Semua Bab 壊したいほど好きだから、: Bab 111 - Bab 120

135 Bab

第4章:013

 パニックの最中に口走った支離滅裂な言葉たち――何か取り返しのつかない、とんでもないことを言った気がする。「ごめんなさ、」「謝らなくていいの」 すまなそうに身を縮める渚の言葉を遮り、橘は静かに、けれど包み込むような温かい声で言った。「誰も渚ちゃんを責めないし、ここで何を吐き出したっていいのよ」 和樹が手渡してくれた温かいタオルを、橘は渚の震える手にそっと握らせる。じんわりとした温もりが、冷え切っていた指先に少しずつ感覚を取り戻させてくれた。「渚ちゃん」 橘は一度息を整えると、真剣な、それでいてどこか頼もしい眼差しで渚をまっすぐに見つめた。「これからは、一緒に出勤しましょう」「え……?」「その女性がまた現れないとも限らないし、会社の行き帰りも一人にさせないわ。明日から行きも帰りも、私と和樹が一緒だから」 和樹も深く頷き、渚の目線に合わせて優しく微笑みかけた。「うん。車も僕たちが一緒に乗っていくか、橘の車で送迎するよ。渚ちゃんが一人で抱え込む必要なんて、どこにもないんだからね」 二人は、渚が何に傷つき、過去に何があったのかについて一切踏み込んでこなかった。真央の言葉の真偽を問い詰めることも、安易に取り繕って渚の感情を否定することもしない。 ただ、今の渚を脅かす外敵から守るということ。そして、当たり前のように彼女の居場所をここに繋ぎ止めてくれるということ。その徹底した線引きと深い逞しさが、渚の荒み切った心を包んでいく。 でも、上司にそこまで甘えていいものか――……。「私、車があるし」「素直に受け入れなさい!」「あ、でも……」 橘に一蹴されても、渚はなおも縮こまったまま口ごもる。上司カップルの好意にこれ以上甘えるのは心苦しく、申し訳なさがどうしても勝ってしまうのだ。「一人にさせるほうが僕たち心配なんだよ」 和樹が困ったように、けれどどこまでも温かい眼差しで諭すように言った。「でも、一緒に出勤と帰宅してたら、みんなか
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第4章:014

 ※ ※ ※ 深い闇の底で、懐かしい匂いがした。 五歳の玲は母親に手を繋がれ、見知らぬ建物の前で足を止める。引っ越してきたばかりの町の保育園。周囲にはみたこともない大人と、知らない子供たちが走り回っていた。 嫌だ、と幼い玲は心の中で叫んだ。母親の足にがむしゃらに抱きつき、泣き叫ぶ。けれど母親は、困った顔をしながら玲の手を強引に引き剥がした。「玲くん、今日からよろしくね」 知らない大人が、抵抗する玲を軽々と抱き上げた。 離れていく母親の背中。何度も振り返り、悲しそうな、申し訳なさそうな顔を玲に向けている。(あんな顔をするくらいなら――連れて行ってよ!) 玲は必死に手を伸ばし、声が枯れるほど叫び続けた。だが、自分を抱える腕はびくともしない。母親の姿はどんどん小さくなり、やがて角を曲がって消えてしまった。 見知らぬ大人は、嫌がる玲を容赦なく建物の中へと連れ込んでいく。 ドアを一枚隔てた途端、何十人もの子供たちの甲高い歓声や泣き声、足音が耳を刺した。色鮮やかで、目まぐるしく、あまりにもうるさい世界。玲はその暴力的とも言える喧騒の中に、ぽつんと一人で置き去りにされた。 置き去りにされた恐怖で、玲は部屋の隅へ逃げ込んだ。膝を抱え、小さくなって息を潜める。誰も自分を見ないでくれと祈りながら、みんなの輪から遠く離れていた。「こんにちは」 頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。 玲が涙目で、おずおずと顔を上げると、そこに一人の女の子が立っていた。 ふたつに結んだ短い髪。大きな瞳。そして何より、頬に深く刻まれたえくぼが強く印象的だった。吸い込まれそうなその瞳に見つめられ、幼い玲は瞬きすら忘れる。「いまね、おままごとのワンちゃんやくがいないの」「わんちゃん……」「ねえ、きて」 小さな手にぐいっと腕を引っ張られる。 その温もりに導かれるまま立ち上がると、視界がぐにゃりと歪み、室内の風景が光の中に溶けていった。 ――気がつくと、大人の玲は眩しい太陽が照りつける保育園の庭に立っていた。
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第4章:015

