Semua Bab 壊したいほど好きだから、: Bab 101 - Bab 110

112 Bab

第4章:003

 ※ ※ ※ 月曜日の朝。 オフィスに足を踏み入れた瞬間から、どっと重い疲労感が全身を包み込む。(あ〜あ、月曜日はどうしてこんなにだるいのかしら) 橘はデスクの前でゆっくりと肩を回し、コリコリと固まった関節を解した。溜息をひとつ吐き出しながらパソコンの電源を入れ、日課のメールチェックを始める。 トントン、と遠慮がちなノックの音が聞こえたのは、ちょうど届いた未読メールを一通り流し読みし終えた時だった。「どーぞ」 橘が声をかけると、ドアがすっと開いて部下が深刻そうな顔を覗かせた。「相良さんって、引っ越しは土日ってお話でしたよね?」「渚ちゃん? ええ、そうよ。それがどうしたの?」「実は……相良さんが出勤してこないんです。今まで遅刻なんて一度もしたことなかったのに」「え?」 橘は眉を顰めた。 相良渚は真面目を絵に描いたような部下だ。事前連絡もなしに遅刻や欠勤をするような子ではなかったし、金曜日には「引っ越しを頑張ります」とはにかんでいた。恋人との新生活に緊張しているような、でも嬉しさの方が勝っているような雰囲気だった。「連絡は?」「私たち、相良さんと長いのに連絡先を知らなくて……」「私から電話してみる。あなた、仕事に戻っていいわよ」「お願いします」 深くお辞儀をして去っていく部下の背中を見送り、デスク上の携帯電話を手に取った。 画面をスワイプし、アドレス帳から「相良渚」の名前を探す。「いったいどうしたっていうのよ……」 呟きながら発信ボタンを押す。 耳に押し当てた端末から聞こえてきたのは、呼び出し音ではなく、無機質な音声ガイダンスだった。『おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため――』 もう一度通話ボタンを押してみたものの、やはり響くのは無機質なアナウンスだけだった。(事故にでも巻き込まれたかしら……?)
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第4章:004

 男は憔悴しきっていた。「ねえ、あなた――」 声をかけた瞬間、男は弾かれたように背を向け、早足でその場を立ち去った。 橘は追わなかった。 不審な動きをする男を追いかけることよりも、今は渚の身の安全を確かめる方が先決だ。 渚の恋人が会社の前で張り付いていたということは、彼もまた渚と連絡が取れていない証拠。何かしらの理由で会えず、ここへ探しに来たのだ。「一度も喧嘩をしたことがないんです」とはにかんでいた彼女に、決定的な何かが起きたのは間違いなかった。 胸を突く嫌な予感を振り払うように、橘は社員駐車場へと急ぎ、愛車のステアリングを握った。エンジンをかけ、手元の住居変更届に書かれた新しい住所へと車を走らせる。 到着した先の閑静なマンションを見上げ、オートロックのインターホンで渚の部屋番号を押す。 ピンポーン、と電子音が響く。だが、いくら待っても応答はない。(やっぱり……恋人が会社まで探しに来るくらいだもの、ここにいるはずがないわよね……) 静まり返ったエントランスで、橘は深く溜息を吐いた。携帯を取り出し、再度渚へ発信してみるが、やはり「電源が入っていない」というガイダンスが流れるだけだ。 新居にいない、職場にも来ていない、恋人も居場所を把握していない。 橘は手にしたままの住居変更届に記載された旧住所の欄へ視線を落とした。「……前の住所に行ってみようかしら」 橘は再び自分の車に乗り込み、アクセルを踏み込んで、渚がかつて過ごしていた場所へと車を走らせた。 ※  女性専用のそのマンションに着き、エントランスで管理人に事情を伝えてみる。「相良さんが会社に来なくて、探しているんですけれど……」 だが、管理人は橘をあからさまに怪訝な顔で見つめ、素っ気なく手を振った。「引っ越した人間が戻ってくるわけないでしょう。これ以上うろつかれると困ります」 まるで不審者扱いだ。冷たく突き放され、橘はそれ以上何も言えずに引
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第4章:005

