All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話 冷たい婚約者③

「それに、婚約者として、お帰りなさいませのご挨拶くらいは、お伝えしてもよろしいかと思いまして」  透の瞳が、わずかに細められた。  暗い廊下で、二人の視線が音もなく火花を散らす。 「君に、そんな役割は求めていない」  透は吐き捨てるように言った。 「この家では余計なことをするな。僕にも近づくな」  飾りの妻。  あるいは、ただ置かれているだけの家具。  その言葉の響きは、前世の会議室で「君個人の意図などどうでもいい」と切り捨てられた時の、あの乾いた上司の声とひどく似ていた。  胸で、古い傷跡がチリッと痛む。  私は彼にとって、同じ家の中にいるだけの、何の価値もない異物だ。  普通なら、ここで傷つき、涙ぐんで部屋に逃げ帰る場面だろう。  けれど、私の脳裏では、広報担当として無数の人間を観察してきた「冷静な別の視点」が、急速に論理を組み立て始めていた。  おかしい。  透の態度は、あまりにも不自然だ。  本当に私を「ただの飾り」として無関心に扱うつもりなら、わざわざ足を止め、こんな強い言葉で威嚇する必要はない。ただ無視してすれ違えばいいだけだ。  彼は過剰に線を引こうとしている。  私が、その線を越えてくることを、まるで恐れているように。  透の顔を、穴のあくほど見つめる。  冷酷な表情を崩さない彼の視線が、ほんの一瞬、不自然に動いた。  私の顔ではなく、少し下に。  薄いナイトガウン一枚しか羽織っていない私の肩先、あるいは冷たいフローリングに立つ素足のつま先へ。  そのとき、透の右手がほんの数ミリだけ私の方へ動きかけた。  冷えている身体に触れようとするような、無意識の反射。  だが。  彼はその動きを、強靭な意志の力で強引に制止した。  空中で止まった手は、行き場を失ったように固く握り込まれ、スーツのズボンの脇へと乱暴に押し戻された。  鼻を掠めるシトラスの香りが、彼の体温がほんの少し上がっていることを教えている。  ……ああ。なるほど。  肺の奥に溜まっていたひやりとした空気が、ふっと溶けていくのを感じた。  この人は、私を排除したいのではない。  憎んでいるわけでも、無関心なわけでもない。  近づけば私が壊れてしまうと信じ込んでいるから、あえて冷酷な言葉をぶつけて、自分から遠ざけようとしているのだ。
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第22話 母の微笑み①

 ナイトガウンの襟元を掻き合わせ、冷たい絨毯の上に立ち尽くしていた。  奥の廊下へと消えていった天野透の足音は、分厚いペルシャ絨毯に吸い込まれ、もうかすかな反響すら残っていない。  廊下の壁に等間隔に埋め込まれたフットライトが、私の素足の周囲に濃い影を落としている。  シトラスと冬の外気が混じった彼の匂いが、まだ鼻腔の奥に薄く張り付いていた。  ――この家では余計なことをするな。僕にも近づくな。  その言葉の表面だけを掬い取れば、完全な拒絶であり、私という人間を徹底的に無価値なものとして扱う冷酷な宣告だ。  けれど、私の肩先に向けられた彼の視線の揺れ。無意識に伸びかけ、強引に押し留められた右手の不自然な軌道。上がっていた体温の気配。  それらの小さな情報は、言葉の裏側にある別の感情の気配を、かすかに示しているように思えた。  少なくとも、彼は私が憎いから遠ざけたわけじゃないのかもしれない。近づけば私が壊れてしまうと恐れているような、そんな不器用な線の引き方に見えた。  ゆっくり自室の扉へと引き返す。  ひやりとした真鍮のドアノブを回し、部屋の中へ戻った。  遮光カーテンに閉ざされた室内は、深夜の暗闇と、完璧に設定された空調の冷気に満たされている。  ベッドに潜り込み、シルクのシーツを肩口まで引き上げた。  彼の恐れの正体はわからない。