《「君は俺の花だ」妹に婚約者を奪われた私を、冷徹華道家が溺愛して離してくれません》全部章節:第 81 章 - 第 90 章

107 章節

第81話 帰る場所

 神宮寺家へ戻る車の中は、静かな空気に包まれていた。 窓の外を流れる夜景を見ながら、澪は何度も胸元のお守りへ触れる。 隣では綾人が静かにハンドルを握っている。 何か言わなければと思うのに、言葉が見つからない。 やがて車が屋敷の前へ止まった。 神宮寺家の大きな門扉が開いた瞬間だった。「澪さま!」 ひまわりが勢いよく駆け寄ってきた。「よかったぁ……!」 泣きそうな顔で両手を握られ、澪は目を丸くする。「ひまわりさん……」「本当に心配したんですよ!」 周りを見ると、佐伯や芹香、桜……それから、他の使用人たちも眉を下げて澪を見ていた。「ご、ごめんなさい」 澪が深く頭を下げる。すると、佐伯が穏やかに一歩前へ出た。「澪さま」 名前を優しく呼ばれ、澪はゆっくり顔を上げる。 佐伯は、「お帰りなさいませ」 と、いつも澪を出迎えてくれるときのように微笑んだ。 責める言葉はない。 どうして行ったのかも聞かない。 ただ、帰ってきたことを迎えてくれる。 その温かさに、澪の胸がいっぱいになる。「……ただいま」 震える声で答えると、芹香も桜も嬉しそうに笑った。「お帰りなさいませ」 一斉に使用人たちの揃った声が響き渡る。「本当に安心いたしました」 佐伯のその言葉を聞いた瞬間、澪はようやく、自分がこの場所にもう一度帰ってきたのだと実感した。     ◇ 使用人たちが荷物を預かり、部屋へ戻ろうとしたときだった。「澪」 綾人に静かに呼び止められた。「……はい」 二人だけになった廊下。 澪は少し俯いた。「勝手なことをして、ごめんなさい」 綾人はしばらく黙って澪を見つめる。 静かな沈黙。 やがて、小さく口を開いた。「別に怒っていない」 短い一言。「ただ、心配した」 責めるような口調ではない。 けれど、その言葉は胸へ真っ直ぐ届いた。「……ごめんなさい」 澪の瞳に涙が滲む。 今度は、さっきよりもずっと小さな声だった。 綾人はそれ以上何も言わない。 ただ澪の頭へ、そっと手を置いた。 昔と変わらない、大きくて温かな手。そして胸元へと抱き寄せられる。 甘い花の香り。 澪は安心したように目を閉じた。     ◇ その頃、白石家では――。「ねぇ、美羽」 母は食後のお茶を飲みながら機嫌よく口を開いた。 せっか
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第82話 この人はだれ?

 朝食を終えたあと、澪は使用人たちの前へ立った。昨夜、綾人に迎えに来てもらったこと、そして佐伯たちが澪の帰りを喜んでくれたことを思い出すだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。「昨日は、ご心配をお掛けしてしまって、本当にごめんなさい」 深く頭を下げる。 すると、ひまわりが慌てて首を横へ振った。「もう謝らないでください! 澪さまが無事に帰ってきてくださった、それだけで十分なんです!」「ひまわりさん……」 澪は目を丸くする。佐伯も穏やかに微笑んだ。「お帰りくださったことが、何よりでございました」 芹香も桜も静かに頷く。「皆で安心いたしました」「今日はいつも通り、一緒に過ごしましょう」 その言葉に、澪は思わず目頭が熱くなった。「……ありがとうございます」 神宮寺家では、失敗しても、迷っても、帰ってくれば、笑って迎えてくれる。 その温かさが胸へ染み渡っていった。     ◇ 今日は日曜日だ。花屋の仕事は休みで、アトリエの手伝いも休んで良いと今朝、綾人に言われた。 自室ではなく、神宮寺家の居間でゆっくりとくつろぐ。綾人もソファに座り、資料を読み込んでいるようだった。そこに、相良が数冊の雑誌とタブレットを抱えて入ってきた。「綾人さま」 綾人が静かに顔を上げる。「華道展の記事が掲載されました」 そう言って、雑誌をテーブルへと置いた。 表紙には、大きく華道展の文字。 綾人の作品も写真付きで掲載されている。「今年も綾人さまの作品は圧巻ですね」 ひまわりが嬉しそうにページをめくる。「うわぁ……写真でも綺麗ですね」 澪も思わず覗き込んだ。 誌面いっぱいに広がる綾人の作品。 写真越しでも、その静かな存在感は変わらない。 相良がページをもう一枚めくる。「それだけではございません」 澪は首を傾げた。「初心者部門の記事も掲載されています」 そこには、小さな写真とともに一つの作品が紹介されていた。 白い花。 柔らかな緑。 そして――『白石 澪』「えっ……!」 澪は思わず声を上げた。 記事には、『来場者アンケートで特に印象に残った作品の一つ』『静けさの中に温もりを感じる作品として注目を集めた』 そう書かれていた。「わ、私の作品が……?」 信じられない。 自分の名前が雑誌に載っている。 しかも、褒めてもらえ
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第83話 すれ違う心

