LOGINM.Eグループ、人事部。 人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた実乃里に差し出した。 顔も上げないまま言う。 「これを津島社長にサインしてもらえれば、あと一か月勤務した後に退職できるよ」 「どうしても津島社長本人のサインが必要なんですか?」 書類を受け取った実乃里の声には、わずかなためらいが滲んでいた。 だが、人事担当者は顔を上げると、彼女の最後の希望を断ち切るようにきっぱりと言った。 「もちろん。君は津島社長の秘書なんだから、承認は本人じゃないと駄目だよ。何か問題でも?」 そこまで言われてしまえば、実乃里もそれ以上は何も言えない。 首を横に振ると、人事部のオフィスを後にした。 裕翔の執務室は最上階にある。 エレベーターに乗って上がり、扉の前まで来てもなお、彼女の足取りは重かった。
View More裕翔のこととなると、すぐにやきもちを焼いてしまう竜之介をなだめるために、実乃里は裕翔に会いに行く際、竜之介も一緒に連れて行った。Z市に到着したのは翌日のことだった。療養施設は郊外にあり、静かで自然に囲まれた環境は、療養にはまさにうってつけだった。施設内の他の入所者たちが思い思いの部屋着やパジャマ姿で過ごしている中、裕翔だけは違っていた。実乃里と会うために、彼はかつて社長だった頃に好んで着ていた、仕立ての良いスーツに身を包んでいたのだ。その姿を見た竜之介は、開口一番、嫌味たっぷりに言った。「病人なら大人しく休んでいればいいのに。そんな見栄ばかり張って何になるんだ?」その声には嫉妬の匂いが漂っており、もはや形になって見えそうなほどだった。実乃里は内心で笑いをこらえたが、彼の言うことにも一理あると思った。病気だから最後に会いたいと言っておきながら、今さら無理をしてまで体裁を整える必要がどこにあるのだろう。しかし裕翔は首を横に振った。そして真っ直ぐ実乃里を見つめる。「病気になっても、実乃里には一番いい姿を覚えていてほしいんだ。この先もう二度と会えなくなるとしても、弱った姿だけは見せたくない。あの頃の実乃里も、そうだったんじゃないのか?」その言葉に、実乃里は一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに肩の力を抜き、静かに微笑む。やはり一時代を築いた実業家だけあって、情報を得る手段も自分たちとは比べものにならないらしい。どこからそのことを知ったのかは分からない。けれど、すべてはもう過去の話だ。今となっては、笑って受け流せる。「実乃里、本当にすまなかった。当時の俺は実乃里を信じ切れなかった。そのせいでたくさん苦しませてしまった......結局、俺も報いを受けたんだ」裕翔は自嘲気味に笑った。そのとき竜之介は、彼女がかつて重い病気を患っていたことを知り、顔色を変えていた。反射的に何か尋ねようとしたが、実乃里に手を押さえられ、優しくなだめられる。その光景を見て、裕翔の胸には安堵と苦味が同時に広がった。――ほらな。彼女は自分に隠していた。そして今の夫にも話していなかった。それでも今、彼女の隣に立ち、感情を気遣われ、優しく慰められているのは、自分ではない。もう彼ではないのだ。「それで、今日は
実乃里はそっと手を伸ばし、彼の眉や目元をなぞった。そしてそのまま首に腕を回し、唇へそっと口づけを落とす。「きっとすごくつらかったよね。でもよかった。今はこうして、私があなたのそばにいるんだから」竜之介は一瞬目を見開いた。次の瞬間、口元に大きな笑みが広がる。「ああ、そうだな。君が隣にいてくれるだけで、あの13年も無駄じゃなかったと思える。だって俺たちには、これから先も13年が、その何倍も待っているんだから」そう言って彼は彼女を強く抱きしめた。胸の奥からあふれ出す幸福感を、もう抑えきれない。かつての臆病さのせいで、彼は13年間も実乃里を遠くから見つめることしかできなかった。だからこそ今度は違う。これから先の13年も、その先の13年も――勇気を持って彼女と共に歩いていこうと、心の底から思った。結局、長嶺家による裕翔への訴訟は法廷まで進むことはなかった。最大の理由は、裕翔の病状だった。治療の結果、高熱のまま長時間放置されたことで脳細胞に深刻な損傷が生じており、回復は見込めないと診断されたのだ。目を覚ました後の彼には感情面や行動面での異常が見られた。さらに身近に世話をする家族もおらず、今後は高い確率で療養施設へ入所することになると判断された。加えて、奈々花に危害を加えた当時は意識が混濁していたこともあり、最終的に長嶺家は示談による賠償を選択した。しかし奈々花の容体は深刻だった。後頭部への強い衝撃によって重度の脳損傷を負い、植物状態となる可能性が極めて高い。目を覚ますかどうかさえ分からない。――意識を取り戻した日。裕翔はスマホを見つめていた。新着メッセージも、不在着信も、一件もない。彼は苦々しく視線を落とし、自嘲気味に笑った。――何を期待していたんだろう。今の実乃里はすでに別の男の妻だ。自分のことなど気に掛けるはずがない。たとえ偶然ニュースを目にしたとしても、「そうなんだ」と一度目を通し、そのまま画面をスワイプして終わるだけだろう。裕翔の件を受け、彼は保有していた株式の大半を長嶺家へ譲渡した。手元に残したのは療養施設で暮らしていくために必要最低限の分だけ。こうして長嶺家は一気にM.Eグループ最大の株主となった。幸い、長嶺夫婦が憎んでいたのは裕翔個人だけ
