All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

蒼士はそこでいったん言葉を切ると、相手を惑わせるような甘い響きを帯びた低い声で続けた。「俺が必ず取ってきてやる」紗寧の心臓が一度大きく跳ねた。あまりにも心を揺さぶる言葉だった。思わず本気にしてしまいそうになるほどに。紗寧はまつ毛を伏せ、胸の中で渦巻く複雑な感情を必死に押し込めた。――余計なことを考えてはいけない。二人は互いの都合のために結んだ、契約上の夫婦にすぎない。一年が過ぎれば、それぞれ別々の道を歩むことになる。蒼士も、ただ彼女をからかっているだけだ。本気にしてはいけない。いつまでも黙っている紗寧を見て、蒼士がかすれた声で尋ねた。「何を考えてる?」紗寧は我に返り、首を横に振った。「......いえ、何でも」蒼士は数秒ほど彼女を見つめたあと、不意に腰をかがめた。片腕を膝の裏へ差し入れ、もう一方の腕を腰へ回すと、そのまま横抱きにして持ち上げる。紗寧は驚き、反射的に蒼士の首へ腕を回した。「何を」「二階へ行って寝る」蒼士は彼女を抱いたまま、寝室へ向かった。「お、下ろしてください。自分で歩けますから」蒼士は彼女へ目を落とした。口元には笑みを浮かべ、瞳にもほのかな笑いがにじんでいる。「それは駄目だ。音楽ディレクターになりたいんだろ?それならあとで、ベッドの中でしっかりお願いしてもらわないとな」紗寧の顔が再び熱くなった。「からかわないでください......今日はダメです」「また妙なことを考えてるな?」蒼士は紗寧をベッドへ下ろすと、両腕をついて彼女の上から覆いかぶさった。鼻先が触れ合い、互いの吐息が交じり合う。「何もしない」その声はひどく低くかすれていた。一言一言を喉の奥から絞り出すようで、限界まで欲望を抑え込んでいるのが伝わってくる。「キスして抱きしめるくらいなら、いいだろ?」紗寧が答えるより先に、蒼士の唇が触れた。これまでのような奪うようなキスではない。羽が水面を撫でるように、あるいは春風が花びらをかすめるように、ごく優しく触れるだけの口づけだった。唇の端から頬へ、鼻先から額へ。そして最後には、再び唇の端へ戻ってくる。何度も優しく口づけられ、紗寧の意識は次第にぼんやりとしていった。まるでぬるま湯の中へ沈んでいるように全身
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第132話

彩未は苦労の末、ようやく島崎華澄の居場所を突き止めた。華澄が住むアパートの前に車が到着した頃には、すでに夕方になっていた。夕焼けが空を鮮烈なオレンジ色に染め上げ、古びたアパートの灰色にくすんだ外壁と、目に痛いほど鮮やかな対比をなしている。島崎家によって一夜のうちに港江から追い出された華澄は、いくつもの土地を転々とした末、辺境にある小さな町へ流れ着いていた。アパートとは名ばかりの、築年数の古い賃貸住宅だった。廊下の照明は不安定に明滅し、壁の塗装は剥がれ、空気には湿ったカビの臭いが漂っている。車を降りた彩未は、露骨に眉をひそめた。「本当に、こんなところに?」「はい、間違いありません」傍らのボディーガードが頭を下げて答えた。彩未はそれ以上何も言わず、細いハイヒールを鳴らして建物の中へ入っていった。ボディーガードたちも慌ててあとに続く。一人が先回りして安全を確かめ、ほかの者たちは周囲を警戒しながら進んだ。階段に設置された人感センサー式の照明は、3階分も壊れていた。そのため、ボディーガードはスマホのライトで足元を照らさなければならなかった。彩未のスカートの裾が、ほこりの積もった手すりに触れた。彼女は嫌悪感をあらわにして裾を持ち上げ、さらに険しい顔になる。自分がなぜ、わざわざこんな場所まで足を運ばなければならないのか、どうしても納得できなかった。だが、兄である蒼士の結婚式は今月末に迫っている。それまでに、貝原咲良の本性を暴かなければならない。彩未は長いあいだ、あの女の素性を調べていた。