほど溜まっていた。新着レビュー、購入通知、フォロワーからのメッセージ。この人魚は、命懸けの逃避行の直後ですら商売の手を緩めない。「ありがとー! あ、見て見て。石垣島で最後に出品した夜光貝のブローチ、もう売れてる。星五つ! "まるで本物の海を閉じ込めたみたい"だって。嬉しいなぁ」「……お前な、」 言いかけて、やめた。  こいつのこの逞しさが、今の俺たちの旅費を支えている。文句を言える立場じゃない
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第7章・第2話:黒潮の咆哮、二人だけの家

 おじいの目が俺と、後ろの汐音とを交互に見る。若い男女がスーパーカブ一台で最果ての島にやってきた。怪しいと思われても仕方ない。 だが、おじいはにやりと笑っただけだった。「崖の上に、一軒あるさ。昔ダイビングショップやってた兄ちゃんが出て行って、誰も借り手がおらんのよ。ボロいけどな」 道を教えてもらい、カブでさらに坂を登る。舗装が途切れ、赤土の道になった先に——それはあった。 潮風に錆びたトタン屋根。割れかけた窓ガラス。壁のペンキは剥げて下地のコンクリートが見えている。庭には機材の残骸が転がり、ホースやウェットスーツの切れ端が風に揺れている。そして庭の先は——断崖。柵もなく、赤土の地面がそのまま空に落ちている。 崖下を覗き込む。紺碧の海が、五十メートル下で白く砕けている。黒潮の流れが岩壁にぶつかり、渦を巻いている。「ここ最高! 庭から海にダイブできる!」 汐音がカブから飛び降り、目を輝かせて崖の縁まで走っていく。「おい、落ちるぞ」「大丈夫、私は落ちても泳げるもん」「俺は泳げねぇんだよ」「えへへ」 ……何がえへへだ。 だが、立地は悪くない。集落から離れているから、人目がない。夜中に影狼を庭で遊ばせても、月光で汐音が人魚に戻っても、誰にも見られない。それに、崖の下にプライベートの入り江があるなら、そこから直接海に潜れる。ダイビングショップがここに店を構えたのも頷ける。「カミヤさん、中見てみよ!」 汐音に手を引かれ、錆びたドアを開ける。蝶番が軋み、埃っぽい空気が鼻を突く。中は——ボロい。率直に言ってボロい。畳は日焼けし、天井の隅にクモの巣が張り、壁に前の住人が貼ったダイビングポイントの地図がそのまま残っている。キッチンは最低限の設備。風呂は——「五右衛門風呂、生きてる! やった!」 汐音が奥の浴室から叫ぶ。大きな石造りの風呂桶が、塩害に強い頑丈な造りでどっしりと鎮座していた。蛇口を捻ると、錆びた色の水がしばらく出た後、透明な水に変わる。「これなら、夜に人魚になっても大丈夫。お風呂に浸かっ
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第7章・第3話:Wi-Fiと風呂と、人魚の経営戦略

