Alle Kapitel von 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜: Kapitel 81 – Kapitel 87

87 Kapitel

81話 最後の朝

 最後の朝は、驚くほど普通に始まった。 目覚ましの音。 カーテンの隙間から入る光。 遠くで聞こえる車の音。 どれもいつもと変わらない。 でも、寝室の空気は少し違っていた。 床には、昨日まとめたバッグが置いてある。 壁際には、まだ運び出していない段ボール。 クローゼットは半分空いている。 私は布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。 今日、この部屋を出る。 そう思うと、胸が重くなった。 悲しい。 寂しい。 怖い。 でも、違う。 やめたいとは思わない。 私はゆっくり起き上がった。 リビングへ出ると、悠斗はもう起きていた。 ソファの毛布は畳まれている。 テーブルの上には、コンビニのサンドイッチと紙パックのカフェオレが二つ置かれていた。「おはよう」「おはよう」「朝、買ってきた」「ありがとう」「食べられそうなら」 押しつける言い方ではなかった。 私は頷いた。「食べる」 テーブルに座る。 段ボールに囲まれた部屋で、二人で朝食を食べる。 引っ越してきた日の昼のことを、また少し思い出した。 始まりの日と、終わりの日。 同じように簡単な食事なのに、全然違う。 でも、どちらも確かに私たちの時間だった。◇◇◇◇ サンドイッチを食べ終えると、私は洗面所へ行った。 顔を洗う。 歯を磨く。 タオルで手を拭く。 いつもの動作を、ひとつずつ意識してしまう。 この洗面所を使うのも、今日で最後。 そう思うと、何でもない鏡や棚まで急に名残惜しくなった。 歯ブラシをコップに戻しかけて、手が止まる。 
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82話 運び出されるもの

 引っ越し業者の人たちは、手際よく段ボールを運び出していった。 本。 食器。 服。 小物。 私が何日もかけて選んだものが、次々と部屋から消えていく。「こちらも運びますね」「お願いします」 返事をするたびに、部屋の中の景色が変わった。 壁際に積まれていた箱がなくなり、床が見える。 クローゼットの前が広くなる。 食器棚の一段が空になる。 ひとつ運ばれるごとに、私がここで暮らしていた痕跡が少しずつ薄くなっていく。 その光景を、私はリビングの端で見ていた。 悠斗は玄関側に立ち、業者さんに段差のことや駐車場所のことを説明していた。 必要なことだけを、落ち着いて話している。 時々こちらを見るけれど、何も言わない。 引き止める言葉も。 大丈夫かと何度も聞くことも。 なかった。 それがありがたくて、少し寂しかった。◇◇◇◇ 最後に、本と小物の箱が運ばれる番になった。 その中には、写真集と海のエッセイと、暮らしの本。 白い器。 グレーのマグカップ。 布袋に入れたクラゲのキーホルダー。「これは、割れ物も入ってるのでお願いします」 私が言うと、業者の人は頷いた。「承知しました」 箱が持ち上げられる。 ほんの一瞬、胸が痛んだ。 あの箱には、この数週間の私が入っている。 好きだと思えたもの。 忘れていたもの。 嬉しかったけれど苦しかったもの。 それらが、この部屋から出ていく。 悠斗もその箱を見ていた。 中身を全部知っているわけではない。 でも、クラゲが入っていることは分かっているはずだった。 箱が玄関の向こうへ消える。 悠斗は何も言わなかった
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83話 新しい部屋