しかし、どれだけ調べても何一つ有力な情報が出てこない。まるで何者かが、彼女の個人情報をすべて隠しているかのようだった。唯一の突破口が、島崎華澄だ。苦労して彼女と連絡を取ることができたため、彩未はここまでやって来たのだ。心の底から来たくないと思いながらも。4階の廊下の突き当たり。ボディーガードがドアをノックすると、中からごそごそと物音がし、女の低い悪態が聞こえてきた。「誰?」「開けろ」ドアがわずかに開き、フェイスマスクをつけた顔が半分だけのぞいた。マスクの穴から華澄の目が現れる。ドアの外に立つ女の顔を確認した瞬間、その体が凍りついた。「ほ、八角様......?」彩未は何も言わず、華
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第133話

彩未の表情は変わらなかった。ただ、膝の上に置いた指で二度、軽くリズムを刻んだ。「それを証明できるの?」「人を使って調べました!」華澄は慌ててスマホを取り出し、何枚もの写真と資料を表示して彩未へ差し出した。「これを見てください。すべて北城から取り寄せた記録です。加賀美紗寧、北城市立第四中学校。学籍記録には、本人の名前と写真がはっきり残っています」彩未はスマホを受け取り、画面へ目を落とした。写真に写っていたのは、中学生の頃の紗寧だった。制服を着て、髪をポニーテールに結び、校庭に立っている。明るく澄んだ笑顔を浮かべていた。顔立ちは今とさほど変わらず、まだ幼さが色濃く残っているだけだった。次のページへ進むと、戸籍謄本の写しが表示された。そこには「加賀美紗寧」という名前と、両親の情報が明記されている。父・加賀美邦彦。母・加賀美芳美。彩未はわずかに眉をひそめた。さらに画面を進めると、次の資料を見た瞬間、指の動きが止まった。それは判決文の写しだった。紙は黄ばみ、文字も多少かすれていたが、重要な数行が赤いペンで囲まれている。【被告人・加賀美邦彦(かがみ くにひこ)を、当時10歳の実子に対する監護者性交等罪により、懲役15年に処する......】彩未の瞳孔がわずかに縮んだ。顔を上げ、華澄を見る。華澄はまさにその反応を待っていたらしく、口元に浮かぶ笑みを抑えきれずにいた。「加賀美紗寧は10歳のとき、実の父親を誘惑したんです。恥知らずな母親と同じ、とんだあばずれですよ。それを実の母親に見つかって警察へ通報され、加賀美邦彦は懲役15年の判決を受けました。今もまだ刑務所に入っています」彩未は何も言わず、判決文を見つめ続けた。その瞳の奥で一瞬、複雑な感情が揺れ動いたものの、すぐに静けさを取り戻す。「母娘は北城にいられなくなって、港江へ逃げてきたんです。それから芳美は貝原明文をたぶらかし、まんまと貝原家の妻の座を手に入れました。紗寧も名前を変え、貝原家の次女になったんです。今度は本来の令嬢である貝原咲良に成り代わって、名門の八角家へ嫁ごうとしている。あんな女が蒼士様にふさわしいはずがありません!足元にも及ばないどころか、そばに立たせるだけで蒼士様まで汚れてしまいます!」華澄は話せば話すほど興奮
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第134話

紗寧が身支度を済ませて階下へ下りると、朝食はすでに用意されていた。蒼士は彼女より早く起きており、紗寧が下りてきたときには、もう出かけたあとだった。朝食を取っていると、不意にスマホが振動した。紗寧は反射的に画面へ目を向け、発信者の名前を確認すると、わずかに眉をひそめて通話ボタンを押した。「もしもし、お母さん......」「紗寧!」電話の向こうから、興奮を隠しきれない芳美の声が聞こえてきた。「八角様が、貝原家にとても大きな仕事を回してくださったの!西地区の再開発用地よ。あなたも知ってるでしょう?明文さんが二年も前から狙っていたのに、どうしても受注できなかったあの事業。ところが八角様が一言口添えしてくださっただけで、話が決まったのよ!」