All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

「抑えきれないなら、もう無理に抑えるな」真洋は低い声で言った。「声明を出せ。ワールド・エンターテインメントは性犯罪を一切容認しないという姿勢を明確にして、今回の件は松田銘個人の問題であり、会社としては捜査に全面的に協力すると発表しろ」翔は頷いた。「わかった。すぐ手配する」翔が部屋を出ていくのを見届けると、真洋は椅子にもたれ、目を閉じたまま無意識に眉間を揉んだ。ワールドの問題はまさに八方塞がりだ。株価のストップ安、投資家の資金引き揚げ、取引先からの契約解除――かかってくる電話はどれも悪い知らせばかり。午後に戻ってきてから今まで、水一杯すら口にしていなかった。その時、デスクの内線電話が鳴った。秘書からだった。真洋は受話ボタンを押す。「どうした?」「柏社長、病院からお電話です。貝原さんがお忘れ物をリハビリセンターに残されたそうで......何度お電話してもつながらず、緊急連絡先として登録されていた社長のご連絡先に電話があったそうです」真洋は眉をひそめた。「そんなことのためにわざわざ俺に電話してきたのか」急に冷たくなった口調に、秘書は驚いてしどろもどろになる。「病院の方のお話では......ここ数日ずっと貝原さんと連絡が取れなかったため、それで......」「もういい」真洋は遮るように言った。「君が病院へ行って受け取ってこい」「かしこまりました」秘書が電話を切ろうとしたその時、真洋が再び口を開く。「待て」「はい」「何を忘れたかわかるか?」「病院の方によると......指輪だそうです」真洋の指先がぴたりと止まった。「......指輪?」「詳しいことまでは聞いておりませんが......」スマホを握る手に力が入り、指の関節が白く浮き出る。指輪――あの、彼女が自分にプロポーズするために特注したという指輪なのか。「柏社長?その指輪ですが......私が取りに行きましょうか?」受話器の向こうから、秘書が遠慮がちに尋ねる。真洋は口を開いたものの、喉が何かで塞がれたように言葉が出なかった。「......いや」声はひどくかすれていた。「俺が行く」電話を切ると、彼は目を閉じたまま長いこと椅子にもたれていた。やがて勢いよく立ち上がり、机の
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第62話

車は猛スピードで走り続けた。道中、真洋は後部座席にもたれたまま、眉間に深いしわを寄せ、一言も口を開かなかった。翔は何度もバックミラー越しに彼の様子をうかがったが、そのたびに目に入るのは沈み切った表情だけだった。病院に着くと、真洋は車のドアを開けるなり足早に中へ向かう。翔は小走りで後を追い、「真洋さん!」と何度も呼んだが、聞こえていないかのように歩みを止めず、その足取りは重く、そして速かった。耳科リハビリセンターは入院棟7階にある。長い廊下には消毒液の匂いが立ち込めていた。受付の看護師はカルテを書いていたが、足音に気づいて顔を上げる。「柏さん」彼を見てすぐに気づいたらしく、引き出しから透明なチャック付き袋を取り出して差し出した。「こちらが貝原さんのお忘れ物です」袋の中には一本の男性用リングが入っていた。プラチナ製で、飾り気のないシンプルなデザイン。内側には何か文字が刻まれているようだった。真洋の様子がおかしいことに気づいた看護師は、少しためらってから自然と声を落とした。「この指輪なんですが......清掃スタッフがゴミ箱の中で見つけたものなんです」翔は思わず息をのむと、反射的に真洋を見た。真洋は微動だにしなかった。ただその場に立ち尽くし、袋の端をつまんだ指先だけが白くなるほど力を込めていた。「退院された日に清掃していた際に見つかったそうです。誤って捨ててしまったのかもしれないと思って保管しておき、貝原さんと連絡が取れたらお返ししようと......」