All Chapters of 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜: Chapter 71 - Chapter 80

87 Chapters

71話 新しい住所

 昼休みに、私は不動産屋から届いたメールを開いた。 審査に必要な書類の確認。 勤務先。 年収。 緊急連絡先。 保証会社の申込フォーム。 項目をひとつずつ埋めていくたびに、胸の奥が少し落ち着かなくなった。 新しい部屋。 新しい契約。 新しい住所。 そこに、自分の名前だけを書く。 今まで、何か大きな手続きをする時は、いつも悠斗のことも考えていた。 引っ越し先を決める時も。 家具を買う時も。 家電を選ぶ時も。 二人で暮らすなら。 悠斗が使いやすいなら。 悠斗の帰りが遅くても大丈夫な場所なら。 そんなふうに。 けれど、今入力している名前は私だけだった。 藤崎真琴。 ひとり分の契約。 ひとり分の生活。 画面の上で自分の名前を見つめていると、不意に不安が押し寄せた。 本当に、できるのだろうか。 一人で家賃を払って。 一人で鍵を受け取って。 一人でカーテンを選んで。 一人で夜を過ごす。 楽しみだと思った。 でも、怖くないわけではなかった。「藤崎」 顔を上げると、千尋が弁当の袋を持って立っていた。「ここ、いい?」「うん」 千尋は向かいの席に座り、私のスマホをちらりと見る。「部屋?」「うん。申し込みの書類」「進んでるね」「うん」 私はスマホを伏せた。「思ったより、ちゃんと現実になるんだね」「そりゃなるよ。申し込んだら現実が書類持ってくる」「現実、事務的だね」「だいたい事務的だよ。感情に配慮してくれない」 その言い方に、少し笑った。 千尋も笑いながら、袋から
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72話 生活の練習

 会社帰り、悠斗はスーパーの前で足を止めた。 以前なら、ほとんど素通りしていた場所だった。 必要なものがあれば真琴に頼んでいたし、帰れば何かしら食べるものがあると思っていた。 その考え方が、今ではひどく雑で、ひどく甘えていたものに思える。 自動ドアが開く。 店内の明るい光と、惣菜の匂いが流れてきた。 悠斗はかごを手に取り、ゆっくり歩き出した。 野菜売り場。 肉。 魚。 豆腐。 卵。 どれも見覚えはある。 でも、自分の食卓につながるものとして見たことは、ほとんどなかった。 真琴は、ここで毎日のように考えていたのだろうか。 今日は何を作るか。 冷蔵庫に何が残っているか。 悠斗が食べるか。 疲れているなら重くないものがいいか。 それを、仕事のあとに。 当たり前みたいに。 悠斗は豆腐の棚の前で立ち止まった。 同じように見える豆腐がいくつも並んでいる。 絹。 木綿。 小分け。 大容量。 どれを買えばいいのか分からない。 真琴なら、迷わず選んでいた。 いや、迷っていたのかもしれない。 迷って、考えて、それを悠斗に見せなかっただけなのかもしれない。 悠斗は小分けの絹豆腐をかごに入れた。 それから、卵と、カット野菜と、鮭の切り身を一つ。 一人分。 そう考えると、胸の奥が鈍く痛んだ。◇◇◇◇ 家に帰ると、真琴の靴はなかった。 まだ帰っていない。「ただいま」 小さく言ってから、返事がないことに気づく。 前なら、真琴がいない部屋は少し退屈なだけだった。 今は違う。 この静けさが、これからの練習のように思えた。
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73話 審査が通りました

