All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話 黒瀬の監視②

「私はこの屋敷で起きるすべての事象を管理する立場にございます。必要とあれば、当主様や奥様にご報告を上げるのも、その一環でございます」  完璧な模範解答。  つまり、そういうことだ。彼が、美津子の情報ネットワークの最大のハブだ。  私が誰と話し、どの部屋の前で立ち止まり、どのくらい食事を残したか。そのすべての生データが黒瀬に集まり、美津子の元へと届けられる。 「なら、先ほど私が玄関ホールの柱の陰で、メイド長と透様のお話を立ち聞きしていたことも、ご存知ね」  あえて、隠さずにぶつけてみた。  黒瀬の顔色に変化はない。けれど、常に脇に抱えている薄い革の手帳を握る指先が、ほんの数ミリだけ動いたように見えた。 「……お耳汚しな立ち話を聞かせてしまい、申し訳ございませんでした。メイド長には、後ほど私から厳重に注意をしておきます」 「注意? 何のために?」  私はわざと小首を傾げてみせた。 「あの人は、奥様が決めた通りに私を語っただけでしょう。毎晩泣いている、可哀想な娘だと」  黒瀬の眉間が、ほんのわずか、本当に針の先ほどのかすかな面積だけ、ピクリと動いた。 「お嬢様」 「あなたの手元のその手帳には、どう書かれているのかしら」  私は彼に向かって、一歩だけ距離を詰めた。 「それで、あなたは何と書くんですか。『悪口を聞いて、柱の陰で泣いていた』とでも?」  沈黙が、二人の間に落ちた。  廊下の空調の音が、やけに耳障りに大きく聞こえる。  黒瀬は私の目をじっと見据えたまま、数秒間動きを止めていた。  彼は私を「感情的になって喚いている娘」として処理しようとしているのか、それとも、私の言葉の裏にある「情報操作への理解」を推し量っているのか。  やがて、黒瀬はゆっくり口を開いた。 「……私の記録には、そのような主観は混じりません」  低く、先ほどよりも一段階深く沈んだ声だった。 「凛花お嬢様は、十六時二十分から数分間、ホールにて会話を聞いていた。その後、涙を見せることなく、自室とは逆の東翼へと歩き出した。……私が記録し、報告するのは、物理的な事実のみでございます」 「事実」  私はその言葉を舌の上で転がした。 「本当に? あなたが記録した『事実』が、奥様の元に届いた後も、そのままの形で残ると信じているの?」 「……」 「メイド長の言
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第52話 黒瀬の監視③

 過去の花嫁たち。  彼女たちの入室記録の空白。  この男は、彼女たちがどうやって消されていったのか、そのすべての情報を管理する立場にいながら、救えなかった過去を持っているのではないか。 「……私は」  黒瀬が、ふっと視線を落とした。  完璧な執事の仮面が、ほんのコンマ数秒だけ剥がれ落ち、そこに見えたのは、痛ましい後悔の念。 「私は天野家に仕える身です。それ以上でも、それ以下でもございません」  絞り出すようなその声は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。  彼はすぐに顔を上げ、再び氷の仮面を被り直した。 「……お部屋へ戻りましょう、凛花お嬢様。これ以上長く冷たい廊下にいらしては、本当にお加減を崩されてしまいます」  会話の強制終了。  これ以上彼を問い詰めても、今はまだ、分厚い壁に阻まれるだけだ。  けれど、手応えはあった。  黒瀬は完全な美津子の操り人形ではない。彼の中には、この屋敷の理不尽な仕組みに対する強い罪悪感と、それを黙認し続ける自分への嫌悪が確実に存在している。 「ええ。そうね」  私はあっさりと引き下がり、踵を返した。  自室へと向かう道すがら、再び黒瀬は私の数歩後ろを、足音もなくついてくる。  さっきまでの、肌を刺すような完璧な監視の気配とは少し違う。