 新しい部屋の鍵は、思っていたより軽かった。 不動産屋で説明を受け、書類に何度も名前を書いて、鍵を受け取った。 金属の小さな束。 それが、これから私の生活を開けるものになる。 マンションの前に着くと、私は一度立ち止まった。 少し古い外壁。 小さなエントランス。 内見の日と同じ景色なのに、今日は違って見えた。 今日からここは、見に来た部屋ではなく、帰ってくる場所になる。 階段を上がり、三階の廊下を歩く。 部屋番号を確認する。 鍵穴に鍵を差し込んだ。 少し固い感触があった。 回すと、かちゃりと音がする。 ドアを開けた瞬間、何もない部屋の匂いがした。 空っぽの床。 白い壁。 窓から入る午後の光。 家具も荷物もない部屋は、内見の時より広く見えた。 私は靴を脱ぎ、ゆっくり中へ入った。「ただいま」 小さく言ってから、自分で少し笑った。 返事はない。 当たり前だ。 でも、その無音は前の部屋の無音とは違っていた。 誰かがいない寂しさではなく、これから何かを置ける静けさだった。 窓辺まで歩く。 カーテンのない窓から、光がまっすぐ床に落ちていた。 薄い色のフローリング。 小さなキッチン。 壁際のコンセント。 ここにテーブルを置く。 その横に椅子を二脚。 本棚は、あの壁の前。 ベッドは奥。 私は頭の中で、少しずつ家具を置いていった。 まだ何もないのに、部屋の中に生活の輪郭が浮かぶ。 朝、ここでカーテンを開ける。 夜、この窓の近くで本を読む。 休日、テーブルにコーヒーを置く。 千尋がケーキを持って来るかもしれない。 佐伯さんが「悪くないじゃ
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84話 薄い青のカーテン

 最初に開けたのは、カーテンの箱だった。 引っ越し業者が帰ったあと、部屋は段ボールだらけで、何から手をつければいいのか分からなかった。 本。 食器。 服。 生活用品。 どれも必要だった。 でも、窓がそのままなのが落ち着かなかった。 夕方が近づいている。 このまま夜になったら、外から部屋の中が見えてしまう。 私は床に座り、カッターで箱を開けた。 中から、薄い青の布が出てくる。 店で見た時と同じ、少しくすんだ静かな色。 手で触れると、さらりとしていた。 森下さんが言った言葉を思い出す。 静かだけど、冷たくない感じ。 私はカーテンレールを見上げた。 踏み台代わりに、まだ空の段ボールを使う。 少し危ないかもしれないと思いながら、慎重にフックをかけた。 一枚目。 二枚目。 全部かけ終えて床に下りると、部屋の空気が少し変わっていた。 窓辺に、薄い青が揺れている。 それだけで、ここが少し私の部屋になった気がした。 私はカーテンを閉めたり、開けたりしてみた。 外の光がやわらかくなる。 白い壁に、淡い色が落ちる。「いい」 思わず声に出た。 誰も返事をしない。 でも、その声は寂しくなかった。 自分で選んだものを、自分で好きだと言えた。 それだけで、胸の奥がほんの少し満たされた。 次に、食器の箱を開けた。 白い器。 グレーのマグカップ。 小さな皿。 緩衝材をほどきながら、一つずつキッチンの棚に置いていく。 棚はまだがらんとしていた。 だからこそ、私が選んだ器の一つ一つがよく見えた。 以前の食器棚は、二人分の皿でいっぱいだった。 大きな皿。
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85話 最初の夜

 新しい部屋の夜は、知らない音がした。 上の階の足音。 遠くの道路を走る車。 廊下を誰かが歩く気配。 前の部屋でも、同じように生活音はあったはずなのに、ここでは全部が少し違って聞こえた。 私は床に敷いた布団の上に座り、スマホを見ていた。 千尋からメッセージが届いている。『無事?』 私は部屋の写真を一枚撮った。 段ボール。 薄い青のカーテン。 床に置いた白い器。 まだ何も整っていない部屋。『無事。段ボール王国』 すぐに返事が来た。『建国おめでとう』 思わず笑った。『初代女王として頑張る』『まず寝床を確保してください陛下』 笑いながら、目の奥が少し熱くなった。 こういう何でもないやりとりが、今はありがたい。 大丈夫かと深刻に聞かれるより、段ボール王国と笑ってもらえる方が、心が少し軽くなる。 佐伯さんからもメッセージが来ていた。『引っ越し、お疲れさま。今日は片づけより寝ること優先』 短い文章。 でも、佐伯さんらしかった。 私は返信する。『ありがとうございます。今日は最低限にします』 送信すると、すぐに既読がついた。『それでよし』 その四文字を見て、肩の力が抜けた。◇◇◇◇ 森下さんからは、夕方にメッセージが来ていた。『カーテン、つきましたか?』 私は少し迷って、窓辺の写真を送った。 薄い青のカーテン。 そのそばに置いたクラゲ。 森下さんからの返信は少し遅れて届いた。『すごく素敵です。静かだけど、冷たくないです』 同じ言葉。 それが嬉しかった。『ありがとう。気に入ってる』 そう打って、少し手が止まる。
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86話 ひとりの朝