 昼休みの終わり頃、不動産屋からメールが届いた。 件名は短かった。『審査結果のご連絡』 その文字を見た瞬間、胸が小さく跳ねた。 私は社員食堂の端の席で、スマホを握ったまま動けなくなった。 落ちたかもしれない。 通ったかもしれない。 どちらにしても、このメールを開けば次の現実が始まる。 私は一度スマホを伏せた。 深呼吸して、もう一度画面を見る。 指先が少し冷たい。 メールを開いた。『審査が無事通過いたしました』 その一文を読んだ瞬間、胸の奥から力が抜けた。 通った。 あの部屋に住める。 南向きで、少し古くて、窓から光が入る部屋。 薄い青のカーテンをかけたいと思った部屋。 小さな本棚を置いて、丸いテーブルを置いて、椅子を二脚置こうと思った部屋。 そこが、本当に私の部屋になる。 嬉しい。 そう思った。 でも、すぐ後から寂しさも来た。 嬉しいと思ったことが、また胸に刺さる。 私は悠斗と別れる。 同じ部屋を出る。 そのための審査が通ったのだ。 喜んでいいことなのか。 悲しむべきことなのか。 まだ分からない。 けれど、メールの文字は私の気持ちを待ってくれなかった。 契約日。 初期費用。 入居可能日。 鍵の受け渡し。 現実は、淡々と先へ進んでいく。「藤崎さん?」 声をかけられて顔を上げると、森下さんが立っていた。「顔、固まってます」「あ……」「大丈夫ですか?」 大丈夫、と言いかけて、私は少し笑った。「審査が通ったの」 森下さんの目が明るくなった。「新しいお部屋の?」「
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74話 段ボールの数

 翌日、会社帰りに私はホームセンターへ寄った。 引っ越し用の段ボールを買うためだった。 まだ引っ越し業者も決めていない。 荷造りも本格的には始めていない。 それでも、部屋の隅に段ボールがあるだけで、きっと現実が少し進む。 売り場には大小さまざまな箱が積まれていた。 Sサイズ。 Mサイズ。 衣装ケース用。 本用。 食器用の緩衝材。 ガムテープ。 油性ペン。 全部、必要なもののように見えた。 でも、どれをどれだけ買えばいいのか分からない。 二人で暮らし始めた時は、どうしたんだっけ。 そう思って、少しだけ胸が痛んだ。 あの時は悠斗と一緒だった。 家具を見に行って、食器を選んで、二人で使うものを少しずつ揃えた。 私は多分、嬉しかった。 これから二人の生活が始まるのだと、信じていた。 今は、一人で段ボールを選んでいる。 同じ引っ越しなのに、始まり方がまるで違った。 けれど、不思議と惨めではなかった。 寂しさはある。 でも、誰かに置いていかれたのではない。 私は自分で、出ていく準備をしている。 私はMサイズの段ボールを五枚取った。 それから本用に小さめを三枚。 食器を包む紙。 ガムテープ。 黒の油性ペン。 レジに向かいながら、腕の中の段ボールが少し重かった。 この重さが、これから持っていく生活の重さなのだと思った。◇◇◇◇ 家に帰ると、悠斗は先に帰っていた。 リビングのテーブルでノートパソコンを開いている。 私が段ボールを抱えて入ると、悠斗はすぐに立ち上がった。「持つよ」「大丈夫」 言ってから、少し考えた。 反射で断っただけかも
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75話 手伝えること

 段ボールが部屋の隅に置かれてから、悠斗はそこを何度も見てしまった。 本、と書かれた箱。 まだ蓋は閉じられていない。 中には、真琴が選んだ本が入っている。 写真集。 海のエッセイ。 古い小説。 どれも、悠斗が知らなかった真琴の一部だった。 同じ家に何年もあったものなのに、見ていなかった。 その箱を見るたびに、胸の奥が鈍く痛む。 けれど、痛いからといって目を逸らすのは、もう違うと思った。 悠斗はキッチンに立ち、夕飯に使った皿を洗っていた。 今日は惣菜と味噌汁だけだった。 味噌汁は少しだけ濃くなりすぎた。 でも、前よりはましだった。 洗い物を終え、布巾で水滴を拭く。 布巾をどこに干すのか、少し前まで知らなかった。 今は分かる。 分かるようになったからといって、何かが許されるわけではない。 でも、知ろうとしなかったままではいられなかった。◇◇◇◇ リビングに戻ると、真琴は床に座って食器を包んでいた。 白い器。 小さな皿。 マグカップ。 新聞紙ではなく、ホームセンターで買った緩衝材を丁寧に巻いている。 悠斗は少し離れたところで足を止めた。「それ、持っていくやつ?」「うん」「どれくらい?」「少しだけ。全部は持っていかない」 真琴は手元を見たまま答えた。 その声は落ち着いている。 悠斗は床に座るか迷って、やめた。 勝手に近づきすぎてはいけない。「手伝えることある?」 聞くと、真琴は顔を上げた。 少し考える。 すぐに「大丈夫」と言わなかったことに、悠斗は気づいた。「じゃあ、この包んだ食器を箱に入れてもらってもいい?」「分かった」「
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76話 持っていかないもの

