All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話 誰も座らない席④

 私は膝の上で両手を強く握りしめた。  爪が手のひらに食い込む痛みが、私の意識を現実へと繋ぎ止める。  透は再びナイフを手に取り、黙って肉を切り分け始めた。  けれど、彼の指先の関節は白く鬱血しており、肉を切るというよりは、何か見えない敵を必死に押さえつけているような動きだった。  彼は知っているのだ。  この席の主たちが、美津子の言うようにただ「心を病んで」消えたのではないことを。  それから、自分が彼女たちを守れなかったという巨大な傷を、毎日この食卓で見せつけられながら、母の支配下で生かされていることを。  温室で見せたあの痛切な懺悔の顔が、再び私の脳裏に蘇る。  食事は、その後も息苦しい沈黙の中で続いた。  美津子は時折、私に対して「お魚のお味はどうかしら」などと穏やかに問いかけてきたが、私は「とても美味しいです」という定型文を返すことしかできなかった。  味がしないのではない。飲み込むことすら、命を削るような作業だった。  やがて、長い長い晩餐が終わりを告げた。 「ごちそうさま。凛花さん、今夜はゆっくりお休みなさいね」  美津子が優雅に立ち上がり、使用人を引き連れてダイニングを去っていく。  透もまた、私に一言も声をかけることなく、背を向けて扉の方へと歩き出した。 「透さん」  私は彼の背中に向かって小さく声をかけた。  透の足が止まる。だが、彼は振り返らない。 「……何だ」 「ごちそうさまでした」  それだけを告げる。  何かを問い詰めるべきではない。今ここで彼に過去を尋ねても、彼はさらに分厚い氷の壁を築くだけだ。  透は何も言わず、ダイニングルームを出て行った。  最後に残された私に、黒瀬が近づいてくる。 「凛花お嬢様。お部屋までご案内いたします」 「ええ。ありがとう」  私は椅子から立ち上がろうとして、ふと、隣の「空席」へと視線を落とした。  シャンデリアの光を反射する、手つかずの銀食器とクリスタルグラス。  その椅子の足元。  深紅のペルシャ絨毯の上に、何か白い小さなものが落ちているのが見えた。  しゃがみ込み、それに手を伸ばす。  黒瀬が微かに身を乗り出したが、私の方が早かった。  指先で摘み上げたそれを見た瞬間、私の全身の血液が、急激に温度を失って逆流するのを感じた。  一枚の、白
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第42話 最初の社交①

 ダイニングルームで拾い上げた一枚の白い花びらは、私の自室のクローゼットの奥、靴箱の裏に隠された革張りのメモ帳のページに挟み込まれた。  肉厚で滑らかだった純白の花びらは、一晩の間にほのかに水分を失い、縁のあたりがうっすらと茶色く変色し始めている。  あの誰も座らない席。  そこで見えない食事を強いられているのは、過去にこの屋敷から消された花嫁の亡霊なのか、それとも、近い未来に私が座らされることになる処刑台なのか。  花びらの変色をじっと見つめ、私は小さく息を吐いてメモ帳を閉じた。  その日の午後。  私は千尋の手によって、淡いラベンダー色のデイドレスに着替えさせられていた。  首元が詰まり、手首までを硬いレースで覆う、露出を極限まで抑えたデザイン。胸元からウエストにかけてのコルセットの締め付けが、昨日までのドレスよりも数段厳しい。肺が大きく膨らむことを物理的に許さず、常に浅い呼吸を強いるような仕立てだった。 「本日は、奥様が主催される小規模なサロンがございます」  私の背中に回り、ドレスの編み上げの紐を引き絞りながら、千尋が声を落として言った。 「天野家と古くから親交のある、三名のご婦人方がお見えになられます。凛花お嬢様のお披露目も兼ねておりますので、失礼のございませんよう」 「ええ。わかっているわ」  鏡の中の自分を見つめる。  