スマホを握る紗寧の指に、わずかに力がこもった。西地区の再開発事業は、明文が2年間も狙い続けていた案件だった。投資規模も利益も大きいが、そのぶん競争も激しい。貝原家の事業規模と人脈では、到底受注できるものではなかった。紗寧は蒼士に、貝原家のことなど一度も話していない。それなのに、なぜ突然手を貸したのだろう。まさか、母が蒼士に頼み込んだのか?「紗寧?紗寧、聞いてるの?」紗寧はそこでようやく我に返った。「うん」「八角様は今、うちにいらしてるの。あなたも早く戻ってきなさい!」蒼士が貝原家にいる?だが横川は、今日は会社で会議があると言っていたはずだ。「それじゃ、もう切るわね。とにかく早く帰ってきて!」「お母さん――」紗寧が何か言うより先に、芳美は電話を切ってしまった。仕方なく、紗寧は牛乳を急いで数口飲むと、車の鍵をつかんで家を出た。浅水区画から貝原家の邸宅までは、車でおよそ40分かかる。港江の朝の渋滞はすでに落ち着いており、道路もそれほど混んでいなかった。紗寧は速度を抑えて運転していたが、頭の中ではさまざまな考えが巡っていた。貝原家の邸宅に到着すると、車を止めて中へ向かった。玄関へ入る前から、リビングで楽しそうに話す声が聞こえてくる。「八角様は本当にお若いのに素晴らしい手腕をお持ちですね。あれほど受注が難しい事業を、たった一言でまとめてくださるとは。貝原家としては......どのようにお礼を申し上げればよいのか分かりません」ドアを開けようと
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第135話

豊水はカップを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。「ご謙遜を。咲良さんほどの美貌と品格を兼ね備えた女性は、港江中を探してもそうはいませんよ」紗寧は何も答えず、目を伏せたまま、豊水から最も離れた席へ腰を下ろした。「そういえば、貝原家にはもう一人、お嬢さんがいらっしゃるそうですね?」紗寧が座った途端、豊水がにこやかに口を開いた。その視線が、何気ないふうを装いながら紗寧をかすめる。「名前は確か......貝原紗寧、でしたか?」お茶を注いでいた芳美の手が、わずかに止まった。傍らの明文も、表情をこわばらせる。豊水はカップを置き、意味深な笑みを浮かべた。「その方も咲良さんと同じくらい美しいのなら......今の妻と離婚して、貝原家の次女を妻に迎えたいものです」リビングから、一瞬にして空気が消えたかのようだった。芳美の笑顔は顔に貼りついたままだった。口元にはまだ笑みを残していたが、瞳にはすでに動揺が浮かんでいる。彼女は引きつった声で笑った。「八角様も、お人が悪いですね。ご冗談を......」豊水はソファの背にもたれ、笑っているともいないともつかない表情を浮かべた。「芳美さんには、冗談に聞こえましたか?」その視線を受け、芳美の背筋が冷たくなる。顔に貼りつけていた笑みも、今にも崩れそうだった。「八角様ほどのお方と、私ども貝原家が釣り合うはずも......」豊水は小さく笑い、紗寧のほうへ目を向けた。「すでに一度、縁を結んでいるではありませんか。もう一度くらい、悪くはないでしょう」芳美の笑顔が完全に消えた。カップを握る指に力がこもり、関節が白く浮き上がる。部屋の隅に座る紗寧は、終始何も言わなかった。その表情は平静で、冷淡とさえ言えるほどだった。まるで豊水の話など、自分とは何の関係もないかのように。豊水は二秒ほど彼女の顔を見つめ、わずかに口元を上げた。「残念ながら......これほど美しい咲良さんは、一人しかいないようですが......」そこで話を変えると、声にいくらか残念そうな響きをにじませた。「今回、貝原家に手を貸したのも、咲良さんのためです。ただし、今回限りです。次はありません」そう告げると立ち上がり、袖口を整えた。「それでは、ほかに用もありませんので、私はこれ