 荷造りを始めてから、私は毎晩少しずつものを選んだ。 持っていくもの。 置いていくもの。 捨てるもの。 まだ決められないもの。 分けているのは物のはずなのに、自分の中の時間まで仕分けているようだった。 古い部屋着。 もう使わない化粧品。 欠けた皿。 昔のレシート。 二人で行った映画の半券。 引き出しの奥から出てきたそれを見て、私は手を止めた。 日付は何年も前だった。 たぶん、付き合ってまだ間もない頃。 仕事帰りに待ち合わせて、レイトショーを見た。 映画の内容はあまり覚えていない。 でも、帰り道にコンビニで温かい飲み物を買って、笑いながら歩いたことは覚えている。 あの頃の私は、ちゃんと恋人だった。 悠斗の隣にいて、嬉しかった。 尽くす前の私。 我慢する前の私。 ただ好きで、ただ一緒にいたかった私。 半券を捨てようとして、できなかった。 だからといって、新しい部屋へ持っていきたいとも思わない。 私は空き箱を一つ作り、そこに入れた。 まだ決められないもの。 そう書く。 決められないことは、悪いことではない。 最近、少しずつそう思えるようになった。 本棚の上には、クラゲのキーホルダーがあった。 淡い水色。 小さな透明感。 悠斗が水族館で買ってくれたもの。 嬉しかった。 本当に。 あの日の悠斗は、私を見ようとしてくれていた。 遅かったかもしれない。 それでも、あの気持ちまで嘘にはしたくない。 私は手を伸ばし、キーホルダーを取った。 軽い。 バッグにつけていた時は、もっと重く感じた。 毎日持ち歩くには苦しかった。
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77話 椅子を二脚

 鍵の受け取り日が決まると、新しい部屋は急に現実になった。 まだ私はそこに住んでいない。 家具もない。 カーテンもかかっていない。 それでも、スマホのカレンダーに入った予定を見るたびに、胸の奥が小さく揺れる。 鍵受け取り。 その五文字だけで、生活がひとつ動く。 会社帰り、私は家具店へ寄った。 大きなものを買うつもりはなかった。 ベッドや冷蔵庫は後で考えなければいけない。 でも今日は、テーブルと椅子を見たかった。 売り場には、二人掛けのダイニングセットや、広いソファ用のローテーブルが並んでいた。 以前の私なら、無意識に二人で使えるものを探していたと思う。 悠斗が座りやすいか。 部屋で邪魔にならないか。 食事を並べやすいか。 そんなことばかり考えていた。 今は違う。 私が使いたいか。 私の部屋に置きたいか。 それを考えようとしている。 けれど、簡単ではなかった。 小さな丸いテーブルの前で足を止める。 明るい木の色。 角がない。 一人で食事をするには十分な広さで、本を広げるにもよさそうだった。 隣には、同じ色の椅子が置かれている。 一脚だけでもいい。 でも、私は二脚ほしいと思っていた。 千尋に言った時、自分でも少し驚いた。 誰かが来るかもしれないから。 そう思えたことが、少し嬉しかった。 私は店員さんに声をかけた。「このテーブル、椅子を二脚で合わせられますか?」「はい。セットでも単品でも大丈夫です」「じゃあ、椅子二脚で」 言った瞬間、胸が温かくなった。 一人暮らしの部屋に、椅子を二脚。 それは、寂しさに負けないためのものではない。 誰かを待ち続けるための
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78話 誰もいない食卓

