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橘がパートナーと住むマンションの一室は、男性二人が住んでいるとは思えないほど整理整頓されていた。
橘から案内された空き部屋は、無駄なものが一切置かれておらず、生活感を隠した整然としたレイアウト。フローリングはピカピカに磨き上げられ、橘の言う「埃を被っている」という言葉が完全に嘘だと分かるほどの手入れの行き届きようだった。(こんなに片付いていて綺麗な部屋に、私みたいな人間が入っていいのかな) 橘に案内されたものの足が竦んで、一歩進まない。そんな渚を橘は急かすことなく、ただ、優しく背中を押しただけだった。「外は寒かったでしょ? 温かい飲み物を用意するから部屋で待っててちょうだい」 部屋の真ん中に置かれた大きなビーズクッション。自分のためにわざわざリビングかどこかから運んできてくれたのだろうか、と渚は思った。 用事を終えてリビングへ戻ろうとする橘の背中に、渚は慌てて声をかけた。「すみません……っ」※ ※ ※ 深い闇の底で、懐かしい匂いがした。 五歳の玲は母親に手を繋がれ、見知らぬ建物の前で足を止める。引っ越してきたばかりの町の保育園。周囲にはみたこともない大人と、知らない子供たちが走り回っていた。 嫌だ、と幼い玲は心の中で叫んだ。母親の足にがむしゃらに抱きつき、泣き叫ぶ。けれど母親は、困った顔をしながら玲の手を強引に引き剥がした。「玲くん、今日からよろしくね」 知らない大人が、抵抗する玲を軽々と抱き上げた。 離れていく母親の背中。何度も振り返り、悲しそうな、申し訳なさそうな顔を玲に向けている。(あんな顔をするくらいなら――連れて行ってよ!) 玲は必死に手を伸ばし、声が枯れるほど叫び続けた。だが、自分を抱える腕はびくともしない。母親の姿はどんどん小さくなり、やがて角を曲がって消えてしまった。 見知らぬ大人は、嫌がる玲を容赦なく建物の中へと連れ込んでいく。 ドアを一枚隔てた途端、何十人もの子供たちの甲高い歓声や泣き声、足音が耳を刺した。色鮮やかで、目まぐるしく、あまりにもうるさい世界。玲はその暴力的とも言える喧騒の中に、ぽつんと一人で置き去りにされた。 置き去りにされた恐怖で、玲は部屋の隅へ逃げ込んだ。膝を抱え、小さくなって息を潜める。誰も自分を見ないでくれと祈りながら、みんなの輪から遠く離れていた。「こんにちは」 頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。 玲が涙目で、おずおずと顔を上げると、そこに一人の女の子が立っていた。 ふたつに結んだ短い髪。大きな瞳。そして何より、頬に深く刻まれたえくぼが強く印象的だった。吸い込まれそうなその瞳に見つめられ、幼い玲は瞬きすら忘れる。「いまね、おままごとのワンちゃんやくがいないの」「わんちゃん……」「ねえ、きて」 小さな手にぐいっと腕を引っ張られる。 その温もりに導かれるまま立ち上がると、視界がぐにゃりと歪み、室内の風景が光の中に溶けていった。 ――気がつくと、大人の玲は眩しい太陽が照りつける保育園の庭に立っていた。
パニックの最中に口走った支離滅裂な言葉たち――何か取り返しのつかない、とんでもないことを言った気がする。「ごめんなさ、」「謝らなくていいの」 すまなそうに身を縮める渚の言葉を遮り、橘は静かに、けれど包み込むような温かい声で言った。「誰も渚ちゃんを責めないし、ここで何を吐き出したっていいのよ」 和樹が手渡してくれた温かいタオルを、橘は渚の震える手にそっと握らせる。じんわりとした温もりが、冷え切っていた指先に少しずつ感覚を取り戻させてくれた。「渚ちゃん」 橘は一度息を整えると、真剣な、それでいてどこか頼もしい眼差しで渚をまっすぐに見つめた。「これからは、一緒に出勤しましょう」「え……?」「その女性がまた現れないとも限らないし、会社の行き帰りも一人にさせないわ。明日から行きも帰りも、私と和樹が一緒だから」 和樹も深く頷き、渚の目線に合わせて優しく微笑みかけた。「うん。車も僕たちが一緒に乗っていくか、橘の車で送迎するよ。渚ちゃんが一人で抱え込む必要なんて、どこにもないんだからね」 二人は、渚が何に傷つき、過去に何があったのかについて一切踏み込んでこなかった。真央の言葉の真偽を問い詰めることも、安易に取り繕って渚の感情を否定することもしない。 ただ、今の渚を脅かす外敵から守るということ。そして、当たり前のように彼女の居場所をここに繋ぎ止めてくれるということ。その徹底した線引きと深い逞しさが、渚の荒み切った心を包んでいく。 でも、上司にそこまで甘えていいものか――……。「私、車があるし」「素直に受け入れなさい!」「あ、でも……」 橘に一蹴されても、渚はなおも縮こまったまま口ごもる。上司カップルの好意にこれ以上甘えるのは心苦しく、申し訳なさがどうしても勝ってしまうのだ。「一人にさせるほうが僕たち心配なんだよ」 和樹が困ったように、けれどどこまでも温かい眼差しで諭すように言った。「でも、一緒に出勤と帰宅してたら、みんなか
