All Chapters of 壊したいほど好きだから、: Chapter 111 - Chapter 112

112 Chapters

第4章:013

 パニックの最中に口走った支離滅裂な言葉たち――何か取り返しのつかない、とんでもないことを言った気がする。「ごめんなさ、」「謝らなくていいの」 すまなそうに身を縮める渚の言葉を遮り、橘は静かに、けれど包み込むような温かい声で言った。「誰も渚ちゃんを責めないし、ここで何を吐き出したっていいのよ」 和樹が手渡してくれた温かいタオルを、橘は渚の震える手にそっと握らせる。じんわりとした温もりが、冷え切っていた指先に少しずつ感覚を取り戻させてくれた。「渚ちゃん」 橘は一度息を整えると、真剣な、それでいてどこか頼もしい眼差しで渚をまっすぐに見つめた。「これからは、一緒に出勤しましょう」「え……?」「その女性がまた現れないとも限らないし、会社の行き帰りも一人にさせないわ。明日から行きも帰りも、私と和樹が一緒だから」 和樹も深く頷き、渚の目線に合わせて優しく微笑みかけた。「うん。車も僕たちが一緒に乗っていくか、橘の車で送迎するよ。渚ちゃんが一人で抱え込む必要なんて、どこにもないんだからね」 二人は、渚が何に傷つき、過去に何があったのかについて一切踏み込んでこなかった。真央の言葉の真偽を問い詰めることも、安易に取り繕って渚の感情を否定することもしない。 ただ、今の渚を脅かす外敵から守るということ。そして、当たり前のように彼女の居場所をここに繋ぎ止めてくれるということ。その徹底した線引きと深い逞しさが、渚の荒み切った心を包んでいく。 でも、上司にそこまで甘えていいものか――……。「私、車があるし」「素直に受け入れなさい!」「あ、でも……」 橘に一蹴されても、渚はなおも縮こまったまま口ごもる。上司カップルの好意にこれ以上甘えるのは心苦しく、申し訳なさがどうしても勝ってしまうのだ。「一人にさせるほうが僕たち心配なんだよ」 和樹が困ったように、けれどどこまでも温かい眼差しで諭すように言った。「でも、一緒に出勤と帰宅してたら、みんなか
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第4章:014

 ※ ※ ※ 深い闇の底で、懐かしい匂いがした。 五歳の玲は母親に手を繋がれ、見知らぬ建物の前で足を止める。引っ越してきたばかりの町の保育園。周囲にはみたこともない大人と、知らない子供たちが走り回っていた。 嫌だ、と幼い玲は心の中で叫んだ。母親の足にがむしゃらに抱きつき、泣き叫ぶ。けれど母親は、困った顔をしながら玲の手を強引に引き剥がした。「玲くん、今日からよろしくね」 知らない大人が、抵抗する玲を軽々と抱き上げた。 離れていく母親の背中。何度も振り返り、悲しそうな、申し訳なさそうな顔を玲に向けている。(あんな顔をするくらいなら――連れて行ってよ!) 玲は必死に手を伸ばし、声が枯れるほど叫び続けた。だが、自分を抱える腕はびくともしない。母親の姿はどんどん小さくなり、やがて角を曲がって消えてしまった。 見知らぬ大人は、嫌がる玲を容赦なく建物の中へと連れ込んでいく。 ドアを一枚隔てた途端、何十人もの子供たちの甲高い歓声や泣き声、足音が耳を刺した。色鮮やかで、目まぐるしく、あまりにもうるさい世界。玲はその暴力的とも言える喧騒の中に、ぽつんと一人で置き去りにされた。 置き去りにされた恐怖で、玲は部屋の隅へ逃げ込んだ。膝を抱え、小さくなって息を潜める。誰も自分を見ないでくれと祈りながら、みんなの輪から遠く離れていた。「こんにちは」 頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。 玲が涙目で、おずおずと顔を上げると、そこに一人の女の子が立っていた。 ふたつに結んだ短い髪。大きな瞳。そして何より、頬に深く刻まれたえくぼが強く印象的だった。吸い込まれそうなその瞳に見つめられ、幼い玲は瞬きすら忘れる。「いまね、おままごとのワンちゃんやくがいないの」「わんちゃん……」「ねえ、きて」 小さな手にぐいっと腕を引っ張られる。 その温もりに導かれるまま立ち上がると、視界がぐにゃりと歪み、室内の風景が光の中に溶けていった。 ――気がつくと、大人の玲は眩しい太陽が照りつける保育園の庭に立っていた。
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