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帰る場所の違う私たち
帰る場所の違う私たち
Author: 晴天

第1話

Author: 晴天
M.Eグループ、人事部。

人事担当者は一枚の書類を取り出し、脇で待っていた夏井実乃里(なつい みのり)に差し出した。

顔も上げないまま言う。

「これを津島社長にサインしてもらえれば、あと一か月勤務した後に退職できるよ」

「どうしても津島社長本人のサインが必要なんですか?」

書類を受け取った実乃里の声には、わずかなためらいが滲んでいた。

だが、人事担当者は顔を上げると、彼女の最後の希望を断ち切るようにきっぱりと言った。

「もちろん。君は津島社長の秘書なんだから、承認は本人じゃないと駄目だよ。何か問題でも?」

そこまで言われてしまえば、実乃里もそれ以上は何も言えない。

首を横に振ると、人事部のオフィスを後にした。

津島裕翔(つしま ゆうと)の執務室は最上階にある。

エレベーターに乗って上がり、扉の前まで来てもなお、彼女の足取りは重かった。

コンコン、とノックの音が響く。

実乃里は扉を開けた。

目に飛び込んできたのは、シャネル風のワンピースを着た女性が、スーツ姿の裕翔の膝の上に座り、熱く口づけを交わしている光景だった。

一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を平静に戻り、そのまま机の前まで歩み寄る。

「社長、こちらの......書類に、ご署名をお願いしたいのですが」

そこでようやく、絡み合っていた二人は彼女の存在に気づいた。

名残惜しそうに唇を離した後、実乃里はその女性の顔をはっきりと見た。

この一か月、社長室に頻繁に出入りしている人物。

長嶺グループの令嬢、長嶺奈々花(ながみね ななか)だった。

彼女は甘えるように裕翔へ身を寄せる。

「ハイヒールって本当に疲れるの。足が痛くてたまらないわ~」

「じゃあ誰かに揉ませようか」

裕翔は優しく応じた。

だが、その視線が実乃里へ向いた瞬間、目つきも声色も冷え切る。

「そこで突っ立って何をしている?早く奈々花の足を揉め」

「えっ?」

奈々花は口では遠慮がちに言った。

「それはさすがに......」

しかし、その顔には申し訳なさなど微塵も見えない。

実乃里も動かなかった。

彼女は裕翔の秘書だ。

だが、愛人の足を揉むことは職務内容には含まれていない。

微動だにしない彼女を見て、裕翔は何かを察したように鼻で笑った。

そして引き出しから札束を取り出し、そのまま彼女の顔へ叩きつけるように投げつけた。

咄嗟に顔を背けたものの、一枚の紙幣の縁が頬をかすめる。

瞬間、白い肌に赤い傷が走った。

「これだけあれば十分だろう?」

嫌悪に満ちた声が耳元に落ちる。

頬は焼けるように痛んだ。

何か言おうとして唇を動かしたが、結局言葉にはならない。

彼女は黙ってしゃがみ込み、奈々花の足を優しく揉み始めた。

どれほど時間が経っただろうか。

ようやく奈々花が微笑みながら足を引っ込めた。

「もういいわ。裕翔、カップル向けのフレンチレストランを予約してたでしょう?そろそろ時間よ」

「そうだな」

裕翔は甘やかな笑みを浮かべながら立ち上がり、彼女の手を取って部屋を出て行こうとする。

二人が去ろうとするのを見て、実乃里は慌てて退職届を手に追いかけた。

「津島社長!この書類にサインをお願いします!」

裕翔は眉をひそめ、内容を確認しようと書類へ手を伸ばす。

しかし奈々花が横からせがんだ。

「裕翔?早く行きましょう、お腹空いちゃった」

その言葉を聞くと、裕翔は深く考えもせず、書類の一番下に自分の名前を書き込んだ。

署名を終えると、そのまま振り返ることもなく執務室を後にする。

だからこそ彼は見なかった。

実乃里がようやく安堵の息を漏らしたことを。

――これで、ようやく裕翔のそばを離れられる。

ちょうどその時、スマホが鳴った。

通話に出ると、穏やかな男性の声が耳に届く。

「実乃里、結婚式の準備はもう進めているよ。あとどれくらいで戻ってこられる?」

実乃里は手にした退職届を見つめた。

「退職手続きは終わった。あと一か月だけ」

答えを聞いても、相手はすぐには電話を切らなかった。

しばらく沈黙した後、ためらうように口を開く。

「実乃里......俺と結婚するの、無理をしていないかな。だって君の元恋人は裕翔だったんだろう?彼がどれほど君を愛していたか、誰もが知っている」

