Semua Bab 壊したいほど好きだから、: Bab 81 - Bab 90

112 Bab

第2章:012

 ※ 真央の最奥で熱を吐き出すと同時に、真央も甲高い絶頂の悲鳴をあげて玲の上で小さく体を跳ねさせた。 真央の体は、びくびくと痙攣しながら玲を締めつけ、余韻に浸ろうとしていた。だが玲は、その余韻を一切楽しむ暇すら与えず、萎えかけたペニスを無造作に引き抜くと、真央の体を粗雑にベッドへと押し払った。 シーツの上に投げ出された真央には見向きもせず、玲は射精直後の熱も引かぬまま荒い息を吐き出し、ベッドの端に腰掛けた。 床に転がっていた携帯を拾い、画面を点けた瞬間、玲の顔からすうっと血の気が引いた。 渚からの不在着信。そして、画面を埋め尽くす何通ものメッセージ。『玲、まだ会社?』『電話出ないから心配……』『玲の会社の方に行ってみるね。何かあったの?』 最後のメッセージが送信された時刻は、一時間以上も前だった。(な……っ!?) 青褪めたまま、玲は急いで渚に電話をかけた。 しかし、耳に届いたのはコール音ではなく、音声ガイダンスだった。『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』「……っ!?」(渚が、夜の街に一人で出て行った……!?) 繋がらない。 既読もつかない。 パニックを起こした玲の脳裏に、渚との約束を破って公園に行かなかった記憶がフラッシュバックする。(渚に何かあったんじゃ) 玲が約束を破ったせいで、一人にされた渚は、その帰り道に事件に遭った――また、同じようなことが起きたのでは――……。 夜の街で何か危険な目に遭っていたら? 昔みたいに男に襲われていたら? 事故に巻き込まれていたら――?(俺のせいだ、俺のせいだ、俺のせいだ! 渚に何かあったら、俺は生きていけない……っ!!)「玲? どうしたの急に――」 隣で体を起こした真央の存在など、玲の視界には
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第2章:013

 ※ 玲は、真央のマンションを出てから自分の会社へ向かった。外から見たビルは真っ暗で、誰かが残っているようには見えず、周囲に渚の車らしきものは見当たらなかった。 玲は指先が白くなるほど強くハンドルを握り、次は自分のマンションへ向かった。 玲のマンションの駐車場には、渚の車は停まっていなかった。だが、部屋にいるかもしれないという望みをかけて、エレベーターに乗り込んだ。「渚!」 渚の名前を叫びながら、玲は自分のマンションに戻ったが、案の定ここにも彼女の姿はなかった。 ダイニングテーブルには、コンビニの袋が置いてあった。中身はコンビニのシュークリームとプリン――渚が俺のために買ってきてくれたものだと悟った玲は、痛みに胸を掻きむしった。 車を飛ばして渚のマンションへ向かったが、彼女の部屋の明かりは消えており、車もない。女性専用マンションのため中に入ることも出来ず、玲は何度も何度も繋がらない電話をかけ続けた。「出ろ……頼むから出てくれ渚……っ!」 雨が降り出しそうな暗い夜の街を、玲は警察に駆け込もうかと思い詰めながら走り回った。自分が身勝手な嫉妬で真央のところへ行ったせいで、大切な渚を失ってしまう。後悔と恐怖で頭がおかしくなりそうだった。 深夜二時を過ぎていた。 万策尽き、藁にもすがる思いで玲は自分のマンションへと戻ってきた。マンションの駐車場の来客用スペースには車が停まっていたものの、渚の車ではなかった。 玲は車を降りて、震える指で渚の携帯に電話をかけた。 電話からは変わらず音声ガイダンスしか流れず、メッセージには既読もつかない。 この寒空の下、渚がどこかで傷ついて震えていたら――嫌な想像ばかりが玲の脳裏に浮かんでは消え、また新たな想像が浮かんでは消える。それを延々と繰り返していた。(警察に電話しよう) 玲が「110」の最後の「0」を押す寸前、玲の大好きな声が耳に飛び込んできて、彼は動きを止めた。「玲?」 玲が顔を上げると、目の前に立っていたのは――渚だった。「近くのコイン
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第2章:014

