All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 101 - Chapter 110

130 Chapters

第101話

なぜだか分からないが、紗寧は二人の様子にどこか違和感を覚えた。だが、何がおかしいのかまでは分からない。紗寧は小さく首を振って疑念を打ち消すと、脇に寄って二人を招き入れた。「天川先生、伊礼先生、どうぞお掛けください」ほどなくして、4人は席に着いた。仲居がお茶を注ぎ足すと、音もなく部屋を出て襖を閉める。途端に、個室の中はしんと静まり返った。最初に口を開いたのは紗寧だった。「天川先生、以前お電話でご相談した件なんですが......」天川は慌てて湯呑みを置いた。「貝原さんのスキンシップ恐怖症についてですが、こちらでもひとまず見立てを......」紗寧は慌てて遮った。「天川先生、診ていただきたいのは私ではなくて......友人なんです」天川は言葉を失った。「......」診る相手は八角蒼士の方だったのか?そんなこと、恐れ多くてできるはずがない。紗寧の言う「友人」が蒼士だと最初から知っていたら、何があってもここへ来たりはしなかったのに......天川は反射的に蒼士へ目を向けた。蒼士は椅子の背にもたれたまま、手の中で湯呑みを弄んでいる。表情からは何の感情も読み取れなかった。だが、時折こちらへ向ける視線には、ひやりとするほどの冷気が漂っていた。「......」天川は何かを言いかけ、結局口を閉ざした。頭をフル回転させて状況を整理する。紗寧は、彼と蒼士の関係を知らない。ましてや半年前、蒼士がわざわざ彼を北城へ派遣し、紗寧の耳を治療させたことなど知るはずもない。紗寧からすれば、ただ天川に蒼士を診てもらいたいだけなのだ。話の筋は通っている。だが問題は......蒼士の病状なら、天川は誰よりもよく知っていた。「ひとまず......食事にしませんか?食べながらお話ししましょう」紗寧はすぐにうなずいた。「はい、そうですよね」ほどなくして、仲居が先付を運んできた。それを皮切りに、椀物、造り、焼き物と、旬の食材を使った料理が一品ずつ供されていく。どれもこの料亭自慢の品で、上品な盛りつけも目を楽しませてくれた。だが、食事の席にはどこか微妙な空気が漂っていた。蒼士だけは相変わらず何事もないような顔をしていた。料理が運ばれてくるたびに、紗寧が取りやすい位置へ器をそっと寄せたり
Read more

第102話

紗寧の胸が、ぎゅっと締めつけられた。「どういうことですか?」「彼の精神的な負担は、すでに限界に達しています」伊礼は真剣な口調で続けた。「このまま何のケアも受けずにいれば、統合失調症のような症状が現れる可能性があります」統合失調症。その言葉は冷水となって紗寧の頭上から降り注ぎ、全身を凍りつかせた。「それは......本当ですか?」声がこわばる。伊礼はうなずいた。「心理カウンセラーとして10年働き、似たような症例をいくつも見てきました。ですが、八角さんの状態はそれらよりも複雑です。自制心があまりにも強く、すべての感情を意識の奥深くへ抑え込んでいるんです。ただし、抑え込むことには必ず代償が伴います。圧縮され続けるばねと同じで、いつかは必ず弾ける。そのときにはもう、動悸や不眠といった症状だけでは済みません」紗寧は無意識に指を握り締めた。「では......どうすればいいんですか?」伊礼はポケットから名刺を取り出し、紗寧に差し出した。「こちらが私の連絡先です。もし彼を説得できるようなら、催眠療法を受けてもらうのも一つの方法です」紗寧は名刺を受け取り、目を落とした。記されているのは名前と電話番号だけで、驚くほど簡素な名刺だった。「彼が私を信用してくれない限り、力になることはできません」伊礼は真剣な表情で言った。「信頼してもらうには時間が必要です。それに、貝原さんの協力も欠かせません」紗寧は名刺を大切にしまい、うなずいた。「分かりました。ありがとうございます、伊礼先生」「いえいえ」伊礼はわずかに口元を緩めた。「まあでも、それほど心配しなくても大丈夫です。確かに今の彼は危うい状態ですが、早めに適切なケアを始めれば、症状を抑えることはできます」そこで言葉を切り、もう一言付け加えた。「ただし、本人にその意思があれば、ですが」......その頃、個室では蒼士が窓辺に寄りかかり、長い指の間に燃え尽きかけた煙草を挟んでいた。「ずいぶん偉くなったものだな。彼女に会うのに、俺への事前報告もなしか」「......」「い、いや......まさか彼女のほうから心理カウンセラーに会いたいと言い出すとは思わなくて、つい嬉しくなってしまったんです......」天川は引きつった笑み
Read more