 「ここにいると駐車場代馬鹿にならないわよ。どっか移動しましょう?」「……ガソリンが、もう入ってないんです」「そうなのね。じゃあ、私の車で帰りましょう。車のことは後で考えましょうよ」 少しトーンを落とした橘の言葉に、暫くして、渚はおずおずと車のドアを開けた。 車から降りてきた渚を見て、橘はすかさず自分が着ていた厚手のコートを脱ぎ、彼女の小さくなった肩へかけた。「寒いでしょ」 言いながら、コートの隙間から覗く渚の服に目が留まる。首元から肩にかけて、シャツが破れ、引き裂かれていた。 橘は声を出す前に、一拍だけ息を止めた。だがすぐに、何でもないようにして穏やかな声を作った。「帰りましょう」「……帰る家が、ない……」 消え入りそうな声で、渚がぽつりと呟いた。「実家は?」「……遠い……」「友達は?」「綾乃は……彼氏と同棲してて……結婚前だから、迷惑かけたくない……」 途切れ途切れに答える渚の横顔に、橘は深い溜息を飲み込んだ。不器用で、どこまでも人に迷惑をかけまいと抱え込むこの子の癖が、胸を締め付ける。「むさ苦しくなければ、うちくる? セキュリティはしっかりしてるから。部外者は絶対に入れないわよ」「でも、迷惑じゃ……」「迷惑なんて思わないで。うち、部屋が余ってて埃被っちゃってるから、使ってほしいのよ。渚ちゃんがうちに来るんだったら、勿論掃除はするわよ?」「……えっ」「だから、一緒に掃除しましょ?」 橘は悪戯っぽく微笑み、怯える渚の緊張を解きほぐすように優しく語りかけた。「ほら、埃まみれの部屋に置くわけにはいかないじゃない?今日は月曜日だから、私のパートナーも休みでうちにいるの。三人でパパッとやっちゃい
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第4章:006

  ※ 橘がパートナーと住むマンションの一室は、男性二人が住んでいるとは思えないほど整理整頓されていた。 橘から案内された空き部屋は、無駄なものが一切置かれておらず、生活感を隠した整然としたレイアウト。フローリングはピカピカに磨き上げられ、橘の言う「埃を被っている」という言葉が完全に嘘だと分かるほどの手入れの行き届きようだった。(こんなに片付いていて綺麗な部屋に、私みたいな人間が入っていいのかな) 橘に案内されたものの足が竦んで、一歩進まない。そんな渚を橘は急かすことなく、ただ、優しく背中を押しただけだった。「外は寒かったでしょ? 温かい飲み物を用意するから部屋で待っててちょうだい」 部屋の真ん中に置かれた大きなビーズクッション。自分のためにわざわざリビングかどこかから運んできてくれたのだろうか、と渚は思った。 用事を終えてリビングへ戻ろうとする橘の背中に、渚は慌てて声をかけた。「すみません……っ」 申し訳なさに胸が押し潰されて、掠れた声で謝ると、橘は足を止めて振り返り、優しく目を細めた。「こういう時は、お礼を言うのよ」「あ……あ、ありがとうございます……」 ぎこちなく言い直すと、橘はにこっと温かく微笑んだ。「どういたしまして」 橘が去った後、ドアの向こうのリビングから微かに話し声が漏れ聞こえてきた。橘のパートナーである和樹には、玄関で招き入れられた時に挨拶をしたきりだ。余計な負担や気まずさを与えないよう、あえて距離を置いてくれているのだろう。本当なら保護されている自分が一番気を遣わなければいけないのに、と胸が痛む。 暫くすると、橘が湯気の立つマグカップを手に戻ってきた。 ビーズクッションの前に直接床にへたり込んでいる渚を見つけると、橘はふっと眉を下げた。「そんなところにいたら腰が痛くなっちゃうわよ? ほら、座りなさいな」 柔らかい声音ながらも有無を言わせない響きに促され、渚はおずおずとビーズクッションに身体を預
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第4章:007