過去の花嫁たちに何があったのか、この屋敷のからくりが私をどう処分しようとしているのかも、未だ霧の中だ。  けれど、ただ怯えて嵐が過ぎ去るのを待つだけの時間は、終わった。  広報の仕事で、炎上した企業の危機管理対応を嫌というほど見てきた。情報が遮断され、周囲が「おとなしくしていろ」と強要してくる環境下において、無知は最大の死因になる。  目を閉じ、呼吸を深く、ゆっくり繰り返す。  明日には、この巨大な城塞の真の支配者である、美津子との対面が控えている。  冷えたシーツの中で、私は足の指先をぎゅっと丸め込み、かすかな自分の体温だけを頼りに意識を手放した。◇ 翌日の午後。  窓枠いっぱいに広がる空は、皮肉なほど抜けるように青かった。  けれど、分厚いガラス越しに見える庭園の木々は一本の乱れもなく整列し、風に揺れることすら許されていないように静まり返っている。 「……凛花お嬢様。お召し物の準備が整い
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第23話 母の微笑み②

「ありがとう、千尋さん」  努めて平坦な声で返し、ワンピースに袖を通す。  上質なシルクとオーガンジーが重ねられた生地は、肌に触れると驚くほど軽く、それでいて身体のラインを完璧に補正するような仕立てになっていた。水科家が用意したものではない。この屋敷に入った時点でクローゼットに用意されていた、天野家が「ふさわしい」と判断した装いだ。  鏡の前に立つ。  そこには、青ざめた肌にコーラルピンクの口紅で無理やり血色を足された、精巧なビスクドールのような女が映っていた。  感情を消す。  呼吸の深さを調整し、胸の上下の動きを最小限に抑える。  前世で、マスコミからの厳しい追及が予想される緊急記者会見の前に、鏡の前で何度も繰り返した「顔の作り方」だ。 「……お時間です。ご案内いたします」  千尋の絞り出すような声に従い、部屋を出た。  音を吸い込む深紅の絨毯の上を、千尋の少し後ろについて歩く。  一階へ降り、吹き抜けの玄関ホールを迂回して、屋敷の西翼へと向かう。  すれ違う使用人たちは、昨日と同じように壁際に張り付き、一糸乱れぬ角度で頭を下げた。だが、その視線の重さは昨日とは少し違っていた。  彼らは、これから「奥様」の領域へ足を踏み入れる私を、まるで生贄の羊でも見送るような、あるいは「この娘はいつまで持つだろうか」と品定めするような、不気味なほどの無関心と好奇心の混じった目で捉えていた。  長い廊下の窓から、中庭の風景が連続して流れ込んでくる。  その一角に、ガラス張りの巨大な温室が見えた。  太陽の光を反射して白く輝くその構造物は、屋敷の他の部分とは少し毛色が違うように感じられた。  そちらにわずかに視線を向けた瞬間。 「……あちらには、近づかれませんよう」  前を歩く千尋が、振り返りもせずに低い声で言った。 「温室ですか?」 「あちらの管理は、特別な許可を得た庭師以外、立ち入りが禁じられておりますので」  千尋の背中が、かすかに強張っているのがわかった。  立ち入り禁止の温室。  なぜ、植物を育てるだけの場所にそんな制限があるのか。  理由を問いただそうとしたが、千尋の足がピタリと止まったため、口をつぐんだ。  目の前には、白木に金色の装飾が施された、ひときわ重厚な両開きの扉がそびえ立っていた。 「こちらが、サンルー
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第24話 母の微笑み③