第103話

――薬を飲んでいない。蒼士が、薬を飲まずにいられている。それがどれほど驚くべきことか。2年前のあの事件以来、蒼士が薬を手放せたことは一度もなかった。少しでも感情が大きく揺れれば、必ず薬で抑えなければならなかったのだ。つい先日、クラブに潜り込んでいた内通者が紗寧を傷つけかけ、その直後には豊水が乗り込んできて挑発した。天川はてっきり、蒼士が薬で症状を抑えているものだと思っていた。それなのに最近は飲んでいないという。紗寧のおかげなのか?とはいえ、治療を受けずにいるのは、決して長く続けられることではない......「八角さん、これから少しでも具合が悪いと感じたら、必ずすぐに私へ連絡してください」蒼士は返事をせず、そのまま個室の外へ向かった。戸口まで来ると、気だるそうに片手を振る。「分かってる。いちいちうるさい」天川は小さく笑い、しばらくしてからようやく長い息を吐き出した。紗寧と伊礼が東屋を出ると、個室の前に寄りかかっている蒼士の姿が遠くから見えた。廊下の照明が、刃物で削り出したように端整な横顔の輪郭を浮かび上がらせている。薄い唇はわずかに引き結ばれ、凛々しい目元には冷気が漂い、全身から人を寄せつけない雰囲気を放っていた。足音に気づいたのか、蒼士はふと目を上げた。二人の視線が重なった瞬間、彼の口元にかすかな笑みが浮かび、それまで眉間に宿っていた冷たさが跡形もなく消え去った。紗寧は思わず足を止めた。同時に、心臓も一拍跳ね損ねたような感覚に陥る。胸の奥で、何かが芽吹こうとしているような気がした............その夜。北城にあるワールド・エンターテインメント本社では、社長室だけに明かりが灯っていた。真洋はデスクの前に座り、その傍らの灰皿には、吸い殻が無造作に山積みになっていた。室内には煙が立ち込め、目を開けているのもつらいほどだった。翔はドアを開けた途端、強烈な煙草の臭いに思わず半歩後ずさった。それでも覚悟を決め、室内へ足を踏み入れる。手にしていた書類をデスクに置き、真洋を見た瞬間、翔の胸に嫌な予感が走った。真洋は椅子の背にもたれ、目を閉じていた。目の下には濃いくまが浮かび、顎には青い無精ひげが生えている。シャツはしわだらけで、襟元も大きくはだけていた。ネクタイに
Read more