血色の薄い肌に、完璧に計算されたメイク。コルセットのせいで姿勢は真っ直ぐに固定され、少しでも気を抜けば息が詰まりそうになる。  千尋が私の髪に銀の細工が施されたピンを挿し込み、最後に冷たい香水を一吹きした。  スズランの、ひどく清潔で、体温を感じさせない香り。  準備が整うと、私は私室を出て、一階の応接室へと向かった。  西翼の奥にあるサンルームとは違う、玄関ホールに近い東翼の『第一応接室』。  分厚い樫の木の扉が開かれると、複数の香水が混ざり合った、濃厚で甘ったるい空気が鼻腔を打った。  ローズ、ジャスミン、そしてアンバー。  それぞれの香りが自分のテリトリーを主張し合い、完璧に換気されているはずの広い空間に、目に見えない縄張りのようなものを形成している。  部屋の中央には、金糸の刺繍が施された豪奢なソファセットが向かい合うように配置されていた。  上座には、昨日と同じ完璧な微笑みを貼り付け
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第43話 最初の社交②

 顔を上げると、三人の女性たちの目が、私の髪型、ドレスの生地、アクセサリーの有無、そして姿勢の全部を、コンマ数秒の間にスキャンし終えていた。「まあ、お可愛らしいお嬢様。水科の当主様も、手放すのがさぞ惜しかったでしょうに」 最も美津子に近い席に座る、五十代後半と思われる恰幅の良い婦人が、口元を扇子で隠しながら言った。 その声のトーンは限りなく上品だったが、言葉の裏側には明確な棘が仕込まれていた。 手放すのが惜しかった。 それはつまり、「借金のカタに売られてきた哀れな娘」という前提を、この場にいる全員で共有するための合図だ。「本当に。でも、天野家という素晴らしいお家にお入りになれたのですから、ご実家の方々もこれで一安心ですわね」 もう一人の、少し細身の婦人が同調する。 彼女の目は、私を人間としてではなく、値札のついた贈答品を見るような冷たさを帯びていた。「お父様もお母様も、天野家の皆様には深く感謝しております」 私は表情の筋肉を微動だにさせず、用意していた模範解答を口にした。「そう。親御さんの恩に報いるためにも、透をしっかりお支えしないとね」 美津子が、慈愛に満ちた声で締めくくる。 私は勧められた一人掛けの椅子に腰を下ろした。 使用人が近づき、私の前に紅茶の入ったカップを置く。 カチャリ、と磁器がソーサーに触れる高い音が鳴ったのを合図に、婦人たちの会話が再開された。 私は紅茶の香りを嗅ぎながら、内心で急速に思考を切り替えていた。 この空気。 この、笑顔と上品な言葉の裏で、目に見えないマウントの取り合いが行われている空間。 前世の職場で、顧客情報の誤送信トラブルが発覚した直後の、あの役員会議の空気にひどく似ている。 あの時も、会議室には怒号など飛んでいなかった。 全員が「会社のため」という大義名分を掲げ、冷静な声で、最もらしい言葉を使って、誰に責任を押し付けるのが一番『波風が立たないか』を探り合っていた。 広報として、私は無数の会議に同席し、彼らの発言を「議事録」として要約してきた。 彼らは絶対
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第44話 最初の社交③

 招待客の中で一番若い、私より少し上くらいの令嬢が、カップを両手で持ちながら言った。 「でも、天野の本邸は少し冷えますから。どうかお風邪など召されませんよう。……以前の方々も、体調を崩しやすかったと伺っておりますし」  まただ。  以前の婚約者たちの影。  彼女たちは、過去の花嫁がどうなったのか、詳細を知っているわけじゃないのだろう。だが、「天野家の婚約者は長続きしない」「心を病んで消える」という社交界の噂を、こうして挨拶代わりのマウントの道具として使っている。 「お気遣いありがとうございます。ですが、私はひどく健康に育ちましたので、少々の冷えには耐えられますのよ」  私は、令嬢の目を真っ直ぐに見返して、口角を深く上げて微笑んだ。  