――誤って捨てた。真洋はその指輪を見つめたまま、喉が何かで塞がれたようになり、呼吸さえ苦しくなる。ふいに、小さく笑った。その笑い声はあまりにもかすかだったが、それを聞いた翔の背筋はぞくりと冷えた。「真洋さん......」真洋は返事をしなかった。袋を開け、手のひらへ指輪を転がす。プラチナの冷たい感触が、ずしりと手に伝わる。彼は指輪を裏返し、内側に刻まれた文字を見つめた。――「M・S」深く刻まれたその文字は、時が経っても消えないようにという想いが込められているかのようだった。拳を強く握る。指輪の縁が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。彼女は指輪を捨てた。彼女は――もう自分を要らない。その思いは鈍い刃と
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第63話

真洋は翔に支えられて立ち上がると、ゆっくりと手のひらを開いた。さっき身をかがめた時もずっと握り締めていたせいで、手には指輪の跡が深い赤い線となって残っていた。その指輪を見つめていると、心臓が誰かに鷲づかみにされたように痛み、鼓動を打つたびに引き裂かれるような苦しみが走る。――どうして彼女は、これを捨てられたんだ?どうして......「真洋さん、一度お医者さんに診てもらったほうが......」翔は顔色をうかがいながら、不安そうに声をかけた。しばらくしてようやく、真洋はゆっくりと立ち上がった。彼は軽く手を振り、深く息を吸うと、指輪をシャツの胸ポケット――心臓に近い場所へしまい込み、落ちないようにそっと押さえる。その姿は、まるで一瞬でいつもの冷静沈着な真洋に戻ったかのようだった。「彼女は、怒っているだけだ」真洋が不意に口を開く。翔は一瞬きょとんとした。その低い声は、翔に語りかけているというより、自分自身に言い聞かせているようでもあった。「詩帆の件だ。俺がちゃんと説明しなかったから、怒っているだけなんだ」彼は胸ポケットに入れた指輪をそっと撫でる。「きちんと説明すればいい」そう言う声は、いつもより少し早口だった。「詩帆が戻ってきたのは俺の意思じゃない。あいつが勝手に戻ってきただけで、俺は何一つ約束なんかしていないって......」一度言葉を切ると、喉仏がゆっくりと上下した。「謝れば、彼女は戻ってきてくれる」「謝る」という言葉が真洋の口から出たことに、翔は強い違和感を覚えた。彼がその言葉を口にするのを、今まで一度も聞いたことがなかった。紗寧との間では、いつも折れて謝るのは彼女だった。彼女が彼を追いかけ、彼はただそこに立っているだけでいい。何もしなくても、彼女のほうから戻ってきた。だが今の真洋からは、それまで見たことのないほどの卑屈さがにじみ出ていた。心から謝りさえすれば、紗寧は戻ってきてくれる――そう信じようとしている。そして二人は、また以前のように戻れるのだと。翔は口を開き、何か言おうとした。もう心を決めて去った人間は、たった一言の謝罪だけで引き留められるものではない、と。だが、真洋が指輪を胸に押し当て、必死に背筋を伸ばして立っている姿を見て、その言葉は喉の
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第64話

紗寧は出勤初日を終えると、すぐに週末を迎えた。颯に私立ポール高等学校へ進学したい意思があるかどうかを聞かなければならないことが気にかかっていたため、朝早くから貝原家へ向かった。黒いマイバッハが貝原家前に停まると、明文と芳美はすでに階段の前で待っていた。車が完全に停まる前に、明文は待ちきれない様子で歩み寄り、ドアを開けようと手を伸ばした。だが後部座席に紗寧しかいないのを見ると、一瞬目を丸くした。「八角さんは来てないのか?」「ええ。会社で用事があるそうで」明文は笑みを少し引っ込めたが、それ以上は表に出さなかった。一方の芳美は少し気まずそうな顔をして、軽く紗寧の肩を叩いた。