第104話

「港江行きの航空券を3人分取ってくれ。今すぐだ」「3人分......?」翔は思わず聞き返した。「お前と俺、それに詩帆の分だ......」翔は信じられない思いで真洋を見た。――紗寧とよりを戻すために会いに行くのではなかったのか?そこへ鈴江詩帆を連れていって、どうするつもりなのだろう。だが、真洋の充血した目を見て、翔は唇を引き結び、慎重に尋ねた。「本当に鈴江も?」「何か問題でもあるのか?」翔は乾いた唇を舐めた。「貝原との関係がこじれたのは、そもそも彼女が原因でしょう?彼女は......」「だからこそ、詩帆を連れていくんだ」真洋は彼の言葉を遮った。「紗寧はまだ詩帆に腹を立てているはずだ。詩帆から直接謝らせれば、それで水に流せるだろう。それに、いずれは身内になるんだから。いつまでもこんな状態を続けるわけにはいかない」――家族。その言葉を聞いた瞬間、翔は何とも言えない馬鹿げた思いに襲われた。詩帆のせいで紗寧は聴力を失い、その後も何度となく傷つけられてきた。それなのに、どうすれば家族になれるというのか。「もういい。早く予約してくれ」翔は深く息を吸った。「分かった。すぐに手配する」翔が足早に部屋を出ていくのを見届けると、真洋はポケットから二つのベルベットケースを取り出した。一つは今日、宝石店から受け取ったばかりのもので、中には自ら選んだダイヤモンドの指輪が入っている。もう一つは少し小さく、先日病院から持ち帰ったものだった。真洋はそちらの指輪を取り出し、リングの内側に刻まれた文字を指先でなぞった。以前の彼は、紗寧が自分に尽くすのは当然だと思っていた。彼女は自分を愛しているのだから、どんなことでもして当然だと。彼女が尽くしてくれることにも、いつも譲ってくれることにも慣れきっていた。紗寧は必ず自分の後ろにいて、振り返ればいつでもその姿を見ることができた。けれど、紗寧だって疲れることも、失望することもある。そしていつかは......自分を見限ることもあるのだと、考えたことすらなかった。真洋は指輪を強く握り締めた。リングが食い込んだ手のひらには深い赤い跡が残ったが、痛みなどまるで感じていないかのようだった。これまでの自分が間違っていた。プロポーズを女性にさ
Read more

第105話

真洋は紗寧の耳元に腕をつき、壁との間に彼女を閉じ込めた。「手を離して」紗寧の声が冷たくなる。「嫌だ」紗寧は顔を上げ、まっすぐに彼の目を見た。「私たちはもう別れたの」「俺は認めていない」「別れるのに、あなたの同意なんて必要ない」真洋は唇を引き結び、低い声で言った。「紗寧、もう意地を張るのはやめて、俺と一緒に帰ろう。な?」紗寧は彼を見つめているうちに、急に馬鹿馬鹿しくなった。この男は、今になっても自分が何を間違えたのか分かっていない。真洋にとって、紗寧はただ拗ねてわがままを言っているだけなのだ。少し優しく宥めれば、おとなしく戻ってきて、再び彼だけを中心に生きる以前の紗寧に戻ると思っている。「意地を張っているわけじゃない」紗寧は一言一言、はっきりと告げた。「真剣に言っているの。私たちはもう別れたのよ!だから、もうつきまとわないで......!」真洋の表情が目まぐるしく変わり、紗寧の手首をつかむ力も無意識に強くなった。「詩帆のことが原因なのか?」眉間に深いしわを寄せて尋ねる。「何度も言っただろう。俺と詩帆はただの兄妹だ。あいつはまだ若くて分別がなかっただけで、もうきつく叱っておいた。二度とあんなことはしない」――ただの兄妹。その言葉を聞いた瞬間、紗寧の胃の底から強い吐き気がこみ上げた。冷笑を浮かべ、力ずくで手を振りほどくと、真洋にはもう目も向けず、エレベーターホールへ歩いていく。「紗寧......」そのとき、紗寧は少し離れた場所に人がいることに気づいた。自分の正体を知られることを恐れ、すぐに真洋へ振り返る。「もう私につきまとわないで。私はもう結婚したの!」――結婚?真洋はその場で固まった。その言葉があまりにも馬鹿げているように思えた。「今......何て?」結婚とはどういうことだ?いったい誰と結婚したというのか。この2年間、彼女はほとんど真洋だけを中心に生きてきた。聴力を失ってからは、ほかの人々との関わりすらほぼ断っていた。最初から最後まで、紗寧が好きだったのは自分だけだ。そんな彼女が、誰と結婚できるというのか。冗談にもほどがある。「もう結婚したって言ってる」紗寧は冷ややかな声で告げた。「これ以上つきまとうなら、警察を呼
Read more