 床には白大理石が敷き詰められ、中央には細いアイアンフレームの白いテーブルと椅子が配置されている。 そして、そのテーブルの上座に。 真っ白なレースのドレスに身を包んだ女性が、一幅の絵画のように完璧な姿勢で座っていた。 天野美津子。 五十代前半と聞いているが、その肌にはシワ一つなく、陶器のように滑らかで透き通っている。ゆるやかに結い上げられた黒髪には、一筋の乱れもない。 だが、その圧倒的な美しさよりも先に、私の皮膚の表面を急に粟立たせたのは、彼女の周囲に満ちている「絶対的な静謐」だった。 彼女が座っているだけで、その空間の空気が、彼女の肺のペースに合わせて強制的に循環させられているような、異様な圧迫感。「いらっしゃい、凛花さん」 鈴を転がすような、高く澄んだ声。 美津子は、ふわりと花が綻ぶような完璧な微笑みを浮かべた。「お待ちしておりましたよ。さあ、こちらへ」 優雅な手の動きで、向かいの席を勧められる。 私はゆっくり歩みを進め、背筋を伸ばしたまま、音を立てずに椅子に腰を下ろした。 テーブルの上には、繊細な花の絵付けが施されたマイセンのティーセットと、三段のスタンドに盛られた色彩豊かなプチフールが、定規で測ったような完璧なバランスで配置されている。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」 膝の上で両手を重ね、一礼する。「昨夜はご体調を崩されたと伺い、案じておりました。お加減はいかがですか」 私の言葉を聞き、美津子は小首をかしげて、クスクスと愛らしい音を立てて笑った。「ええ、ありがとう。お恥ずかしいわ、あなたがいらっしゃるというのに、少し頭痛がしてしまって。でも、もうすっかりよろしいのよ」 その瞳の奥には、申し訳なさなど微塵もなかった。 ただ、自分の「頭痛」という小さな嘘一つで、屋敷のスケジュールがどう変化し、新しい婚約者がどう反応するかを観察して楽しんでいるような、冷たい輝きがある。 千尋が音もなく近づき、私の前のティーカップに紅茶を注いだ。 ポットの注ぎ口から、琥珀色の液体が細い糸のように流れ落ち
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第25話 母の微笑み④

「とても良い香りです。いただきます」  私は表情を一切崩さず、カップを持ち上げて唇をつけた。  完璧な温度、渋みを一切感じさせない完璧な抽出。  けれど、昨日の晩餐と同じように、味はまったくしなかった。喉を通過する熱い液体の感触だけが、食道を焼くように伝わっていく。 「お父様は、お元気でいらっしゃる?」  美津子が、スプーンで紅茶をかき混ぜることもせず、じっとこちらを見つめながら問いかけてきた。 「水科の当主として、あれほどの……ええ、ご苦労を抱えながらも、お家を守ろうとなさるお姿には、わたくしも胸を痛めておりましたのよ。お優しい方ですから、きっとご自身を責めていらっしゃるのではないかしら」  胃の底が、冷たい手でぎゅっと掴まれたように収縮した。  借金のカタに娘を売り飛ばした父親のことを、「優しいから自分を責めている」と表現する。  これは、心配ではない。  水科家の首根っこを天野家が握っている事実を、「私はすべて知っていますよ」という慈愛のベールを被せて突きつけているのだ。 「父は天野家のお力添えに、ただただ感謝しておりました」  喉にこびりつくような紅茶の香りを飲み込みながら、私は抑揚のない声で答えた。 「そう。それは良かったわ」  美津子は満足そうに微笑んだ。  彼女の視線が、私の頭の先から、テーブルの下のつま先に至るまで、ゆっくり撫で回すように舐め下がっていく。  新しく手に入れた高価な人形に、傷がないか、関節の動きが自分の好みに合っているかを確認するような目。 「凛花さん。あなた、とてもお綺麗ね。透の隣に並ぶのに、とてもふさわしいわ」 「……身に余るお言葉です」 「でもね」  美津子の声のトーンが、半音だけ下がった。  サンルームの窓から差し込む陽光は変わらないのに、急に太陽が雲に隠れたように、部屋の空気が重く冷え込んだ。 「この家では、皆が透を支えているの。あなたにも、あの子の負担になるようなことは控えてほしいわ」  彼女は私の目から一切視線を逸らさない。 「透は本当に優しすぎるの。誰かが困っていると放っておけなくて、すぐ無理をする。母親として、これ以上あの子を煩わせるものは増やしたくないの」  要らないもの。  その言葉の矛先がどこに向かっているのか、広報としての私のセンサーが、けたたましく警報を鳴