どこか、重い枷を引きずって歩いているような、かすかな疲労感が彼の気配に混じっていた。  私室の前に着く。  黒瀬が一歩前に出て、扉を開いた。 「おやすみなさいませ、凛花お嬢様」  彼が深く頭を下げる。  私が部屋へ入り、彼が扉を閉めようとした、その瞬間だった。 「凛花お嬢様」  扉の隙間、わずか数センチの空間から、黒瀬の低い声が差し込まれた。 「どのような形であれ……記録は、残ります」  私の足が、絨毯の上でピタリと止まった。 「……どういう意味?」  振り返ろうとしたが、黒瀬の姿はすでに厚いマホガニーの扉に遮られようとしていた。 「どうか、ご自身を見失われませんよう。……お気を確かに」  カチャリ。  金属のラッチが冷たく噛み合う音がして、扉は閉ざされた。  一人残された部屋の中。  私はドアノブを見つめたまま、その場から動けなかった。  記録は、残る。  それは、私の行動がすべて美津子に筒抜けになるという警告なのか。  
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第53話 信じるなという優しさ①

 朝のひやりとした空気が、分厚い遮光カーテンの隙間から細い光の束となって絨毯に落ちていた。 クローゼットの奥、靴箱の裏から引きずり出した革張りのメモ帳を開く。 指先にはまだ、昨夜の扉越しに黒瀬が落としていった『記録は、残ります』という低い声の残響が張り付いていた。 ボールペンのインクが紙の繊維に染み込み、昨日起きた事象を青黒い文字の列に変換していく。『第一応接室でのサロン。美津子による「透の重荷」というラベリング』『玄関ホールにて。透とメイド長の会話。透は「彼女がどう過ごそうが関係ない」と発言』 そこまで書き込んで、ペンの先が空中で数秒間止まった。 前世の職場で、顧客情報の誤送信トラブルの責任を被らされた時。 私が『極悪人』としてラベリングされた後、その悪意ある要約は社内チャットや匿名掲示板を通じて、恐ろしい速度で増殖し、拡散していった。誰も私を庇わず、ただ「そういうこと」として事実が塗り固められていった。 この天野邸でも、同じことが起きるはずだった。 美津子が設定した「毎晩泣いている哀れな娘」という筋書きは、メイド長の口から使用人たちへ、そして屋敷に出入りする業者や、サロンの招待客を通じて社交界へと、ウイルスのように浸透していく。 広報として何度も見てきた、炎上の典型的なプロセス。 私は、自分がどれほど透明な箱に閉じ込められ、空気が薄くなっていくのかを観察するため、今日一日、屋敷内の「視線」を数えようと決めていた。 メモ帳を閉じ、元の隙間へと押し込む。 洗面台で氷水を顔に当て、紺色のデイドレスに着替えた。 午前八時。 コン、コン、と控えめなノックの音とともに、千尋が朝食を載せたワゴンを押して入ってきた。「おはようございます、凛花お嬢様」 彼女は深く頭を下げ、手際よくテーブルにクロスを広げる。 カリカリに焼かれたトースト、スクランブルエッグ、そして温かい紅茶。 ソファに腰を下ろそうとして、ワゴンの端に置かれた薄い封筒に気づいた。「黒瀬様より、次回の会合の出席者一覧でございます」 千尋の声は、いつもより
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第54話 信じるなという優しさ②

「……千尋さん」  私はトーストに手を伸ばさず、声をかけた。  ビクッ、と千尋の肩が跳ねる。 「……お呼びでしょうか。私、何か失礼を……いえ、顔に出ておりましたでしょうか」 「いいえ。ただ、あなた、少し顔色が悪いわね。昨夜はよく眠れなかったの?」  そう言ってから、私は皿の上のトーストへ視線を落とした。端がほんのり濃い狐色になっている。 「それと、このトースト。少し焦げているところ、私、嫌いじゃないわ。だから、そんなに怯えた顔をしないで」 「……焦げ、でございますか」  千尋は拍子抜けしたように瞬きをした。重大な秘密を問い詰められると身構えていた顔に、ほんの一瞬だけ、年相応の困惑が浮かぶ。 