 真琴が家具店の袋を持って帰ってきた。 大きな荷物ではなかった。 カタログと、配送手続きの控え。 それだけだった。 けれど悠斗には、その紙の方が段ボールより重く見えた。「家具、見てきたの?」「あ、うん」 真琴はバッグを置きながら頷いた。「テーブルと椅子」「買った?」「うん。小さい丸いテーブルと、椅子を二脚」「二脚?」 思わず聞き返していた。 真琴は少しだけ笑う。「うん」「一人暮らしなのに?」 言ってから、悠斗はすぐに後悔した。 責めたつもりはなかった。 けれど、言葉がそう聞こえたかもしれない。「ごめん」 真琴は首を横に振った。「ううん。私も最初、そう思った」「……誰か来る用?」「うん」「そっか」 誰か。 その言葉が胸に引っかかった。 千尋さんかもしれない。 佐伯さんかもしれない。 森下さんかもしれない。 自分ではない誰か。 悠斗は、そこで初めて真琴の新しい部屋に自分の席がないことをはっきり想像した。 当然だった。 別れたのだから。 それでも、椅子が二脚あると聞いた時、一瞬だけ自分もそこに座れるような気がしてしまった。 その甘さに、自分で嫌気がさす。「いいと思う」 悠斗は言った。「人が来た時、座る場所ある方がいいし」「うん」「カーテンも見るの?」「薄い青にしようと思ってる」「前に言ってたやつか」「覚えてたんだ」「覚えてる」 今さら、覚えることだけは増えていく。 その事実が虚しかった。◇◇◇◇ 真琴が部屋着に着
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79話 最後の週末

 引っ越し前、最後の週末が来た。 朝起きると、部屋の隅には段ボールが増えていた。 本。 食器。 服。 小物。 黒い油性ペンで書いた文字が、少しずつ増えていく。 まだ全部ではない。 でも、私のものは少しずつ箱の中へ移っていた。 クローゼットを開ける。 仕事用の服。 休日用の服。 着なくなった服。 どれを持っていくか、どれを処分するかを考える。 昔、悠斗とよく出かけていた頃に着ていたワンピースが奥から出てきた。 淡いベージュ。 膝下の丈。 数年前まではよく着ていた。 最近は、ほとんど袖を通していない。 私はハンガーにかかったそれを見つめた。 嫌な思い出があるわけではない。 むしろ、楽しい日の方が多かったと思う。 でも、新しい部屋に持っていきたいかと聞かれると、少し違った。 私はワンピースをそっと外し、処分する袋に入れた。 過去を捨てる、というほど大げさなことではない。 ただ、今の私が着たい服ではない。 それだけだった。◇◇◇◇ 午前中、千尋からメッセージが来た。『荷造り生きてる?』 私は段ボールの写真を撮って送った。『段ボールに囲まれてる』 すぐに返信が来る。『引っ越しあるある。途中で全部捨てたくなる』 思わず笑う。『今ちょっとその気持ち』『捨てすぎ注意。必要なら呼んで』 画面を見つめる。 必要なら呼んで。 その言葉が、胸にじんわり温かかった。 私は少し迷ってから返信する。『今日は大丈夫。ありがとう』 送信してから、もう一つ打った。『落ち着いたら新しい部屋に来て』『椅子二脚
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80話 最後の夜の前

 引っ越し前日の夜。 部屋の中は、もう半分以上が段ボールで埋まっていた。 本。 食器。 服。 小物。 それぞれの箱に、私の字で中身が書いてある。 最初は部屋の隅に少しだけ置かれていた箱が、今はリビングの壁際にいくつも並んでいる。 私の生活が、この部屋から少しずつ抜け出しているようだった。 クローゼットを開けると、私の服が減った分だけ隙間ができていた。 食器棚も、本棚も、洗面所も。 全部、少しずつ軽くなっている。 その軽さが、寂しかった。 でも同時に、息がしやすくもあった。 私は最後の小物を紙袋に入れ、ガムテープを手に取った。 段ボールの蓋を閉じる。 テープを貼る音が、思ったより大きく響いた。 それを聞いて、キッチンにいた悠斗が振り返る。「それで最後?」「ううん。明日使うものは、まだ」「そっか」 悠斗は頷いて、また手元に視線を戻した。 今夜の夕飯は、それぞれで食べるつもりだった。 けれど悠斗が帰りに惣菜を買ってきて、私にも声をかけた。 無理に一緒に食べようという感じではなかった。 食べるならある。 それくらいの距離。 だから私は、少し迷ってから頷いた。◇◇◇◇ テーブルには、唐揚げとサラダと味噌汁が並んでいた。 唐揚げは、昔よく悠斗が好きだと言っていた味に近かった。 濃いめの味付け。 ご飯が進むもの。 前なら、私は自然にそれを選んでいた。 今日は、悠斗が買ってきた。「味噌汁、作ったの?」「インスタントに豆腐入れただけ」「十分だよ」 私が言うと、悠斗は少しだけ苦笑した。「前なら、そう言われても本気にしてなかったかもな」「どういうこと?」
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