LOGIN渚の瞳が、真央のお腹へと吸い寄せられた。 病室で玲が必死に叫んでいた姿が脳裏をよぎる。『妊娠は絶対にしていない』――そう言い切っていた彼の声と、目の前で愛おしそうにお腹を擦る真央の姿。 渚は真央のお腹をじっと見つめ、そして、テーブルの上のグラスに視線を戻した。「……妊婦さんがカフェイン取っていいんですか?」 真央の表情がぴきりと固まった。 一瞬の動揺。そして泳いだ視線。 別に、その問いだけで妊娠を否定できるわけではない。渚もそれくらいは分かっていた。 ただ――真央の反応を見るには十分だった。(……やっぱり、嘘なんだ) 病室で玲が必死な顔で「絶対にしていない」と叫んでいた言葉は、真実だったのだと悟る。渚は静かに真央を見つめ返した。「……玲とよりを戻すの?」 動揺を隠すように、真央は先ほどと同じ問いを繰り返した。その声にはどこか余裕がなく、縋るような焦燥が滲んでいる。「それは分かりません」 渚は包み隠さず、正直に答えた。 許せるのかも、これからどうしたいのかも、自分自身まだ答えは出ていない。だからこそ、偽りのない自分のいまの気持ちをそのまま口にした。「話したいことはこれだけですか?」 真央は口を半開きにしたまま、何も言えずに黙り込んだ。 渚は自分の注文したオレンジジュース代の現金をテーブルの上にそっと置くと、鞄を抱えて静かに席を立った。 背を向け、カフェの出口へと歩き出そうとした、その時。「……無理だよ」 低く絞り出すような真央の声が、背中に突き刺さった。 渚は足を踏み止め、肩越しにゆっくりと振り返る。真央の顔を直視した。「玲の性欲に、あんたがついていけるわけない」 歪んだ執着と嫉妬を撒き散らす真央の言葉に対しても、渚の心はざわつかなかった。かつてのように怯えて俯く渚は、もうどこにもいない。「……知っ
※ ※ ※「今日は和樹の当番ね。天ぷらとか言ってたわ」 社屋の自動ドアを抜け、夕暮れの街へと踏み出しながら、橘が楽しそうに隣の渚へと語りかけた。「ほんと、あの人見た目に反して食いしん坊なんだから。天ぷらなんて揚げ始めるとキリがないのよね」「橘さんは天ぷら揚げないんですか?」「揚げないわよぉ~。だって面倒でしょ?」「そうですね。どちらかと言えば敬遠しますね」「ねー。それを和樹は、タケノコとふきのとうの天ぷらを揚げるんですって」「旬ですね」「食材にもこだわるのよね~。美味しいから別にいいけど」 橘が嬉しそうに目を細めるのを見て、渚も笑う。 和樹が凝った料理をするのは、大好きな橘に喜んで貰うため。彼は、橘が美味しそうに食べている姿を幸せそうに見つめていることを渚は知っている。不意に、玲の顔が彼女の頭に浮かんだ。(玲も、私が食べている姿を嬉しそうに見ていたな) 玲が自分のために料理を作るのは、和樹と同じ理由だったのだろうか――。 玲とは病院で別れてから一週間が経過している。「待つ」と宣言した通り、玲からは連絡はなかった。渚から、まだ連絡はしていない。許せるのか、そもそも自分はどうしたいのか答えが出ていない。 あの時、流した玲の涙と苦痛な叫びは本物だろう。あんな痛々しい彼の素を渚は一度も見たことがなかった。玲はあれを、ずっと自分に隠していたのだろう。(もし、玲が私にありのまま曝け出していたら、私はどうしたんだろう) やっぱりいくら考えても、分からない。「もしも」で今考えても、過去は変わらないから。(玲が好きだという気持ちは変わっていたかな?) その答えは――。 考えながら歩みを進めていたその時だった。「話があるの」 会社の敷地から少し離れた街灯の影から、すっと一つの影が現れた。 不意に現れた人影に渚と橘の足がピタリと止まる。 薄暗い街灯の下へ歩み出てきたのは――真央だった。 整えられたメイクに小綺麗な服。けれど、その瞳
「違う」 玲は渚の言葉を強く遮った。「俺は渚が好きだったんだ。理想だったからじゃない」「玲……」「高校で再会した時、すぐに分かった。何年も会っていなかったのに、人混みの中で、すぐに渚だって分かったんだ」 玲の声が、熱を帯びて激しく揺れた。「あの時、渚に何があったのか知らなかった。短い髪で、夏なのに長袖を着て、スカートの下にジャージを履いてた……。それでも、一目で渚だって分かった。……可愛いと思ったんだ」 あの時感じた愛おしさは、過去の幻影でも、勝手な理想でもなかった。「綺麗な理想を好きだったんじゃない。どんな姿でも、渚そのものが好きだったんだ」 玲は背筋を伸ばし、まっすぐに渚の瞳を見つめた。 もう涙は止まっていた。取り繕った仮面も、哀れな弱音もない。自分の愚かさと歪んだ執着を認め、それでも譲れない想いをただストレートにぶつけた。 理想じゃない。そんな理屈じゃない。 