  ※ 窓から差し込む朝の光の中、真央はソファに深く腰掛け、手にしたカップから立ち上るコーヒーの香りをゆっくりと楽しんでいた。 朝の静寂を切り裂くように、一階のオートロックのインターホンが甲高い音で鳴り響いた。苛立ちと焦燥を隠そうともしない、激しい連打だ。 真央は急ぐ様子もなくソファから立ち上がり、壁のモニターへと近づいた。 小さな画面の中に映っていたのは、髪を乱し、血の走った瞳でカメラを睨みつけながら狂ったようにボタンを押し続ける玲の姿だった。 真央の口元が、歪んだ愉悦とともに醜く吊り上がった。 ※ 真央の部屋の前へと駆け上がった玲は、玄関のインターホンをも乱暴に連打した。 ガチャリ、と鍵の回る無機質な音が聞こえた瞬間、扉が完全に開くのを待ちきれず、玲は力任せにドアを押し開けた。「貴様……っ!!」 目の前に立った真央の細い首へ、玲は右手を伸ばし、容赦なく掴みかかった。背後でバタンと重いドアが閉まる音など、耳に入りもしない。 そのまま抵抗する隙も与えず真央の身体を廊下の奥へと押しやり、リビングへと強引に引き摺り込む。フローリングの上に叩きつけるように倒すと、玲はその上に跨がり、両膝で彼女の身体を抑え込んだ。「なんで、動画を送りつけたんだ!」 血走った目で真央を見下ろし、声を荒げて責め立てる。だが、首を絞められ息を詰まらせながらも、真央の瞳には怯えの色など微塵もなかった。「一体、いつ撮ったんだよ!」 渚に突き出された画面に映し出されていた自分の姿は、人の皮を被った化け物だった。「なんで、あんな真似をした……っ!」 醜悪で救いようがない自分を知られてしまった。誰よりも綺麗で愛しい女性に。 玲は真央の首から手を離し、震える手で頭を抱え込む。渚に何度電話しても機械的なアナウンスが流れるだけで繋がらなくなった。あれは電源が切れたのではなく、彼女が自分を拒否して、携帯電話の電源を落としたのではないか。声も聞きたくないという意思表示じゃなかろうか。それとも、
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第4章:008

  ※ ※ ※ 朝の澄んだ光がカーテンの隙間から漏れ、ベッドの上に微かな黄金色の筋を落としていた。 真央は静かにベッドから身を起こし、隣で静かな寝息を立てる玲の寝顔を見つめた。 木曜日の夜に訪れ、暗闇の中で激しく身体を重ね、一度も夜を越すことなく背を向けて去っていく――それがこれまでの彼だった。だが今、目の前に広がるのは、初めて一緒に迎えた朝の光景。(あたしは、この朝日を見るために今まで耐えてきたのかもしれない……) 胸の奥が熱く震えた。 あの女を捨て、ついに玲はあたしを選んだのだという優越感と歓喜が、全身を駆け巡る。 真央は静かにベッドを抜け出すと、足音を殺してキッチンへ向かった。 ルンルンと軽やかな足取りでフライパンを火にかけ、朝食を用意する。やがて、寝室から足音が聞こえ、髪を乱した玲が呆然とした様子で姿を現した。「おはよう、玲。ご飯できたよ」「……食欲ない」 掠れた声で拒む玲に、真央は甘えるように、けれど強く言った。「食べてよ、お願い。せっかく作ったんだから」 玲は無言のまま椅子を引き、弱々しく箸を動かし始めた。 自分の部屋で、自分の作った朝食を玲が食べている。向かい合って過ごすこの時間が、あまりにも幸福で真央の胸を満たした。 食後、真央がキッチンに立ち、水道の水を流して皿を洗い始めた時だった。 背後に人の気配が迫り、温かい体温が背中に密着した。「玲?」 首筋に熱い息が吹きかけられ、玲の手が真央の腰を抱き寄せる。早朝のキッチンでの行為なんて、これまで一度もなかった。嬉しさで胸が高鳴る。「……仕事、あるんじゃないの?」 首筋に吹きかかる熱い吐息に身を捩らせながら、真央は上擦った声で呟いた。 本心では、絶対に止めてほしくなんてなかった。玲の体温が、その大きな手が自分に触れているという奇跡を少しでも長く味わっていたい。けれど、わざと彼の予定を気にするような仕草をして、大人の余裕を見せようと
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第4章:009