 月曜日の朝。 拓真は通勤電車の中で、ぼんやりとスマートフォンを眺めていた。 仕事の連絡を確認しようとニュースアプリを開く。 すると、一つの記事が目に留まった。『華道展、大盛況。今年も神宮寺綾人が圧巻の作品を披露』「神宮寺……」 聞き覚えのある名前だ。 今、澪と一緒にいる男――。 あの日。自分が美羽と密会していた日、澪を連れ去った男。 澪が務める花屋まで迎えに来ている男。 そして――この華道展で、澪が美羽から庇った男。 何気なく記事を開いた、その瞬間。 拓真の指が止まる。 そこに映っていたのは、一人の女性。 白い花を見つめる、その横顔。「澪……」 思わず小さく呟いた。 写真には、作品を見つめる澪と、その少し後ろで静かに見守る神宮寺綾人の姿が写っている。 記事にはこう書かれていた。『神宮寺綾人氏が、一人の女性出展者を終始気に掛けていた姿が印象的だった』『あの女性は弟子なのか。それとも特別な存在なのか』 拓真は無意識に画面をスクロールする。『恋人?』『神宮寺先生、あんな優しい顔するんだ』『初心者部門の女性らしい』 並ぶコメントを見つめるうちに、胸の奥がざわついていく。「……恋人」 スマートフォンを握る手に、ギリギリと力が入った。     ◇「七瀬? どうした?」 会社に着いても、拓真は今朝の記事が気になって仕事に集中できなかった。 資料を一枚取り違え、珍しく上司に指摘される。「す、すみません」「珍しいな。お前がミスするなんて」 苦笑する上司に頭を下げながらも、拓真の頭の中には、あの写真が浮かび続けていた。 昼休み、一人になった拓真は、再びスマートフォンを取り出した。 華道展の記事を読み返していると、関連記事が表示される。『来場者の心を掴んだ初心者部門の作品』 何気なく開いた。 そこには見覚えのある作品が掲載されていた。 白い花。 優しい緑。 そして。『白石 澪』「……あのときの、生け花だ」 記事には、こう書かれていた。『静けさの中に温もりを感じる作品』『安心できる場所を思い出させる一作として、多くの来場者の心を掴んだ』 安心できる場所。 その言葉を見た瞬間。 拓真の脳裏に、一つの光景が浮かぶ。 仕事から帰ると、食卓には温かい料理が並んでいた。 玄関には、季節の花。
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第84話 君にもう一度会いたい