 景色がまた乱反射し、今度は小学校の教室へと変わる。 玲は自分の机で、日誌に鉛筆を走らせた。突然、声がかかって顔を上げると、ランドセルを背負った渚が玲の机の前に立っていた。「もう少し」 玲がそう答えると、渚は少しだけ困ったように首を傾げる。「先に帰ってるね」「帰っちゃうの?」 思わず問い返していた。いつもなら、日直が終わるまで静かに待っていてくれて、二人で一緒に帰るのに。「一度お家に帰って、ランドセルを置くの。公園で待ってるね」「うん」「ワンちゃん見に行こうね」 渚がえくぼを浮かべて笑う。玲はその笑顔につられるように頷いた。「うん、すぐ行く」「うん! またあとでね」 渚が軽やかな足取りで教室を去っていく。玲はその小さな後ろ姿がドアの向こうへ消えるのを最後まで見届け、再び手元の日誌へと視線を落とした。 日誌に影が落ちた。 戻ってきたのかな、と渚の笑顔を期待して顔を上げると、そこに立っていたのはランドセルを担いだクラスメイトの男子三人組だった。「宮原って、相良さんのこと好きなんだろー?」 真ん中に立った男子が、いじわるそうにニヤニヤしながら冷やかしてくる。残りの二人も顔を見合わせ、声を上げて囃し立てた。「知ってるぞー! いっつも二人で一緒に帰ってるじゃん!」「違うよ!」(……好きだよ、何言ってんだよ) 今見ている映像が、全て夢の中だと悟っている大人の玲は、幼い自分が吐いた言葉を訂正しようと叫び返す。 でも、その声は誰にも届いていなかった。 小学二年生の玲は、耳の奥まで赤くなっていた。 恥ずかしさと男子たちの執拗な揶揄いに耐え切れず、手元の日誌を覆い隠すように俯いてしまう。「なんだよ、顔真っ赤じゃん!」「やっぱり好きなんだー! 宮原は相良さんが好きなんだー!」 教室に響き渡る無遠慮な笑い声と冷やかしの言葉が、幼い玲の胸をぐさりと刺した。「違うよ、好きじゃないよ!」(好きだろ、素直になれ
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第4章:016

 ※ ※ ※「宮原さん、最近元気ないですね?」 隣の席の市田に声をかけられ、玲はキーボードを打つ手を止めた。「えっ? そうかな?」 玲は笑みを浮かべ、何ともないような顔をして市田を見るも、彼女は浮かない表情を浮かべた。「溜息ばかり吐いてますよ」 指摘されて初めて、玲は自分が無意識のうちにため息を繰り返していたことに気付く。思わず、自分の頬に触れた。「目の下に薄っすら隈もついてます。眠れていないんですか?」 ――眠れてはいる。ただ、眠りが浅く、夢を見るせいで頭も身体も「休めている」とは言い難いものだった。「自分の顔、ちゃんと鏡で見てますか?」「見てるよ」 そう言ったものの、玲は自分の顔をまともに見ていない。 自分の顔を見るたびに、最低な男だと突きつけられている気がしたからだ。「嘘ですね。絶対に鏡見てない人の顔です」 市田に見破られ、玲は「そんなことないよ」と笑った――。今まで他人に表面上よく見せていた仮面が剥がれ落ちていることを否応なしに自覚させられる。どんなに笑顔を取り繕っても、今の玲からは隠しきれない疲弊と歪みが滲み出てしまっていた。 市田は呆れたように息を吐き出すと、少しだけ表情を和らげて言葉を続けた。「何か悩み事でもあるんですか? 役職がついたから仕事量も増えたでしょうし、こっちに回してもらっていいですからねっ。最近残業ばかりしてるから」 玲が残業している理由は、ただ帰りたくないからだった。 そもそも、渚と住むために契約したあの家には帰っていない。渚がいないからだ。だからと言って行く場所もないから、真央のところに身を寄せているものの、あそこは息が詰まる。真央が隠していたカメラを全部撤去させたが、まだ見張られている気持ち悪さは払拭できなかった。(本当に俺はあの女が好き? こんなにも、渚に会いたいのに?) 壊したいほど好きで、閉じ込めたいこの感情が愛ではなく、ただの執着だと突き付けられ自分の気持ちが完全に迷子になっていた。「ありがとう。でも、残業はやりたくてしていることだからさ」 お礼だけを言って再びキーボードを打つも、胸の中に渦巻く思いを抑えきれず、玲はふと隣に向かって口を開いた。「あのさ。俺の知人の話なんだけど」「はい」「彼女のことが本気で好きなんだけどさ、浮気しちゃって」「最低ですね、その男」「本当だよ
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第4章:017