第106話

その頃、八角グループの社長室では、横川が険しい表情でドアをノックしていた。「入れ」蒼士は机に向かい、書類に目を通していた。横川が入ってくると顔を上げ、ちらりと彼を見る。「どうした」「八角様、先ほど部下から報告がありまして......柏真洋が今朝、港江に到着したそうです。そのあとスタービルの駐車場で奥様の車を待ち伏せし、呼び止めて話をしていたと。奥様がエレベーターに乗ったあとも、ずっとその場に居座っているそうです」蒼士のペンを握る手が、わずかに止まった。「今もそこにいるのか?」「はい、まだ......」社長室に一瞬、静寂が落ちた。蒼士は目を伏せ、指先でゆっくりと万年筆を一回転させた。「八角様、こちらで......」横川は首をすぱっと切るような仕草をしてみせた。何を意味しているのかは、言うまでもなかった。蒼士が顔を上げ、横川を見る。感情の見えない静かな眼差しだったが、横川はすぐに目を伏せ、それ以上は何も言わなかった。「まだいい」蒼士は椅子の背にもたれ、淡々と告げた。「俺が片づける」横川はうなずき、一歩下がって控えた。蒼士は目を伏せ、引き出しから真っ黒な小さな薬瓶を取り出すと、手の中で転がした。数秒じっと見つめたあと、再び引き出しの中へ戻した。......真洋は、地下駐車場で丸一日待ち続けていた。車に寄りかかる彼の足元には、8本の吸い殻が散らばっている。シャツはしわだらけで、襟元のボタンを二つ外し、袖も無造作に肘の下までまくり上げていた。普段の隙ひとつない柏家の御曹司とは、まるで別人だった。「真洋さん、もうすぐ夜7時だよ......貝原はとっくに帰ったんじゃ......」「それはない」真洋はかすれた声で遮った。「車はまだあそこに停まっている。一度も動いていない」翔はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。そのとき、駐車場の反対側にあるエレベーターの扉が開いた。真洋は反射的に立ち上がる。だが、出てきたのは紗寧ではなかった。仕事を終えた数人の社員が談笑しながら駐車スペースへ向かい、真洋のそばを通り過ぎる際に何度か振り返ると、小声で何かを話しながら去っていった。真洋は元の場所へ戻り、手にしていた煙草の火を消した。吸い殻を靴底で踏み潰す
Read more

第107話

――柏真洋。前に会ったときは、あれほど自信に満ち、意気揚々としていた。それが今では、まるで行き場を失った野良犬のようだ。あんな哀れな姿を、いったい誰に見せるつもりなのか。紗寧は情にほだされるのだろうか。心変わりして、あの男のもとへ戻ってしまうのだろうか。何しろ以前の彼女は、あれほど真洋を愛していたのだから......蒼士の漆黒の瞳に、ぞっとするほどの冷気と暗い独占欲が浮かんだ。――もし彼女が後悔したら、どうすればいい?いっそ閉じ込めてしまおうか。無理やり抱いて......泣くまで抱き続けて......泣きながら許しを乞わせ、自分だけを愛している、この先も決して離れないと誓わせたい......蒼士は目を閉じ、瞬く間に込み上げてきた感情を押し殺した。それでも頭の中では、次々とよからぬ想像が膨らんでいく。もし真洋が本当に紗寧を言いくるめ、彼女が情にほだされてしまったら、きっと自分のもとを去る......かつて紗寧は、それほどまでに真洋を愛していた。そう思った途端、蒼士の胸に無数の細い針を突き刺されたような痛みが走った。虫の群れに少しずつ食い荒らされているようでもあり、息をするのも苦しくなる。蒼士の指に力がこもり、手の甲には青筋が浮かんだ。やがて頭まで鈍く痛み始める。こめかみが脈打ち、頭の中を何かで何度も叩かれているようだった。無意識に上着の内ポケットへ手を伸ばす。指先が、冷たい薬瓶に触れた。「あの」隣から柔らかな声が聞こえた。蒼士は顔を向ける。紗寧が彼を見つめていた。その視線は強く握り締められた拳に注がれ、わずかに眉をひそめた表情には、隠しきれない心配がにじんでいた。「大丈夫ですか?」蒼士は何も答えず、ただ彼女を見つめた。車内は薄暗く、時折、窓の外を流れていく街灯の光だけが差し込み、紗寧の顔を半分だけ照らしていた。彼女の肌は白く、淡い橙色の光を浴びて柔らかな艶を帯びている。長いまつ毛が目元に小さな影を落とし、わずかに引き結ばれた唇は淡い桃色で、みずみずしくふっくらとしていた。まるで熟したばかりの果実のようだった。蒼士の視線がその唇に止まり、喉仏がかすかに上下した。「八角さん?」返事がないため、紗寧はもう一度呼びかけた。その声には先ほど
Read more