「ええ。完璧な焼き色より、油断した味がするもの」  自分で言ってから、少しおかしくなった。天野家の重苦しい朝食の席で、私はいったい何を講評しているのだろう。 「とんでもございません。……ただ」  千尋は言葉を濁し、ワゴンの縁を両手で強く握りしめた。  彼女の視線が、部屋の扉の方へと怯えたように向けられる。 「今朝、黒瀬様より……使用人全体に、通達がございましたので。その、身が引き締まる思いでおりまして」  通達。  私はティーカップに伸ばしかけていた手を止め、膝の上でそっと組んだ。 「どんな通達かしら」  千尋の唇が微かに震える。彼女は迷うように視線を泳がせたが、やがて絞り出すような声で言った。 「……『今後、水科凛花様に関する根拠のない推測、風説、あるいは個人の感情の機微に関わる事柄を、屋敷内外を問わず口にした者は、即刻解雇し、天野家の名において一切の再就職を禁ずる』と」  私の心臓がドクン、と一つ、不規則で巨大な音を立てた。  呼吸が止まる。 「それから、『凛花様は天野家の正式な婚約者であり、その尊厳を損なうような言動は、相手がいかなる立場であれ、当主家への反逆とみなす』とも……」  命令は乱暴なのに、その中心にあるのは、私を黙らせることではなく、私について勝手に語る口を塞ぐことだった。守るというより、私の周囲に境界線を引いたのだ。  千尋の声は、最後にはほとんど聞き取れないほどの囁きに変わっていた。  私はテーブルの下で自分のドレスの生地を、爪が白くなるほど強く握りしめた。  解雇。再就職の禁止。当主家への反逆。  それ
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第55話 信じるなという優しさ③

 時系列表を作って誰かを守ろうとした私が、たった数行のスクリーンショットで極悪人に仕立て上げられた時、周囲の誰もが「関係ない」と視線を逸らした。 透も、そうするはずだった。それが、組織や権力のからくりの中で生き残るための、最も正しくて、最も冷酷な生存戦略なのだから。 なのに、彼は。 私は立ち上がり、足早に部屋を出た。 この矛盾を、彼自身の口から確かめなければならなかった。 一階へ降り、玄関ホールへ向かう。 黒瀬の通達の効果は、恐ろしいほどに屋敷の空気を変異させていた。 すれ違う使用人たちは、昨日までの哀れみや嘲笑の視線を消し去り、私が十メートル手前にいる段階で壁際に張り付き、床に額がつくほど深く頭を下げている。 私自身が強力な爆発物か、触れてはいけない猛毒にでもなったような、極度の畏怖と恐怖。 東翼から西翼へ、長い廊下を横切ろうとした時だった。 中庭に面した巨大なガラス窓の向こう、白砂利のアプローチを、一台の黒いハイヤーがゆっくり玄関の車寄せへと滑り込んでいくのが見えた。 玄関ホールの重厚な扉が開かれ、冬の外気が急に屋敷の中に流れ込んでくる。 数人の使用人が慌ただしく動く中、黒瀬を従えてホールに現れたのは、天野透だった。 これからグループの役員会議へ向かうのだろう。濃紺の三つ揃いのスーツに、シルバーのタイピンが氷のような冷たい光を反射している。 彼は靴音も立てずに大理石の床を歩き、そのまま玄関を出ようとしていた。「……透さん」 私は、数メートル離れた廊下から、彼に向かってはっきりと声を放った。 周囲で控えていた使用人たちの肩が、一斉にビクッと跳ねる。 透の足が、ピタリと止まった。 彼はゆっくり振り返る。 シャンデリアの光の下、彼の切れ長の瞳が私を射抜いた。 そこにあるのは、相変わらずの絶対零度の無関心。だが、彼の眉間には、私が彼を公の場で呼び止めたことに対する、ほのかな緊張の皺が刻まれていた。「……何の用だ」 ひどく低い、大理石を削る
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第56話 信じるなという優しさ④