 仕事を終えた拓真は、一人駅前を歩いていた。 夕暮れに染まる街並み。 ふと立ち止まり、視線を上げる。 その先に見えたのは、見慣れた看板だった。『フラワーショップ アンジェリケ』「……」 澪が働いている花屋。 昔は、迎えに来れば当たり前のように澪が店の奥から笑顔で出てきてくれた。 けれど今日は、足が重い。 それでも――。「……会いたい」 その一言だけを胸に、拓真は店の扉を押した。 軽やかなベルの音が響く。「いらっしゃいませ」 店長が笑顔で迎えた。しかし、拓真の顔を見た瞬間、その笑顔がわずかに硬くなる。「……」「突然すみません」 拓真は頭を下げた。「澪に……白石さんに会いたいんです」 一瞬、店内が静まり返る。「以前にもお伝えしましたが……」 近くにいた別のスタッフが一歩拓真に踏み込もうとしたのを、店長がやんわりと手で制した。店長は穏やかな表情で拓真を見る。「申し訳ありません。本日、白石は休みをいただいております」「休み……」 拓真は店内を見渡す。 たしかに澪の姿は、どこにもない。「……明日は?」「勤務については、お答えできません」 やんわりと、けれどはっきりとした拒絶。 拓真は何か言おうと口を開きかける。 だが、その前に店長が静かに続けた。「白石には、穏やかに過ごしてほしいと思っています」「……」 澪から、どこまで話を聞いているのだろうか。「申し訳ありませんが、お引き取りを」 それ以上の言葉はなかった。 責める口調でもない。 怒っているわけでもない。 ただ、大切なスタッフを守ろうとする意思だけが伝わってくる。 拓真はゆっくりと俯いた。「……すみませんでした」 それだけ言い残し、店を出ようとした、そのとき。 入口のベルが再び鳴る。「こんにちはぁ」 杖をついた年配の女性が、にこにこと店へ入ってきた。「あら、今日は澪ちゃんお休み?」 店長が笑顔で頷き返した。「ええ。本日はお休みなんです」「そうなのねぇ」 女性は少し残念そうに笑った。「この前、澪ちゃんが選んでくれた花ねぇ、孫のお誕生日に持って行ったら、とっても喜んでくれたの。色によって花言葉が違うっていうことまで教えてくれて、本当に嬉しかったわ」 店長も優しく微笑む。「白石も喜びます」「今度会ったら伝えておいてね」「
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第85話 休日デート

 日曜日の朝。 神宮寺家の庭には、柔らかな陽射しが降り注いでいた。 澪は窓を開けると、心地よい風を胸いっぱいに吸い込む。 穏やかな朝。 こんな休日を迎えられる日が来るなんて、少し前まで想像もできなかった。 部屋を出ると、ちょうど綾人も廊下を歩いてくる。「おはようございます」「おはよう」 それだけなのに、自然と笑みがこぼれる。     ◇ 朝食を終え、食後のお茶を飲んでいると、綾人が静かに口を開いた。「出掛けるぞ」「え?」 澪は湯呑みを持ったまま瞬きをする。「アトリエか現場ですか?」「違う」 澪は首を傾げる。「仕事じゃない」 綾人は淡々と言った。「買い物だ」「買い物?」「花器を見に行く」 澪は「なるほど」と頷いた。華道家なのだから、花器を見るのも仕事の一つなのだろう。 それに同行させてもらうのはとても嬉しい。「分かりました!」 澪は元気よく立ち上がった。     ◇ 一時間後、二人は街へ出ていた。 休日ということもあり、人通りは多い。 綾人の隣を歩く澪は、周囲を見回しながら目を輝かせる。「休日の街にこうやって出るのは、なんだか久しぶりです」「……たしかに、休日らしい休日ではなかったな」「確かにそれもそうですけど、そういう意味じゃなくて。実家での話で……」 澪は小さく笑う。 実家にいた頃は、休日ほど忙しかった。 掃除。溜まっている洗濯。料理と買い出し。 休みの日にまとめてやらなければ、平日が詰まってしまう。だから、休日は家の家事で気付けば一日が終わっていた。 綾人はそれを聞いても、何も言わなかった。ただ、歩幅だけは、澪に合わせてゆっくりだった。     ◇ 訪れたのは、老舗の花器専門店だった。 店内には大小さまざまな花器が並び、落ち着いた空気が流れている。「わぁ……」 澪は思わず声を漏らした。「こんなにたくさん……」 ガラス。 陶器。 竹。 漆。 一つひとつ表情が違う。 綾人は静かに棚を眺めながら、時折手に取って質感を確かめている。 その横顔は真剣そのものだった。(やっぱり、綾人くんは花が好きなんだな) そんな姿を見ているだけで、澪は少し嬉しくなる。 ふと、一つの小さな花器が目に入った。 ころんと丸い、淡い水色の花器。「可愛い……」 思わず手を伸ばしかける。
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第86話 待つ時間も悪くない