 新しい部屋で迎えた朝は、少し眩しかった。 薄い青のカーテン越しに、やわらかい光が入っている。 まだ見慣れない天井。 段ボールの積まれた壁際。 床に敷いた布団。 目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか少しだけ分からなかった。 それから、思い出す。 引っ越したんだ。 私はもう、あの部屋にはいない。 悠斗のいる部屋には、帰らない。 胸の奥が、ゆっくり痛んだ。 でも、その痛みは昨日より少しだけ輪郭がはっきりしていた。 寂しい。 そう思う。 けれど、戻りたいとは違う。 私は布団の中でしばらくカーテンを見つめた。 薄い青。 自分で選んだ色。 森下さんが、静かだけど冷たくないと言ってくれた色。 その色が朝の光を受けて、部屋全体を淡く染めている。 まだ整っていない部屋なのに、その光だけで少し安心できた。 私はゆっくり体を起こした。 床が冷たい。 けれど、嫌ではなかった。 最初にしたのは、窓を開けることだった。 カーテンを寄せ、鍵を外して、少しだけ窓を開ける。 朝の空気が入ってきた。 前の部屋とは違う匂いがする。 近くの道路。 どこかの家の洗濯物。 知らない町の朝。 向かいの建物の窓に、光が反射している。 遠くで自転車のベルが鳴った。 私は窓辺に置いたクラゲのキーホルダーを見た。 昨日の夜、そこに置いたままだ。 薄い青のカーテンのそばで、淡い水色が朝の光を受けている。 バッグにつけていた時より、ずっと静かに見えた。 ここでなら、見ていられる。 そう思った。 嬉しかった思い出として。 苦しかった証拠としてではなく。 全部を無理に分けなく
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87話 知らない町の昼

 午前中に冷蔵庫と洗濯機が届いた。 業者の人が手早く設置してくれて、動作確認をして、帰っていく。 玄関のドアが閉まると、部屋はまた静かになった。 でも、昨日とは少し違う。 キッチンの横に冷蔵庫がある。 洗面所の隅に洗濯機がある。 それだけで、この部屋が少し生活らしくなった。 私は冷蔵庫の扉を開けた。 中は空っぽだった。 当たり前なのに、少し笑ってしまう。 何も入っていない冷蔵庫。 これから何を入れるか、私が決めていい。 牛乳。 ヨーグルト。 卵。 豆腐。 きゅうり。 白身魚。 かぼちゃ。 頭に浮かぶものが、前より少し自分寄りになっている気がした。 悠斗が食べるかどうかではなく。 私が食べたいかどうか。 それを考えられるようになったことが、まだ少し不思議だった。 スマホを見る。 千尋からのメッセージをもう一度開いた。『昼に何か美味しいものを食べること』 私は部屋を見回した。 段ボールはまだたくさんある。 やることも多い。 でも、昼は来ている。 お腹も空いている。 私はバッグを持ち、鍵を手に取った。 新しい部屋の鍵。 まだ手に馴染まないそれを握って、玄関を出た。◇◇◇◇ 外に出ると、知らない町の匂いがした。 駅までの道は、内見の日にも歩いたはずなのに、今日は少し違って見える。 角にある小さな花屋。 古い喫茶店。 自転車が並ぶ八百屋。 昼前の通りには、急いでいない人たちがいた。 犬を連れた年配の女性。 買い物袋を持つ人。 店先に水を撒く店員さん。 ここで暮らすのだと思うと、見
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