All Chapters of 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜: Chapter 41 - Chapter 50

87 Chapters

第41話 知らない顔

真琴が本を読むようになった。 正確には、前から読んでいたのかもしれない。 ただ、悠斗がそれに気づいていなかっただけだ。 リビングのソファで、真琴が本を開いている。 テーブルの上には、白いマグカップが置かれていた。湯気はもう薄くなっている。真琴はそれに手を伸ばすこともなく、ページの上に視線を落としていた。 テレビはついていない。 いつもなら、悠斗が帰る頃には何かしらの番組が流れていた。ニュースだったり、バラエティだったり、真琴が見ているというより、部屋を寂しくしないためにつけているような音。 けれど、今夜の部屋は静かだった。 紙をめくる音だけが、時々小さく響く。 「ただいま」 玄関から声をかけると、真琴は本から顔を上げた。 「おかえり」 その声は、いつも通りだった。 少し柔らかくて、落ち着いていて、聞くと安心する声。 なのに悠斗は、なぜかその場に立ったまま動けなかった。 真琴は本に栞を挟み、ゆっくり閉じた。 「お疲れさま」 「ああ」 悠斗は靴を脱いで、リビングに入る。 テーブルの上に夕飯らしきものはなかった。 それに気づいてから、すぐに思い出す。 昨日、真琴は言った。 夕飯は先に食べてていいよ、と。 その言葉を聞いた時、悠斗は少しだけ拍子抜けした。 真琴が怒っているわけではないことは分かった。 けれど、いつもならそこにあったはずの何かが、すっと抜け落ちたような感じがした。
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第42話 置かれたクラゲ

「もう少し、一人で選びたいんだと思う」 真琴はそう言った。 責める声ではなかった。 怒っているわけでもない。 ただ、自分の中にあるものを確かめるような言い方だった。 悠斗は、すぐには返事ができなかった。 今までも真琴は、一人で買い物へ行くことがあった。 本屋にも、スーパーにも、駅前のドラッグストアにも。 それなのに今の言葉は、いつもの「一人」とは違って聞こえた。 一人で選びたい。 その中に、自分を入れてほしくないという意味が少しだけ含まれている気がした。 そんなことを思うのは、考えすぎだろうか。 悠斗には分からなかった。 「……そっか」 ようやく出てきたのは、それだけだった。 「うん」 真琴は小さく頷いた。 それから、申し訳なさそうに笑う。 「ごめんね」 「いや、謝ることじゃないだろ」 「うん」 「行きたい時に行けばいいよ」 「ありがとう」 普通の会話だった。 喧嘩でもない。 拒絶でもない。 真琴はただ、自分の時間を自分で持ちたいと言っただけだ。 それなのに、悠斗の胸の奥には、細い棘のようなものが残った。 真琴はまた本を開いた。 悠斗は食べ終えた茶碗を持って、キッチンへ向かった。 流しに置いた茶碗を見て、一瞬迷う。
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第43話 優しさの置き場所

お風呂から上がると、リビングの灯りが少しだけ眩しく感じた。 ドライヤーをかける前の髪から、ぽたりと水が落ちる。 タオルで押さえながらリビングに入ると、悠斗が本棚の前に立っていた。 「何してるの?」 私が声をかけると、悠斗は少し驚いたように振り返った。 「あ、いや。別に」 その視線が一瞬、棚の上に置いたクラゲのキーホルダーへ向いた。 私はそれに気づいてしまった。 淡い水色のクラゲ。 写真集の横に置かれた、小さな思い出。 悠斗が買ってくれたもの。 嬉しかったもの。 でも、バッグにつけられなかったもの。 その全部が、そこに並んでいた。 「……気になった?」 私が聞くと、悠斗は少し気まずそうに笑った。 「いや、バッグにつけないんだなって思って」 「うん」 私はタオルを握ったまま、本棚の前まで歩いた。 クラゲは、リビングの灯りを受けて少しだけ光っている。 「可愛くないとかじゃないよ」 「分かってる」 「嬉しかったのも、本当」 「うん」 悠斗は頷いた。 けれど、その顔には分からないという色が残っていた。 分からないよね、と思った。 私だって、うまく説明できない。 嬉しいのに苦しい。 大切なのに、近くに置けない。 好きだったものが、今は少し痛い。
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第44話 言えないもの