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第136話

貝原明文は反射的に立ち上がった。「咲良に任せれば十分です。どうぞこちらで――」「せっかくですから、貝原家のワインセラーも見せていただきましょう」そう言うと、豊水はすでに立ち上がり、紗寧のあとを追って歩きだしていた。明文は何か言おうと口を開いたが、芳美に目で制止された。紗寧と豊水が前後して廊下の奥へ消えていくのを眉をひそめて見つめ、声を潜める。「いったい何を考えてるんだ?あの男と紗寧を二人きりにするなんて」芳美はカップを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。「何をそんなに慌ててるの?本当に紗寧に手を出すとでも思ってるの?」「だが、あの人はあの八角蒼士の兄だぞ......」「だからこそ、丁重にもてなさなければならないのよ」芳美はカップを置き、貝原明文を一瞥した。「西地区の事業は、まだあの方に頼らなければならないの。機嫌を損ねたら、今度こそ貝原家はおしまいよ」貝原明文は何かを言いかけたものの、結局は黙り込んだ。ただ、眉間のしわがさらに深くなっていた。......紗寧は目を伏せ、落ち着いた足取りでワインセラーへ向かっていた。背中には、ずっと豊水の視線が張りついている。まとわりつくように陰湿で冷たく、濡れた蛇が背筋を這い上がってくるような感覚に、背中が冷たくなった。ワインセラーは邸宅の最も奥まった場所にある。階段を下りるにつれ、空気は次第に湿り気を帯び、ひんやりとしてきた。薄暗い黄色の照明が、二人の影を淡く長く伸ばしている。紗寧は歩みを速めた。ワインを取ったら、すぐにここを出たい。この男とは、一秒たりとも一緒にいたくない。ワインセラーはそれほど広くない。三方の壁に設けられた棚には、さまざまな年代の赤ワインと白ワインが並べられていた。最も奥の棚には、出来のよい年代のボルドーワインが数本置かれている。紗寧はそこへ近づき、つま先立ちになって、一番上にあるボトルへ手を伸ばした。指先がボトルに触れた瞬間、背後からかすかな足音が聞こえた。次の瞬間、紗寧の脇から腕が伸びてきた。その手はゆっくりとボトルを棚から取り出したが、紗寧へ渡そうとはしなかった。彼女の全身が一瞬にしてこわばる。豊水はすぐ背後に立っていた。あまりにも距離が近く、彼が身につけているコロンの香りまではっき
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第137話

「蒼士が真相を知った日、何をしたと思いますか?」紗寧の喉が締めつけられた。今すぐここから立ち去りたかったが、足は床に根を張ったように動かなかった。豊水は彼女へ顔を寄せ、声を低く落とした。「その男を、生きたまま犬の餌にしたのです」紗寧の瞳孔が一気に縮んだ。「骨の一本すら残りませんでしたよ」豊水は体を起こし、手にした赤ワインのボトルを軽く回した。その口調は、いつもの穏やかで余裕に満ちたものへ戻っていた。「彼は、何よりも人にだまされることを嫌います」紗寧の顔を見つめながら、その口元の笑みを徐々に深くしていく。「咲良さんは、どう思いますか?」不意に手を伸ばし、紗寧の肩に垂れていた髪を一房すくい上げると、鼻先へ近づけて軽く香りを嗅いだ。紗寧の全身が凍りつき、頭皮まで痺れるような恐怖が走った。反射的に後ずさると、背中が冷たいワインラックへぶつかり、鈍い音を立てる。豊水は追ってこなかった。その場に立ったまま、指先で紗寧の髪を弄び、深い笑みを浮かべている。「もし蒼士が、咲良さんが本当は貝原家の長女ではないと知ったら......」そこで言葉を切り、さらに声を低くした。毒蛇が舌をちらつかせるような声だった。「あなたをどうするか......そして、貝原家には何をするんでしょうね?」紗寧の鼓動が一気に速まった。背中から細かな冷や汗がにじみ出し、薄手のニットを濡らして、肌へ不快に張りつく。