第108話

「車の中じゃ駄目?」「......」そんなことを尋ねられ、紗寧は耳まで熱くなった。反射的に手を伸ばし、蒼士の口を塞ぐ。蒼士のまつ毛がわずかに揺れた。目を伏せ、自分の唇を覆っている彼女の手を見つめる。白く滑らかな手のひらに、ほんのり赤みを帯びた指先。5枚の花びらのようだった。紗寧は手のひらに柔らかな唇と温かな吐息を感じ、そこでようやく、自分がひどく思わせぶりなことをしていると気づいた。慌てて手を引こうとする。だが彼女が動くより早く、蒼士はその手をつかみ、手のひらへそっと口づけた。温かな感触が手のひらから広がる。かすかな電流を帯びたように血管を駆け抜け、そのまま心臓へ流れ込んできた。紗寧は指をきゅっと曲げ、やけどでもしたかのように手を引こうとした。しかし、蒼士の骨張った指が彼女の指の間へ入り込み、しっかりと絡められる。指を深く絡め合わせたまま、その手をシートへ押さえつけた。カチッと、小さな音が響いた。紗寧が反射的に顔を上げる。運転席と後部座席を隔てるパーティションが、ゆっくりと上がり始めていた。前方からの視線は完全に遮られ、後部座席だけが閉ざされた空間になる。紗寧の顔は、今にも血が滴りそうなほど赤くなった。横川だ......やはり、すべて聞こえていたのだ。蒼士はわずかに口元を上げ、顔を近づけた。鼻先で紗寧の鼻先を優しく擦り、互いの呼吸を絡ませる。笑みを含んだ低くかすれた声で尋ねた。「これなら、いいだろう?」紗寧は下唇を噛み、彼の顔を見ることができなかった。耳は焼けるように熱く、心臓も今にも胸から飛び出しそうなほど激しく脈打っている。だが返事をするより早く、次の瞬間、蒼士が身をかがめて唇を重ねた。紗寧は驚き、背中をこわばらせた。冷や汗まで一気に全身から噴き出す。その緊張に気づいたのか、蒼士の動きは次第に穏やかになった。少しずつ探るように触れ、ゆっくりとキスを深めていく。紗寧の呼吸が乱れ、無意識に蒼士のシャツを強くつかんだ。蒼士の手は腰から細い背中を撫でるように上がり、やがて後頭部を包み込んだ。指を髪の間へ差し入れ、紗寧をいっそう強く自分へ引き寄せる。キスは徐々に深くなっていった。唇の奥まで踏み込むような、抗うことを許さない激し
Read more