  ※  ※  ※ 橘と和樹との生活は、思いのほか心地がよかった。 想像できただろうか――男性恐怖症の自分が会社の上司とその恋人と……こたつに入り、鍋をつつきながら笑いあうことを。カウントダウンをすることを。まさかこんな日を過ごすことができるなんて思ってもいなかった。 二人のやり取りを見ているのは単純に面白く、橘と和樹は渚のことを根掘り葉掘り聞かず、互いのプライバシーもしっかり守っている。彼らは時に喧嘩をしているのかと思えば全くそんなことはなく、まるで目の前で夫婦漫才を見せられているかのようだった。 二人で重ねてきた長い歴史に触れるたび、渚はふとした瞬間に胸の奥へ穴が開くような寂しさを覚えることがあった。けれど、二人が放つ賑やかで温かい空気のおかげで、その穴はすぐに埋まっていった。彼らの存在に、渚は間違いなく救われていた。 それでも、部屋で一人になると、どうしても思い出してしまうのだ。 ※ 年が明けて、時期は一月も半ばを過ぎ、世間はすっかり正月気分の抜けた寒さの中にあった。 橘の車がビルの前で停まった。「終わったら連絡してちょうだいね」「はい」 橘の声に小さく頷き、渚は車を降りた。コートの隙間から滑り込んでくる冬の冷たい風に思わず首を竦める。 ガラス張りの入口を抜け、見慣れた待合室へと足を踏み入れる。暖房の利いた室内にはBGMが流れており、渚はいつものように壁際のソファへと向かって深く腰を下ろした。 この日は、年が明けてから初めてとなるカウンセリングの日だった。待合室の大きなガラス窓の向こうには澄んだ冬空が広がり、時折強い北風が街路樹の枝を揺らしている。 番号を呼ばれ、渚は立ち上がった。「あけましておめでとうございます。年末年始はどう過ごされましたか?」「まさか男性二人と年を越すことになるとは思っていませんでした」「怖くなかったですか?」「……不思議なんですけど、全然」「むしろ、楽しかったです」「男性に対する怖さは、以前と比べてどうですか?」
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第4章:018

(そう思ってしまうのは、彼に情が残っているから?) どれだけ真央の言葉を反芻しても、玲と過ごした時間の全てが嘘だったとは、渚にはどうしても思えなかった。あの時、確かに真央の言葉に傷ついた。玲が自分を愛しているわけではないと他人の口から聞かされ、真実を突きつけられたような気がして、信じていたものが足元から崩れ落ちた。「玲は無理していた」――真央はそう言っていた。だが、思い返してみると、普段の彼はどうだっただろう。 甘いものを食べると、子供のように頬を緩めて笑っていたあの表情まで、全て演じられた偽物だったのだろうか。渚を気遣い、寄り添ってくれていた玲の優しさは、全て同情や義務感から来ていたのだろうか。 他人のために自分を殺し、長年嘘の表情を浮かべ続けられるような、そんな器用な人間がこの世にいるとは思えなかった。(それとも……そう思いたいだけ?) 愛とか、恋とか、そんな綺麗な言葉ではない。ただ、自分が信じてきた過去そのものを全否定されたくなくて、残骸のような虚構に必死で縋りついているだけなのかもしれない。 玲の連絡先も、彼からのメッセージも留守電も残したまま、ブロックしていないのは――彼を待っているからなのだろうか?「相良さん?」 カウンセラーの静かな声で、渚はハッと意識を引き戻された。無意識のうちに視線を落とし、手元でデニムの生地を強く握り締めていたことに気付く。「……すみません」「謝らなくて大丈夫ですよ」 カウンセラーは優しく首を振り、手元のファイルから一枚のチラシを取り出して渚の前に差し出した。「一つ、提案があるんです。グループカウンセリング、というものがあります。同じように過去に困難な経験をした方たちが、少人数で集まって話す場です」「グループカウンセリング、ですか?」「一対一だと、どうしても言葉にしづらいことがあります。でも、自分と似た境遇の人の話を聞くことで、気持ちの整理がつくこともあるんです。今週の土曜日から新しい期が始まります」 差し出された『グループカウンセリング・毎週土曜』の文字を見つめながら
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第4章:019