頭の中で何かが爆発したように耳鳴りが響き、思考が真っ白になった。――もし自分が貝原咲良ではないと知ったら、蒼士はどんな反応をするのだろう。あの裏切り者と同じように、自分も犬の餌にするのだろうか。蒼士は、人にだまされることを何よりも憎んでいる。今、彼が自分に優しくしてくれるのは、貝原咲良だと思っているからにすぎない。あの優しさは、本当の自分へ向けられたものではない。自分はただの偽物。姉の身代わりとして結婚した、偽りの花嫁にすぎない。真実を知られてしまったら......紗寧の指が震えた。それに、貝原家もある。母と颯......母は自分より颯を大切にしている。それでも、たった一人の母親であることに変わりはなかった。もう傷つく姿など見たくない。15年前、自分のせいで、母
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第138話

リビングへ戻ると、芳美はすでに使用人たちに指示し、食卓の準備を整えさせていた。「八角様、どうぞこちらへ」愛想よく笑いながら勧める。「お料理もすぐに出来上がりますので、まずはお茶でも召し上がってください」豊水はダイニングテーブルの上座へ腰を下ろした。あとから入ってきた紗寧へ目を向け、わずかに口元を上げる。「咲良さんもどうぞ」紗寧は豊水から最も離れた席へ腰を下ろした。しかし芳美が笑顔で歩み寄り、彼女の腕を取って豊水のそばへ連れていく。「どうしてそんなに離れたところへ座るの?八角様のおそばで、お話し相手になりなさい」紗寧はわずかに眉をひそめた。それでも母に引かれるまま、豊水の隣の席へ座った。やがて料理が一品ずつ運ばれてきた。どれも美しく盛りつけられ、見た目も香りも申し分ない。芳美は豊水の前へ一皿を勧めながら、絶えず話しかけた。「八角様、ぜひこちらを召し上がってください。うちの料理人が得意としている一品で、よそでは味わえませんよ」豊水はゆっくりと一口味わったが、視線はずっと紗寧へ向けられていた。「あれ?咲良さん、どうかしましたか?」紗寧は目を伏せ、フォークで目の前の野菜を一口だけ口へ運んだ。しかし、まるで味がしなかった。食事の間、紗寧は終始上の空だった。豊水の視線がときおり自分へ向けられているのが分かる。値踏みするような、面白がるような目だった。まるで猫が、爪の下に捕らえた鼠を弄んでいるかのようだった。それ以上に紗寧を苦しめたのは、芳美の態度だった。豊水が紗寧に興味を持っていることに、母は明らかに気づいている。それでも距離を取らせるどころか、ますます積極的に豊水の前へ差し出そうとしていた。母が何を考えているのか、紗寧にはよく分かっていた。西地区の事業は、貝原家にとってあまりにも重要なのだ。あの事業さえ手に入るのなら、娘を食事や酒の相手にさせる程度はもちろん、愛想笑いをさせるくらい、芳美にとっては何でもない。傷つくわけでも、何かを失うわけでもない。何が問題なのかと、本気で思っているのだろう。紗寧はフォークを強く握りしめた。指の関節が白く浮き上がる。ふと、すべてがひどく滑稽に思えた。母は15年前、紗寧を連れて北城から港江へ逃げてきた。二度と人か
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第139話

「違うの?」芳美は眉をひそめた。「八角様が話しかけてくださっているのに、あなたはろくに返事もしなかったでしょう。せっかく注いでくださったワインにも口をつけないし、あれでは失礼よ。もし機嫌を損ねて、西地区の事業が白紙になったら、あなたに責任が取れるの?」紗寧は母の言葉を遮った。「彼はもう、私が咲良じゃないことを知ってる......」芳美は一瞬呆気に取られ、見る見るうちに顔色を変えた。「もしこのことを蒼士さんが知ったら、私は犬の餌にされるって言われた」芳美の顔から血の気が引いた。「ど、どうしてあの人がそれを知って......」「お母さんはそれでも、少しお酒と話の相手をするくらい、何でもないと思う?