灯りを消しても、悠斗はすぐには眠れなかった。 隣で真琴が静かに呼吸している。 寝ているのか、起きているのかは分からない。 けれど、声をかけることはできなかった。 さっきの真琴の言葉が、暗い部屋の中で何度も繰り返されている。 ――悠斗の好きなものは、結構すぐ言えるの。 味濃いめの唐揚げ。 辛すぎないカレー。 夜食べるならラーメンよりうどん。 疲れている時は甘いコーヒー。 真琴は、そんな細かいことまで覚えていた。 言われて初めて、悠斗は気づいた。 それらは確かに、自分が好きなものだった。 でも、真琴がいつ覚えたのかは分からなかった。 一緒に暮らす中で、何度も口にしたのかもしれない。 夕飯の時に、何気なく言ったのかもしれない。 コンビニで飲み物を選ぶ時、真琴が横で見ていたのかもしれない。 真琴は、そういう小さなことを拾っていた。 拾って、覚えて、次からそっと差し出してくれていた。 唐揚げの日は、味が少し濃いめだった。 カレーの日は、辛さがちょうどよかった。 残業で遅くなった夜、テーブルには甘い缶コーヒーが置いてあった。 それを悠斗は、気遣いとして受け取っていただろうか。 それとも、真琴だから分かっているのだと、当たり前に思っていただろうか。 布団の中で、悠斗は目を開けた。 天井は暗く、輪郭だけがぼんやり見える。 では、自分は。
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第46話 遅れてきた優しさ

その日の昼休み、佐伯さんに誘われて、会社近くのカフェに入った。 いつもの社員食堂ではなく、外の店だった。 白い壁に、木目のテーブル。 窓際の席には小さな観葉植物が置かれていて、通りを歩く人の影がガラス越しに揺れている。 「たまには外、出よ」 佐伯さんはそう言って、私の返事を待たずに店を決めた。 たぶん、私が考え込んでいるのに気づいていたのだと思う。 注文したホットサンドは、半分に切られて皿にのっていた。 焼けたパンの匂いがする。 チーズが少しだけ端からはみ出していて、いつもなら美味しそうと思うはずなのに、私はしばらく手をつけられなかった。 「で」 佐伯さんがアイスコーヒーのストローを軽く回しながら言った。 「今日は目だけじゃなくて、顔全体が考えごとしてる」 「顔全体ですか」 「うん。眉間と口元が会議してる」 少し笑ってしまった。 笑うと、張りつめていたものがほんの少し緩んだ気がした。 「……悠斗が」 「うん」 「最近、少し変わろうとしてるんです」 言葉にすると、胸の奥が小さく痛んだ。 佐伯さんは急かさず、黙って聞いてくれている。 「食器を洗ってくれたり、朝ご飯を用意しようとしてくれたり。本屋にも、一緒に行こうかって言ってくれて」 「うん」 「私の好きなものを知ろうとしてくれてるんだと思います」 「そっか」 「それは……嬉しいことのはずなんです」
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第47話 私が食べたいもの

仕事が終わる頃、悠斗からメッセージが届いた。 『今日、佐伯さんと話すんだよな。遅くなるなら、夕飯は俺適当にするから』 画面を見て、私はしばらく指を止めた。 前なら、すぐに返していた。 『ごめんね』 『ありがとう』 『冷蔵庫にこれがあるから食べてね』 そんなふうに。 でも今日は、少し考えた。 悠斗は、気遣ってくれている。 それは分かる。 分かるからこそ、胸の奥が痛む。 私はゆっくり文字を打った。 『ありがとう。そうしてくれると助かる』 送信してから、スマホを伏せた。 ごめんね、とは書かなかった。 冷蔵庫の中身も、書かなかった。 たったそれだけなのに、少しだけ息が深く吸えた。 会社を出ると、空はもう薄暗かった。 駅へ向かう人の流れに混じりながら、私は今日の夕飯を考えた。 悠斗の好きなものではなく。 冷蔵庫にあるものでもなく。 私が今、食べたいもの。 すぐには浮かばなかった。 でも、焦らなくていいと思った。 考えるところからでいい。 佐伯さんの言葉を胸の中で繰り返す。 駅前のスーパーの灯りが見えた。 私は少しだけ足を止める。 中に入れば、たぶんいつもの癖で、悠斗が好きそうなものを見てしまう。 それでもいい。
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第48話 一人分の食卓

