All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

「まだ来てない。今向かってるから、もうすぐ着くって」駿人は脚を組んでソファに深くもたれた。その拍子にスーツの胸元がさらに開き、引き締まった腹筋の輪郭がかすかにのぞく。蒼士はティーカップを置いて立ち上がると、紗寧へ手を差し出した。「行こう。裏庭を案内する」駿人が眉を上げた。「裏庭で何するんだ?」蒼士は振り返りもせずに答えた。「魚を見る」「魚なんか見て何が面白いんだよ......」駿人はぶつぶつ言いながら、謙吾のほうを向いた。「あいつ、いつから魚に興味を持つようになったんだ?」謙吾はティーカップを手にしたまま、ゆっくりと息を吹きかけた。「独身男が、仲のいい夫婦に口を出すなよ」独身男こと駿人は、言葉を失った。「......」有賀家の裏庭は前庭よりもさらに広く、山の地形に沿って段々に造られており、変化に富んだ美しい景観を見せていた。一番奥には、それほど大きくはないものの、細部まで丹念に造り込まれた池があった。岸辺は青みがかった石で囲まれ、水面には数枚のスイレンの葉が浮かんでいる。その下では、数匹の鯉がゆったりと尾びれを揺らしていた。池のほとりには石が一つ置かれ、表面にはまだらに苔が生えている。一目見ただけで、かなりの年月を経たものだと分かった。蒼士は紗寧の手を引いて池のそばまで行くと、水中を指さした。「見て」紗寧が池をのぞき込むと、水底に何かが敷き詰められ、陽光を受けてほのかな青い光を放っていた。目を細めてしばらく見つめ、ようやくそれが何なのか分かった。「これは......」「蓄光石だ。夜になると光って、池全体が青くなる」「わあ......!」紗寧は思わず歓声を上げた。蒼士は、つないだ彼女の手を優しく握った。「気に入った?」紗寧はすぐに何度もうなずいた。その瞳は、星をちりばめたように輝いている。「気に入ったなら、うちにも同じものを造らせよう」紗寧は慌てて首を振った。「いいの、いいの。そんなことをしたら大変でしょう?」「それほどでも。君が喜ぶなら、どんなことだって手間にはならない」紗寧の心臓が大きく跳ねた。伏し目がちに、つないだ二人の手を見つめる。蒼士の長く骨張った指が、紗寧の手をすっぽりと包み込んでいた。乾いて温かな手の
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第112話

突然の怒鳴り声に、紗寧はびくりと肩を震わせた。何が起きたのか理解するより早く、腰に回された蒼士の腕に力がこもる。蒼士は落ち着き払ったまま紗寧をさらに自分の胸元へ引き寄せると、ようやく顔を上げ、回廊のほうへ淡い視線を向けた。祐輔は階段の上に立っていた。顔色は真っ青で、顎には力が入り、紗寧の腰に回された蒼士の腕を食い入るように見つめている。――あの仕事一筋の兄貴が、ようやく作った恋人なんだぞ......それなのに。最も信頼していた親友に、恋人を奪われたというのか?「八角蒼士!」祐輔は歯ぎしりしながら、彼をフルネームで呼んだ。「その人が誰だか分かってるのか?親友の恋人を横取りするなんて、卑怯だと思わないのかよ!」紗寧はきょとんとした。――兄の恋人?まさか、自分のことを言っているのだろうか。「有賀さん、それは誤解――」「あんたは黙ってろ!」祐輔は勢いよく紗寧へ向き直り、容赦なくまくし立てた。「貝原咲良!あんたは兄貴の恋人のくせに、別の男とこんなことをして、恥ずかしくないのか?!」紗寧はあまりの剣幕に呆然と立ち尽くした。呆れるやらおかしいやらで、どこから否定すればいいのかすら分からない。自分がいつ、彰馬の恋人になったというのだろう。この子は毎日、頭の中でいったい何を考えているのか。蒼士はわずかに眉をひそめ、瞳を暗くした。「いい加減にしろ」声は大きくなかった。だが、その口調に込められた冷気に、祐輔の背筋がぞくりとした。普段なら、この声を聞いた瞬間に怖くなり、おとなしく口を閉ざしていただろう。