彼は、私が貝原咲良ではないことも、姉の身代わりとして結婚した偽物だということも知ってる。私の弱みを握っていて、いつでも私を破滅させられるの」「そんなことが――」「知らなくて当然よ」紗寧は母の言葉を遮った。その声に、ようやく抑えきれない感情がにじむ。「お母さんが気にしているのは貝原家の事業だけ。貝原家で自分の立場を守れるかどうか、それだけでしょう。それに......」気にしているのは、咲良と颯だけ。紗寧のことなんて、一度も考えてくれたことがない。「紗寧、お母さんはそういうつもりじゃ......」芳美は立ち上がり、娘の手を取ろうとした。紗寧は一歩後ろへ下がり、その手を避けた。「彼は危険な人よ。お母さんも明文さんも、あの人には気をつけて。西地区の事業も......」そこで言葉を切った。「諦められるなら、諦めたほうがいい」「諦めるですって?」芳美の声が一段高くなった。「諦められるわけがないでしょう!明文さんがこの事業にどれほど力を注いできたか、あなたも知ってるでしょう?ここで手を引いたら、今度こそ貝原家はおしまいなのよ!」母を見つめながら、紗寧は急に疲れを覚えた。「それなら、好きにすればいいわ」背を向け、外へ歩きだす。「紗寧!」芳美が追いかけてきた。「待ちなさい。話はまだ終わってないわ!」紗寧は足を止めず、さらに歩みを速めた。「紗寧、止まりなさい!」紗寧は一度も振り返らず、家を出ると車へ乗り込んだ。アクセルを踏み込み、貝原家の邸宅をあとにする。
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第140話

紗寧は一刻も無駄にせず、最寄りの居酒屋へ駆け込んだ。「すみません。こちらで一番強いお酒は何ですか?」店主は四十代ほどの男性だった。紗寧を頭から足元まで眺め、訝しそうに尋ねる。「お嬢さん、一人なのかい?」「はい。一番強いものを一本ください」店主は少しためらったあと、カウンターの下から酒の瓶を取り出し、目の前へ置いた。ラベルには――アルコール度数60度と記されていた。......その頃、八角グループ本社の最上階にある会議室は、重苦しい空気に包まれていた。蒼士は上座に座り、長く骨張った指で一本のペンを弄んでいた。ペンを回す動きは、ゆっくりとしていて落ち着いている。だが、会議室に集まった役員たちは、息をすることさえためらっていた。スクリーンには第一四半期の決算資料が映し出され、色分けされた数字がびっしりと並んでいる。報告を担当する副社長は、第二四半期の売上予測という重要な箇所を説明していた。しかし、その声は次第に小さくなり、最後にはほとんど吐息のようになっていた。真面目に報告する気がないわけではない。上座にいる蒼士の放つ威圧感が、あまりにも強すぎるのだ。会議室にいる全員が、自分の呼吸音さえ大きすぎるように感じていた。誰もが体を小さく縮め、少しでも存在感を消したいと思っている。蒼士は椅子の背にもたれ、長い脚を組んでいた。顔には何の感情も浮かんでおらず、むしろ平静そのものに見える。しかし、その静けさこそが、出席者全員の背筋に冷や汗を流させていた。――今日は機嫌が悪い。ひどく機嫌が悪い。理由は誰にも分からなかったが、それがこの場にいる全員の共通認識だった。嵐の前触れのような重圧を、誰もがはっきりと感じ取っている。副社長は額に細かな汗をにじませながら、覚悟を決めて説明を続けた。手にしているレーザーポインターまで小刻みに震えている。「......以上を踏まえますと、次の四半期の売上高は8%から10%の増加を見込んでおります。主な成長要因は......」コトッ。蒼士の手からペンがテーブルへ落ち、小さな音を立てた。副社長の声がぴたりと止まる。まるで一時停止されたかのように、スクリーンの前で動けなくなった。会議室は、静まり返った。全員がうつむき、目の前
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