Tous les chapitres de : Chapitre 121 - Chapitre 130

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第4章:023

  ※ 案内された部屋は、想像していたよりずっと狭かった。 パイプ椅子が輪になって並べられ、すでに数人が座っている。年齢も性別もバラバラで、共通しているのは、誰もが少し俯き加減で、視線を合わせようとしないことだった。 渚は空いている椅子の中から、入口に近い席に腰を下ろした。膝の上で、指先が無意識に絡み合う。「初めまして、渚さんですね」 進行役らしき女性が、柔らかい声で名前を呼んだ。渚は小さく頷くことしかできなかった。「今日から参加される方が一人います。緊張されると思いますが、ここはお互いのプライバシーを守るため、下の名前だけで呼び合う安全な場所です。話したくないことは話さなくて大丈夫ですよ。ここにいるだけでも、十分な一歩ですから」 輪になった椅子を、渚はぐるりと見渡した。 誰も、渚の顔をじっと見つめてこない。値踏みするような視線も、同情するような視線もない。ただ、静かにそこにいる。「昴くん、今日もよろしくね」 進行役の声に、渚の視線が動いた。 斜め向かいに座っていたのは、思いのほか若く見える男性だった。丸みのある輪郭、大きな瞳、あどけなさの残る顔立ち――男性、という言葉から連想する威圧感が、まるでなかった。むしろ、女の子と見間違えそうなほど柔らかい印象だった。「はい、よろしくお願いします」 昴と呼ばれたその人は、軽く笑って会釈した。人懐っこい、屈託のない笑顔だった。 渚の身体は、強張らなかった。(あれ……) 自分でも意外だった。橘や和樹のように「安全だと確信できる理由」があらかじめ開示されているわけでもないのに、目の前の彼には、不思議と恐怖や警戒心が湧いてこない。 昴が渚の視線に気付き、にこりと笑いかけてきた。「初参加なんですね。緊張しますよね、僕も最初はそうでした」「……はい」 声が、思ったより自然に出た。 進行役が場を整え、輪の中で一人ずつ、今週あったことや胸の内を話し始める。 誰かが、震える声で職場
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第4章:024

  ※ ※ ※  結局、グループカウンセリングに次の土曜日も参加していた。自分を変えないといけない、という気持ちだけがあって、答えを求めるために参加している。 輪になった椅子の並びも、座っている顔ぶれも先週と同じだった。進行役とピアサポートの昴も変わらずにいる。 次の週も、また次の週も渚は参加した。同じ顔ぶれに渚はもう慣れていたが、何も言葉を発することができなかった。自分の番が近付くと、無意識に膝の上で両手を強く握り、喉の奥に石が詰まったように重く、息苦しくなってくるのだ。 その日、渚の隣に座っていた女性が、静かに口を開いた。「昨日、元夫から連絡が来て。よりを戻そう、俺は変わった、君を傷つけない、約束するって」 彼女は、元夫から暴力と性的支配を長い間受けていた女性だった。暴力を受けた後は必ず優しくされて、それをされるたびに「私は愛されている」と確信し、元夫からの暴力を受容していた。だが、それは夫の不倫を知ったことで崩壊する。自分は愛されていなかった。ならば、暴力や性的支配を受け入れる理由などあるのか――ない。そう悟った彼女はやっと離婚を決意し、元夫から離れる決心をしたのだという。「やっと逃げ出せたんです。それなのに、メッセージを見た瞬間、『変わった』っていう彼の言葉に縋りそうになった自分がいて……。自分で自分が、たまらなく気持ち悪くて」 女性は、顔を歪めて吐き捨てるように語った。「来ないで、二度と連絡しないでって返しました。離れられたはずなのに、まだあの人に振り回されている自分が本当に嫌で堪らない」 元夫から受けた暴力や支配、そして不倫という裏切り。傷つき、ボロボロになりながらも自分を取り戻そうと抗う彼女の言葉は、恐ろしいほど渚の心に刺さった。(裏切られても、縋りそうになる……) 時間が経つほど、玲を思い出してしまう自分。玲との過去を捨てきれない自分。重なる部分が多すぎて、渚の胸は押し潰されそうになり、息が苦しくなっていく。「はい、由美さん、話してくれてありがとうございます」 進行役が優しく声をかけ
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第4章:025