「もう、この子ったら。せっかく帰ってくるなら、八角さんも一緒に連れてくればよかったのに。さあ、中で話そう」そう言って紗寧はリビングへ案内された。使用人がお茶とお菓子を運んでくる。明文はしばらく世間話をしたあと、本題へ切り込んだ。「紗寧、お前も今じゃ八角家の妻だ。少し相談したいことがあるんだ」紗寧はティーカップを持つ手をわずかに止めた。「最近うちの会社は案件不足でな。大口の仕事もいくつも横取りされて、資金繰りがかなり厳しい」明文はため息をつき、困り果てた表情を浮かべる。「蒼士に一言頼んで、貝原家を少し引き上げてもらえないか?大きな案件じゃなくていい。小さなプロジェクトを一件や二件、回してもらえれば十分だ」紗寧はカップを静かに置いた。「明文さん、八角家の事業規模と貝原家ではまったく釣り合いません。無理に仕事を回しても、きっと受け切れない。それに......」一度言葉を切ってから続ける。「私と八角さんも......そこまでの関係ではないので」明文の表情が固まった。遠回しな言い方だったが、断りの意思は十分に伝わっていた。彼は唇を引き結び、顔を曇らせると、その場で立ち上がった。「そうか。あとは母娘で話しなさい」そう言い残し、そのまま2階へ上がっていった。リビングはたちまち静まり返る。「紗寧、さっきのはどういう意味?」明文の姿が見えなくなると、芳美は眉をひそめて口を開いた。「『そこまでの関係じゃない』ってどういうこと?あなたは今、八角家の妻なのよ。八角さんはたくさんの人脈も資源も持っている。明文の
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第65話

「お母さんのためだと思って、八角さんにお願いしてくれない?」紗寧は深く息を吸った。「この前も言ったでしょう。咲良の身代わりとして結婚したことが最後。あれで貝原家への恩は全部返したの。これからはもう関わらないって......」「紗寧、お願いよ」芳美の声は涙混じりになっていた。「これが本当に最後だから。明文のために、貝原家のために力を貸してちょうだい......」紗寧はぎゅっと指を握り締めた。彼女が何も言わないのを見て、芳美の表情は次第に変わっていく。「そもそも、あなたのためじゃなかったら、私は故郷を捨てて、あんな遠くから港江まで逃げて来たりしなかった......」彼女は唇を噛み締め、小さく続けた。「数えてみれば、あの人が出所するまで、あと1年しかないわ」紗寧の身体がぴくりと強張った。「もしあの人が出てきて、私たちを捜しに来たら......紗寧、それがどういうことかわかるでしょう?昔のことが人に知られたら、明文が私をこの家に置いてくれると思う?貝原家のお祖母様なんてきっと真っ先に私を追い出すわ」「お母さん......」紗寧の声は強張っていた。「お母さんだって、あなたを追い詰めたいわけじゃないの」芳美は彼女の手を握り、涙をにじませながら言った。「でも、本当にもうどうにもならないの。もし明文が倒れたら、貝原家は終わりよ。そうなれば、お母さんもこの家にはいられなくなる。それに......あなたも、あの人が来るのを嫌でしょう?」紗寧は胸を強く掴まれたような苦しさを覚えた。心拍が急激に速くなり、呼吸は浅く乱れ、背中には冷や汗が滲む。――まただ。溺れるような息苦しさ。あの人の名を聞いただけで、トラウマによるパニック発作が始まってしまう。しかも、あまりにも急激に。彼女は目を閉じ、爪が食い込むほど拳を強く握り締め、その痛みで押し寄せる恐怖を必死に抑え込もうとした。「紗寧?」様子がおかしいことに気づいた芳美が声をかける。「どうしたの?顔色が真っ青よ」紗寧は深く息を吸い込み、必死に声を落ち着かせた。「大丈夫......低血糖で、少し立ちくらみがしただけ」「それなら早く座りなさい。水でも飲んで」芳美は慌てて彼女を椅子に座らせ、水を注いだコップを手に持たせた。その時、