  部屋に入り、ドアを閉めた後も、玲の拘束のような抱擁は解けなかった。 エレベーターの中でも、共用部の廊下でも、玲は渚の腰に廻した腕に力を込めたまま片時も離れようとはしなかった。一瞬でも指を離せば、そのままどこかへ消えてしまいそうな恐怖に耐えかねるように。「……玲? もう大丈夫だから……ね?」 玄関で靴を脱ぐ時すら身体を密着させてくる玲に、渚は優しく声をかけながら、彼の背中を宥めるように撫でた。「本当に……無事でよかった」 掠れた声で何度も呟きながら、玲はようやく渚の身体から腕を解いた。 片時も離れたくない。このまま渚をベッドへ引きずり込み、朝が来るまでその温もりに縋りついていたい――けれど、いまの己の身には不貞の痕跡が残っている。 この汚らわしい身体のまま、渚と同じベッドに入るわけにはいかなかった。「……シャワー浴びてくるね」「うん。温まってきてね。私、お茶でも淹れて待ってるから」 渚の柔らかい微笑みに背を向け、玲は脱衣所へと駆け込んだ。 服を脱ぎ捨て、浴室に足を踏み込む寸前――洗面台の鏡に映った己の姿が、視界の端に入った。 鏡に映る、胸に残った赤い傷痕から――玲は視線を逸らした。 ※ ※ ※ 翌朝。 玲が目を覚ますと、隣のシーツはすでに冷たくなっていた。「……渚?」 瞬時に跳ね起き、嫌な汗が背中を伝う。 消えてしまったのではないかという恐怖に突き動かされ、寝室を飛び出した。「渚……っ!」 焦燥感を露わにして廊下を走り抜けると、明るい陽光が差し込むリビングの向こう、キッチンにその姿があった。 エプロン姿の渚が、フライパンからお皿へと綺麗にスクランブルエッグを移しているところだった。「玲、おはよ」 振り返った渚の柔らかい笑顔を見た瞬間、玲の身体から一気に緊張が抜けた。
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第2章:015

 玲は朝食後も渚にべったりくっついていたのだが、「出掛ける準備をするから、待っていて」と言われてしまった。子供に諭すような、優しい声音ではあったのだが、彼女の姿が見えないことに不安を覚えた玲は、着替えが終わるまで寝室のドアの前から動かなかった。「渚、いる?」「いるよ。神隠しじゃないんだから、消えたりしないよ」 ドア越しから渚の笑い声に混じって、衣擦れの音が微かに玲の耳へ届いた。(このドアを蹴破って……渚を襲ってしまおうか) ちょうど、ベッドがある。 そのベッドに渚を押し倒して、服をひん剥いてしまおうか――そんな考えが脳裏に浮かんだ。 だが、玲は頭を振った。(いや、今日はカーテンを買いに行くのが先決だ) 渚の身体を暴くよりも、玲にとって、渚と選んだカーテンを二人の空間に飾ることの方が大切だった。渚を繋ぎ止めておきたくて、先走って家具や家電を買い揃えてしまったことが何よりも悔やまれる。一緒に並んで、「これがいい」「あれがいい」「これはちょっと嫌だな」、そういった会話ができたかもしれないのに。 ガチャっ、とドアノブが回っているのに気付いて、玲はドアから離れた。ゆっくりとドアが開き、そこから姿を現した渚に見惚れてしまう。 渚は、玲の視線に気付いて照れながら俯いた。そして、渚が履くには珍しい、ラベンダー色のロングスカートの裾を摘まんでみせた。 その拍子に、渚の白い足が玲の目に晒されて、彼の喉が無意識に鳴った。「変かな……?」 不安そうな渚の声を聞いて、玲はハッとして弾かれるように彼女の顔を見た。「すっごく似合ってるよ! 可愛い!」 渚にそう本心を伝えると、彼女は照れながら目を伏せる。長い睫毛が影を落とした顔は艶っぽく見えて、いつも以上に愛らしさが増していた。「すっごく可愛いんだけど、でも、どうしたの。スカートを履いたりして」(渚は学生時代、男の視線が怖くて、どんなに暑くてもスカートの下にジャージを履いていた子だ。それなのに、突然スカートを履くだなんて……どういう風
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第2章:016