  自分の不甲斐なさを噛み締めながら、来週からはもう参加しないと静かに心の中で決意する。渚が重い腰を上げ、立ち上がろうとした時、肩を軽く叩かれ、顔を上げた。 肩を叩いてきたのは、先ほど渚を問い詰めた由美だった。 由美は、少し気まずそうだった。「さっきは、ごめん」「え……」 驚く渚の肩を、由美の手がぽん、と再度力強く叩く。「あんた、ちゃんとやれてるよ」 短くそれだけを告げると、由美は照れ隠しのように軽く手を振り、さっさと部屋を出ていってしまった。 肩に残る温かな感触と、思いがけないその一言。 自分は逃げてばかりで何もできていないと思っていた。けれど、ほんの一言でも絞り出した自分を、見ていてくれたのかもしれない。 すーっと胸の奥の冷たい塊が溶けていくのを感じながら、渚はそっと自分の胸に手を当てた。(私……また、ここに来ようかな) もう諦めようとしていた心の中に、小さく、けれど温かな光がともり始めていた。 ビルを出るためエレベーターに乗り込むと、閉まりかけた扉の隙間から「あ、乗ります!」と声が聞こえ、昴がすべり込んできた。 呼吸を整えた昴は、いつもの屈託のない笑顔で渚に並んだ。 ゆっくりと箱が下降を始める。静かな空間の中で、昴は前を見つめたまま、ふと思いついたように口を開いた。「次も、来てくれますか?」「はい」 渚は初めて、曖昧にせず、はっきりと答えることができた。 その言葉を聞いた昴は、ぱっと表情を明るくして「よかったです」と笑った。 エレベーターが1階に到着し、扉が開く。 冬の冷たい外気を受け止めながら、渚は一歩、しっかりと前を踏み出した。 ※ ※ ※ 寒さが薄まり、温かな風が頬を掠める頃になっていた。あと少しすれば、桜は開花するだろう。パステルカラーの薄手の服に身を包んだ人たちが歩く道の真ん中を渚は歩いていた。 人混みの中でも、以前より前を向いて歩けている気がした。これがグループカウンセリングの効果なの
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第4章:026

 ※ ※ ※ 静まり返った部屋に、ダンボール箱の底をガムテープで留める粘着質の音が響いていた。 整然と並べられた荷物と、以前よりも薄くなったクローゼット。その光景を目にした真央は、ドアノブを握りしめたまま息を飲んだ。「何してるの?」「もうすぐ業者が荷物を取りに来るから」「どういうこと?」 努めて冷静を装おうとした声は、微かに震えていた。 玲は手を止めることなく、畳んだ服を箱へ収めながら淡々と応じる。「出て行く」「待ってよ、出て行く理由なんてないよ」 真央は部屋へと踏み込み、玲の背中に縋りつくように声を張った。だが、玲は振り返ることもなく、静かに、けれど重みを含んだ声を返した。「俺にはある。……この関係を終わらせよう」 今までずっと、不都合なことから目を背け、先送りにし続けてきた会話だった。真央の問いかけから逃げ、自分自身の弱さから逃げてきた玲が、真っ直ぐに真央へ視線を向けた。「俺は確かにお前に縋っていた。それは認める。だが、それも終わりにする」「どうして……?」 真央は唇を噛み締め、怒りと焦燥が混ざり合った瞳で玲を見つめ返した。「あの女の元に戻るの? 受け入れてもらえるとでも思ってるの?」 自分が何をしたか、真央に突き付けられる。玲はそれでも、逃げずに、目を逸らすことなく真央の目を見続けた。「渚とは、何も話していない」 玲は自嘲気味に、短く首を横に振った。「受け入れてもらえるなんて思っていないし、会いに行くつもりもない。……ただ、俺はこのままだと、本当にもっと駄目になる。だから、本来あるべき場所に戻るんだ」「そんなの……納得できないよ!」 真央はしがみつくように玲の腕を取り、自らの身体を押し付けた。私を抱けば、この男をまた自分に繋ぎ止められるはずだ――そう信じるかのように、指先に力を込めて玲の首元に顔を寄せる。 だが、どれだけ肌を重ねようとしても、玲の身体はピクリ
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第4章:027