竜之介はその名前を聞いただけで少し気が重くなり、声までどこかくぐもったものになった。「だって、彼は君が最初に好きになった人だから......実乃里。俺はずっと後悔してるんだ。もっと早く勇気を出して、君の背中を追いかけて、『好きだ』って伝えればよかったって......」その言葉の意味を悟り、実乃里は思わず目を見開いた。竜之介と出会ったとき、彼女は何一つ隠さなかった。ただ結婚したいだけだと、最初からはっきり伝えたのだ。結婚前に恋愛感情がなくても構わない。結婚後、互いに礼節を保った夫婦になるのでもいいし、一緒に愛情を育てていくのでもいい。とにかく、自分はこの結婚によって、過去の恋を終わらせたかった。もし彼に他に好きな人ができたなら、正直に言ってくれればいい。そのときは離婚にも応じるし、しがみつくつもりもない。ただ一つだけ条件があった。結婚後に愛情が芽生むかどうかに関係なく、不倫だけは絶対にしないこと。竜之介はそれを受け入れた。そして彼も一つだけ条件を出した。自分は浮気しない。その代わり結婚した後は、彼女も他の誰かを愛してはいけない。正直、それはあまり良い条件とは思えなかった。人の心が一生変わらない保証などどこにもない。今は「浮気しない」と言えても、本当にその時が来たら、他の誰かに心を奪われないとは誰にも言い切れない。もしそうなったとき、意地だけで結婚生活を続けるのは賢明とは言えないだろう。それでも、彼の目を見つめた瞬間、不思議と胸の奥に一つの思いが浮かんだ。――一度だけ、信じてみてもいいかもしれない。本当に彼が他の誰かを好きになったなら、そのとき一番離婚を望むのはきっと彼自身のはずだから。だから実乃里も、その条件を受け入れた。交際を決めてから結婚まで、すべては驚くほど順調だった。そして実際、彼女の言葉どおりになった。とにかく早く結婚したかった。出会いから結婚まで、わずか一か月。あまりにも慌ただしい期間だった。それなのに、竜之介が用意した結婚式には少しの手抜きも感じられなかった。会場の隅々にまで、準備した人の真心と気遣いが込められていた。当時の実乃里は、竜之介もまた恋愛で傷ついた人なのだろうと思っていた。誰かに捨てられたのかもしれない。だか
警察たちも困り果てていた。被害者と容疑者の両方がそろって意識不明という事件は、さすがに初めてだった。しかも二人とも容体は深刻だった。一人は体温が40度に達したまま、8時間近く放置されていた。医師によれば、この状態では命が助かったとしても脳細胞に損傷が残る可能性が高いという。つまり、たとえ裕翔が目を覚ましたとしても、警察の事情聴取に応じられる状態ではないかもしれない。もう一人は頭部を強打しており、そもそも目覚めるかどうかすら分からない。――長嶺父が知らせを受けて病院へ駆けつけた時、自分を責めずにはいられなかった。どうして今日に限って、奈々花を一人残してしまったのか。腹を立てていたとしても、誰か一人くらいは付き添わせるべきだった。そうしていれば、娘がこんな目に遭うこともなかったかもしれない。娘が裕翔に階段から突き落とされたと聞き、さらに結婚式当日の逃亡騒ぎまで思い出した途端、怒りが一気に燃え上がった。彼は即座に弁護士を雇い、裕翔を刑務所送りにすると公言した。実乃里がニュースで、裕翔が長嶺父に訴えられたという報道を目にした時、不思議な既視感にも似た感覚を覚えた。まるで遠い昔の出来事を眺めているようだった。たった4年。それなのに、彼の人生はまさに激動そのものだった。彼女は彼が最も貧しく、最も惨めだった頃を知っている。だからこそ、今の地位を築くまでにどれほどの努力を重ねてきたかも分かっていた。だが、ニュースを見る限りでは、二人がなぜここまでこじれてしまったのかは分からない。ほんの少し前までは結婚間近だったはずだ。前日までは裕翔と奈々花の結婚式についての話題が飛び交っていたのに、その夜には「Z市の人気eスポーツスター、提訴される」という見出しにすべて塗り替えられていた。竜之介は彼女の肩に顎を乗せる。温かな吐息が首筋をかすめた。そして容赦なく彼女のスマホを取り上げる。「最近あいつへの関心が俺より高くなってない?そんなに面白い?」実乃里はその親密な距離感に頬を赤く染めた。彼の腕を引き剥がそうとしたが、いくら頑張ってもびくともしない。仕方なく諦めると、優しく言い聞かせるように答えた。「違う。適当に見ていたら流れてきただけだよ」実際、竜之介はそれほど嫉妬深い人間で