 ※ ※ ※ 橘のマンションの空き部屋で、渚は携帯電話の充電ケーブルを繋いだ。 充電が完了し、渚が電源を入れると、画面が明るくなると同時に、留守番電話の通知とメッセージの連投が一気に押し寄せてくる。『ごめん』『俺が悪かった』『襲ったりしない』『お願いだから話をさせて』『渚がいなきゃダメなんだ』 最初は謝罪だった文章は、次第に支離滅裂なものへと変わっていた。留守電には『渚がいなきゃ生きていけない』という切実な声、そして『どこにいるの』『いつ帰るの』『一緒に……』という錯乱した声だけが残されていた。 橘は会社へ「渚は体調不良」と手際よく連絡を入れてくれた。 橘とパートナーの和樹が仕事で出かけた日中、渚は広い部屋で一人佇んでいた。二人の住まいはシンプルで物が少ないものの、長年培われた温かい絆と物語が確かにそこに漂っている。(あそこも……私と玲の家も、こうなるはずだったのに……) 二人で紡ぐはずだった未来を思い出し、胸が押し潰されそうになる。それでも、夜に三人で食卓を囲む時間だけは、不思議と恐怖や不安が和らいでいた。 スマホの充電が戻って以降、玲からの連絡はぴたりと途絶えていた。(もし、また連絡が来たら……私はどうすればいいんだろう。出るべきなのかな……それとも……) 着信拒否はできなかった。 それをしてしまえば、玲と過ごした楽しかった思い出を全て否定してしまいそうで……確かにあの時間は本物だったはずだから。 ブブッ、と手元で端末が小さく震え、渚は肩を揺らした。だが、画面に表示されたのは玲ではなく、カレンダーアプリの通知だった。『メンタルクリニック カウンセリング』 二日後の予定を知らせる通知だった。(私は……これに行く必要、あるのかな……) 自分の問題を、
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第4章:010

 ※ ※ ※ 月曜の夕方。 渚は駐車場に向かいながら、今日の出来事を思い出していた。 久し振りに出社すると、みんなが「大丈夫?」「無理しないで」と優しく声をかけてくれた。皆の優しさをすんなり受け入れることができたのは、橘と和樹の自宅で二人が自分を受け入れてくれたからだ。お客様としてではなく、その場の一員として自然に接してくれた二人の温もりが、傷ついた渚の心にじんわりと溶け込み、癒してくれたからだった。 それに、橘が「無理は禁物よ」と手際よくフォローを入れてくれたおかげで、無事に一日を乗り切ることができた。「私たち、別々に帰りましょ。一緒のところに帰ってるなんて知られたら噂がたっちゃうから」 深刻そうに小声で囁いてきた橘。渚は小さく頷いた。「……って、これってまるで、オフィスラブ漫画でよくあるシーンね!」 キャッキャッと笑った橘を見て――渚も一緒になって笑う――そんな一幕を思い出して渚は自然と笑みを零した。 そんな楽しい一日だったけど――それでも、不意に思い浮かんでしまう。(本当に……大丈夫なのかな) 橘や同僚たちの優しさに守られながらも、ふとした静寂が訪れるたび、脳裏には玲の姿が脈絡もなく浮かび上がってくる。 充電器を繋いだ直後に押し寄せてきた、あの支離滅裂で狂気すら孕んだメッセージや留守電の束。それきり、玲からの連絡はぴたりと途絶えていた。 あれほど毎日のように途切れることなく届いていたメッセージは急に静まり返っている。 着信がない画面を見つめるたび、胸の奥がざわりと嫌な波を立てた。 連絡がないのは望ましいはずなのに、それが解放なのか、それとも嵐の前触れなのか判断がつかない。(私が逃げ出しておいて、こんなこと考えるなんておかしいよね……) もしかしたら、自暴自棄になって何か恐ろしい行動に出ているのではないか。あるいは、自分の知らないところで何か良くないことが起きているのではないか。 一瞬でもそんな心配が過るたび、書類をめくる手がぴたりと止まり、強い
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第4章:011