 ※ ※ ※ 自分の番が巡ってきた。 いつも、自分の番になると喉の奥に石ころがひとつ詰まったような息苦しさと緊張感に包まれる。慣れてもいい頃なのに。「私には……ずっと支えてくれる男性がいました」 今回、玲の話をしようと思ったのは……先日、彼を見かけたからかもしれない。「でも、私が一方的に彼に依存しきっていて……優しさに甘えすぎていたことで負担をかけていたんです。だから、彼には他に女性ができて……その相手から、彼とのリベンジポルノが送られてきました。全部、私が蒔いた種なんです。私が彼を追い詰めたから……」 自分の不甲斐なさと罪を吐露する。 だが、それを聞いていた由美が声を挟んだ。「悪いのは男でしょ?」 渚は思わず言葉を失い、ぎゅっと口を結んだ。由美は渚を見つめ、問いかける。「貴女のどこに、責任を感じるところがあるの?」「悪いのは……全部私で……だから、私は、狙われて、襲われて……」(あの日、公園にいたのも、男に襲われたのも、全部全部、私のせい。玲に負担をかけてしまったのも、私のせい) 自分の責任だけで埋め尽くされている――どこも、他人のせいじゃない。「どこも悪くない」 きっぱりと言い捨てる由美の声に、進行役が制止に入った。「由美さん。勝手に話しては駄目です」「でも」と反論する由美に今度は昴が声をかけた。「言葉を遮らずに聞きましょう」「ごめん」 由美は顔を背けた。 渚はこれ以上何も言えず、固まったように黙ったまま動くことができなかった。 そのままセッションの時間が過ぎ、解散となる。 参加者たちが席を立つ中、渚が座ったままでいると、由美が話しかけてきた。「不躾だった。ごめんなさい」「え、いや……私がうまく話せ
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第4章:028

  唐突に投げ放たれたその言葉に、渚は息を呑み、金縛りに遭ったように固まった。あまりにも凄惨で、けれど静かに語られた事実に、思考が完全に停止する。「いや、ごめん。はっきり言っちゃった」 困ったように眉を下げて苦笑する昴に、渚は言葉が出ないまま、ただ無言で首を横に振った。「高校卒業するまで誰にも言えなくて、卒業したことで解放されたんだけど心はボロボロでさ。大学に通ったんだけど……誰とも会話できなくなっていて。外に出ることが怖くなって、何も知らない両親が心配して俺を無理矢理カウンセリングに通わせたの。時間はかかったけど、両親にもやっと話せるようになって、仕事もできるようになった」 淡々と、けれど自分自身を受け入れたような声で語る昴を、渚は息を止めて見つめ返した。「途中で止めずに通ったんですね」「うん。苦しかったけどね」 昴は遠くを見つめたまま、静かに頷いた。「……私は、逃げちゃったんです」 ぽつりと零れ落ちた渚の声に、昴は静かに視線を戻した。風が二人の間を通り抜けていく。「事件があってから、私もカウンセリングに通ったんです。でも、その時にカウンセラーの人から『貴女は悪くないのよ』って言われたのが……どうしても辛くなって」 胸の奥にずっとつかえていた重い塊が、言葉となって押し出されていく。「あの時あの道を通らなければ、あの日、私がもっと抵抗すれば事件は起きなかったはずだ……だから悪いのは私だと思ってしまって、通うのをやめたんです。それに、同じ経験をしてないくせに、私の気持ちがわかるはずないって思っちゃって……辛くなっちゃったんです」 言葉を吐き出す渚を、昴は遮ることも否定することもなく、ただ静かに見つめて受け止めていた。(もし、あの時……) ふと、渚の頭の中に切ない問いが浮かび上がる。 もしもあの時、自分が逃げ出さずにカウンセリングに通い続けていたら。自分の傷と向き合い、少しでも前を向けていたのなら―
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第4章:029