第109話

「素直なんだな」キスしたいと言えば、素直に受け入れてくれる。あまりにも従順で、危うく自制が利かなくなりそうだった。それでも彼女を傷つけてしまうのが怖かった。「え?」紗寧は意味が分からず、蒼士を見上げた。蒼士はわずかに口元を緩めると、話題を変えた。「今夜は何が食べたい?どこかへ食べに行こう」「何でも......任せます」「分かった」蒼士の笑みがさらに深くなり、たまらずもう一度顔を寄せ、彼女の唇の端に軽く口づけた。本当に......素直すぎる。この先ずっと、そばから離れられないようにしてしまいたいほどに。......それから数日、紗寧は真洋の姿を見かけなかった。どうやらようやく諦め、いくら待っても自分が現れないと分かって北城へ帰ったらしい。紗寧はほっと胸をなで下ろす一方で、どこかおかしくも感じていた。かつては、あの男なしでは生きていけないと思っていた。けれど実際に離れてみれば、空が崩れ落ちることも、地面が陥没することもなかった。太陽は変わらず昇り、毎日はいつもどおり続いていく。それどころか......以前よりもずっと充実していた。金曜日の終業前、紗寧は自分のデスクで翌週のスケジュールを整理していた。祐輔がドアを開けて入ってくると、戸口にもたれ、手の中で車のキーを弄んだ。気だるそうな表情をしているが、口元には意味ありげな笑みを浮かべている。「敏腕マネージャーの貝原さん、それじゃあ、また明日ね」紗寧は顔を上げ、訳が分からないまま彼を見た。明日?明日は土曜日ではなかったか。仕事も休みなのに......だが、事情を尋ねる間もなく、祐輔は口笛を吹きながら、のんびりと立ち去ってしまった。紗寧はしばらく呆然としていたが、そこでようやく思い出した。――そうだった。数日前、蒼士から今週の土曜日に有賀家へ集まると聞いていた。祐輔が言っていたのは、そのことだろうか。土曜日の朝早くから、紗寧はウォークインクローゼットで着ていく服を選んでいた。広々としたクローゼットは、紗寧が引っ越してきたばかりの頃にはがらんとしていたが、今では今季の新作で埋め尽くされている。そのほとんどは蒼士が手配したものだった。普段着からパーティードレスまで、必要なものはすべて揃って
Read more

第110話

蒼士の視線が、目の前のみずみずしい赤い唇に注がれ、無意識に顔を近づけた。紗寧は慌てて手を上げ、彼の肩を押さえた。「駄目......」せっかく塗ったばかりの口紅が、また落ちてしまう。蒼士は目を伏せて彼女を見つめた。瞳には暗い熱が宿っている。「大丈夫。少しキスするくらいで、メイクは崩さないよ......」「それでも駄目です......」最後まで言い終わらないうちに、蒼士の手が紗寧のうなじを捉えた。彼は再び顔を寄せ、唇に吐息が触れるほどの距離で、抗いがたいほど艶のある声を落とす。「口を開けて」キスは深く、紗寧は彼を押しのけようとしたが、全身から力が抜けてしまい、まるで力が入らなかった。長い時間が過ぎて、ようやく蒼士は唇を離した。それでも腕は、紗寧の細い腰に回されたままだった。「よく似合ってる。まるで女神様みたいだ......」キスのせいで紗寧の頬は赤く染まっていた。そんな褒め言葉を聞かされ、鼓動がまた一拍乱れる。蒼士はうなじを包むように手を添え、もう一度唇の端へ口づけた。「今夜、帰ってきてもすぐに着替えないでくれ。俺が脱がせたい......」「......」紗寧は羞恥と苛立ちの入り交じった目で蒼士をにらみ、体を起こして彼の膝から立ち上がった。そのとき、鏡に映った自分の唇が目に入る。口紅はキスですっかり崩れていた。「八角さん!」十数分後、紗寧はようやく階下へ下りてきた。蒼士は顔を上げる。紗寧はまだ腹立たしそうに彼をにらんでいた。塗り直された唇に一瞬視線を止めると、蒼士の口元にかすかな笑みが浮かんだ。「行こう」紗寧はもう一度彼をにらみ、バッグを手に取って外へ向かった。蒼士は彼女の後ろを歩きながら、どうしても緩んでしまう口元を隠せずにいた。......有賀家の本邸は山の中腹にあり、山一帯がすべて有賀家の所有地だった。車は曲がりくねった山道を上っていく。道路の両側には空を覆うほどの大木が立ち並び、葉の隙間から時折差し込む陽光が、車内にまだらな光と影を落としていた。紗寧は車窓に顔を寄せて外を眺めていたが、見れば見るほど信じられない気持ちになった。「この山全部が......有賀家のものなんですか?」「ああ」蒼士は椅子の背にもたれ、長い脚を
Read more
PREV
1
...
8910111213
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status