  渚はなんの疑いもなく、眩しいほどの笑顔で弾けるように答えた。 その言葉を聞いた瞬間、玲の身体が勝手に動き、渚を強く抱き締めていた。「渚……っ」 縋るような玲の強烈な抱擁に一瞬驚いた渚だったが、すぐにふわりと微笑むと、彼の背中にそっと腕を回して優しく抱き締め返してくれた。 玲はゆっくりと目を閉じる。 抱き締めた腕の中から伝わってくる、渚の柔らかい温もりと呼吸。 渚は前を向いているのだ。 トラウマや苦手なことを、一つずつ必死に克服しようとしている。俺のために。そして、自分自身の未来のために。 それなのに俺は――そんな渚を勝手に疑い、見知らぬ男の影に怯え、一人で暗い不安に飲み込まれて、不貞にまで身を投げ出している。本当に、どうしようもない。 渚は変わろうとしている。玲と再会してから今日まで、ずっとそうだったことを玲は思い出す。カウンセリングに通うことを決めたのも、苦手な美容室で髪をセットしてもらったのも、新幹線に乗って見知らぬ土地へ行ったことも、スカートを履いたことだってその流れなのだ。 渚は、玲と再会してから、ずっと恐怖と闘いながら変わり続けてきた。(じゃあ、俺は?) ――俺は、渚と再会してから今日まで、本気で変わろうとしたことがあっただろうか。 嫉妬に狂い、独占欲に身を任せ、酷くなる一方だ。俺は一体、渚のために何をしてやれたというんだ?(本当に変わるべきなのは、俺だ)  ※ 玲は渚と手を繋いで、インテリアショップのカーテン売場へ向かった。 店内に多くのカーテンが並ぶ中、渚が手に取ったのは、明るいオレンジ色の花柄のカーテンだった。(俺の読みは当たってた) 渚が「これにしよう」と決めたカーテンは、玲が捨てた物と同じだった。(やっぱり、俺が一番渚を分かってる) 玲は、渚を愛おしく見つめながらも、その瞳には、彼女への執着心が滲み出ていた。「玲。他に買っていない食器とかは?」 カーテンの会計を終え、二人でショッピングカートを押し
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第2章:017

 ※ ※ ※ 日曜の夜。 ガチャッと玄関が開く音がして、玲が現れた。 渚を見送った後で、真っ直ぐここへやって来たのだろう。自分を求めて、この部屋に足を踏み入れた。 その事実だけで、真央の身体は歓喜に震え、奥からぐちょぐちょに濡れていく。 玲は言葉もなく真央を引き寄せ、いつものように前戯すら挟まず、服を押し開けて粗雑に挿入した。愛撫も、優しさも、労わりもない。ただ己の欲望と不快な感情をぶち撒けるだけの、乱暴な侵入。 溢れ出す熱を、真央の中に容赦なく注ぎ込んだ。 行為が終わると、真央はシーツに顔を突っ伏したまま、高くお尻を上げた姿勢で崩れていた。 過剰な快楽に身体が痙攣し、お尻がブルブルと震えている。太腿には、玲の精液と真央の愛液が混ざり合い、生温かく伝い落ちていた。 壊れたおもちゃのように身体を痙攣させたまま、真央は力なくベッドに倒れ込み、ぼんやりと天井を見上げた。「真央」 頭上から、静かな声で名前を呼ばれた。 玲から名前を呼ばれたのは、一体何年振りだろう。思い出せないくらい、気が遠くなるほど久しいことだった。 真央はゆっくりと視線を動かし、玲を見た。 玲は真央に背を向け、ベッドの縁に腰かけていた。 その背中には、真央が刻みつけた爪痕が、何筋も赤く生々しく残っている。だが玲がシャツを羽織ると、その痕跡はあっさりと視界から消え去った。(いつか……あの背中に寄り添って、頬をすりつけたい) そんな儚い願望が胸を掠めた、次の瞬間だった。「もう来ない」 突然の言葉だった。 ここまで真央の身体を弄んでおいて。真央の膣の中に、自分の熱い精液を溢れるほど残しておいて――……最低なピロートーク、だと思った。 喉の奥が引き攣り、息が詰まりそうになるのを、無理やり息を吸い込んで押し込めた。「なんで?」 語尾が僅かに上擦り、慌てて唾を飲み込む。喉が酷く痛み、硬直しているようだった。「渚と同棲する」 短く、それだけ
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第2章:018