 ※ ※ ※ グループカウンセリングの最終日はあっけなく訪れた。 最終セッションが終わった直後、エレベーター前で由美から話しかけられた。「もうここで会えなくなるんだから、連絡先を交換しましょうよ」 隣にいた昴も同じように誘われ、三人は自然な流れで連絡先を交換し合った。 ※ ※ ※  あの場所を離れても、三人の関係は途切れなかった。 週末の午後、明るい光が差し込む街角のカフェ。テーブルを囲む三人は、あの日々の重苦しい空気とは無縁の場所にいた。 ここではもう、過去のトラウマやカウンセリングの深い内容には誰も触れなかった。「渚ちゃんって、普段どんな服を着るの? パステルカラーの服、絶対似合うと思うんだけど」「えっ、そうかな……普段は無難なものばかりで」「今度買い物付き合いなよ。私、デザインの仕事してるから服選ぶの得意だし」 好きな紅茶の銘柄や、普段着る服の話、最近観た映画の感想――そんなごく普通の、どこにでもある日常の会話。それがこれほど愛おしく、胸を温かくするものだとは知らなかった。傷を抱えながらも、懸命に前を向こうとする仲間と笑い合える喜びを、渚は噛み締めていた。「そういえばさ」 由美がショートケーキのイチゴをフォークで突きながら、ふと思い出したように口を開いた。「私、今の職場の上司……あ、昔の職場で一緒だった同僚なんだけどね。この前、告白されたの」「えっ!」 渚と昴が顔を見合わせる。由美はどこか気まずそうに、けれど少し頬を緩ませて続けた。「私が結婚する前からずっと好きだったんだって。すごく優しくて良い人なんだけど……やっぱり元夫のことがあるから。あの男だって、結婚する前はすごく優しかった。だからどうしても男性を信じ切れなくて、前に進むのが怖いって、正直にその人に話したの」「相手の方は、なんて?」 渚が訊ねると、由美は照れ隠しのように息を吐いた。「俺を信じられるようになるまで、いくらでも待つって。&h
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第5章:001

「渚ちゃん。明日の土曜日の夕飯、三人で外で食べましょうよ」 橘からそう提案されたのは、金曜日の夕食後、三人でコンビニスイーツを食べている時だった。和樹もそれに賛同して「いいね、行こう!」と手を叩く。 渚は盛り上がる二人の前で、プリンを掬った。「でも……和樹さんは土曜日、帰り遅いのでは……?」 美容室の予約がいっぱいで、彼は土曜日は比較的帰りが遅いのだ。それを心配して、渚は首を傾げてみせる。「明日は、早上がりできるんだ。三時には終わるから、店まで迎えに来てよ」「そのあと、夕食まで時間はあるから、三人でぶらぶらしましょうよ」 橘と和樹の言葉に、渚は頷いた。「はい、行きます」 渚が小さく微笑むと、橘と和樹が満足そうに顔を見合わせた。「ねぇ、何食べる?」「えっ。考えてなかったの?」「なによ、まだお店を予約してないわよ。だって何を食べようか考える時間が一番楽しいでしょーが!」 橘と和樹が予約の話で揉めている――と言っても、夫婦漫才のようなノリで喧嘩口調のくせに、渚の目にはじゃれ合っているようにしか見えない。「ねえ、渚ちゃんは何を食べたい?」「えっ、私ですか……? うーん……」 急に振られて戸惑う渚を見て、和樹が「ほらー、渚ちゃん困ってんじゃん」と笑う。 橘と和樹が作るこの温かな空気。二人の掛け合いにクスッと笑みをこぼしながら、渚はふと胸の奥が温かくなるのを感じていた。 渚に笑顔が増えたのは確かだった。けれど、時折ふっと遠くを見つめ、何かに深く思い悩むような表情を浮かべることがある。 橘も和樹も、そんな渚の小さな変化に気づいていたからこそ、気を紛らわせようと誘ってくれたのだった。 ※ ※ ※ 翌日、土曜の昼下がり。 橘の車を降りて、外に出ると柔らかい風は鳴りを潜め、生温かい風が吹き始めている。春が終わり、夏の到来を知らせるような熱が頬を過ぎていった。 二人並んで歩き出す。橘の足取りは
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第5章:002

