All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 侍女の小さな嘘④

 胸の前で組み合わせられていた彼女の指先が白く鬱血するほど強く握り込まれる。  部屋の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。 「……それは」  千尋の声は、急激に水分を失い、乾いた擦過音のように響いた。 「私には、お答えできる立場にありません」 「千尋さん?」 「申し訳ございません。以前のお嬢様方のことについては……この屋敷では、誰も口にすることを許されておりませんので」  早口でそう告げる彼女の目は、泳いでいた。  私と視線を合わせまいと、床の絨毯の模様を必死に目で追っている。  その反応だけで、十分だった。  過去の花嫁たち。美津子が「心が弱かったから」と一言で片付けた女性たちは、確かにこの部屋で息をして、そして消えていった。  千尋はその過程を――あるいはその結末を、知っているのだ。  知っていて、美津子を、あるいはこの屋敷で長く続いてきた空気そのものを恐れて、口を閉ざしている。  私はそれ以上、追及しなかった。 「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったの」  ゆっくりカップを持ち上げ、もう一口、ハーブティーを飲む。 「このお茶、冷める前に全部いただくわね。本当にありがとう」  千尋は弾かれたように顔を上げ、私の表情を確認すると、深く、深く頭を下げた。 「……恐れ入ります。それでは、私はこれで失礼いたします」  彼女はワゴンを手繰り寄せ、逃げるような足取りでドアへと向かった。  キャスターが絨毯を沈ませる、くぐもった音が遠ざかる。  ドアノブに手をかけ、千尋は部屋の外に出ようとした。  けれど、扉を半分開けたところで、彼女の動きが唐突に止まった。  廊下の暗がりに半身を沈めたまま、千尋は振り返ることもなく、ひどく小さな、掠れた声で漏らした。 「夜、温室のほうで音がすることがあります」 「……え?」  私の手がカップを持ったまま空中で止まる。 「風の音ではありません。……何か、硬いものが、ガラスを叩くような」  千尋の背中が、かすかに震えているように見えた。 「……近づかないでください。あそこは、もう……」  言葉は、そこで断ち切られた。  千尋は逃げるように廊下へと飛び出し、重いマホガニーの扉が、カチャリという冷たいラッチの音とともに閉ざされた。  完全な静寂が、再び部屋を満たす。  私の視界には
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第32話 書庫の鍵①

 分厚い遮光カーテンの隙間から、細く鋭い朝の光が絨毯に突き刺さっている。 天蓋付きのベッドの中でゆっくり目を開けると、冷たくなった屋敷の空気が真っ先に肺の奥へと流れ込んできた。 昨夜、千尋が残していったハーブティーの甘い香りは、もう欠片も残っていない。 ――夜、温室のほうで音がすることがあります。 彼女の震える声と、恐怖に引き攣った横顔が、覚醒したばかりの脳裏に鮮明に蘇る。 ベッドから身を起こし、シルクのナイトガウンの襟元を掻き合わせた。 スリッパを履き、音を立てずにクローゼットへ向かう。靴箱の裏の隙間から、冷たい革張りのメモ帳を引きずり出した。 新しいページを開き、昨夜書き残せなかった言葉をボールペンで刻み込む。『千尋からの警告。温室で硬いものがガラスを叩く音がする。立ち入り禁止』 インクが紙の繊維に染み込んでいくのをじっと見つめる。 過去の花嫁たちに関する話題を極端に恐れる千尋が、わざわざ危険を冒してまで私に伝えた警告だ。温室には、彼女たちに関わる何か――おそらくは致命的な秘密が隠されている。 だが、すぐにそのガラスの箱へ向かうのは危険すぎた。 屋敷のルールも、使用人たちの監視の目も、まだ把握しきれていない。 メモ帳を元の場所に隠し、備え付けの洗面台で顔を洗う。 氷水が頬を叩き、思考を無理やりクリアに引き戻した。 広報部時代、危機的状況に陥った企業が真っ先にやることは「情報の完全な遮断」だった。不都合な真実を隠すため、関係者を個別の部屋に隔離し、外部との接触を絶つ。そして、何もわからないまま不安に押しつぶされた人間から、都合の良い証言だけを切り取っていく。 今の私が置かれている状況は、まさにそれだ。 美津子の言葉責めと、豪華だが無機質なこの私室。 ここに閉じこもって怯えているだけでは、いずれ感覚が麻痺し、彼女たちの用意した「狂気」の枠組みの中に自ら歩み入ることになる。 ルールを破ってでも、この屋敷の構造と、仕組みの手触りを自分の目で確かめておく必要があった。 朝八時。 私室に運ばれてきた朝食を義務のように胃に
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第33話 書庫の鍵②