 週明けの月曜日。 アンジェリケには朝からたくさんの花が運び込まれ、店内はいつも以上に慌ただしかった。「澪ちゃん、このバラお願い!」「はい!」「ラッピング追加入りました!」「すぐ行きます!」 澪は笑顔で返事をしながら店内を駆け回る。 久しぶりの通常勤務。 仕事は忙しいけれど、不思議と心は軽かった。 そんな午後、一件の電話が入る。「ホテル『グランセレーネ』様から追加注文です!」 店長が受話器を置きながら顔を上げる。「今夜のパーティーで急遽テーブル装花を増やしたいそうです」 スタッフたちが顔を見合わせた。「今日ですか?」「今日です」 店長は苦笑する。「みんな、少しだけ残業お願いできるかな」「もちろんです!」 澪は真っ先に頷いた。     ◇ 午後七時の神宮寺家。 広いダイニングには、美味しそうな料理が並んでいた。 佐伯が静かに声を掛ける。「綾人さま、お食事の準備が整いました」 綾人は読んでいた雑誌から目を上げ、壁時計へ視線を向けた。「……澪は?」いつもなら帰ってきている時間だ。けれど今日はまだ、その姿を見ていない。「まだ戻られておりません」「そうか」 それだけ言って、再び雑誌へと目を落とす。 その数分後、澪から綾人のスマートフォンに『残業で遅くなる』というメッセージが届いた。 午後七時三十分。「お先に召し上がられますか?」 佐伯がもう一度尋ねる。「いや」 軽く首を横に振った綾人に、佐伯はそれ以上何も言わず、一礼して下がる。 午後八時。 料理を温め直していたひまわりが、小さく佐伯へ尋ねた。「冷めてしまいますね……」「ええ」「綾人さま、お腹空いてないのかなぁ」 佐伯は穏やかに微笑む。「空いていらっしゃいますよ」「じゃあ、どうして?」「待っていらっしゃるのでしょう」 ひまわりは目を丸くした。「澪さまを?」 佐伯は静かに頷くだけだった。 そして、午後八時二十分。 玄関の扉が勢いよく開く。「た、ただいま帰りました!」 少し息を切らせながら、澪が頭を下げた。「遅くなってしまってすみません」 予定よりずっと遅くなってしまった。 急いで靴を脱ぎ、部屋の中へと上がる。「本当にごめんなさい、せっかく夕飯を作ってくださっていたのに──」 言葉が止まる。ダイニングには、綾人が静か
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第87話 手紙

 仕事を終えた拓真は、一人、自宅のダイニングテーブルに向かっていた。 関係を持ってから部屋に入り浸っていた美羽もいなくて、部屋は静かだった。 今は、冷たい空気だけが空間を満たしている。 拓真は小さく息を吐き、近所の雑貨屋で買った一枚の便箋を取り出した。 何度もペンを走らせる。けれど、そのたびに手が止まる。『ごめん』 その一言だけでは足りない。『もう一度やり直したい』 これも、違う。それは自分の願いだ。 澪に押し付ける言葉じゃない。 何枚目かの便箋を丸め、ゴミ箱へ投げ入れる。「……何を書けばいいんだ」 苦笑いが漏れた。 今になってようやく気付く。 自分はずっと、澪が何を望んでいるのかを考えずに生きてきた。 だから今も、どんな言葉を掛ければいいのか分からない。 しばらく黙って考えたあと、拓真は新しい便箋を広げた。 そして、ゆっくりと書き始める。 長い文章ではなかった。 ただ、自分の気持ちだけを、飾らずに綴る。     ◇ 翌日の仕事帰り。 拓真は再びアンジェリケを訪れていた。 店長が姿を見つけ、静かに近付いてくる。「いらっしゃいませ」「今日は……会いに来たんじゃありません」 拓真はそう言って、小さな封筒を差し出した。「これを、白石さんに」 店長は封筒を受け取る。 差出人には、『七瀬拓真』の名前。「白石に渡しますが……受け取るかどうかは、本人の判断にしても構いませんか?」 拓真は真っ直ぐ店長を見る。「もし、受け取りたくないと言うなら、それで構いません」 店長はそんな拓真を見て、少しだけ目を細めた。拓真は逸らすように、視線を下へと向ける。 以前なら、「直接会わせてほしい」と食い下がっていたかもしれない。 けれど今日は違う。 澪の意思を尊重したい。 その中で、また自分に会うと決めてくれたら――。「……分かりました」 店長は静かに頷く。「預かっておきますね」「ありがとうございます」 拓真は深く頭を下げた。 そして振り返ることもなく、静かに店を後にした。     ◇ その夜、神宮寺家では、夕食を終え、澪はリビングで温かい紅茶を飲んでいた。 そこへ、佐伯が一通の封筒を持ってくる。「澪さま」「はい?」「本日、アンジェリケへ届いたものを、店長さんが持ってきてくださいました」「私に……?
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第88話 あなたと一歩、進みたいから