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第66話

「しー!変なことを言わないの」紗寧はほとんど反射的に颯をかばった。颯は眉をひそめ、不満そうに口を尖らせる。「俺が言ったんじゃないよ。咲良が言ってたんだ。八角蒼士は不治の病だから、急いで結婚するしなきゃいけないんだって。それに、八角蒼士は気性が荒くて非情、どれだけ人の血を浴びてきたかわからないって......」颯に話をかき回されたおかげか、紗寧の呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していった。彼女は唇を軽く結び、静かに言う。「それは全部嘘。八角さんはいい人よ」颯は口元を引きつらせた。「そういえば八角蒼士の『異名』、知ってる?」紗寧は首を横に振る。「『八角家の鬼』」颯は声を潜めた。「名前を聞くだけで夜泣きする子どもが泣き止むって言われてるんだ」「......」「人を殺すのにためらいがないとか、冷酷無情だとか、情け容赦がないとか、身内にも容赦しないとか......」颯は指を折って数えながら、話せば話すほど勢いづいていく。紗寧はとうとうこらえきれず、ぷっと吹き出した。目尻を細めて笑いながら言う。「そんな話、どこで聞いてきたの?」「本当のことなんだよ!」颯は慌てて言い返した。「お姉ちゃんは怖くないの?」紗寧は首を振り、目元に穏やかな笑みを浮かべた。「でも、颯が言ってる人と、私が知ってる八角さんは全然別人よ」彼女にとっての蒼士は、穏やかな性格で、礼儀正しく控えめな人だった。話し方も立ち居振る舞いも節度があり、自分にも細やかな気遣いを見せてくれる。どこをどう考えても、この契約結婚で得をしたのは自分のほうだ。そんな彼女の聞く耳を持たない様子に、颯は白い目を向け、とうとう説得を諦めた。――まあいい。どうせ何を言っても信じない。「私の心配はいいから。それよりポールに行くかどうかだけど、決めた?あそこは普通の学校じゃないよ。通ってるのは港江でも指折りの名門一族の子ばかりなんだから」颯は気にも留めない様子で肩をすくめた。「どこへ行っても俺はやっていけるよ」紗寧は少し考えてからうなずく。「じゃあ、まずは行ってみましょう。もし合わなかったら、そのときは私がまた八角さんに頭を下げて、転校させてもらうようお願いするから」颯の眉はますます寄った。「あいつが力を貸してく
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第67話

天川はため息をついた。蒼士に付き従ってもう10年近くになる。だからこそ、この人のことは誰よりもよくわかっていた。普段は何事にも執着しないように見えるが、本当に心の底から大切にしている人に誰かが手を出したとなれば、空に穴を開けるほどの勢いで報復する。そしてその穴の破片まで、一つ残らず相手の口へねじ込むような男だ。天川は中へ入り、半死半生の男の前にしゃがみ込んだ。男は全身傷だらけで、顔はすでに原形をとどめておらず、雑巾をぐしゃぐしゃに丸めて床へ放り投げたような有様だった。天川は傷の具合を確認しながら首を振る。「よりにもよって、なんであの人に喧嘩を売ったんだ」男はもう言葉を発することもできず、喉の奥からかすれた呻き声を漏らすだけだった。処置を終えた天川は、血の付いた手袋を外し、外へ出て大きく息を吸い込んだ。庭にはジャスミンの香りが漂っている。しばらく立っているうちに身体に染みついた血の臭いもだいぶ薄れ、それから蒼士のもとへ歩み寄った。「八角さん、あなたの病気は、もうこれ以上先延ばしにはできません」蒼士は何も答えず、煙草の煙だけが指先からゆっくりと立ち昇る。「遅くとも来月には入院して治療を始めなければ」天川の声には焦りが滲んでいた。「あの薬の副作用も、もうかなり出ています。このまま飲み続ければ......」「わかっている」蒼士は静かに遮った。