 ※ ※ ※ 昼休みのオフィス。 渚にしては珍しく、同僚たちに囲まれてお弁当の蓋を開けていた。「ねぇねぇ、相良さん。最近、可愛くなったねー、ってみんなで貴女の話をしてるんだけどね」「あ、いや、そんなことは」 慌てて謙遜する渚に、隣に座る先輩が笑いかける。「こういうのはね、『ありがとうございますー』って受け取るんだよ!」「こないだのコンペも、すっごくよかったし!」「あ、そんな……あ、ありがとうございます」「そうそう、偉い!」 楽しそうにキャッキャと盛り上がる同僚たち。 普段は自分から輪に入ろうとしない渚を、こうして輪の中に自然と引っ張り込んだのは、部長の橘だった。 橘自身もこの輪の中に混ざっている。男性でありながらオネエ口調だが、職場の誰もが慣れ親しんでいるため、一切の違和感はない。「相良さん、彼氏っているの?」「え、っ……あ、はい……」「へえー! カッコいい?」「……すごく」「えーっ、写真見たい――!」 盛り上がる同僚たちの攻勢に、渚が返答に困っていると、橘がすっと助け舟を出した。「そんなに見たいなら、私のパートナーの写真見せてあげるわよ」「えーっ! 見たい見たい!」 同僚たちの興味が一気に橘へと向かい、渚は心底ホッと胸を撫でおろした。「やだ、ちょーカッコいいー!」「ねえ、みんなにも見せてきていい?」「勝手になさい。私の代わりに自慢してきて頂戴!」 橘がそう言うと、同僚たちは彼の携帯を手に興奮気味に立ち去っていった。 賑やかだったテーブルに、渚と橘の二人だけが残される。「あの……部長」「ん?」「ありがとうございます。助け舟を出していただいて……」「何のことかしら~」 すっとぼけてお茶目に見せる橘に、渚は少し
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第2章:019

 ※  ※  ※ 玲の生活は、今までにないほど充実していた。 仕事では新しい役職が付き、昇給も決まっている。 先日の会議でも、上司から「宮原の資料は分かりやすいな」と部下たちの前で褒められた。かつては気にも留めなかった、そんな些細な評価の一つ一つが、今の玲には妙に誇らしく思えた。渚に見せたら、きっと自分のことのように喜んでくれるだろう。 真央との関係を完全に断ち切り、登録していたマッチングアプリは退会した。会社のデスクの引き出しに隠していた、アプリをインストール済みの予備の携帯電話も、回線を解約して本体を処分した。 長年、引き出しの奥に潜ませていた携帯がなくなると、そこには、不自然なほど何もない空間が残った。 だが、玲は後悔しなかった。 むしろ、ようやく必要のないものを手放せたのだという、清々しい解放感すらあった。 これからは、隙間を埋めるのは渚との思い出だけ。蓋が閉まらないほど、パンパンに埋めていくのだ。 昼休みになると、玲は何度も携帯を確認した。 渚から届いた短いメッセージを読み返し、送られてきた弁当の写真を拡大する。自分の知らないものが写り込んでいないかを探しているわけではない。ただ、渚が今日もきちんと食事を取り、自分にそのことを教えてくれた事実が嬉しかった。 『今日もちゃんと食べたよ』 その一文だけで、玲の胸は満たされた。 自分の言葉に渚が応えてくれる。 自分を安心させるために、渚が日常を見せてくれる。 それは玲にとって、何よりも確かな愛情の証だった。 充足感と、渚との同棲に向けて着実に前進しているという実感が玲の胸を占めていた。 真央という存在がいなくても、名も知らぬ女と一夜の関係を結ばなくても、自分はまともに、そして完璧に上手くやっていけている――そんな万能感が玲を満たしていた。 頭の中にあるのは、渚のことばかりだ。 渚が可愛い。愛おしい。早く一緒に暮らしたい。 朝、目を覚ました時に隣にいてほしい。 帰宅した時には「おかえり」と言ってほしい。 夜になれば、同じベッド
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第3章:001

