「それに、婚約者として、お帰りなさいませのご挨拶くらいは、お伝えしてもよろしいかと思いまして」 透の瞳が、わずかに細められた。 暗い廊下で、二人の視線が音もなく火花を散らす。 「君に、そんな役割は求めていない」 透は吐き捨てるように言った。 「この家では余計なことをするな。僕にも近づくな」 飾りの妻。 あるいは、ただ置かれているだけの家具。 その言葉の響きは、前世の会議室で「君個人の意図などどうでもいい」と切り捨てられた時の、あの乾いた上司の声とひどく似ていた。 胸で、古い傷跡がチリッと痛む。 私は彼にとって、同じ家の中にいるだけの、何の価値もない異物だ。 普通なら、ここで傷つき、涙ぐんで部屋に逃げ帰る場面だろう。 けれど、私の脳裏では、広報担当として無数の人間を観察してきた「冷静な別の視点」が、急速に論理を組み立て始めていた。 おかしい。 透の態度は、あまりにも不自然だ。 本当に無関心なら、足を止めてまで拒む必要はない。ただ無視して、すれ違えばいい。 拒絶の言葉と、こちらへ向き直った身体の動きが、わずかに噛み合っていなかった。 透の顔を、穴のあくほど見つめる。 冷酷な表情を崩さない彼の視線が、ほんの一瞬、不自然に動いた。 私の顔ではなく、少し下に。 薄いナイトガウン一枚しか羽織っていない私の肩先、あるいは冷たいフローリングに立つ素足のつま先へ。 そのとき、透の右手がほんの数ミリだけ私の方へ動きかけた。 何をしようとしたのか読み取る前に、その指は止まった。 次の瞬間には、もう手を引いていた。 空中で止まった手は、行き場を失ったように固く握り込まれ、スーツのズボンの脇へと乱暴に押し戻された。 ……わからない。 拒絶の言葉と、途中で止まった手。その食い違いだけが残った。 途中で止まった手が、拒絶なのか、別の衝動だったのかはわからない。冷酷な言葉だけを答えにするには、動きが一つ余っていた。 昨日の『僕を信じるな』も、同じ食い違いを残していた。二つを結ぶには、まだ材料が足りない。 「……風邪を引くぞ。部屋に戻れ」 透はそれ以上私と視線を合わせることなく、短くそう言い捨てた。 それから、私を避けるように大きく迂回し、自分の部屋があるであろう廊下の奥へと足早に歩
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