M.Eグループ、人事部。人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた夏井実乃里(なつい みのり)に差し出した。顔も上げないまま言う。「これを津島社長にサインしてもらえれば、あと一か月勤務した後に退職できるよ」「どうしても津島社長本人のサインが必要なんですか?」書類を受け取った実乃里の声には、わずかなためらいが滲んでいた。だが、人事担当者は顔を上げると、彼女の最後の希望を断ち切るようにきっぱりと言った。「もちろん。君は津島社長の秘書なんだから、承認は本人じゃないと駄目だよ。何か問題でも?」そこまで言われてしまえば、実乃里もそれ以上は何も言えない。首を横に振ると、人事部のオフィスを後にした。津島裕翔(つしま ゆうと)の執務室は最上階にある。エレベーターに乗って上がり、扉の前まで来てもなお、彼女の足取りは重かった。コンコン、とノックの音が響く。実乃里は扉を開けた。目に飛び込んできたのは、シャネル風のワンピースを着た女性が、スーツ姿の裕翔の膝の上に座り、熱く口づけを交わしている光景だった。一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を平静に戻り、そのまま机の前まで歩み寄る。「社長、こちらの......書類に、ご署名をお願いしたいのですが」そこでようやく、絡み合っていた二人は彼女の存在に気づいた。名残惜しそうに唇を離した後、実乃里はその女性の顔をはっきりと見た。この一か月、社長室に頻繁に出入りしている人物。長嶺グループの令嬢、長嶺奈々花(ながみね ななか)だった。彼女は甘えるように裕翔へ身を寄せる。「ハイヒールって本当に疲れるの。足が痛くてたまらないわ~」「じゃあ誰かに揉ませようか」裕翔は優しく応じた。だが、その視線が実乃里へ向いた瞬間、目つきも声色も冷え切る。「そこで突っ立って何をしている?早く奈々花の足を揉め」「えっ?」奈々花は口では遠慮がちに言った。「それはさすがに......」しかし、その顔には申し訳なさなど微塵も見えない。実乃里も動かなかった。彼女は裕翔の秘書だ。だが、愛人の足を揉むことは職務内容には含まれていない。微動だにしない彼女を見て、裕翔は何かを察したように鼻で笑った。そして引き出しから札束を取り出し、そのまま彼女の顔へ叩きつ
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