「それに、婚約者として、お帰りなさいませのご挨拶くらいは、お伝えしてもよろしいかと思いまして」 透の瞳が、わずかに細められた。 暗い廊下で、二人の視線が音もなく火花を散らす。 「君に、そんな役割は求めていない」 透は吐き捨てるように言った。 「この家では余計なことをするな。僕にも近づくな」 飾りの妻。 あるいは、ただ置かれているだけの家具。 その言葉の響きは、前世の会議室で「君個人の意図などどうでもいい」と切り捨てられた時の、あの乾いた上司の声とひどく似ていた。 胸で、古い傷跡がチリッと痛む。 私は彼にとって、同じ家の中にいるだけの、何の価値もない異物だ。 普通なら、ここで傷つき、涙ぐんで部屋に逃げ帰る場面だろう。 けれど、私の脳裏では、広報担当として無数の人間を観察してきた「冷静な別の視点」が、急速に論理を組み立て始めていた。 おかしい。 透の態度は、あまりにも不自然だ。 本当に私を「ただの飾り」として無関心に扱うつもりなら、わざわざ足を止め、こんな強い言葉で威嚇する必要はない。ただ無視してすれ違えばいいだけだ。 彼は過剰に線を引こうとしている。 私が、その線を越えてくることを、まるで恐れているように。 透の顔を、穴のあくほど見つめる。 冷酷な表情を崩さない彼の視線が、ほんの一瞬、不自然に動いた。 私の顔ではなく、少し下に。 薄いナイトガウン一枚しか羽織っていない私の肩先、あるいは冷たいフローリングに立つ素足のつま先へ。 そのとき、透の右手がほんの数ミリだけ私の方へ動きかけた。 冷えている身体に触れようとするような、無意識の反射。 だが。 彼はその動きを、強靭な意志の力で強引に制止した。 空中で止まった手は、行き場を失ったように固く握り込まれ、スーツのズボンの脇へと乱暴に押し戻された。 鼻を掠めるシトラスの香りが、彼の体温がほんの少し上がっていることを教えている。 ……ああ。なるほど。 肺の奥に溜まっていたひやりとした空気が、ふっと溶けていくのを感じた。 この人は、私を排除したいのではない。 憎んでいるわけでも、無関心なわけでもない。 近づけば私が壊れてしまうと信じ込んでいるから、あえて冷酷な言葉をぶつけて、自分から遠ざけようとしているのだ。
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