令嬢の眉が、ピクリとかすかに動く。  私が「怯えて俯く」という期待したリアクションを返さなかったことに、かすかな苛立ちを感じたようだ。 「まあ。それは頼もしいですわね」  恰幅の良い婦人が、割って入るように扇子を広げた。 「透様は、グループの重責を担っておられて、お帰りも夜遅いのでしょう? お若い凛花様には、この広すぎるお屋敷でのお留守番は、さぞ退屈で寂しいことでしょうけれど」 「とんでもございません」  私は、紅茶を一口飲み、喉を潤してから答えた。 「透様が外で立派にお務めを果たされている間、私が自分の寂しさで彼にご負担をおかけするわけにはまいりません。彼が少しでも心を休められるよう、私はこのお屋敷の静けさを守ることに専念しておりますわ」  模範的で、献身的な婚約者の答え。  だが、その私の言葉を聞いた瞬間、美津子の目が、獲物を見つけた猛禽類のように細められたのを、私は確実に見逃さなかった。 「……素晴らしいお心がけね、凛花さん」  美津子は、扇子をパチンと閉じた。 「でも、皆様。凛花さんはご実家を救うために、ご自分の身を犠牲にしてこのお屋敷にいらしたの。透に負担をかけたくないとおっしゃるけれど、本当は、夜な夜なお一人で泣いていらっしゃるのではないかと、わたくしは心配でならないのよ」  空気が、一瞬にして反転した。  私が『透を支えるために自立している』と提示した文脈が、美津子の一言によって強引に『強がっている哀れで孤独な犠牲者』という枠組みへとねじ曲げられたのだ。 「まあ……そうでしたの。
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第45話 最初の社交④

『透に負担をかけたくない』という私の言葉は、数日のうちに社交界の噂の中で、こう変換されて広まるだろう。 ――水科の令嬢は、天野家で透様に相手にされず、寂しさに耐えかねて毎晩泣いている。透様はただ同情で借金の肩代わりをしただけで、彼女を妻として扱っていない。 私が自分で言った言葉が、私自身を「不要な存在」として追い詰めるための刃に作り替えられていく。 怒りで、膝の上に置いた手が震えそうになった。 ここで「そんな意味で言ったのではありません」と反論すれば?『図星を突かれて感情的になった』『天野家の客人に口答えをする無作法な娘』として、さらに悪い噂が上乗せされるだけだ。 逃げ道がない。 悪意ある要約によって、私の存在が透明な箱の中に押し込められ、空気が薄くなっていく感覚。「お母様」 私は、震えそうになる声帯を意志の力で完璧に制御し、テーブルの上のティーカップを見つめたまま口を開いた。「私への過分なご心配、痛み入ります。ですが、透様はただの同情で動かれるような、思慮の浅い方ではないと、私は信じておりますわ」 私が透を庇う言葉を発した瞬間。 美津子の唇の端が、ほんのわずかに、だが残酷な弧を描いて吊り上がった。「ええ。そうね。透は、本当に優しい子だもの」 美津子は、氷のように温度のない目で私を射抜いた。「だからこそ、わたくしが守ってあげなければならないの。あの子が、自分の優しさのせいで、背負う必要のない『重荷』に潰されてしまわないように」 重荷。 それが、この社交の場で決定した、私の公式な肩書きだった。 三人の招待客たちが、扇子やティーカップで口元を隠し、クスクスという微かな、だが確かな同意の笑い声を漏らす。 その衣擦れの音と陶器の鳴る音が、前世の会議室で響いた、無遠慮なキーボードのタイピング音と完璧に重なり合った。 誰かが言葉を切り取り、誰かがそれに判を押す。 私の言葉は、またしても私の手から奪われ、彼らの都合の良い形に加工されて消費されていく。 私は、冷めきった紅茶を一口だけ喉に流し込んだ。 前世
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第46話 切り取られる令嬢①