保育園の時に一人で泣いていた自分の手を引っ張ってくれた女の子を、あの時からずっと好きだった。渚が泣いていたら、不安で堪らなかった。渚をイジメる上級生がいれば、自分より体が大きくても怖さを忘れて立ち向かうことができた。それは全部、渚だったからだ。 ただ、小学二年生のあの日だけは、揶揄われるのが嫌で、渚が好きだという気持ちを否定してしまった。「ずっと好きだった俺の気持ちをっ――理想だなんて言葉で踏み躙らないでくれ」「……っ」 血を吐くような玲の叫びに、渚が息を呑み、小さな唇を震わせた。 病室の空気が、痛いほどピンと張りつめる。 渚の唇が震えているのを見て、玲は一度口を閉じた。浅くなった呼吸を整え、今度は声を落とした。「よりを戻したい。また渚と一緒にいたい」 渚は胸の前で手を握り合わせた。「……真央さんは?」「え?」「子どもが……できたんじゃ
「玲、違うよ」 玲の言葉を渚は否定した。けれど、玲は「聞いてくれ」と彼女の言葉を遮った。「違わない。俺は、クラスメイトに渚が好きなんだろ、って揶揄われたんだ。本当に好きだったのに、それがバレるのが嫌で、照れ隠しで否定して、サッカーで遊んだんだ。渚が苦しんでいる時に、俺は遊んでいた。あの時、自分の気持ちに素直になっていれば、渚は襲われなかった。全部、俺のせいなんだ」 胸の底で玲を苛み続けてきた罪悪感を吐露して、玲は両手で頭を抱え込んだ。「そんなことを知らずに、俺はずっと渚を探してたんだ」 ボロボロと溢れ落ちる涙が、白いシーツに次々と丸い染みを作っていく。玲の喉から、くぐもった痛々しい声が漏れ出た。「渚が転校していった理由も何も知らず……渚が消えてしまって楽しみもなくなって、毎日が灰色だった。でも、高校一年の夏に渚と再会して……奇跡だって、思った。毎日が楽しくて、灰色だった世界が一気に輝いたんだ。でも、渚の過去を知って、俺は自分がなんて呑気な人間だったんだろうって……」 どれほど後悔しても、過去には戻れない。 自分の照れ隠しのせいで、渚の人生を狂わせてしまった。その重みに押し潰されそうになりながら、玲は胸の奥の叫びを必死に絞り出した。 「渚に嫌われたくなかった。また突然俺の前からいなくなったら、俺、生きていけないと思った。だから……隠して、取り繕って……嫌われない自分だけを見せようとした。それが、全部間違いだった」「渚が、怖かった」 玲は震える手で、髪を掻き乱した。「渚を壊してしまいそうで怖かった。誰よりも大好きで、俺のだって証明したかった。本当は、激しくしたかった。でも渚に嫌われてしまうと思って絶対できない。だから別のところで発散していた。渚を守るためだった」 渚に見せる優しい顔も、職場の人間に見せる顔も、どちらも玲の本物の一面で、決して偽装じゃなかった。渚に嫌われることを恐れて、受け入れられそうな自分の一部だけを選んで見せていた。執着・支配欲・本性の粗さを隠し、その反動
※ 重く湿った消毒液の匂いで目が覚めた。 白い天井を見上げながら、玲はぼんやりと自分の手元を見る。 (俺なんて……そのまま死ねばよかったのに……) 自嘲混じりの思いが脳裏をよぎり、深い息を吐き出した。その時、すぐ隣で衣擦れの音が聞こえた。 ゆっくりと視線を動かす。 パイプ椅子に腰掛け、自分を見つめていたのは――渚だった。 「渚……」 玲の胸に、パッと光が差し込むような歓喜が広がった。自分の元を去っていったはずの渚が、ここにいる。まだ自分を見捨てていないのかもしれないという淡い期待が浮かんだ。 渚は、玲を見ると肩を落とし安堵したように息を吐いた。そして、静かに微笑んだ。 「よかった……目を覚ましたんだね」 久し振りに聞く渚の声は、凪のように穏やかだった。 街で見かけた時よりも、髪が少し伸びているような気がした。 手が届く距離に、渚がいる――彼女の瞳が、自分を映してくれている。 「渚……俺……」 渚に手を伸ばすも、彼女はそれを、首を左右に振って拒絶した。優しい、拒絶だった。 「頭を打ったけど、具合は?」 渚に拒絶された手を、玲はそのまま自分の後頭部に持って行く。小さなたん瘤ができていた。 「検査では異常はないって。でも、頭を打ってるから一日入院してってお医者さんが言っていたよ」 渚が静かに立ち上がろうとした。 「待ってくれ」 玲は声を振り絞る。渚は足を止め、悲しそうな瞳で玲を見つめ返した。 「話を……したい」 「今は安静にしなきゃ」 「頼む……お願いだから」 この機会を逃したら、渚と次に話す機会があるとは限らない――玲は上半身を起こし、渚に頭を下げた。 「玲、寝てないと……」 「頼む」 静寂が二人を包み、渚からは何も発せられなかった。 静かに時が経ち、やがてカタっ、という小さな音が玲の耳に入った。ゆっくりと顔を上げると、席を立ったはずの渚はパイプ椅子に腰を下ろしていた。 玲は、小さく息を吐いた。