 足を踏み入れた瞬間に感じた違和感。 それは、匂いだった。 完璧に無臭に保たれているはずのこの屋敷の中で、その扉の隙間からだけは、ひどく乾燥した古い紙の匂いが漏れ出していたのだ。 ほのかなカビと、革表紙の油の匂い。そして、長年密閉されていた空間特有の、埃っぽい空気。 ゆっくり扉に近づき、ドアノブに手を伸ばそうとした。 その時。 ガチャン、と。 重い金属のラッチが内側から外れる音がして、片側の扉が手前へと開いた。 私は反射的に半歩後ずさる。 薄暗い部屋の中から姿を現したのは、隙のない漆黒のスーツを着こなした天野家の執事、黒瀬だった。 彼は右の小脇に分厚い黒革のバインダーを抱え、左手にはじゃらじゃらと鈍い金属音を立てる、巨大な真鍮の鍵束を握っていた。「……凛花お嬢様」 私と鉢合わせた黒瀬は、驚く素振りすら一ミリも見せずに立ち止まり、その場で深く頭を下げた。「このような奥まった場所で、いかがなさいましたか。お探しのものがございましたら、私どもにお申し付けください」 抑揚のない、完璧に抑え込まれた執事の声。 だが、その声の底に、私がこのエリアに足を踏み入れたことに対する「静かな咎め」が混じっているのを、私の耳は確実に拾い上げていた。「いいえ。少し屋敷の中を歩いてみたかっただけよ。一日中部屋にいると、少し息が詰まってしまって」 私は呼吸を整え、表情の筋肉を微塵も動かさずに微笑んでみせた。「……ここは、何の部屋なのかしら。他とは少し、扉の造りが違うようだけれど」 私は視線を彼から外し、その後ろにある薄暗い部屋の奥へと向けた。 開いた扉の隙間から、天井まで届く巨大な木製の書棚がいくつも並んでいるのが見えた。棚には分厚いファイルや革装丁の古い本が隙間なく詰め込まれており、窓がないためか、部屋の中はひんやりと冷え切っている。「ここは書庫でございます。天野家に関する古い記録や、業務の書類が保管されております」 黒瀬は半歩横にスライドし、私の視界を物理的に塞ぐように立
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第34話 書庫の鍵③

 さらに、私の視線は彼が小脇に抱えている黒革のバインダーへとスライドした。 分厚いバインダーの表紙には、『西翼・入室記録』という金の箔押しが控えめに刻まれている。 黒瀬が私に頭を下げた角度のせいで、バインダーの隙間から、中のルーズリーフの数ページがほんの少しに顔を覗かせていた。 私の目は、一瞬でその紙面の異常を捉えた。 紙の端は古く黄ばんでおり、日付とともに書き込まれた黒いインクの列が見える。 だが。 そのびっしりと書き込まれたインクの列が、ある数ページにわたって「白紙」になっていたのだ。 インクが経年劣化でかすれたのではない。 等間隔に引かれた薄い青色の罫線だけが残り、誰かが意図的に「その期間の記録」だけをまるごと抜き取り、新しい白紙を差し込んだように、不自然な空白が口を開けている。 呼吸が一瞬だけ止まりそうになった。 過去の花嫁たち。 彼女たちの存在が、この屋敷の空気から漂白されている理由。 香水の残り香も、家具の配置のクセも、何一つ残されていない完璧な客室。 あれは、ただ掃除が行き届いているというレベルの話ではない。 誰かが、からくりとして「彼女たちがそこにいた事実」そのものを、記録ごと削り取っているのだ。「……黒瀬さん」 私は、視線を彼の氷のような目へとゆっくり戻した。 心臓の音がうるさい。だが、声帯を震わせる空気の量は、完璧にコントロールされていた。「この屋敷には、私の知らないルールがまだたくさんあるようね」「天野家にお入りになる以上、徐々に慣れていただくしかございません」 黒瀬は、一切の動揺を見せずにバインダーを小脇に抱え直した。 だが、そのとき。 彼の黒い手袋に包まれた指先がほんの一ミリだけ、バインダーの「空白のページ」を隠すように、強く紙の束を握り込んだのを、私は見逃さなかった。 ギュッ、というかすかな革の軋む音。 この男は、知っている。 この屋敷の入室記録に「消された数ヶ月」が存在することを。 そして、彼の左
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第35話 温室の白い花①