 ※ ※ ※ 得意先を回った帰り道、玲はラブホテル街の近くまで来ていた。 師走の冷たい風が、頬を撫でていく。大通りは華やかなイルミネーションで彩られ、どこへ行ってもクリスマスソングが流れる季節だ。 この時期になると、玲は思い出す――渚を初めて抱いたクリスマスイブのことを。 あの時は、渚を怖がらせないように、壊してしまわないように――嫌われてしまわないように、どこまでも慎重に、優しく、抱いた――幸せな時間だった。 あの夜の記憶が、イルミネーションの灯りとともに蘇る。あの時の繊細で温かな手触りを知っているからこそ、今、自分の心を満たしている愛おしさが本物なのだと実感できる。(これからは、毎日、渚で満たすことが出来るんだ) そんな温かな思考に包まれながら車を停めた場所へ歩いて戻る途中……玲は不意に路地前で歩みを止めた。 大通りから一本入ったこの小径は、その華やかさとは対照的に、怪しげなネオンが明滅していた。 玲は大通りではなく、裏通りへ足を進めた。この道を選んだことに深い理由はなかった。ただ、駐車場までの近道だった――それだけだ。 寒空の下、渚が初めて玲に贈ったクリスマスプレゼントのマフラーに首を埋めて早足に歩いていると、路地に面したバーの重い扉が開き、一人の女が店から出てきた。 吐く息を白くさせながらこちらへ視線を向ける。だが、玲は特に気にも留めず、視線すら合わせずにその脇を素通りしようとした。「あのっ」 背後からかけられた声に、自分に向けられたものだとは露ほども思わず、玲は歩調を緩めることなくそのまま足を進めた。「待って!」 急に強い力で腕を引かれ、玲は思わず足を止めて振り返る。 そこに立っていたのは、先ほどバーから出てきた見ず知らずの女性だった。「お久しぶりです」 上目遣いに覗き込んでくる女の顔を、玲は眉を顰めて見つめた。 昔、マッチングアプリで会った女の一人だろうか、というぼんやりとした既視感はあるものの、いくら記憶の引き出しを探ってみても、名前も顔もさっぱり思い出せなかった。
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第3章:002

 ※ ※ ※ 十二月二十三日、土曜日。引っ越し当日。 渚が暮らしていたマンションは女性専用ということもあり、玲が足を踏み入れたのは今回が初めてだった。今回は引っ越しの手伝いということで、事前の手続きにより特別に玲の入室が許可されていた。 配慮の行き届いた引っ越し業者は、作業員が全員女性で構成されている。玲は彼女たちの邪魔にならないよう気を配りながら、手際よく荷物の搬出を手伝った。 初めて入った渚の部屋。 すでにダンボールが積み上がったがらんとした空間にも、ふわりと渚特有の甘く優しい香りが満ちていた。(ここが、渚の部屋……) 彼女のプライベートな空間に、交際してから初めて足を踏み入れた高揚感と、この部屋で重ねられてきた渚の時間を愛おしく思う気持ちで胸が満ち足りる。  ※ 荷物の搬入を終えた二人だけの新居。 鍵を開けて一歩足を踏み入れると、まだ生活感のない、新築特有の建築資材とクリーニングの匂いが充満していた。(これが……これからは全部渚の匂いに変わっていくんだ) 玲は深く息を吸い込み、胸の奥で甘い幸福感を噛み締める。 これまでは、渚が週末に自分の部屋へ泊まりに来る金曜日と土曜日だけ、彼女と同じシャンプーとリンスの香りを身に纏っていた。 だが、これからは違う。(金曜日と土曜日だけじゃない……これからは毎日、渚と俺が同じ匂いを放って生きていくんだ) 朝起きた時も、夜眠る時も、同じ香りに包まれ、同じ香りを肌に宿す。 二人だけの不可侵な境界線が引かれていくようなその現実は、玲にとって純粋な幸せでしかなかった。 ウォークインクローゼットへ向かい、服を整列する。自分の整然と並んだスーツのすぐ隣に、渚の柔らかい色合いの服が掛けられていく。それだけで、「これから共に暮らしていく」という実感が鮮烈に湧き上がってきた。 ダンボールから丁寧に食器を取り出し、キッチンの食器棚へ並べていく。 インテリアショップで渚と一緒に選んだ、
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