 ※ ※ ※ ランチタイムの休憩スペースは、いつも通り賑やかだった。 弁当箱を開きながら、同僚の一人が身を乗り出してくる。「ねえねえ、部長の彼氏ってイケメンよね? 惚れちゃわない?」 渚が橘の家に居候していること自体は、もう周知の事実だった。皆から理由を訊かれた時、返答に困った渚を助けてくれたのは橘だった。「彼氏がストーカー化してて、身の危険があって」 嘘ではあるが、間違いでもない。あれから玲からの連絡はないし、渚の携帯は静かなままだ。 橘の説明を聞いて、皆は驚きながらも深く詮索せず、心配して受け入れてくれた。おかげで、橘の家に住んでいることを隠す必要はなくなっている。「イケメンかどうかは分からないんですけど……でも、すごく美人で綺麗で優しいです」 橘の紹介で美容室で和樹と初めて会った時の第一印象は『綺麗』だった。渚よりも髪はサラサラ、肌もつやつや――……。「それって、イケメンってことじゃん!」「イケメンなんですかね? 人の顔あまり見ないから……」 渚が小さく答えると、向かいに座る同僚が目を輝かせた。「だから同居できるんじゃない? 顔面偏差値が高い男の顔を見ないから平気なんだ」「いや、それか元々メンクイでイケメンを見慣れてるんじゃない?」「どうですかね……?」 勢いに圧倒され、渚は曖昧に笑うことしかできなかった。 箸を止め、ふと考える。(玲は……爽やかな好青年、だった) 彼はイケメンの部類に入るのだろうか。今まで、そんなことを考えたこともなかった。 顔が好きで一緒にいたわけではない。優しい声、触れる手、名前を呼ぶ時の響き――それらが好きだった。「相良さん? 聞いてます?」「あ……すみません、なんでしたっけ」 同僚たちの笑い声が、休憩スペースに小さく響いた。「もう、どこまで上の空なのよ。やっぱりイケ
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第4章:020

 ※ ※ ※ 金曜日の夕食後、リビングで温かいお茶を飲んでいた時だった。渚は手元のお茶を見つめたまま、意を決して口を開いた。「橘さん、和樹さん。……あの、明日の土曜日、行きたい場所があるんです」 ソファでくつろいでいた橘と、キッチンで片付けをしていた和樹が同時に渚を見た。橘は少しだけ目を細め、すぐにいつもの柔らかい声音で言った。「そう? どこか行くのなら車で送迎するわよ」「ありがとうございます。でも……今回は一人で行ってみたいんです。このまま二人にお世話になりっぱなしで甘え続けるのも申し訳ないですし……それに、自分一人で悩んでいても、どうしても答えが出ないことがあるんです。あの場所に行けば、何か答えが出るかもしれないと思いまして」 あの場所――グループカウンセリングのことだ。 玲のことを思い出してしまう。玲の裏切りを知り、心は傷ついているはずなのに、彼を思い出すと許そうと思ってしまう自分がいる。それは、彼をまだ愛しているのか、それとも、その愛に縋ろうとしているのか。玲に対する罪悪感から、許そうとしているだけなのか。ただ、彼を許したところで、真央という存在がいる。自分が何を知ろうとしているのか、はっきり分からない。玲と話したいのか、そうでないのか――……。(……私は、一体どうしたいんだろう) 真央のお腹には、玲の子供がいる――少なくとも、渚はそう受け取っている。お腹を擦っていた真央の姿が、今もなお鮮明に残っている。玲を選べば、一生その影に苛まれ続けることになる。逆に拒絶したところで、彼のいない未来に何を見出せばいいのかも分からない。壊れた日常を取り戻したいのか、それとも過去を全て捨て去りたいのか――問いかけるほどに、思考の渦へ深く沈み込んでいく。「前に進もうとしているのね」 静かに渚の葛藤を見守っていた橘が、暖かな眼差しを向けながら口を開いた。「どうなんでしょうか……」 渚は首を傾げた。前に進んでいる実感など、どこにもな
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第4章:021