「上司の橘だ」 すっと立ちはだかったままの男が、静かに、けれど逃げ場のない圧で告げた。「橘部長……? 女じゃなかったのか……?」 今思えば、渚から一度も女性だと告げられたことはなかった。女性が多い職場だから男性のはずがないと玲が思い込んでいただけだったのだ。「あんたと、出張に行った……?」 上司と出張、という言葉は嘘ではなかった。ただ、相手が男性だった。新幹線の写真で写り込んでいたガタイのいい男は、目の前にいる男だ――。(渚と、どういう関係だ?) 男性一般が苦手な渚が、食事中にいつも楽しそうに橘の話をしていた。それほどまでに、彼を尊敬していた。自分は相手が男性とは知らないまま、仕事に夢中になれている渚を見て遠くに行ってしまいそうな不安を覚える一方で、彼女の楽しそうな姿を見て幸福感にも満ちていた。 そんな上司と出張に一緒に行った――男なのに。(俺の不安は、当たっていたのか?) 新幹線の窓に映っていた男が誰なのか、不安で押し潰されていた過去が蘇る。(渚は、この男は平気なのか。どういう関係なんだ?) ただの上司と部下のはずがない――土曜日にこうして並んで歩いていることが、まずおかしい。(男性恐怖症を克服したのか? こいつのために?) 自分が渚を待っている間に、彼女は前を見て歩いていた。玲を置いて。その事実に理解が追い付かず、玲は口元を押さえながら、よろけた。「俺は、もう……必要ないのか?」 玲は荒い息を吐き出しながら、困惑と混乱を隠せずに呟く。 橘の背後から、恐る恐る渚が顔を出した。「渚……」「玲」 渚の声が震えている。 自分が周りの目も憚らず、通行人の足を止めるほどの大声を出していたことに、玲はようやく気付いた。 ハッと我に返り、長く熱い息を吐き出す。何事もなかったかのように、穏やかに笑って取り繕おうとした。「…&
「どうぞ」 無害そうな笑みを浮かべ、隣りを促すと女は恐る恐る玲の隣りに座った。 Barの高い椅子も不慣れなのか何度も座り直す。その度にスカートが捲れそうになり、慌てて手で押さえていた。 ようやく、思ったように座った彼女はマスターに「同じのを下さい」と伝えた。度が強いウイスキーだということを玲は教えなかった。 ――案の定、二杯で酔ってしまっていた。 「わたし、今日が二十歳のたんじょうび、なんれす」 「おめでとう」 心のこもらない言葉を、グラスで隠す。 女は愚痴を喋り続けている。 玲はそれを聞き流しながら、別のことを思い出していた。 (あの時) ――怖かった、と震える声で
※ ※ ※ 別に渚を疑っている訳じゃない。 社会人にでもなれば、残業は増えるものだ。 ここ最近になって、残業が増えたのは事業部長が変わったから、と言うのも納得は出来る。 だが――相手は海外から赴任してきた人物だ。 そんな人間が日本の悪しき風習である残業を部下にさせるだろうか。しかも、決まって毎週金曜日。金曜は渚に手料理を振る舞って、その後は配信ドラマや映画を観て、ベッドに入るという流れが今では夕食の時間が遅れ、ドラマと映画を見る時間が削られてしまっていた。 「橘部長がね、アメリカ本社のパーティで」 (橘) 「橘部長が、アメリカのカフェで」 (橘) 「橘部長が、今日の会議
「してないよ」 すぐに返ってきた。でも一瞬の間があった。 渚は何も言わなかった。 「……何か、あった?」 不安そうに訊ねた玲に、「なんでもない」と答えて首を振る。そして、玲の胸に顔を埋めた。 髪を撫でる手が、また動き始める。 (してる) 渚には分かった。 玲が渚のペースに合わせていること。怖がらせないように、壊さないように、触れていること。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも。 (玲に、ずっと我慢させてる) 渚のせいで。渚が怖がるから。渚が、普通じゃないから。 玲は優しい。 怖がれば止まってくれる。 無理をさせない。 急かさない。 渚が泣きそうになれば、
「……え?」 顔を上げる。 思考が止まる。 「パートナーいるし、女性に何かする気はないから安心して」 あっさりと言われた。 あまりにも自然で、冗談にすら聞こえない。 暫くして、橘が携帯を取り出した。何かを操作して、それを渚の方に向けた。 画面には、二人の男性が並んで笑っている写真があった。 (二人とも、幸せそう……) いい写真だった。 「俺のパートナー。十年になる」 渚は、その写真をじっと見た。 「だから」と橘は言った。「怖がらなくていい」 渚はまだ写真を見ていた。 胸の中で何かがゆっくりと解けていくのを、渚は感じていた。 「それと」と橘が小声で、教