 胸元から肋骨にかけてを強烈に締め付けていたコルセットの紐が、千尋の手によってゆっくり緩められた。  そのとき、限界まで薄く張り付いていた肺が、強引に部屋のひやりとした空気を吸い込んだ。  ヒュッ、という情けない摩擦音が喉で鳴る。 「……お疲れ様でございました、凛花お嬢様」  背後で紐をまとめる千尋の声は、どこか腫れ物に触れるような、奇妙な遠慮を含んでいた。  ラベンダー色のデイドレスが肩から滑り落ち、足元に重い布の塊となって崩れる。  薄いスリップ一枚になった身体は、コルセットの圧力から解放されたというのに、ちっとも楽にはならなかった。むしろ、見えない無数の糸で手足をがんじがらめに縛り上げられているような、じっとりとした重さがあった。 「ありがとう。少し、一人にしてもらえるかしら」  鏡越しに千尋を見ると、彼女は一瞬だけ躊躇うように視線を泳がせ、深く頭を下げた。 「それでは、すぐ休めるようにいたします。何か温かいお飲み物でも、お持ちいたしましょうか」 「今はいいわ。休みたいの」  千尋が音もなく退室し、分厚いマホガニーの扉がカチャリと冷たいラッチの音を立てて閉まる。  私室に、完全な静寂が戻ってきた。  だが、耳の奥では、あの応接室で響いた婦人たちのクスクスという笑い声と、硬い象牙の扇子がパチンと閉じる音が、ひどく歪んだエコーを伴って無限に繰り返されていた。  ――凛花さんはご実家を救うために、ご自分の身を犠牲にしてこのお屋敷にいらしたの。  ――夜な夜なお一人で泣いていらっしゃるのではないかと、わたくしは心配でならないのよ。  美津子のあの言葉は、完璧な「思いやり」という装甲を被った、公開処刑の合図だった。  私が『透を支えるために自立している』と提示した事実を、圧倒的な権力者の「解釈」というナイフで乱暴に切り刻み、『強がっている哀れで孤独な犠牲者』という枠組みへと強制的に押し込んだ。  ベッドの縁に腰を下ろし、両手で顔を覆う。  指先が氷のように冷え切っている。  前世の、広報部のオフィスでの記憶が、冷たい泥水のように足元から這い上がってきた。  顧客情報の誤送信トラブルが発覚した日の午後。  斜め向かいの席で、同期の紗耶が泣き崩れ、過呼吸を起こして早退していった後の、あのオフィスの空気。  私が紗耶ひとりの確認漏
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第47話 切り取られる令嬢②

 透の重荷。  数日のうちに、この屋敷の使用人たち、そして天野家と繋がる社交界のネットワークの末端に至るまで、この「新しい筋書き」が真実として定着するだろう。  胃の底が痙攣し、胃の奥が酸っぱく熱くなった。  クローゼットへ向かおうとして立ち上がった足が、絨毯の上でもつれる。  怖い。  唇の裏側を噛み、飲み込まれかけた息を押し戻す。怖さに名前をつけるだけでは足りない。私は、その怖さがどこから来たのかまで見失わないようにした。  言葉を短くされるたび、私の人生まで勝手に片づけられていく気がした。  自分の輪郭が、他人の手によって勝手に切り取られ、歪んだ形に塗り潰されていく恐怖。  スマートフォンの通知が鳴り止まなかった前世の夜と同じように、世界中が私を安全圏から指差し、消費しているような錯覚。  だが。  絨毯の上に手をついたまま、私はギリッと奥歯を噛み締めた。  前世の私はここで泣いた。  理解してもらえない絶望に打ちひしがれ、部屋に閉じこもり、最終的には非常階段のひやりとした鉄の手すりを乗り越えた。 「……ふざけないで」  乾いた声が、唇から漏れた。  床を叩き、強引に両足に力を込めて立ち上がる。  私はもう、あの会議室で黙って首を差し出した橘日和ではない。  クローゼットの一番奥。靴箱の裏の隙間に手をねじ込み、冷たい革張りのメモ帳を引きずり出す。  サイドテーブルのボールペンを掴み、真新しいページを乱暴に開いた。  指先が震え、ペンの軸がカチカチと細かな音を立てて爪に当たる。  