天川はなお何か言おうと口を開いたが、その頃には蒼士はもう立ち上がっていた。「だから心配するな」そう言って母屋へ向かって歩き出し、数歩進んだところでふと足を止める。「天川」「はい?」「俺は何年も待ち続け、ようやく願いを叶えられる。月末には結婚式だ。その日を迎えるまで、何ものにも邪魔はさせない」天川はその背中を見つめ、眉を固く寄せた。彼の知る蒼士は、常に先を読み、すべてを掌握してきた人間だった。だが、紗寧のことにだけは違う。まるで賭博師だ。すべてを、命さえも賭けている。......月曜日の朝。紗寧が出社した途端、樋口に腕をつかまれ、そのまま練習室へ引っ張って行かれた。「今日の有賀さん、機嫌が良さそうなんです!今のうちに曲を決めちゃいましょう!私、スターエンタメに来てもうすぐ1年になりますけど、あの人が仏頂面
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第68話

噂はあっという間に広まった。半日も経たないうちに、マネジメント部では誰もが、祐輔が紗寧の仕事に素直に協力しただけでなく、朝食まで買ってきたことを知っていた。その話を耳にしたとき、島崎は給湯室でコーヒーを淹れていた。手にしていたカップを「ゴン」とテーブルに叩きつけ、コーヒーが跳ねて手の甲にかかったが、熱ささえ感じなかった。あの貝原咲良が?どうして?自分は会社に入って2年。祐輔のマネージャーになったものの、わずか3日で追い出された。3日だ。セットリストすら渡せないまま部屋から叩き出されたのに。それなのに、貝原咲良は入社したばかりの新人。どうして二日目で祐輔を手なずけられた?しかも朝食まで買ってきてもらうなんて。島崎は揺れるコーヒーをじっと見つめた。液面には、歪んだ自分の顔が映っている。彼女は咲良の履歴書にも目を通し、ネットでも調べていた。しかし彼女の学歴が一切登録されていなかった。そんな人間は、高校を卒業していないか――あるいは、まともに学校へ通ってすらいないかだ。島崎は目を細める。この貝原咲良という女は、履歴書まででっち上げている。取り柄といえば顔だけ。株式会社スターエンターテインメントはどんな会社だと思っているのか。港江でも屈指の芸能事務所であり、今では八角家の傘下に入り、将来性は計り知れない。そんな場所へ、こんな女が入社できた理由など、考えるまでもない。島崎はコーヒーを持って自席へ戻ると、スマホを取り出し、社内のグループチャットを開いた。数秒指を止めたあと、文字を打ち始める。もっとも、自分では投稿しない。社内でも特に噂好きな数人へ、その内容を転送した。【みんな聞いた?新しく入った貝原咲良、履歴書が全部デタラメらしいよ。高卒の記録すら怪しいんだって。あんなのがスターに入れたのって、やっぱりお枕とかそっち系じゃない?笑】......昼休みになり、オフィスの人影はまばらになっていた。紗寧は祐輔のリハーサル予定を整理していると、スマホが震えた。画面に一通のメッセージが表示される。【上に来て。】送信者――八角蒼士。紗寧は画面を2秒ほど見つめ、「今ちょっと忙しい」と返信しようとした、そのとき。2通目がすぐに届いた。【5分以内。来な
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第69話

彼女は思わずもう二口ほど飲んでから、ようやく椀を置いた。「前に、会社ではできるだけ二人きりで会わないようにしようって話しましたけど......」蒼士は椅子の背にもたれ、長い脚を組んだまま気楽な姿勢で言った。「一人で食事をしてもつまらないから」「横川さんがいるじゃないですか」その言葉が落ちるや否や、ドアの前で気配を消して立っていた横川が反射的にこちらを見た。蒼士は眉をひそめて彼を一瞥し、淡々と言う。「彼は野菜しか口にしない」――突然菜食主義者にされた。紗寧は半信半疑で横川を見つめた。ということは――あの引き締まった筋肉は、菜食だけで作り上げたってこと?さすがに信じられない。