だが今日は違う。今日はこちらに分がある。「今日は立場を笠に着て脅しても無駄ですからね!」祐輔は首を強張らせ、震える声で必死に言い返した。それでも背筋だけはまっすぐ伸ばしている。「兄貴はあんたを実の兄弟同然に思っているのに、その恋人を奪うなんて、兄貴に申し訳ないと思わないんですか?!」蒼士は何も言わず、ただ祐輔を見つめた。感情の見えない静かな眼差しだったが、見られている祐輔は次第に落ち着かなくなっていく。それでも引き下がることはせず、背筋を伸ばしたまま、負けじと蒼士をにらみ返した。空気が凍りついたようだった。少し離れた場所で二人がにらみ合い、その間では見え
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第113話

――いったい、どういうことだ?兄貴の恋人は咲良ではなかったのか?どうして突然、別の女性に替わっている?彰馬はようやくわずかに眉をひそめ、祐輔へ視線を向けた。「さっき蒼士に向かって、何を騒いでいた?」祐輔の喉仏が上下し、額から冷や汗がにじみ始めた。――自分はさっき、咲良に何と言った?恥知らず?それどころか、身の程知らずにも八角さんをフルネームで呼んだ......できることなら5分前に戻り、余計なことを口走った自分を思いきり殴ってやりたい。祐輔は蒼士へ顔を向けた。蒼士も彼を見ていた。口元にはかすかな笑みすら浮かんでいるが、その目にはまったく笑みがない。見ているだけで背筋が凍るようだった。「有賀祐輔」蒼士が淡々と口を開いた。「さっき何と言っていた?よく聞こえなかったから、もう一度言ってくれないか?」祐輔のふくらはぎが震え始めた。この世に怖いものなどほとんどない彼にも、どうしても逆らえない人間が二人いる。一人は兄の彰馬。もう一人は、目の前にいる蒼士だ。それなのに今日に限って、一度に二人とも怒らせてしまった。「八角さん......その......勘違いだったんです......」蒼士がわずかに眉を上げた。「勘違い?何を勘違いしたんだ?」「そ、それは......てっきり......」祐輔は歯を食いしばった。「さっき言ったことは、全部ただの戯言です。どうか気にしないでください」蒼士は目を伏せ、ゆっくりと袖口を整えながら、時折祐輔へ視線を向けた。その悠然とした仕草は、どこから手をつけるべきか考えているようにも見えた。「どこに埋められたいか自分で選べ」祐輔の膝は、頭で考えるよりも先に動いた。どさりと音を立て、その場にひざまずく。「本当に申し訳ありませんでした!どんな罰でも、受けますから......!」庭が一瞬、静まり返った。そのとき、駿人が屋敷からふらりと姿を現した。祐輔が地面にひざまずいているのを見ると、楽しそうに笑いだす。「おいおい、何があった?いきなり土下座なんかして」誰も彼に答えなかった。祐輔はひざまずいたまま、背中に冷や汗を流していた。蒼士がどんな人間なのか、祐輔はよく知っている。普段は何事にも関心がないように見え
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第114話

有賀家の応接室は、先ほどのリビングよりも人目につきにくい造りになっていた。淡い色のレースカーテンが半分ほど閉じられ、まぶしい日差しを柔らかな暖色の光へと変えている。全員が席に着くと、使用人がお茶と菓子を運び、音もなく部屋を出ていった。「最近、駿人のスターエンタメを買収したそうだが」彰馬はお茶を一口飲み、蒼士へ目を向けた。蒼士は椅子の背にもたれ、指先でティーカップを弄びながら淡々と答えた。「ちょっとした暇つぶしだ」彰馬は意味ありげな笑みを浮かべ、蒼士の隣に座る紗寧をちらりと見た。「暇つぶしにしては、ずいぶん派手に動いたものだな。港江では、八角家の御曹司が芸能界へ本格進出するらしいと噂になっているぞ」「好きに言わせておけばいい」彰馬にはだいたいの事情が察せられたため、それ以上は追及しなかった。