 書庫の前で見た、入室記録の空白と、異様に摩耗した一本の鍵。  その二つをメモに残した午後、私は私室の窓から庭園を見下ろしていた。  ――夜、温室のほうで音がすることがあります。  千尋が怯えた声で残した警告が、何度も耳の奥で蘇る。  書庫に消された時間があるのなら、その時間に関わる場所も、どこかに残っているはずだ。  まず確かめるべきは、あの白いガラスの箱だ。  手入れされすぎた庭園の白砂利を踏む。  ヒールの音が、静まり返った庭にジャリ、ジャリと硬く響く。  やがて、ガラス張りの巨大な構造物が目の前に現れた。  温室。  屋敷の石造りの外壁とは対照的に、太陽の光を反射して眩いほどに白く輝いている。  近づくにつれ、空気の質が変わるのがわかった。  完璧に乾燥し、漂白された屋敷内の空気とは違う。ガラスの向こう側から、むせ返るような植物の青臭さと、湿った土の匂いが、目張りされた隙間から漏れ出してきているのだ。  入り口に立つ。  白いペイントが施されたアイアンフレームの扉は、閉まり切っておらず、指一本分の隙間が開いていた。  鍵はかかっていない。  私は周囲を見回した。庭師の姿も、使用人の姿もない。  手袋越しに冷たいアイアンの取っ手を握り、ゆっくり手前に引いた。  キイ、という微かな金属の軋み音とともに、扉が開く。  途端に、強烈な湿気と熱気が、目に見えない壁となって全身に叩きつけられた。  噎せ返りそうになるのをこらえ、中へと足を踏み入れる。  そこは、手入れされた庭園とはまるで違う、人工的な熱帯のジャングルだった。  天井まで届く巨大なシダ植物、複雑に絡み合う蔦。そして、その緑の迷宮の奥から、甘く、頭の芯が痺れるような強烈な花の香りが漂ってくる。  土を踏みしめるたびに、靴の底が柔らかく沈む。  緑のアーチをくぐり抜け、温室の中央へ向かって進んだ。  そのとき。  視界の開けた中央のスペースに、人影が見えた。  天野透だった。  彼はいつもの隙のないスーツ姿ではなく、ネクタイを外し、白いシャツの袖を腕まくりした少しラフな格好だった。  私は反射的に大きなシダの葉の陰に身を隠し、息を潜めた。  彼は私の存在には気づいていない。  透の視線は、彼の手元にある一つの鉢植えに注がれていた。  声をかけるに
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第36話 温室の白い花②

 透は、その白い花びらに、そっと指先を触れていた。 彼の横顔を見て、私の心臓が大きく跳ねた。 冷徹で、感情の読めない氷の仮面。私を「ただ息をしていればいい」と切り捨てた、あの絶対的な拒絶の表情が、そこには一切なかった。 透の眉間には深いシワが刻まれ、その瞳は、まるで許しを請う罪人のように、痛切な色を帯びて揺れていた。 長く伏せられたまつ毛が、かすかに震えている。 何かを深く悔やみ、取り返しのつかない喪失の前に一人で立ち尽くしている人間の、ひどく無防備で、傷だらけの顔だった。 みぞおちが、ぎゅっと締め付けられた。 この人は、少なくとも美津子のように、他人の心を削り取って平然と笑っていられる人間には見えなかった。 自分の内側にある大きな傷を、誰にも見せないように、氷の壁で覆い隠している。そう感じてしまうほど、その横顔は無防備だった。 その顔を見てしまった瞬間、私の中の何かが、確かに形を変えた。 恐怖よりも、疑念よりも先に、彼が隠している痛みに触れてみたいという衝動が湧き上がる。 一歩、前に出ようとした。 パリッ。 足元の乾いた葉が、私の体重で砕け、硬い音を立てた。 透の肩が、弾かれたようにビクッと跳ねる。 彼が振り返った。 私と視線がぶつかる。 そのとき、彼の顔から「傷ついた人間の素顔」が、さっと波が引くように消え失せた。 代わりに張り付いたのは、分厚い氷の装甲。「……誰の許可を得てここに入った」 温度の一切ない、剃刀のような声が温室の湿った空気を切り裂く。 彼はゆっくり立ち上がり、私の方へ向き直った。「ここは、君が立ち入っていい場所ではないと、使用人から聞いていないのか」 透の言葉は、私を明確な「敵」あるいは「異物」として排斥しようとしていた。 だが、私はもう怯えなかった。 彼の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、自分の素顔を見られたことへの強烈な動揺が走ったのを、私は見逃さなかったからだ。「聞いています」 私はシダの葉の陰か
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第37話 温室の白い花③