 彼の氷の瞳は、私の問いを弾き返すように、ただ無機質な輝きを保っている。 「それがどうした」 「なぜ、あのような指示を出されたのですか」  私は一歩、彼の方へ距離を詰めた。  私のドレスの衣擦れの音が、静まり返った玄関ホールに大きく響く。 「昨日、メイド長に『透様の重荷』と言われた時、僕には関係ないと仰いましたね」 「……」 「本当に関係ないなら、放っておけばよかった。なのに、あなたは屋敷中に通達を出した」  私の言葉は、広報として矛盾を突く時のように論理的だったが、その奥で声帯が微かに震えているのを、自分でも抑えきれなかった。  彼が私を庇った事実が、私の内側にある強固な防壁を、内側から激しく揺さぶっている。  透はほのかに目を伏せた。  長いまつ毛が、陶器のように白い頬に濃い影を落とす。 「……勘違いをするな」  やがて、彼が低く口を開いた。  その声は、今まで聞いたどの声よりも冷たく、そして不思議なほど乾いていた。 「僕が通達を出したのは、君を守るためではない。天野家の『体面』を守るためだ」 「体面?」 「使用人の噂が外に漏れれば、天野の名に傷がつく。取引先も黙っていない。それを止めただけだ」  透はゆっくり顔を上げ、私を真っ直ぐに見返した。 「君の個人的な感情がどう傷つこうが、知ったことではない。だが、天野家の名前が傷つくことは、次期当主として見過ごせない。……ただの、危機管理の一環だ」  完璧な論理。  いかにも冷徹な御曹司が口にしそうな、隙のない言い訳。  けれど、私はその言葉を聞いて、思わず口角をかすかに上げてしまった。 「……危機管理、ですか」  私は彼の氷の仮面の奥にある、必死に隠そうとしている柔らかい部分から目を逸らさなかった。 「体面だけなら、私が勝手に病んで出ていく方が、都合がよかったはずです」  透の右手がスーツの脇でピクッと痙攣するように動いた。 「関係ないなら、どうして止めたんですか。私に聞かせたくなかったからでしょう」 「……黙れ」  透の声が、かすかにうわずった。  彼は私から顔を背け、玄関の重い扉の方へと向き直った。
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第57話 信じるなという優しさ⑤

 その横顔には、自分の引いた境界線を私に越えられそうになっていることへの、強烈な焦燥感が滲み出ていた。 「これ以上、僕のことを探るな」  彼は私に背を向けたまま、吐き捨てるように言った。 「僕が何を考えているかは知らなくていい。ここで余計なことをせず、僕にも近づくな」  そこで、透の言葉が一度だけ途切れた。  彼は玄関の扉の方へ視線を逸らし、ほとんど独り言のように続けた。 「……噂を追うなら、口にした人間じゃない。最初に言い出した人間を探せ」 「え……?」  私が聞き返した瞬間、透は唇を引き結んだ。 「今の言葉は忘れろ」  低く、拒むような声。  けれど、もう遅かった。  彼の背中は、広くて、完璧な仕立てのスーツに覆われているのに、どうしようもなく不器用で、孤独に見えた。  透の一言は、私の頭の中で小さな棘のように残った。  誰が口にしたかではなく、誰が最初に形を与えたのか。  それは、前世の会議室で私が見落としていた問いでもあった。  前世で、誰も私を庇わなかった。  言葉を切り取られ、極悪人に仕立て上げられていく私を、誰もが「自分には関係ない」と切り捨てた。  なのに、この男は。  自分自身が過去の死者たちへの罪悪感に押し潰されそうになっているのに。私を近づければ自分が私を殺してしまうと怯えているのに。  それでも、私に悪意の言葉が降りかかるのを、黙って見過ごすことができなかったのだ。  彼の「信じるな」という言葉が、どれほど必死な、痛ましい優しさから生まれたものなのかが、今の私には痛いほどにわかった。 「……透さん」  私は彼の広い背中に向かって、一歩だけ近づいた。  絨毯の上で私のヒールが微かに沈む音が、ホールの静寂に吸い込まれる。 「信じるなと言う人を、どう信じればいいの」  私の声は、ひどく静かで、けれど確かな熱を帯びていた。  透の肩が、弾かれたようにビクッと跳ねる。  彼は振り返らなかった。  けれど、玄関ホールのひやりとした空気の中で、彼が息を詰まらせ、喉で小さく息を呑む音が、私の耳にはっきりと届いた。  黒瀬が外から玄関の扉を開け、冷たい風が二人の間を吹き抜ける。  透は私に何も答えることなく、そのまま逃げるように足早にハイヤーの中へと姿を消した。  重い車のドアが閉まり、エンジン音