小さく笑い、話題を変える。「そうだ。お前が送ってきた半導体の試験結果が出た」蒼士の手がわずかに止まり、彰馬へ目を向けた。「精度は前回のものより13%向上している。上層部でもこの件だけで3度も会議が開かれたそうだ。ここ5年で最も精度の高い国内開発の半導体だと評価している」蒼士はわずかに口元を上げたが、何も言わなかった。隣で聞いていた駿人が、たまらず口を挟む。「13%?それはいくらなんでもすごすぎないか?とんでもない進歩だな、蒼士さん」蒼士は彼を一瞥しただけで相手にせず、彰馬へ尋ねた。「量産の準備は?」彰馬はティーカップを置き、わずかに身を乗り出した。両手の指を組み、膝の上に置く。「すでに進めている。第一陣の発注が入ったらしい。かなりの数だが、お前のところの生産ラインで対応できるのか?」「問題ない」彰馬はうなずいた。その眼差しには、隠しきれないほどの称賛がにじんでいる。「大したものだ」駿人と謙吾は思わず顔を見合わせた。有賀家は何十年にもわたって半導体分野に深く関わってきた。彰馬自身も、三十代前半という若さで管理職へ昇進した、極めてまれな存在だ。そんな彼に「大したものだ」と言わせたのだから、それがどれほど高い評価なのかは言うまでもなかった。一方の蒼士はティーカップを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。表情は相変わらず淡々としており、先ほどの称賛など自分とは無関係であ
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第115話

彰馬はさらに眉間のしわを深くし、警戒をにじませた声で尋ねた。「人捜し?誰を?お前から企業秘密を聞き出すための口実じゃないだろうな?」蒼士は彰馬を一瞥し、わずかに口元を上げた。だが、その目には少しも笑みが浮かんでいない。「そこまではしないだろう」彰馬は疑わしそうに彼を見つめた。数秒黙り込んだあと、再び尋ねる。「で、彼は誰を捜している?」「諸富慎也とどういう関係なのかは分からない。古見夕貴(ふるみ ゆうき)という名前で、50歳」その瞬間、彰馬の表情がわずかにこわばった。だが、その変化は一瞬で消えた。蒼士が眉をひそめる。「どうした?知っているのか?」彰馬は目を伏せた。「......いや」蒼士は数秒ほど彼を見つめたが、それ以上は追及しなかった。ティーカップを軽く持ち上げた。「茶が冷める」彰馬は彼を一瞥したものの、何も言わず、ティーカップのお茶を一気に飲み干した。......月曜日の午前中は、いつもどおり「スーパー・ニュー・ボイス」の収録が予定されていた。紗寧がタレントマネジメント部のオフィスへ入ると、祐輔が自分のデスクに座っていた。彼女の姿を見た瞬間、祐輔の目が輝く。「咲良様!」大股で近づいてきた祐輔は、飼い主を見つけて尻尾を振るゴールデンレトリバーのような笑顔を浮かべ、驚くほど機嫌を取ってきた。「朝ごはんは食べました?咲良様が好きそうなものをいっぱい買ってきました!」オフィスが一瞬、不自然なほど静かになった。全員が視線だけをこちらへ向け、何事かと聞き耳を立てている。紗寧は声を潜めて「ちょっと来て」とだけ告げ、先にオフィスを出た。外へ出て周囲に誰もいないことを確認すると、困り果てた表情で言った。「いったい何をしているんですか?いつもどおりにしてください......」祐輔は訳が分からないという顔をした。「いつもどおりですよ。たまたま通り道だったから買っただけです。咲良様が朝ごはんを食べてないかもしれないと思って......」「こんな沢山の朝ごはんを、たまたま?」祐輔の笑顔が一瞬こわばった。わざとらしく咳払いする。「いや、その......今日は早起きしたので、ちょっと遠回りしただけです」紗寧が眉をひそめると、祐輔は慌てて続けた。
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第116話