 むしろ熱い。温室の湿った空気よりもはっきりと、彼の体温が薄い皮膚越しに伝わってくる。  透自身がその熱に気づいたように、短く息を詰めた。  次の瞬間、彼は火傷でもしたように手を離す。  掴まれていた場所だけが、遅れて脈を打った。 「……とても、綺麗なお花ですね」  私は彼の命令を無視し、彼の背後にある白い花に視線を向けた。 「私の部屋にもありました。でも、花瓶に挿されているより、ここに咲いている方が綺麗です」 「黙れ」  透の声が、わずかに低く、かすれた。 「君は、何もわかっていない。この花の名前も……いや、この場所がどういう意味を持つかも」 「ええ、わかりません」  私は彼から三歩の距離で立ち止まり、その氷のような瞳を真っ直ぐに見つめ返した。 「わからないから、知りたいんです。あなたがなぜ、そんなに苦しそうな顔をしてこの花を見つめていたのか」  透の息を呑む音が、温室の静寂の中で確かに聞こえた。  彼の目が、信じられないものを見るように見開かれる。 「……君は」  透が何かを言いかけた瞬間、シトラスの香りが、熱気を含んだ空気を通じて私の肌に届いた。  近づけば、彼が何を恐れているのか、わかるかもしれない。  私がもう一歩、足を踏み出そうとした時だった。 「透様」  温室の入り口から、低く、感情のない声が響いた。  振り返ると、黒瀬が立っていた。  彼は逆光の中でシルエットになりながら、私たち二人を静かに見据えている。 「奥様が、お呼びでございます。応接室の方へ」  透の顔から、すべての表情が抜け落ちた。  彼は深く、長い息を吐き出すと、私を一瞥することもなく、黒瀬の方へ歩き出した。 「……行く」  すれ違いざま、透の袖が私の肩にかすかに触れた。  先ほど掴まれた手首に、まだ彼の熱だけが残っている。 「言ったはずだ。この場所には近づくなと」  私の耳元で、彼がかすかに囁いた。 「……死にたくないなら」  透はそのまま温室を出て行き、黒瀬もまた、私に一礼することなく彼の後を追った。  一人取り残された温室。  むせ返るような土の匂いと、甘すぎる白い花の香りの中に、透が残していったシトラスの香りがかすかに混じり合っている。  彼が去った後の空間は、さっきよりもずっと息苦しかった。  死にたくないな
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第38話 誰も座らない席①

 温室から私室へと戻り、どれだけの時間が経っただろうか。  手袋に残った土の匂いと、あの甘すぎる白い花の香りを水で洗い流しても、掴まれた手首の感覚だけは、妙に鮮明に残っていた。  ――死にたくないなら、踏み込むな。  その言葉は、ただ私を突き放すためだけの刃ではないのかもしれない。私という異物がこの屋敷の仕組みに巻き込まれ、粉砕されるのを防ごうとする、彼なりの抵抗にも聞こえた。  コン、コン。  部屋の扉が二回叩かれた。  時計の針は、午後七時を少し回っている。 「凛花お嬢様。晩餐のお時間でございます」  扉の向こうから、千尋の押し殺したような声が聞こえた。  昨日、美津子の「頭痛」という小さな嘘によって回避された、最初の晩餐。  今日は間違いなく、この屋敷の真の支配者と、氷の仮面を被った婚約者が待つ食卓へと向かわなければならない。  私は大きく一度だけ深呼吸をし、シルクのワンピースのシワを手のひらで伸ばした。  扉を開けると、千尋が深く頭を下げて待っていた。彼女は私と視線を合わせることなく、ただ「こちらへ」と手を差し示す。  一階のダイニングルームへ向かう廊下は、昼間よりもずっと暗く感じられた。  フットライトと、壁に取り付けられた燭台を模した照明だけが、深紅の絨毯を重苦しく照らしている。  重厚な両開きの扉の前に着く。  千尋が合図を送ると、両脇に控えていた二人の使用人が、音もなく扉を引いた。  圧倒的な広さを持つ空間が、目の前に広がった。  数十人は座れそうな、長大なマホガニーのダイニングテーブル。  天井からはいくつものクリスタルのシャンデリアが下がり、壁際には黒瀬をはじめとする数名の使用人たちが、影のように張り付いている。  テーブルの一番奥、絶対的な上座には、すでに天野美津子が座っていた。  漆黒のベルベットのドレスに身を包み、首元には重たそうなパールのネックレスが冷たい光を放っている。彼女は私が入室したことに気づき、ふわりと、完璧に計算された角度で微笑んだ。  そして、テーブルの右側には、天野透の姿があった。  濃紺のスーツを隙なく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばして前を見据えている。  私の足音が近づいても、彼は一切こちらへ顔を向けなかった。  温室で見せたあの痛切な表情も、私に触れた時のあの熱も、何も
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第39話 誰も座らない席②