  ※  駐車場を出た二人は、近くの喫茶店へと向かい、向かい合って席に着いた。 運ばれてきた湯気の立つホットコーヒーに、真央は優雅に手を伸ばす。カップを唇へと運ぶその一連の動作すら、無駄がなく洗練されていて、まるで一枚の絵のように様になっていた。 渚は手元に置かれたカップに一度も触れることなく、ただ無言で真央の様子をじっと見つめていた。(あの動画に映っていた女性――玲の中学時代からの、セックスフレンド) 現実で起きていることなのに、まるで夢を見ているような錯覚があった。でも、確かに目の前に立ち上るコーヒーの湯気とその香りが現実だと知らせてくる。「渚ちゃん」 真央が、親しげに名前を呼んだ。渚は背筋を強張らせ、押し殺した声で返す。「私、あなたのこと知らないです」「ふふっ」 思わずといった様子で、真央が低く可憐に笑い声を漏らした。「知らない、かぁ」 真央は静かにカップを置いた。「ほんっとうに面白いくらい、二人ともお互いしか見てなかったものね」 渚には聞き取れないほど小さな声で、真央は呟いた。 一瞬だけ口元に掠めた自嘲の色彩は、瞬く間に消え去り、真央は再び完璧に作り込まれた笑顔に戻る。「私、真央っていうの。村上真央」 村上真央――名前を聞いても、渚の頭の中には何も浮かんでこなかった。記憶の引き出しをいくら手探りで探っても、その名に結びつく影はどこにも見当たらない。 当惑しながら必死に記憶を辿る渚の視線を正面から受け止め、真央はどこか楽しそうに首を傾げた。「玲の席の後ろに座っていたの。私たち、小学二年生の夏まで同じクラスだったのよ?」 真央はくすりと笑い、試すような視線を向けたまま言った。「相良さんは忘れたい頃の記憶だから、私のことも記憶から消しちゃった?」 渚は小さく息を呑み、そのまま全身の血が引いていく感覚に襲われた。 忘れたい頃の記憶など、人生でただ一つしかない。思い出すだけで吐き気がこみ上げ、意識が遠のきそうになる悲劇の記憶。『相良渚』そのも
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第4章:012

  ※ 橘のマンションに戻った渚は、玄関の鍵を開けることすらままならなかった。震える指先が鍵穴を捉えられず、何度も鍵を取り落としてしまう。 ここまでどうやって帰ってきたのか、自分でも覚えていない。「渚ちゃん、お帰りー。今日はハンバーグだよ」 そう声を上げながら、ようやく開いたドアの向こうで和樹がリビングから顔を出す。「渚ちゃん……?」 声をかけられても、渚は靴も脱がずに玄関に立ち尽くしたままだった。血の気の失せた顔、震える肩。ただごとではない気配に、和樹はすぐさま橘を呼んだ。「涼、ちょっと来て」 キッチンから出てきた橘は、渚の顔を見た瞬間、表情を変えた。「渚ちゃん、大丈夫? 座って」 半ば抱えるようにして、渚をリビングのソファへ導く。渚は言われるがまま座ったものの、視線は宙を彷徨ったままだった。「……何があったの?」 橘の問いに、渚は暫く答えられなかった。唇を開いても、言葉にならない。「あの……」 やっとのことで、掠れた声が漏れた。「知らない女の人に……会社の駐車場で、声をかけられて……」 そこまで絞り出すと、喫茶店で真央から聞かされた言葉の数々が、濁流となって渚の脳内に溢れ出した。一度開きかけた栓が弾け飛び、感情を制御することができなくなる。「玲は……私に気を遣ってて……っ、ずっと……トラウマ持ちの私を……どう扱っていいか悩んでて……っ。愛だと思ってたのに……ただの遠慮で……重荷だったの……っ」 ボロボロと大きな粒の涙が零れ落ち、渚の頬を濡らしていく。呼吸が乱れ、過呼吸のような激しい喘ぎに胸が大きく上下した。「私のせいで…
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