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第58話 閉ざされた温室①

 玄関ホールにかすかに残る冬の外気を吸い込み、私はゆっくり息を吐き出した。  彼を乗せたハイヤーのエンジン音は、もう聞こえない。  足元の大理石は、靴の底越しにもヒヤリとした冷たさを伝えてくる。  私は自分がギリギリのところで感情の暴走を抑え込んでいるのを感じていた。  彼は私を切り捨てなかった。  美津子の作った筋書きに私が押し潰されないよう、強引な権力を使って使用人たちの口を塞いでくれた。  けれど、それは「私の味方になってくれた」という単純な安堵をもたらすものではない。むしろ、彼がこれほどまでに私を遠ざけたがり、同時にこれほどまでに強引な手段で私を守らなければならない「理由」の底知れなさが、新たな恐怖として胸の底で渦を巻き始めていた。  彼が本当に恐れているのは、私が天野家で孤立することだけではないのかもしれない。私がこの屋敷の『何か』に近づきすぎて、命を落とすこと。それを、彼は恐れているように見えた。  踵を返し、自室へと向かう。  ホールや廊下に控える使用人たちは、私が動くたびにビクッと肩を震わせ、壁の染みになりたいとでもいうように深く頭を下げた。透の出した「解雇と再就職禁止」という通達は、彼らを怯えさせている。  皮肉なことだ。  この恐怖のおかげで、私は今、この屋敷の中をかつてないほど自由に歩き回る切符を手に入れたのだ。  誰も、私を咎めない。私に関わって風説を流したとみなされれば、その瞬間に首が飛ぶのだから。  私室の重い扉を閉め、ソファに腰を下ろす。  これまでに集めた断片的な事実を、頭の中で時系列に並べ直していく。  過去の花嫁たちの入室記録が消された、書庫の分厚いバインダー。  誰も座らない席の足元に落ちていた、純白の肉厚な花びら。  千尋が怯えたように語った、夜の温室で硬いものがガラスを叩く音。  それから、透が温室で見せていた、あの痛切な懺悔の表情。  すべてのベクトルが、一つの場所を指し示している。  温室。  あのガラスの箱の奥に、過去の死者たちと透の深い傷、そして美津子が隠そうとしている秘密の核が眠っている。  時計の針を見上げる。午前十時を過ぎたところだ。  外は明るく、太陽の光が庭園を白く照らし出している。  夜にあの場所へ近づくのは危険すぎる。だが、使用人たちが私を恐れて距離を取っ
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第59話 閉ざされた温室②

 重い扉を手前に引く。  そのとき、むせ返るような湿気と熱気が、目に見えない分厚い毛布のように全身にのしかかってきた。  冬の外気から一転、ここは真夏の熱帯だ。  肺に吸い込んだ空気が、ねっとりと重い。湿った黒土の匂い、シダ植物の強烈な青臭さ、そして脳の芯を麻痺させるようなあの甘ったるい白い花の香りが、暴力的な濃度で空間を満たしている。  中に入り、背後で扉を閉める。  外の庭園の静けさが遮断され、代わりに、自動散水装置のシューッというかすかな水音と、水滴が巨大な葉を叩くポタ、ポタというくぐもった音が耳を支配した。  前回、透が白い花を見つめていた中央のスペースまでは、迷わず歩みを進めることができた。  けれど、今日私が目指すのはそこではない。  中央のスペースからさらに奥。  鬱蒼と絡み合うツタと、巨大なヤシ科の植物が壁のように立ち塞がり、視界を遮っているエリア。  