※ 橘のマンションに戻った渚は、玄関の鍵を開けることすらままならなかった。震える指先が鍵穴を捉えられず、何度も鍵を取り落としてしまう。 ここまでどうやって帰ってきたのか、自分でも覚えていない。「渚ちゃん、お帰りー。今日はハンバーグだよ」 そう声を上げながら、ようやく開いたドアの向こうで和樹がリビングから顔を出す。「渚ちゃん……?」 声をかけられても、渚は靴も脱がずに玄関に立ち尽くしたままだった。血の気の失せた顔、震える肩。ただごとではない気配に、和樹はすぐさま橘を呼んだ。「涼、ちょっと来て」 キッチンから出てきた橘は、渚の顔を見た瞬間、表情を変えた。「渚ちゃん、大丈夫? 座って」 半ば抱えるようにして、渚をリビングのソファへ導く。渚は言われるがまま座ったものの、視線は宙を彷徨ったままだった。「……何があったの?」 橘の問いに、渚は暫く答えられなかった。唇を開いても、言葉にならない。「あの……」 やっとのことで、掠れた声が漏れた。「知らない女の人に……会社の駐車場で、声をかけられて……」 そこまで絞り出すと、喫茶店で真央から聞かされた言葉の数々が、濁流となって渚の脳内に溢れ出した。一度開きかけた栓が弾け飛び、感情を制御することができなくなる。「玲は……私に気を遣ってて……っ、ずっと……トラウマ持ちの私を……どう扱っていいか悩んでて……っ。愛だと思ってたのに……ただの遠慮で……重荷だったの……っ」 ボロボロと大きな粒の涙が零れ落ち、渚の頬を濡らしていく。呼吸が乱れ、過呼吸のような激しい喘ぎに胸が大きく上下した。「私のせいで…
※ 駐車場を出た二人は、近くの喫茶店へと向かい、向かい合って席に着いた。 運ばれてきた湯気の立つホットコーヒーに、真央は優雅に手を伸ばす。カップを唇へと運ぶその一連の動作すら、無駄がなく洗練されていて、まるで一枚の絵のように様になっていた。 渚は手元に置かれたカップに一度も触れることなく、ただ無言で真央の様子をじっと見つめていた。(あの動画に映っていた女性――玲の中学時代からの、セックスフレンド) 現実で起きていることなのに、まるで夢を見ているような錯覚があった。でも、確かに目の前に立ち上るコーヒーの湯気とその香りが現実だと知らせてくる。「渚ちゃん」 真央が、親しげに名前を呼んだ。渚は背筋を強張らせ、押し殺した声で返す。「私、あなたのこと知らないです」「ふふっ」 思わずといった様子で、真央が低く可憐に笑い声を漏らした。「知らない、かぁ」 真央は静かにカップを置いた。「ほんっとうに面白いくらい、二人ともお互いしか見てなかったものね」 渚には聞き取れないほど小さな声で、真央は呟いた。 一瞬だけ口元に掠めた自嘲の色彩は、瞬く間に消え去り、真央は再び完璧に作り込まれた笑顔に戻る。「私、真央っていうの。村上真央」 村上真央――名前を聞いても、渚の頭の中には何も浮かんでこなかった。記憶の引き出しをいくら手探りで探っても、その名に結びつく影はどこにも見当たらない。 当惑しながら必死に記憶を辿る渚の視線を正面から受け止め、真央はどこか楽しそうに首を傾げた。「玲の席の後ろに座っていたの。私たち、小学二年生の夏まで同じクラスだったのよ?」 真央はくすりと笑い、試すような視線を向けたまま言った。「相良さんは忘れたい頃の記憶だから、私のことも記憶から消しちゃった?」 渚は小さく息を呑み、そのまま全身の血が引いていく感覚に襲われた。 忘れたい頃の記憶など、人生でただ一つしかない。思い出すだけで吐き気がこみ上げ、意識が遠のきそうになる悲劇の記憶。『相良渚』そのも