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第26話 母の微笑み⑤

「過去にいらしたお嬢様たちもね」 美津子が、ふうっと小さく、悲しげなため息を吐いた。「とても美しい方々だったのだけれど。少しだけ、お心が弱くていらしたの。この家の重圧に耐えきれず、自ら心を病んでしまわれたり、不幸な事故に遭われたり……。わたくし、本当に悲しかったわ」 背筋に、氷の柱を叩き込まれたような悪寒が走った。 心臓の鼓動が、自分でも聞こえるほどに早鐘を打っている。 過去の婚約者たち。 契約書の第六条にあった『精神的失調、死亡、その他乙の責に帰すことのできない事由』。 それを、この女主人は、涼しい顔でティーカップを傾けながら、「お心が弱かったから」と一言で片付けたのだ。 彼女たちは、美津子のこの執拗な、真綿で首を絞めるような『完璧な心配』という名の攻撃に、徐々に精神を削られ、壊れていったのではないか。 前世の会議室で、私は言葉を切り取られ、悪意ある要約によって「責任転嫁をした極悪人」に仕立て上げられた。 だが、美津子の手口は違う。 彼女は、言葉を切り取る必要すらない。『お父様はご苦労なさって』『透は優しすぎるから』『過去のお嬢様はお心が弱くて』 これらの言葉は、録音して誰に聞かせても、単なる「思いやりに満ちた優しい姑の言葉」としてしか機能しない。 言葉の前後の流れも、文脈も、完璧に整えられている。 だからこそ、反論ができない。 怒れば「心配しているのに被害妄想が激しい」、泣けば「感情的で天野家にふさわしくない」とラベリングされ、自滅させられる構造が、最初から完璧に組まれているのだ。 息が苦しい。 酸素が肺に届かず、肋骨の裏側がギリギリと軋むように痛む。 前世で、非常階段の縁に立った時のあの圧倒的な孤立感が、形を変えて再び私を飲み込もうとしていた。「凛花さん?」 美津子が、小首をかしげて私を見た。「お顔色が優れないようだけれど。お紅茶、お口に合いませんでした?」「……いえ。とても、美味しいです」 私は、膝の上で震える両手
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第27話 母の微笑み⑥

 三十五分後。 永遠のように感じられた茶会が終わり、私は私室へと解放された。 千尋の案内で部屋に戻り、重い扉が閉まった瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は絨毯の上に膝から崩れ落ちた。「はっ、ぁ……っ」 浅く、早い呼吸が連続して漏れる。 胃の奥から、酸っぱいものがせり上がってくる。 怖い。 あの会議室の記憶よりも、SNSの悪意よりも、ずっと底知れない恐怖がこの屋敷にはある。 美津子のあれは、ただのいびりや嫁姑の小競り合いではない。 彼女は本気で、自分が正しいと信じている。透を守るためなら、周囲の人間を精神的に殺すことすら「必要な処置」として正当化できる、歪みきった保護の形。 手すりにすがりつくようにして立ち上がり、私はフラフラとした足取りでクローゼットへ向かった。 靴箱の裏の隙間に手を差し込み、冷たい革張りの小さなメモ帳を引きずり出す。 震える手でボールペンを握り、真新しいページを開いた。 インクを落とす手がひどく波打っている。 それでも、私は書かなければならない。 感情に飲み込まれ、自分の輪郭が曖昧になっていく前に、この理不尽な圧力を「事実」という文字の羅列に変換して、自分をこの世界に繋ぎ止めなければならない。『記録日 午後三時。サンルームにて美津子と茶会』『美津子の発言:「過去のお嬢様たちは心が弱く、心を病むか事故に遭った」「透の不幸にならないでね」』『美津子の目的:透への接近の完全な排除。精神的な圧迫による自滅の誘導』 書き終えた文字は、インクの濃淡がまばらで、ひどく歪んでいた。 ボールペンを取り落とす。 カラン、という軽いプラスチックの音が、静まり返った部屋に虚しく響いた。 紅茶の甘い匂いが、まだ鼻腔の奥にこびりついて離れない。 私の指先は、氷水に長時間浸したように、熱を失っていた。 しばらくして、控えめなノックの音がした。 返事をするより早く、千尋が小さな盆を手に入ってくる。 盆の上には、湯気の立つ白湯と、胃を落ち着かせ