 五右衛門風呂の中で、汐音は目を覚ました。 最初に感じたのは、水のぬるさだった。昨夜のうちに月が沈み、足は人間の形に戻っている。指先がふやけて、爪の端が白くなっている。うっかり風呂の中で寝てしまったのだ——何時間浸かっていたのだろう。窓の隙間から朝日が差し込み、水面にゆらゆらと光の模様を描いている。 ぱた、ぱた、と水滴が蛇口から落ちる音。遠くで波が崖を叩く音。そして——隣の部屋から、小さな鳴き声。「くぅん……くぅ……」 ツキだ。カミヤさんの胸の上で丸くなって、寝ぼけた声を出している。甘えん坊の影狼は、夜の間にカミヤさんの懐に潜り込んだらしい。 汐音は濡れた髪を絞りながら、風呂の縁に頬を載せた。隣の部屋は襖一枚で隔てられているだけで、その隙間からカミヤさんの横顔がわずかに見える。畳の上に敷いた布団で、仰向けに眠っている。黒髪が額にかかり、長い睫毛が頬に影を落としている。寝顔は、起きている時のぶっきらぼうさが全部消えて、年相応——いや、外見通りの二十歳くらいの青年に見える。三百年の重みなんて、どこにもない。 胸の奥が、きゅうっと軋んだ。 ——ここが、私たちの家なんだ。 そう思った瞬間、涙が出そうになって、慌てて顔を水に沈めた。ぶくぶくと泡が上がる。水の中のほうが落ち着く。海の生き物だから。泣きたい時は、水に潜ればいい。 三百年間、ずっと一人で海にいた。仲間は散り散りになり、人間に紛れて陸で暮らすようになってからも、本当の意味で「家」と呼べる場所はなかった。石垣島の借家は、一人で住むには広すぎた。テーブルの向かいに誰もいない食卓。夜になれば勝手に人魚に戻る体。月が昇るたびに、人間のふりが剥がれ落ちていく孤独。 それが今、こうして—— ぼろぼろの崖の上の家。錆びた屋根。割れた窓。でも、隣の部屋にはカミヤさんがいて、影狼たちが庭を走り回っていて、五右衛門風呂の湯船には、私がいる。 ——ああ、だめだ。やっぱり泣きそう。 ばしゃん、と顔を上げて深呼吸する。水滴が睫毛を伝い、光にきらきら反射する。「よし」 汐音は風呂から上がり、昨日のうちに
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第7章・第4話:崖下の偵察——潮止まりの17分間

 目が覚めたのは、まだ星が残っている時刻だった。 スマホのアラームが鳴る前に、体が勝手に起き上がる。三百年の放浪で身についた習性——行動の前に、必ず夜明け前に覚醒する。暗闇の中で意識が冴え渡り、嗅覚と聴覚が周囲の気配を探る。 波の音。風の唸り。崖の下で海が呼吸するような低い轟き。そして——風呂場から、水の跳ねる微かな音。汐音がもう起きている。 布団から出て、上半身裸にハーフパンツという出で立ちで庭に出た。夜明け前の空は紫がかった紺色で、西の水平線に月が沈みかけている。足元の赤土は夜露に湿り、ひんやりと冷たい。 ツキが首筋にまとわりついてきた。半透明の影が体温のない冷たさで肌に触れる。「こわい……」「知ってる。でも行くぞ」「うん……がんばる……」 小さな声。こいつは五匹の影狼の中で最も臆病で、最も甘えん坊で——そして今日、最も重要な役割を担う。水中の加護。俺が海の底で息をするための、唯一の命綱。 影の中から玄が現れ、無言で俺の横に並んだ。銀、牙、影の三匹も気配を鋭くしている。全員、俺の影に潜伏して待機する。水中では大幅に力が落ちるが、いざという時の切り札として連れていく。「カミヤさん、おはよう」 振り返ると、汐音が裸足で庭に出てきた。月がほぼ沈んだため、足は人の形を保っている。だが目の色だけが——海の底みたいに暗い青に沈んでいる。 いつもの天然さが消えていた。代わりにあるのは、凪いだ水面のような静けさ。こいつが本気の時の顔だ。「潮止まりは五時二十三分。あと四十分。——崖、降りるよ」「ああ」 二人で崖の獣道を降りる。岩場は暗闇の中でも、人狼の夜目と人魚の感覚で足元は見える。波は穏やかだった。潮止まりが近づいている証拠だ。入り江の水面が、夜明け前の空を暗い鏡のように映している。 岩場の先端に立つ。足元の水は黒い。底が見えない。昼間の透き通った海とは別物だ。あの下に、何十メートルもの暗闇が沈んでいると思うと—— 認めたくないが、心臓が速くなった。 陸の獣の本能が、全力で警告している。行
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