悠斗が家に帰った時、リビングの灯りはついていた。 玄関を開けると、奥からかすかにテレビの音が聞こえた。 ニュースでもバラエティでもない。 たぶん、何かの旅番組だった。 海辺の町を紹介するナレーションの声が、小さく響いている。 「ただいま」 声をかけると、リビングから真琴が顔を出した。 「おかえり」 その声は、いつも通りだった。 けれど、悠斗は玄関に立ったまま、少しだけ息を止めた。 真琴の髪は、ゆるくひとつにまとめられていた。 部屋着に着替えていて、手には湯呑みを持っている。 その姿は見慣れているはずなのに、どこか知らない人のように見えた。 「佐伯さんとは、話せた?」 「うん。少しだけ」 「そっか」 悠斗は靴を脱ぎ、リビングに入った。 テーブルの上には、空になった皿が置かれていた。 小皿が三つ。 白身魚の南蛮漬けが入っていたらしい透明なパック。 薄く切られたきゅうりが少し残った皿。 豆腐の入っていた小さな器。 それから、湯呑み。 一人分だった。 見れば分かる。 誰かを待つための食卓ではなく、真琴が自分のために用意して、自分で食べた後の食卓だった。 「食べたんだ」 悠斗はそう言った。 言ってから、ひどく間の抜けた言葉だと思った。 真琴は少しだけ首を傾げる。
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第49話 遅れているもの

真琴がキッチンから戻ってきた時、悠斗はソファに座っていた。 テレビでは、夕暮れの海辺の町が映っている。 古い喫茶店の窓から、海が見えるらしい。 真琴は湯呑みを持って、ソファの端に腰を下ろした。 以前なら、もっと近くに座っていた気がする。 肩が触れるくらいの距離に。 けれど今は、クッションひとつ分、間が空いている。 それが偶然なのか、真琴が選んだ距離なのか、悠斗には分からなかった。 「こういう場所、好きなの?」 悠斗はテレビを見ながら聞いた。 真琴は少しだけ考えた。 「うん。好きかも」 「海?」 「海もだけど、古い喫茶店とか、知らない町を歩く感じとか」 「旅行行きたいってこと?」 「そういうわけじゃないけど」 真琴は湯呑みに視線を落とした。 「見てるだけで、ちょっと落ち着く」 「ふうん」 悠斗は画面を見た。 正直に言えば、古い喫茶店の何がいいのか、あまり分からなかった。 でも、それを口にするのはやめた。 代わりに、慎重に聞く。 「前から、そういうの好きだった?」 「たぶん」 「たぶん?」 「好きだったけど、忘れてたのかも」 真琴の声は静かだった。 その言葉に、悠斗は何も返せなかった。 忘れてた。 真琴は、自分の好きなものを忘れていた。
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第50話 話したいこと

朝、目が覚めた時、隣の布団は少しだけ乱れていた。 悠斗はもう起きているらしかった。 寝室のドアの向こうから、かすかに食器の触れる音がする。 私はしばらく天井を見ていた。 薄い光がカーテンの隙間から入っている。 何度も迎えた朝のはずなのに、最近の朝は、少しずつ違う顔をしている気がした。 悠斗が先に起きている。 キッチンで何かをしている。 それだけなら、普通のことかもしれない。 でも、私たちの間では普通ではなかった。 私は起き上がり、軽く髪を整えてから寝室を出た。 リビングに入ると、悠斗がテーブルの上にマグカップを置いているところだった。 「あ、起きた?」 「うん」 「コーヒー、淹れた」 テーブルにはマグカップが二つあった。 湯気が上がっている。 その隣には、トーストが一枚ずつのった皿。 ジャムの瓶と、バター。 特別な朝食ではない。 でも、悠斗が用意したものだった。 「ありがとう」 私は椅子に座った。 コーヒーの香りがする。 いつもより少し薄い気がした。 でも、飲めないほどではない。 悠斗は向かいに座りながら、どこか落ち着かない様子で私を見ていた。 「砂糖、いる?」 「今日はいいかな」 「そっか」 「ありがとう」
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