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第28話 侍女の小さな嘘①

 カラン、というプラスチックの軽い音が、耳の奥で何度もリフレインしていた。  絨毯の上に落ちたボールペンを拾い上げるだけの力が、指先に入らない。  膝を抱えるようにして座り込み、靴箱の裏から引っ張り出したメモ帳を見つめ続ける。 『美津子の目的:透への接近の完全な排除。精神的な圧迫による自滅の誘導』  自分の手で書き殴ったその文字は、インクの濃淡がひどくまばらで、最後の「誘導」の二文字は紙の繊維を削るように強く書き込まれていた。  サンルームでの茶会から、どれくらいの時間が経ったのだろう。  完璧に設定された空調が、かすかな駆動音を立てながら部屋の空気を一定に保ち続けている。だが、私の肺はうまく酸素を取り込めず、肋骨の内側にへばりついたような浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。  ――透の不幸にならないでね、凛花さん。  美津子のあの甘く、氷のように乾いた声が、脳のヒダに直接へばりついている。  ただの嫌がらせなら、耐えればいい。怒りで跳ね返せばいい。  だが、彼女の攻撃は「母親としての正当な心配」という完璧な装甲を纏っていた。反論の余地を一切与えず、私の存在そのものが「天野家の波風」であると定義し、自ら身を引くか壊れるかを強要してくる、出口のない迷路。  深く息を吐き出し、ようやく右手を動かした。  ボールペンを拾い、メモ帳に挟み込む。  立ち上がると、足首から先が感覚を失っているようなちぐはぐな重さがあった。  クローゼットの奥、靴箱の裏のかすかな隙間に、再びメモ帳を滑り込ませる。暗がりに革の表紙が吸い込まれるのを見届け、重い木製の扉を閉めた。  窓の外を見ると、抜けるような青空はすでに色を失い、庭園の木々の影が長く伸びていた。  部屋の中へ、青暗い夕闇がじわじわと入り込んできている。  ソファに身を沈め、目を閉じた。  前世の職場で、顧客情報の誤送信トラブルの責任を一人で押し付けられそうになった時のことを思い出す。  あの時も、周囲の言葉は完璧に「会社を守るため」という正義でコーティングされていた。私の『正しい時系列を残したい』という意図は、誰の耳にも届かず、ただの面倒な言い訳として処理された。  圧倒的な力を持つ組織や人間が、「これが事実だ」と一度ラベリングしてしまえば、個人の声などいくらでも透明にされてしまう。
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第29話 侍女の小さな嘘②

 彼女は、夕方の少し暗くなった廊下を背にして、銀色のワゴンを両手でしっかりと握りしめていた。ワゴンには、白いクロスがかけられたトレイが載っている。 「失礼いたします、凛花お嬢様。夕食前の、お部屋の整頓とお茶の準備に参りました」  千尋の声は、昼間に私を迎えに来た時よりも、わずかにトーンが低かった。 「ええ。入ってちょうだい」  千尋は一礼し、ワゴンを押して部屋の中へ入ってくる。  分厚い絨毯のせいで、車輪の音はほとんどしない。彼女のメイド服の裾が擦れる、かすかな衣擦れの音だけが空間に落ちる。  私はソファに座ったまま、彼女の動きを観察していた。  天野本邸の使用人たちは、玄関ホールに並んでいた時も、サンルームの扉の前に控えていた時も、皆一様に機械のような完璧な挙動を保っていた。視線は合わせず、感情の起伏を一切見せず、ただ決められた役割をこなすだけの存在。  