※ ※ ※ 月曜の夕方。 渚は駐車場に向かいながら、今日の出来事を思い出していた。 久し振りに出社すると、みんなが「大丈夫?」「無理しないで」と優しく声をかけてくれた。皆の優しさをすんなり受け入れることができたのは、橘と和樹の自宅で二人が自分を受け入れてくれたからだ。お客様としてではなく、その場の一員として自然に接してくれた二人の温もりが、傷ついた渚の心にじんわりと溶け込み、癒してくれたからだった。 それに、橘が「無理は禁物よ」と手際よくフォローを入れてくれたおかげで、無事に一日を乗り切ることができた。「私たち、別々に帰りましょ。一緒のところに帰ってるなんて知られたら噂がたっちゃうから」 深刻そうに小声で囁いてきた橘。渚は小さく頷いた。「……って、これってまるで、オフィスラブ漫画でよくあるシーンね!」 キャッキャッと笑った橘を見て――渚も一緒になって笑う――そんな一幕を思い出して渚は自然と笑みを零した。 そんな楽しい一日だったけど――それでも、不意に思い浮かんでしまう。(本当に……大丈夫なのかな) 橘や同僚たちの優しさに守られながらも、ふとした静寂が訪れるたび、脳裏には玲の姿が脈絡もなく浮かび上がってくる。 充電器を繋いだ直後に押し寄せてきた、あの支離滅裂で狂気すら孕んだメッセージや留守電の束。それきり、玲からの連絡はぴたりと途絶えていた。 あれほど毎日のように途切れることなく届いていたメッセージは急に静まり返っている。 着信がない画面を見つめるたび、胸の奥がざわりと嫌な波を立てた。 連絡がないのは望ましいはずなのに、それが解放なのか、それとも嵐の前触れなのか判断がつかない。(私が逃げ出しておいて、こんなこと考えるなんておかしいよね……) もしかしたら、自暴自棄になって何か恐ろしい行動に出ているのではないか。あるいは、自分の知らないところで何か良くないことが起きているのではないか。 一瞬でもそんな心配が過るたび、書類をめくる手がぴたりと止まり、強い
※ ※ ※ 橘のマンションの空き部屋で、渚は携帯電話の充電ケーブルを繋いだ。 充電が完了し、渚が電源を入れると、画面が明るくなると同時に、留守番電話の通知とメッセージの連投が一気に押し寄せてくる。『ごめん』『俺が悪かった』『襲ったりしない』『お願いだから話をさせて』『渚がいなきゃダメなんだ』 最初は謝罪だった文章は、次第に支離滅裂なものへと変わっていた。留守電には『渚がいなきゃ生きていけない』という切実な声、そして『どこにいるの』『いつ帰るの』『一緒に……』という錯乱した声だけが残されていた。 橘は会社へ「渚は体調不良」と手際よく連絡を入れてくれた。 橘とパートナーの和樹が仕事で出かけた日中、渚は広い部屋で一人佇んでいた。二人の住まいはシンプルで物が少ないものの、長年培われた温かい絆と物語が確かにそこに漂っている。(あそこも……私と玲の家も、こうなるはずだったのに……) 二人で紡ぐはずだった未来を思い出し、胸が押し潰されそうになる。それでも、夜に三人で食卓を囲む時間だけは、不思議と恐怖や不安が和らいでいた。 スマホの充電が戻って以降、玲からの連絡はぴたりと途絶えていた。(もし、また連絡が来たら……私はどうすればいいんだろう。出るべきなのかな……それとも……) 着信拒否はできなかった。 それをしてしまえば、玲と過ごした楽しかった思い出を全て否定してしまいそうで……確かにあの時間は本物だったはずだから。 ブブッ、と手元で端末が小さく震え、渚は肩を揺らした。だが、画面に表示されたのは玲ではなく、カレンダーアプリの通知だった。『メンタルクリニック カウンセリング』 二日後の予定を知らせる通知だった。(私は……これに行く必要、あるのかな……) 自分の問題を、
(あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある
渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ
滑らかな肌、掌に吸い付く肌触り。 躰の線を指先で撫でれば、小刻みに震え、甘い吐息を漏らす愛しい人。 宮原玲はフェザータッチから徐々に手の動きを大胆にしていき、大きな掌で、薄い腹に触れた。 その手に驚いたのか、玲の下にいる相良渚の腰が跳ねた。 玲は渚の反応にすぐに手を止めた。 両眉を八の字に下げて、彼女を心配そうに見下ろす。渚は頬を赤く染め、瞳が潤んでいた。 「ごめん、驚かせた。大丈夫?」 答えの代わりに、渚は玲の背中に手を回した。遠慮がちに触れるだけ――爪を立ててくれても良いのに。血が出るほど、消えない痕を残
※ 玲が渚と初めてセックスしたのは、高校三年生のクリスマスイヴだった。 渚が手編みのマフラーをくれた。「重いよね、ごめんね」と謝った渚に、強く首を振った。渚は知らない。玲にとって、渚から貰えるなら何でも嬉しいことを。 (あのマフラーは今でも使っている) 解れるたびに渚が手直しをしてくれる。冬になると、渚に毎日抱きしめられているような気分になる。 (あのデートも、セックスも、全部覚えてる) ――こんな、安っぽいホテルではなかったのは確かだ。 消毒液の匂いが混じったラブホテルの室内。 「ほら、ちゃんと力抜いて」 優しく言っている筈なのに、声は低く、逃げ道を塞ぐ響きを持っていた