 ※ ※ ※ 玲は約束通り真央との最後のデートを過ごしていた。 映画館のスクリーンには話題の恋愛映画が映し出されていた。けれど、どれほどドラマチックな展開が繰り広げられても、玲の心には何一つ響かない。 ただ一つ、本編が始まる前に流れた予告映像――新作アニメの予告が流れた時だけ、玲の心は跳ねた。 毎年、新作が出るたびに渚と一緒に映画館へ足を運んでいた作品だった。(今年は一緒に観ることは叶わないのか……) 横に座る真央の気配を感じながら、玲はスクリーンを見つめたまま二度と戻らない時間を思って口を結んだ。 映画が終わり、映画館の近くにあるイタリアンでランチをとった。 映画を観終わるたびに渚と何度も訪れたことがある店だ。あの時は何を食べても美味しく感じられたのに、口に入るパスタは全く味がしない。シェフが味付けを間違えたのではないかと思うほど、美味しさを感じない。あの時は、あんなに美味しかったのに。 渚のために、この店のパスタの味を何度も再現しようとした。 渚に喜んでほしくて料理を覚えた。でも今では、家では一切していない。美味しいと思ってくれる渚がいないからだ。全部、渚のためにアニメを見て勉強して、料理も覚えた。全て渚のためだった。 渚の喜びが、自分の幸せだった。 軸を失い、現在と未来に希望を見いだせない。玲は今、ただ息をして生きているだけだった。(何を摂っても美味しいと感じない――ならば、このパスタも同じことか) 玲は水でパスタを飲み込みながら、グラスで自嘲した唇を隠す。 ふと、先日同じ職場の隣の席の市田が『病気ですか?』と訊ねてきたことを玲は思い出した。食欲が失せ、まともに食べておらず、頬がこけている玲を見て、不躾な質問ではあるが、彼女なりに心配して訊ねてきたのだろう。周囲の同僚や上司から心配するような視線を向けられていることには気付いていたが、仕事は普通にこなしていたため、遠巻きに見られるだけだった。市田だけは率直だった。『顎がシャープになった俺って、イケてるだろ?』 玲が笑って答えると、市田は辛辣な目を向けてく
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第5章:003

 「上司の橘だ」 すっと立ちはだかったままの男が、静かに、けれど逃げ場のない圧で告げた。「橘部長……? 女じゃなかったのか……?」 今思えば、渚から一度も女性だと告げられたことはなかった。女性が多い職場だから男性のはずがないと玲が思い込んでいただけだったのだ。「あんたと、出張に行った……?」 上司と出張、という言葉は嘘ではなかった。ただ、相手が男性だった。新幹線の写真で写り込んでいたガタイのいい男は、目の前にいる男だ――。(渚と、どういう関係だ?) 男性一般が苦手な渚が、食事中にいつも楽しそうに橘の話をしていた。それほどまでに、彼を尊敬していた。自分は相手が男性とは知らないまま、仕事に夢中になれている渚を見て遠くに行ってしまいそうな不安を覚える一方で、彼女の楽しそうな姿を見て幸福感にも満ちていた。 そんな上司と出張に一緒に行った――男なのに。(俺の不安は、当たっていたのか?) 新幹線の窓に映っていた男が誰なのか、不安で押し潰されていた過去が蘇る。(渚は、この男は平気なのか。どういう関係なんだ?) ただの上司と部下のはずがない――土曜日にこうして並んで歩いていることが、まずおかしい。(男性恐怖症を克服したのか? こいつのために?) 自分が渚を待っている間に、彼女は前を見て歩いていた。玲を置いて。その事実に理解が追い付かず、玲は口元を押さえながら、よろけた。「俺は、もう……必要ないのか?」 玲は荒い息を吐き出しながら、困惑と混乱を隠せずに呟く。 橘の背後から、恐る恐る渚が顔を出した。「渚……」「玲」 渚の声が震えている。 自分が周りの目も憚らず、通行人の足を止めるほどの大声を出していたことに、玲はようやく気付いた。 ハッと我に返り、長く熱い息を吐き出す。何事もなかったかのように、穏やかに笑って取り繕おうとした。「…&
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