それでも、ペン先を紙に押し付ける力だけは絶対に緩めなかった。  誰かが言葉を切り取るなら、私はその「切り取られた」という前後の流れそのものを、物理的な記録として手元に縛り付ける。 『記録日 午後。第一応接室にてサロン』 『同席者:美津子、招待客三名』 『私の発言:「透様が心を休められるよう、この屋敷の静けさを守ることに専念する」』 『美津子の発言:「凛花は実家を救うために犠牲になった」「夜な夜な一人で泣いているのだろう」「透の優しさのせいで背負い込んだ重荷」』  インクが紙の繊維に深く染み込み、青黒い文字の列が定着していく。  ただのメモだ。これを誰かに見せたところで、今の私には何の力もない。  けれど、自分の手で『事実』と『解釈
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第48話 切り取られる令嬢③

 これまでは、完璧に抑え込まれた機械のような無関心。 だが今は、壁際に控えて頭を下げる彼らの視線に、ほのかな、だがねっとりとした温度が混じっている。 哀れみ。 そして、それを取り繕った薄皮一枚下にある、安全圏から弱者を見下ろす嘲笑。 私が通り過ぎる直前まで、廊下の角でヒソヒソと交わされていた衣擦れの音やかすかな声が、近づいた瞬間にピタリと止まる。 前世の給湯室と、まったく同じだ。 パーテーションの向こう側で聞こえていた、『広報の隠蔽』『責任逃れ』という言葉。 今はそれが、『可哀想に』『お寂しいのでしょう』『透様もご迷惑で』という、柔らかく残酷な刃に変わっただけ。 ダイニングルームでの昼食は、美津子も透も不在だった。 長大すぎるテーブルの端に一人ポツンと座らされ、無言で使用人が給仕する皿をこなす。 コンソメスープの温かさも、白身魚のソテーの塩味も、相変わらず脳まで届かない。 視界の端には、あの「誰も座らない席」が、今日も完璧にセッティングされたまま鎮座している。 早く、この沈みかけの泥舟のような空間から抜け出したい。 昼食を半分以上残して席を立ち、廊下へと出た。 自室へ戻る途中、玄関ホールに続く広い交差点に差し掛かった時だった。「……ええ。おっしゃる通りでございます」 重厚な大理石の柱の向こう側から、誰かの話す声が聞こえた。 足を止める。 声の主は、美津子の側近に近い立場にいる年配のメイド長だった。そして、彼女が話しかけている相手の、低く、靴音の鳴らない足音。「奥様も、ひどく心を痛めておいででした」 メイド長の声は、同情に満ちた、芝居がかったトーンだった。「凛花様は、昨夜も私室でひっそりとお泣きになられていたご様子。やはり、お若いお嬢様には、このお屋敷の重圧は酷なのでございましょう」 私の足の裏が、絨毯に縫い付けられたように動かなくなった。 昨夜、私が泣いていた? 冗談じゃない。私は涙一滴こぼさず、靴箱の裏でひたすらメモ帳に事実を刻み込んでいただけだ。
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第49話 切り取られる令嬢④

 彼なら。  この屋敷で唯一、彼だけは、こんな作り話に惑わされず、私を「重荷」だと切り捨てるメイド長の言葉を否定してくれるのではないか。  ――彼女は泣いてなどいない。勝手な推測で語るな。  そんな、氷のような彼の一言を。  張り詰めた沈黙が数秒続いた後。 「彼女がどう過ごそうが、僕には関係のないことだ」  透の声は、絶対零度の冷気そのものだった。  柱の陰で、私の心臓がヒュッと縮み上がった。 「僕の職務には、彼女の感情を慰める義務など含まれていない。天野家の婚約者として置かれている以上、それに耐えられないなら、自分の弱さを呪うだけのことだろう」  感情の欠片もない。  ただ事実を、温度のない物理法則のように突きつける響き。 「ですが、透様。凛花様がこのままお心を病んでしまわれれば、また……」 「無駄な報告はするな」  透の言葉が、メイド長の同情劇を冷酷に断ち切った。 