その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。

4年前。

彼女の恋人は、確かに裕翔だった。

まだ何者でもなかった彼と、狭い賃貸アパートで肩を寄せ合いながら暮らしていた。

大金をくれたわけではない。

だが、溢れるほどの愛をくれた。

彼と一緒にいると、果物はいつも食べやすく剥かれていた。

雨の日には必ず鞄の中に傘が入っていた。

小さなサプライズも絶えなかった。

幾度となく汗だくで愛し合った夜の後、彼は彼女を強く抱き締めて誓った。

必ずたくさん稼いで、実乃里を妻にする、と。

当時の彼はプロゲーマーを目指していた。

彼女との未来のためにゲームに集中し、睡眠時間は一日二時間ほど。

血を吐く寸前まで自分を追い込んでいた。

それなのに、彼が最も彼女を愛していたその時期に、別れを告げたのは実乃里の方だった。

あの夜は大雨だった。

自分を引き止める彼の指を一本、また一本と冷たく引き剥がしながら、彼女はその瞳に冷徹さを浮かべて言い放った。

「あなたについていっても、この狭いアパートで一生暮らすだけ。好きなワンピースひとつ買えなくて、何度も眺めては諦める生活にはもううんざりなの。お願いだから、もう私を解放して」

傘を差し、高級車へ乗り込む。

バックミラーには、よろめきながら車を追いかける彼の姿が映っていた。

――行かないでくれ。

愛している。もう少しだけ待ってくれ。

嗚咽混じりに何度も叫ぶ声が聞こえた。

彼女は車の中で涙を流し続けた。

それでも、一度も振り返らなかった。

なぜなら――

その頃の彼女は、癌を宣告されていたからだ。

ただでさえ苦しい生活だった。

そんな時に癌まで発覚した。

まだ治療可能な段階だったとはいえ、その医療費は彼を確実に押し潰してしまう。

彼の人生を壊したくなかった。

だから彼女は、自分を守るためではなく、彼を守るために彼を捨てた。

それが彼女なりの救いだった。

その後、彼女は海外へ渡った。

働きながら治療費を稼ぎ、最も苦しい時期には客の食べ残しで空腹をしのぎ、店の薄暗く湿った物置で眠った。

治療と再発を繰り返しながら、それでもなんとか命を繋ぎ留めた。

帰国後、高給取りの秘書職に応募し、採用された。

だが、その会社こそが裕翔の企業だった。

帰宅後に彼の名前を検索して初めて知った。

彼女が海外にいた4年間で、裕翔がゲームの配信活動からスタートし、人気プロゲーマーへと駆け上がり、その後は若き実業家として成功を収め、今や巨大なeスポーツ帝国を築き上げていたことを。

実乃里がいなくなったことで、彼は確かにより良い人生を手に入れた。

だが再会した時、彼の目にあったのは驚きと――憎しみだけだった。

彼は彼女を恨んでいた。

M.Eに入社してから、実乃里は彼の専属秘書になった。

執務室とは壁一枚隔てただけ。

周囲は最高のオフィスを与えられたと羨んだが、真実を知るのは彼女だけ。

それは裕翔の意図だった。

自分に見せつけるために。

3日ごとに変わる女たちが社長室へ出入りする姿を。

彼女たちと親密に過ごす姿を。

そして自分を呼びつけ、屈辱的な要求を突きつけるために。

断れば、今日と同じように札束を顔へ投げつけて言うのだ。

「これだけあれば十分だろう?」

彼はわざと彼女に見せつけていた。

他の女との親密さも、数々の嫌がらせも。

だがその一方で、深夜に泥酔すると、赤くなった目で彼女の家の前に立ち塞がり、首筋に額を押し当てながら震える声で問いかける。

「実乃里......お前には心というものがないのか」

裕翔が彼女を苦しめているのか、それとも自分自身を苦しめているのか。

実乃里には分からなかった。

ただ、その時思った。

どちらかが本当に落ち着ける場所を見つけなければ、この腐れ縁は終わらないのだと。

だから少し前、彼女は地元へ戻って紹介で会ってみた。

相手は高校時代の同級生、逢坂竜之介(おおさか りゅうのすけ)。

大富豪ではないが、堅実に生きる誠実な男性だ。

二人は気が合い、自然な流れで婚約を決めた。

結婚式は一か月後。

これからは、彼女は裕翔を解放する。

そして彼にも、自分を解放してほしかった。

人混みの向こう側で、もう二度と交わることなく、互いに何も負わないまま。

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