だが、千尋は少し違う。  彼女の動きは丁寧で無駄がないが、サイドテーブルの上の花瓶の位置を直す時や、窓際のカーテンを引く時に、ほんのわずかな「間」があった。  息を詰めているような、あるいは、何か恐ろしいものの気配を常に背後に感じて強張っているような、人間らしい隙。  千尋は、ベッドメイキングの最終確認を終えると、ワゴンの前に戻ってきた。  白いクロスをめくり、ティーカップとソーサーをテーブルに並べる。  そして、ポットを持ち上げた彼女の手が空中でピタリと止まった。  千尋の視線が、私の方へ向けられる。  伏し目がちだった彼女の瞳が、初めて私の顔を真っ直ぐに捉えていた。 「……あの」  千尋の唇が、微かに震える。 「奥様とのお茶の時間、お疲れになられたのではないかと思いまして」  彼女の言葉に、私は思わず眉を寄せた。  使用人から、主人の行動に対する労いの言葉など、この徹底的に管理された屋敷で許されるはずがない。 「これは、奥様からのご指示ではありません。ただの、私個人の判断でございますが……」  千尋は、ポットからカップへと、静かに黄金色の液体を注いだ。  サンルームで出された、香りの強すぎるダージリンではない。  立ち上ってきたのは、カモミールと少しの蜂蜜が混ざったような、丸く、甘く、ひどく素朴な香りだった。 「温かいハーブティーです。胃に負担がかからず、神経
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第30話 侍女の小さな嘘③

 あの時、もし誰かが一杯の温かいお茶を差し出してくれていたら、私は非常階段の扉を開けずに済んだのだろうか。 「……ありがとう」  私は本当に自然に、声の奥の震えを隠すことなく言った。  両手でカップを包み込むように持ち上げる。  薄い磁器越しに伝わってくる熱が、氷水に浸していたように冷え切っていた手のひらを、じんわりと溶かしていく。  口をつけると、蜂蜜の優しい甘さが舌の上に広がり、喉へと温かい塊となって落ちていった。  サンルームでの紅茶はまったく味がしなかったのに、このお茶は、五感がしっかりと味と温度を拾い上げている。 「とても、美味しい」  カップから口を離し、千尋に向かって口角を上げた。  千尋の肩から、わずかに力が抜けた。彼女は小さく息を吐き出し、胸の前で手を組み合わせた。 「お口に合いましたなら、幸いでございます」  彼女の瞳の奥に、怯えとは違う、小さな安堵の光が宿った。  完全な敵ばかりのこの屋敷で、この侍女だけは、美津子の手先として私を監視するだけの機械ではない。彼女の中には、確実に「目の前の人間を気遣う」という個人の意思が生きていた。 「千尋さん」  カップをソーサーに戻し、私は彼女に声をかけた。 「まだ、この屋敷のルールがよくわかっていなくて。食事の時間や、私が一人で出歩いてもいい場所など、基本的なことを教えてもらえるかしら」  千尋は居住まいを正し、静かな声で答えた。 「朝食は八時、昼食は十二時、夕食は十九時です。旦那様や奥様がいらっしゃらない日は、お部屋にもお持ちできます」 「出歩いてはいけない場所は?」 「西翼の奥、奥様の私室や書斎のエリアは、お呼び出しがない限りは立ち入りをご遠慮いただいております。それから……」  千尋の言葉が、ふっと途切れた。 「それから?」 「裏庭に続く、使用人の通用口付近も。そして……先ほども申し上げましたが、中庭の温室には、決して近づかれませんよう」  再び出た、温室の話題。  千尋の視線が、テーブルの上のティーカップの縁へ不自然に逸らされる。  私は広報としての会話のスイッチを入れた。相手が口を閉ざしかけた時、無理にこじ開けるのではなく、質問の角度を変えて投げる。 「このお茶、本当に落ち着く香りね」  私はカップの縁を指先でなぞりながら言った。 「以前この
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