植物の配置が、明らかに「ここから先へは進ませない」という明確な意図を持って設計されているのがわかる。  ドレスの裾が泥で汚れるのも構わず、私は太いシダの葉を手で押し除け、その緑の壁の奥へと足を踏み入れた。  葉の表面についた結露が手袋を濡らし、氷のように冷たい水滴が手首を伝って落ちる。  薄暗い。  ガラスの天井は植物に覆い尽くされ、外の陽光がほとんど届かない。  湿気はさらに強くなり、息をするたびに喉に土の粒子が張り付くような息苦しさがあった。  数メートル進んだところで、私の足元でゴリッ、と嫌な音が鳴った。  土や石ではない。何か、もっと脆くて崩れやすいものを踏み砕いた感触。  視線を落とす。  薄暗い地面に転がっていたのは、黒く変色したレンガの欠片だった。  よく見ると、そのレンガの表面には、煤(すす)がこびりついている。  心臓の鼓動が、一段階速度を上げた。  顔を上げ、前方を凝視する。  緑の葉の向こう側に、黒い、巨大な塊がそびえ立っていた。  私はさらに二枚の葉をかき分け、その前に立った。  息を、呑んだ。  それは、火災の痕跡だった。  温室の最も奥深い壁面。そこに、かつて別の建物と繋がっていたと思われる、木とレンガで組まれた古い構造物の残骸が、無惨に焼け焦げた姿のまま放置されていたのだ。  黒く炭化した太い木の柱。  熱で爆ぜて
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第60話 閉ざされた温室③

 私の目は、その黒い焼け跡の足元に吸い寄せられた。  炭化した柱の根元を隠すように、あるいはその黒い傷跡を慰めるように。  あの純白の肉厚な花が、鉢植えではなく、直接土に根を下ろして群生していた。  光の届かない薄暗い空間で、その白い花びらだけが、まるで燐光を放っているように不気味に浮かび上がっている。  透が、痛切な顔で触れていた花。  過去の花嫁の、誰も座らない席の足元に落ちていた花。  それらが、この火災の痕跡と一つに結びついた瞬間、私の背筋を悪寒が駆け抜けた。  この焼け跡は、ただの火事の跡ではない。  誰かの人生を決定的に狂わせた、あるいは奪った惨劇の現場だ。  そして美津子はこの痕跡を片付けることもせず、あえてこの温室の奥に「保存」している。白い花を供え、誰も立ち入れないように緑の壁で囲って。  透が私に近づくのを極端に恐れる理由。  彼自身が過去の死者たちへの罪悪感に苛まれている理由。  それが、この黒い柱の向こう側にある。  私は炭化した柱の奥にある、わずかに焼け残った木製の扉へと近づいた。  炎の熱で歪み、黒く変色した扉。その向こうは、おそらく屋敷の地下か、あるいは別の棟へと繋がっているのだろう。  手袋を外し、素手でその扉の表面に触れようとした。 「……そこから先へは、進ませません」  背後から、低く、感情の一切を削ぎ落とした声が響いた。  足音も、葉をかき分ける音も、まったく聞こえなかった。  振り返ると、ほんの二メートルほど後ろの薄暗がりに、漆黒のスーツ姿の黒瀬が立っていた。  彼はいつものように脇にバインダーを抱えていない。  両手を真っ直ぐに下ろし、彫像のように静止しているが、その身体全体から発せられる「威圧感」は、これまでに見たどの瞬間よりも強烈だった。  見えない壁が、彼と私の間にそびえ立っているような感覚。 「黒瀬さん」  私は扉に向けた手を下ろし、ゆっくり彼に向き直った。 「足音も立てずに背後に立たれると、驚くわ」 「申し訳ございません。ですが、凛花お嬢様。そのエリアは、当主様および奥様の厳命により、何人たりとも立ち入りが禁じられております」  黒瀬の氷のような瞳は、私の目を真っ直ぐに射抜いていた。 「使用人はおろか、私であっても、許可なくその奥へ踏み込むことは許されておりま
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