真洋はマジックミラーの前に立ち、観客席にいる華奢な姿を瞬きもせず見つめていた。その一方で、指には無意識のうちに力がこもっていく。もう何日も経っていた。あの日、スターエンタメの駐車場で別れて以来、彼女には一度も近づけていない。――近づきたくないわけではない。どうあがいても近づけないのだ。スタービルの警備は突如として厳重になり、半径100メートル以内に入ることすらできない。本人に会うなど、到底不可能だった。思いつく限りの手はすべて試した。だが、そのたびに絶妙なタイミングと場所で誰かが現れ、狙い澄ましたように彼の行く手を阻んだ。まるで目に見えない大きな力が裏ですべてを操り、真洋と紗寧をつなぐ道を一つずつ断ち切っているかのようだった。そのやり方は鮮やかで、痕跡すら残さない。真洋も愚かではない。港江全域を見渡しても、それほどの力と手腕を持つ人物は、八角家の御曹司である八角蒼士以外には思い当たらなかった。――だが、なぜ蒼士が彼女を守る?彼は貝原咲良と結婚するのではなかったのか?二人の関係といっても、せいぜい紗寧の義兄になる予定の男にすぎない。彼女のために、ここまでするとは思えなかった。では、蒼士でないとすれば誰なのか。紗寧のそばには、ほかにも男がいるのか?ここ数日、そうした疑問が何度も頭の中を巡り、そのどれもが真洋を苛立たせていた。「柏社長?」背後から、斉藤の遠慮がちな声が聞こえた。真洋は我に返り、振り向いた。斉藤は戸口に立ち、愛想笑いを浮かべている。「その......お会いになりたいとおっしゃっていた貝原さんは、もう下にいらしていますが......」「ここへ呼んでくれ」真洋は彼の言葉を遮った。斉藤はためらいながら答える。「ですが......貝原さんはうちの会社の人間ではありません。こちらへ来るかどうかは、ご本人次第でして......」真洋は彼を一瞥すると、ポケットから小切手を取り出し、ローテーブルに置いて差し出した。「さらに1000万円、上乗せする」斉藤は小切手に目を奪われた。ごくりと唾をのみ込む。「これは......」「彼女をここまで連れてきてくれればいい。一度会って、少し話すだけだ」斉藤は歯を食いしばると、小切手をつかんでスーツの内ポケットへ
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第117話

――1000万円だぞ。この話が流れたら、悔やんでも悔やみきれない。斉藤は歯を食いしばると、慌てて紗寧を追いかけ、その前へ回り込んだ。「貝原さん、どうか私の立場も分かってください。スポンサーの方も、わざわざ足を運んでくださっているんです。一度でいいので、お会いになってください。ほんの数分で済みますから......」「斉藤さん」そのとき、背後から冷ややかな声が聞こえた。斉藤が振り返ると、祐輔がステージの端に立っていた。まだマイクを手にしたままで、表情こそ平静だったが、褐色の瞳には冷たい光が宿っている。「うちのマネージャーに何か用?」その視線に気圧され、斉藤は引きつった笑みを浮かべた。「い、いや、何でも......ただ少し話をしていただけですよ」祐輔は彼には目もくれず、紗寧へ視線を向けた。「咲良様、ちょっと来てもらえますか?この曲、どうも気になるところがあるんです。一度聴いてもらえません?」紗寧はうなずき、ステージのほうへ歩いていった。斉藤はその場に立ち尽くし、二人の後ろ姿を見送りながら額の汗を拭った。祐輔のやつ、いくら何でも守りが固すぎるだろう。――1000万円が......手に入る寸前だったというのに、するりと逃げられてしまった。......2階の観覧室。真洋は窓辺に立ち、紗寧が祐輔とともにステージへ上がる姿を見つめていた。二人は顔を寄せ合うようにして何かを話している。距離も近く、ずいぶん親しげに見えた。真洋の表情が瞬く間に険しくなり、その瞳にはぞっとするほどの冷気が宿った。斉藤がドアを開けて入ってきた。