 ※ ※ ※  土曜日の朝。寒空の下、玲はカフェのテラス席で一人、スリーブのついた紙カップを指先で弄びながら、ぼんやりと通りを眺めていた。 暖かい室内を選ばなかった理由は単純だった。待ち合わせのカップルがいて、自分たちの世界に浸る楽しげな二人の姿を視界に入れたくなかったからだ。仲睦まじく笑い合う男女を見るたび、渚を待つだけのあの時間は幸せだったと思い出してしまう。 コーヒーで体内を温めながら、玲は指先で携帯電話の画面をスクロールする。表示されているのは賃貸物件の検索サイトだった。「会社ではどんな仕事をしてるの?」「女の人、いる? 仲はいいの?」「お昼、作ろうか?」「このドラマ、面白いんだよ」 ――玲を束縛し、時間を共有してその上会話をしようとしてくる真央に嫌気が差して、部屋を抜け出してきたものの、行き場などどこにもなかった。一刻も早く真央のもとを出ていこうと考え、こうして物件を探しているが、作業は一向に進まない。(……俺が渚にしていたことと同じだな) 自分がされてみると、いい気持ちはしないな――玲は失笑した。 画面から目を離し、ぼんやりと通りを行き交う人々を眺める。厚手のコートを着込んだ通行人たちは、皆それぞれ帰るべき場所へ向かって足早に過ぎ去っていく。 新しい部屋を契約する前に、まず渚と暮らしていたあの家を解約しなければならない。だが、指がどうしてもその手続きに進まなかった。家賃と光熱費だけ支払っている状況だ。(……もし、渚とやり直せたら) もし奇跡が起きて、渚が自分を許してくれたなら、またあの部屋に戻ることがあるかもしれない。そんな淡い期待が、頭の片隅を離れなかった。「……ふっ」 自分でも呆れるほど身勝手な思考に、玲の口から乾いた笑い声が漏れた。 嫌な思い出しか詰まっていないあの場所に、渚が戻ってくるわけがない。あの部屋には、渚を傷つけ、追い詰めてしまった最悪の記憶しか残っていないのだ。トラウマを再び植え付けられた恐怖の場所に、彼女が再び足を踏み入れるはずなどない。 手の中で冷え切った携帯の画面に、虚しく冬の街並みが映り込んでいる。どれだけ自分に都合の良い幻想を抱いても、失ったものの大きさと自分の犯した過ちの深さが、冷たい風のように玲の心を酷く痛めつけるだけだった。 このまま、どこで時間を潰せばいいのだろう。 自分には
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第4章:022

  玲は紙カップをゴミ箱に投げ捨てると、人混みの中を歩く渚を追いかけた。視線は道路の向こう側を歩く彼女だけに固定されている。すれ違う通行人に強くぶつかっても、玲は気にせず前へ進んだ。 横断歩道の信号が赤になり、玲は足を止められる。早く青になれと心の中で必死に祈り、青に変わった瞬間に走り出した。寒い季節だというのに全身から汗が噴き出し、コートの中が湿っていく。 渚は前しか見ておらず、道路を挟んで追いかけている玲には全く気付いていない。 道路を挟んだ向こうに、彼女がいる。今、この時間に、このタイミングで同じ時間を共有している。掛け違ったボタンが、正しい位置に戻ろうとしている。(やっぱり、渚は俺と一緒にいるべきなんだ――!)「渚……! 渚ーーっ!」 声の限りに名を叫んだが、その瞬間、二人の間の車道をトレーラーが走り抜け、視界と声を遮ってしまった。 目の前をトレーラーが横切るのを見て、玲はハッと息を飲んだ。 名前を呼んだところで、渚が自分に気付いたらどうするつもりなのだろう。怯えた目で見つめられるのだろうか。それとも――。 今すぐにでも道路を渡り、彼女の手を掴んでしまいたい。けれど、脳裏を掠めたのは職場の隣の席に座る市田の言葉だった。『駄目ですよ、会いに行かせたら。余計に嫌われますよ。……お友達は待つことを覚えるべきです』 玲と渚を知らない、部外者の言葉だからこそ重い言葉だった。(俺と一緒にいるべきだなんて、どの口が言うんだ) 数秒前に頭に浮かんだ自分の言葉を、玲は自分で切り捨てた。 玲は、トレーラーが通り過ぎる前にゆっくりと踵を返した。 通りを歩いていた渚は、どこか前よりも元気そうに見えた。ほんの少しだけ頬のあたりがふっくらと膨らんだ気がする。健康そうに思えて、胸の奥がふっと安堵で温かくなった。自分がいない場所で、彼女がちゃんと食べて健やかに過ごせていることに安心した。 以前よりも、俯き加減ではあっても堂々と人混みの中を歩いていた。彼女は自分がいないところで、しっかりと成長し、前を向こうとしている
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