そんなことをあれこれ考えている間に、蒼士は自然に話題を変えた。「これも食べてみて。今朝、空輸で届いたんだ」紗寧はすっかり気を逸らされ、素直に魚へ箸を伸ばした。身はふっくらと柔らかく、口の中でほろりとほどける。味付けも絶妙だった。「美味しいです」心からそう言うと、蒼士は口元をわずかに緩めた。紗寧は口いっぱいに料理を頬張りながら、夢中で食べている。伏せたまつげが長い影を落とし、その横顔はどこか幼く見えた。唇の端に少しだけ汁がつくと、彼女は舌先でそっと舐め取る。その瞬間、蒼士の箸を持つ手がぴたりと止まった。ごくりと喉を鳴らす。彼は視線を逸らし、傍らのカップを手に取って一口含み、胸の奥に湧き上がった熱を静かに押し込めた。そんなことにはまるで気づかず、紗寧は満足そうに食事を続ける。最後に運ばれてきたデザートはマンゴードリンクだった。冷やしたガラスの器に盛られ、甘いマンゴーの香りに、濃厚なココナッツミルクが絶妙に調和している。食べ終える頃には、彼女は椅子の背にもたれ、小さく息をついた。少し食べ過ぎたかもしれない。「ごちそうさまでした」「もうお腹いっぱい?」蒼士が尋ねる。「はい」蒼士は低く笑うと何も言わず、テーブルの脇に置いてあった銀色のライターを手に取り、手慰みに弄び始めた。金属製の蓋が開いては閉じ、「カチッ、カチッ」と乾いた音を立てる。静かな応接室では、その音だけが妙にはっきりと響いていた。紗寧は壁の時計へ目をやる。12時20分。昼休みはまだ40分残っている。
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第70話

紗寧の耳まで真っ赤に染まった。男の掌の熱が薄いシャツ越しに伝わり、その熱で腰に触れている肌まで痺れるようだった。蒼士はライターを彼女の手のひらに載せると、その上から自分の手で包み込み、ライターの持ち方を整える。「親指はここ」彼は彼女の親指の腹に指先を添え、軽く押しながら言った。「人差し指は下を支えて。そう、そのまま」長く力強い指が彼女の手をすっぽり包み込み、指先の薄いタコが手の甲をかすめるたび、小さな震えが走る。紗寧はなんとか意識をライターへ向け、背中越しに伝わる温かく逞しい胸の感触を忘れようとした。ライターを使ったことなど一度もない。それもこんなフリント式はなおさらだ。「それで?」「ホイールを回して」紗寧は親指に力を込め、ホイールを回してみる。つかない。もう一度試す。やはり火はつかなかった。「力が足りない」蒼士の低く艶のある声には笑みが滲んでいた。「もう一回。もう少し力を入れて」紗寧は唇を軽く結び、深く息を吸ってから親指にぐっと力を込める。ホイールが一回転し、火花は散ったものの、炎はすぐに消えてしまった。「......」彼女は少し気まずそうにライターを見つめ、頬を赤く染める。蒼士が低く笑う。胸の奥で響くような笑い声が、彼女の背中まで震わせた。「力を抜いて。そんなに緊張しなくても」彼は自分の親指を彼女の親指に重ね、そのままゆっくりとホイールを回していく。「焦らなくていい。ゆっくり」今度は、炎が安定して灯った。橙色の火がゆらゆらと揺れ、その光が紗寧の瞳に映り、小さな星が宿ったように輝く。「ついた!」嬉しそうに振り返って蒼士を見た。しかし次の瞬間、その笑顔はぴたりと固まった。距離が近すぎる。男の温かな吐息まで感じられるほど近かった。漆黒の瞳は静かに彼女を見つめ、その奥では何かが静かに揺らめいている。紗寧の鼓動が、大きく乱れた。空気そのものが火をつけられたように熱を帯び、温度が少しずつ上がっていく。蒼士の視線は彼女の瞳からゆっくりと唇へ移り、喉仏がひとつ上下した――男が身を寄せ、口づけようとしたその瞬間、紗寧は勢いよく彼の腕の中から飛び起きた。「わ、私、もう下に戻ります......!」そう言うなり、蒼士の顔を見るこ
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