「彼女が同情を引こうとしているのか、本当に壊れかけているのか、どちらでも構わない。……邪魔だ。そこを退け」  靴音が、硬く大理石の床を鳴らした。  メイド長が慌てて道を空ける衣擦れの音が聞こえ、次いで、透の長い脚が柱の向こう側から現れた。  彼は柱の陰に隠れている私には気づいていない。  横顔は、完璧な彫刻のように美しく、そして死んでいた。  彼が通り過ぎる瞬間、冬の外気と混ざり合ったシトラスの香りが、私を平手打ちにするように鋭く鼻腔を打った。  足早に玄関ホールへと向かっていく彼の背中を、私はただ見送ることしかできなかった。  庇わない。  彼もまた、前世の同僚や上司と同じように、私を「関係のないこと」として切り捨てたのだ。  温室でのあの熱も、警告も、すべては私が勝手に都合よく解釈しただけの幻想だった。  彼はこの屋敷のからくりの一部にすぎない。自分の身を守るためなら、私がどれほど悪意ある嘘で塗り固められようと、見殺しにできる人間だ。  肋骨の内側で、期待という名の脆いガラスが粉々に砕け散る音がした。  冷たい痛みが、肋骨の内側をチクチクと刺す。  だが。  私はその痛みに押しつぶされそうになる自分の両腕を、胸の前で強く交差させた。  泣かない。  ここで絶望して涙を流せば、それこそ美津子とこの屋敷の連中の「筋書き」を完成させてしまうこと
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第50話 黒瀬の監視①

 大理石の柱に預けていた背中を離し、私は冷たくなった絨毯の上を歩き出した。  透が去り、メイド長が消えた玄関ホールの交差点を抜け、あえて自室とは違う方向――一階の東翼、先ほどまでサロンが開かれていた第一応接室のさらに奥へと向かう。  悲しみや絶望に浸っている暇はなかった。  透が私を切り捨てたことは、一つの事実として受け止める。期待というノイズが消えた分、かえって思考は恐ろしいほどに冴え渡っていた。  この屋敷で、美津子の言葉がいかにして「公式の筋書き」となり、使用人たちの捏造報告によって動かしがたい事実のように固められていくか。その一端を、私はたった今、この目で見た。  広報部時代、会社のトップが望む筋書きを「事実」として社内外に定着させるためには、必ず実務を担う『優秀な書記(あるいは情報管理者)』が必要だった。誰の言葉を拾い上げ、誰の言葉を無視し、どのように議事録を編集して配布するか。  美津子が一人で、この広大な屋敷の隅々まで目を光らせているわけじゃない。  彼女の意図を読み、屋敷中の話を集め、都合のいい形に整えて耳元へ戻す者がいる。美津子のそばで、この家の空気を動かしている誰かが。  ヒールの音を殺して廊下を曲がろうとした時、皮膚の表面をちりちりと撫でるような、奇妙な感覚に襲われた。  視線だ。  立ち止まり、ゆっくり振り返る。  十メートルほど後ろ。薄暗い廊下の壁際に、影が一つ、絨毯に溶け込むようにして立っていた。  漆黒のスーツ。  微動だにしない完璧な姿勢。  天野家の執事、黒瀬だった。  彼がいつからそこにいたのか、全く気づかなかった。私がメイド長と透の会話を聞いていた時からか、あるいは応接室を出た直後からか。  黒瀬は、私が振り返ったことに対して驚く素振りも見せず、いつもの角度で頭を下げた。 「……何か御用でしょうか、凛花お嬢様」  低く、抑揚のない声が、廊下のひやりとした空気を滑ってくる。 「いいえ」  私は彼を見つめ返し、小さく首を振った。 「ただ、少し歩きたくなっただけよ」 「左様でございますか。では、お供いたします」  黒瀬はそれだけ言うと、再び壁際の影のように気配を消した。  私は向き直り、再び歩き始めた。  数分間、言葉を交わさず廊下を進む。  私の足音の数歩後ろを、靴音一つ立てずに彼
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