その顔色も冴えない。「柏社長、貝原さんには......断れました」真洋は振り返らず、低い声で尋ねた。「さっきの男は誰だ?紗寧とはどういう関係なんだ?」「あれは有賀祐輔――」そこまで言った斉藤は、ふと違和感を覚えて目を瞬かせた。「え?さっき何と......彼女の名前は貝原咲良のはずですが......」「何を言っているんだ」真洋は思わず眉をひそめた。貝原咲良とは一度も会ったことがない。だが、紗寧とは2年間も交際していたのだ。自分の婚約者を見間違えるはずがなかった。斉藤は困惑し、慌てて業務記録を開いた。「いえ、でたらめではありません......!本
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第118話

――いや。違う。真洋は、あまりにも突拍子もないその推測を即座に否定した。――蒼士がどんな男だと思っている?港江の八角家を率いる御曹司であり、その手腕は冷酷で、考えも底知れない。実業界を何十年も渡り歩いてきた老獪な経営者たちでさえ、彼には太刀打ちできないほどだ。そんな男が、これほど稚拙な手口にだまされるはずがない。ましてや、八角家と貝原家の縁談は、八角家の老夫人が自ら取りまとめ、婚礼の日取りまで決めたものだ。港江の上流社会全体が注目している。あの蒼士が、花嫁が入れ替わったことにすら気づかないような男なら、とっくの昔に骨までしゃぶり尽くされているはずだ。真洋は固く握りしめていた指をゆっくりと緩め、深く息を吸うと、胸に湧き上がった理由の分からない恐怖を押し込めた。――きっと考えすぎだ。紗寧は意地を張っているだけ。自分に見つかりたくないから、貝原咲良の名前を使ったにすぎない。それだけだ。真洋は踵を返してエレベーターのボタンを押し、一階へ下りた。階数表示の数字が一つずつ減っていく。鏡面仕上げのパネルには、暗く険しい自分の顔が映っていた。彼は片手で顔を強くこすり、そこに浮かんでいた乱れた感情を消し去ると、いつもの冷静で隙のない表情を取り戻した。やがて真洋は車を発進させ、港江テレビ局をあとにした。黒いセダンは車の流れに溶け込み、次第に遠ざかっていく。そして、その車が交差点の向こうへ消えたのと同時に、反対車線から黒いマイバッハがゆっくりと近づいてきた。車はスタジオの正面玄関前で静かに止まった。後部座席のドアが開き、黒いスラックスに包まれた長い脚が姿を現す。パンツにはシワひとつなく、革靴は鏡のように磨き上げられ、近づく者すべてを拒むような冷たい雰囲気をまとっていた。斉藤はちょうど玄関先でスポンサーたちを見送っていた。遠くからその車が目に入っただけで、膝が震え始める。さらに、降りてきた人物の顔を確認した瞬間、危うくその場にへたり込みそうになった。――ほ......八角様?まさか......!どうして、こんな大物がここに?なぜ来たんだ?現場の視察か?それとも、差し入れ?いや、いったい誰に会いに?有賀祐輔か?あのお坊ちゃまに、わざわざ様子を見に来る必要があるのか?頭の
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第119話

斉藤は二人の間で一瞬交わされた視線に気づかず、満面の笑みを浮かべて蒼士へ向き直った。「八角様、ほかに何かご用は......?」蒼士は彼を淡々と一瞥した。「二人とも、外へ出てくれ」「かしこまりました」斉藤は何度もうなずくと、今度は紗寧へ顔を向けた。「貝原さん、八角様と有賀様がお話しになるようですので、私たちは先に外へ......」だが、彼が言い終えるより先に、祐輔がギターを置いて立ち上がった。そして斉藤の首根っこをつかみ、そのままドアの外へ連れ出してしまう。わけも分からないまま廊下へ放り出され、ドアが閉まったあとも、斉藤の頭は混乱したままだった。「???」――いったい、どういうことだ?なぜ祐輔まで一緒に出てきた?では、蒼士はいったい誰に会いに来たんだ?それに......