 私の隣。透から見れば斜め向かいにあたる位置に。 誰もいない「四つ目の席」が、完璧にセッティングされていたのだ。 銀色のカトラリー、磨き上げられたクリスタルのグラス、折りたたまれた純白のナプキン。 他の三席と寸分違わぬ配置で、今にも誰かがそこに座って食事を始めるように、それはただの「空席」としてそこにあった。 今日、誰か別の客が来るなどとは聞いていない。 私はゆっくり視線を動かし、壁際に控える使用人たちを観察した。 誰も、その空席を見ていない。 あるいは、意図的に「見てはいけないもの」として、視界から外している。彼らの瞳孔はただ真っ直ぐに空中の見えない一点を見つめ、微動だにしない。「さあ、始めましょうか」 美津子の鈴を転がすような声が、静寂のダイニングに響いた。 使用人たちが音もなく動き出し、最初の一皿である前菜がそれぞれの前に置かれる。 もちろん、あの空席には何も置かれない。 ただ、食器のセットだけが、誰かを待つように虚無の口を開けている。 前世の会議室で、何度も経験したことがある。 組織の決定的なミスや、触れてはいけない権力者の話題が出た瞬間、その場にいる全員が「それは最初から存在しなかった」ように振る舞う、あの同調圧力。 この屋敷では、それが言葉ではなく、物理的な「席」として具現化されている。 ナイフとフォークが、微かに皿に触れる音だけが響く。 カチャリ。 コツン。 誰も口を開かない。 食事の味など、もとより期待していなかった。問題は、この異常な空間の「空気の重さ」だ。 シャンデリアの光が眩しいはずなのに、部屋全体が深い水底に沈んでいるような息苦しさがある。「透」 不意に、美津子が沈黙を破った。「今日の役員会議は、どうだったの。例の買収の件は、うまく進みそうかしら」 透は、手元のナイフを動かすスピードを一切変えずに答えた。「ええ。予定通り、来週には正式に調印の運びとなります。反対派の意見も、すべて抑え込みました」 ひどく平坦で、事務的な
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第40話 誰も座らない席③

 私はナイフとフォークを置き、ナプキンで口元を拭った。「とても静かで、美しいお屋敷ですね。少し廊下を歩かせていただきましたが、隅々まで手入れが行き届いていて、圧倒されました」「まあ、それはよかったわ」 美津子は嬉しそうに目を細めた。 私は、視線をゆっくり隣の「空席」へと動かした。 この沈黙のルールに、ただ飲み込まれていては何も引き出せない。広報として、触れてはいけない話題の輪郭をあぶり出すためには、ギリギリのラインで石を投げる必要がある。「ところで、お母様」 私は、声のトーンを極限まで柔らかくして言った。「こちらの素敵なお席は……。今日は、どなたか別のお客様がいらっしゃるご予定だったのでしょうか」 ピタリ、と。 ダイニングルームの空気が、凍りついた。 壁際でワインのボトルを持っていた使用人の手が目に見えて硬直する。 向かいに座る透の、ナイフを握る手が空中でピタリと止まった。彼の冷徹な仮面に、ほんの一瞬だけ、強烈な緊張が走るのを私は見逃さなかった。 黒瀬だけが、彫像のように表情を変えないまま、ほのかに視線を床へと落とした。 美津子は。 彼女の唇の端に張り付いていた完璧な微笑みが、ほんの数ミリだけ、引きつったように歪んだ。 だが、すぐにまた、花が綻ぶような笑みへと戻る。「……いいえ。誰も来ないわ」 美津子は、まるで小さな子どもの無邪気な質問に答えるような、甘く優しい声で言った。「ただ、用意させているだけよ。……以前、ここを使っていた方たちがいたの」 以前、使っていた方たち。 その複数形が、私の背筋に冷たい粟を立たせる。「とても美しい方たちだったわ。透の隣に座って、こうして一緒にお食事をして……。でもね、少しだけ、お心が弱かったの」 昼間のサンルームでの会話が、より生々しい形となって繰り返される。 美津子は、透の顔を愛おしそうに見つめた。「この家の重圧に耐えられ
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