どうして貝原咲良は出てこない?「斉藤さん」そのとき、祐輔が両手をポケットに入れたまま壁にもたれた。「誰も近づけないようにここで見張っててくれます?」「え?」「しっかり見張っていてくださいね」そう言って斉藤の肩を軽く叩くと、祐輔は悠々とその場を離れていった。一人取り残された斉藤は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。やがて我に返り、祐輔が去った方向と固く閉ざされたドアを交互に見た瞬間、雷に打たれたように目を見開く。――まさか......まさか、自分が思っているような関係なのか?......控室では、紗寧が蒼士を見上げていた。「どうして今日はここに?」蒼士は答えず、ただ彼女を見つめた。その視線が顔からゆっくりと下へ移っていく。今日の紗寧は白いブラウスを着ていた。襟元がわずかに開き、華奢な鎖骨が少しだけのぞいている。蒼士の視線はそこに一瞬止まり、それからようやく、ゆっくりと口を開いた。「駿人が浅水区画に新しい乗馬クラブを造ったんだ。俺たちにも遊びに来てほしいって」「乗馬クラブ、ですか?」紗寧の目が輝き、瞳の中にきらきらとした光が浮かんだ。「ああ」蒼士はその輝く瞳を見つめ、わずかに口元を上げた。「オープンしたばかりで、まだ一般には公開していない。人も少ないそうだ」「いいんですか?あ、でも......実は私、乗馬クラブにはまだ行ったことがないんです」紗寧の声に
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第120話

黒いマイバッハは、浅水区画へ向かって走っていた。乗馬クラブは浅水区画の山沿いにあり、斜面を生かすように造られていた。芝生はきれいに刈り込まれ、馬場には極上のクッション砂が敷かれている。赤レンガと白壁の厩舎も清潔に保たれ、空気には干し草のほのかな香りが漂っていた。駿人はすでに中で二人を待っていた。今日はやけに気合いの入った乗馬服を身につけ、白いキュロットに黒のロングブーツ、手には鞭まで持っている。色気のある目元を楽しそうに細め、屈託のない笑顔を浮かべていた。「咲良さん!」遠くから手を振る。「蒼士さんに頼まれて、おとなしい馬を選んでおきました。これなら振り落とされる心配もありませんよ!」紗寧が近づくと、厩舎には栗毛の馬がいた。想像していたよりもはるかに大きく、すらりと伸びた四肢に艶やかな鬣を持っている。潤んだ大きな瞳をしたその馬は、うつむいて草を食べていた。「ここで一番おとなしい馬です。三歳の牝馬で、すごく人懐っこいんですよ」紗寧は半信半疑で駿人を見たあと、もう一度馬へ目を向けた。視線を感じたのか、馬は顔を上げて鼻を鳴らした。紗寧は反射的に半歩後ずさる。蒼士がその腰を抱き寄せ、頭上から低い笑い声を響かせた。「怖い?」「いえ......」蒼士は彼女の強がりを指摘せず、その手をしっかり握ると、ゆっくり馬のそばへ連れていった。「まずは触ってみて。匂いを覚えてもらおう」紗寧は下唇を噛み、恐る恐る手を伸ばした。指先が首筋に触れた瞬間、馬がこちらを振り向いた。潤んだ大きな瞳で紗寧を見つめると、おとなしく手のひらへ鼻先をすり寄せる。紗寧は一瞬驚いたものの、すぐに笑顔を浮かべた。その目が三日月のように細くなる。「すごくおとなしいですね」蒼士も彼女の笑顔を見つめ、口元をほころばせた。傍らで見ていた駿人は、二人の仲睦まじさに呆れたように舌を鳴らすと、邪魔をしないようその場を離れていった。蒼士は根気強く教えた。馬への乗り方から手綱の握り方、進む方向の変え方まで、一つずつ丁寧に説明していく。紗寧も覚えが早かった。馬に乗るときこそ緊張していたが、蒼士に支えられながら、無事に鞍へ腰を下ろすことができた。蒼士は手綱を引き、紗寧を乗せた馬をゆっくり一周させる。「力を抜いて。体を固くしすぎ
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