 佐伯が部屋を出たあとも、リビングには静かな時間が流れていた。 澪は膝の上に置いた封筒を見つめる。 白い封筒。 そこに並ぶ見慣れた文字。『七瀬拓真』 拓真から手紙なんて、交際して一年記念日のときにもらった以来だ。 あのときは、嬉しくて胸が高鳴った。 けれど今、澪の胸の中にあるのは戸惑いだった。「……」 開こうと思えば、すぐに開けられる。 けれど指先は動かない。 綾人は何も言わず、ティーカップに口をつけていた。 急かすこともない。 覗き込むこともない。 ただ、澪が言葉を発するのを静かに待っている。 やがて澪は、小さく息を吸った。「……綾人くん」「……」 綾人がそっと澪の目を見る。「読んでも……いいでしょうか」 その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。 どうして聞いたのだろう。 許可をもらいたかった? 安心したかった? それとも――……。 綾人は澪をただじっと見つめる。 その瞳は、いつもと同じように、冷静で、そして穏やかだった。「俺に聞くことじゃない」「……」「決めるのは、お前だ」 短い一言。 けれど、その言葉は澪の胸へ静かに落ちていく。 決めるのは、お前。 実家では、決められなかった。 母が決めた。 美羽が決めた。 拓真とのことだって、いつの間にか『我慢する』ことが当たり前になっていた。 自分で選ぶことなんて、ほとんどなかった。 だけど今は違う。 読むか、読まないか。
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第89話 信じてる

 リビングには静かな空気が流れていた。 澪の言葉は、まだ部屋の中に残っているようだった。「綾人くん、私……。拓真に会ってきます。会って、ちゃんと、終わらせてきます」 便箋を握る手は小さく震えている。 それでも、その瞳は真っ直ぐだった。 もう誰かに流されている澪ではない。 自分で決めて、自分の言葉で伝えている。 綾人はそんな澪を静かに見つめていた。「……分かった」 返ってきた言葉は、それだけだった。 澪は少しだけ目を見開く。「反対……しないんですか」 思わず零れた声。綾人はティーカップをテーブルへ戻し、小さく息を吐いた。「反対する理由がない」「でも……」「お前が決めたことだ」 その声には、責める色も、不安を隠す色もない。「逃げたままでは終われないんだろう」 澪はその言葉に、綾人を真っ直ぐ見て小さく頷く。「……はい」「だったら行ってこい」 その一言が、澪の胸を温かく満たしていく。 綾人はゆっくりと澪を見る。「俺は、お前を信じている」 その一言に、澪は息を呑んだ。 信じる。その言葉を、これまでだって家族から何度も言われてきた。 けれど、その多くは条件付きだった。 期待を裏切らないこと。 迷惑をかけないこと。 失敗しないこと。 そうして初めて、信じてもらえるものだと思っていた。 だけど綾人は違う。 何かを求めるわけでもなく、何かを確認するわけでもなく。 ただ、信じていると言ってくれた。そこに条件なんて何一つなかった。 この言葉がこんなにも温かいものだったなんて、知らなかった。「ありがとうございます……」 自然と笑みがこぼれる。 その笑顔を見た綾人も、ほんの少しだけ口元を緩めた。「帰ってきたら、話を聞かせてくれ」「……はい」「それで十分だ」 澪は何度も頷いた。胸の中にあった不安が、少しずつほどけていく。 もう一人で向き合うわけじゃない。 自分には、帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。 だから、前を向いて、進んでいける。     ◇ 翌日の昼休み。 アンジェリケの休憩室で、澪はスマートフォンを見つめていた。 画面には、拓真とのトーク画面が表示されている。  数ヵ月前から途切れてしまっているメッセージが切ない。 澪は小さく深呼吸をすると、ゆっくりと新しいメッセージを打ち
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第90話 恋の終わり

 約束の日。 仕事を終えた澪は、駅前のカフェへ向かっていた。 夕暮れの街は、仕事帰りの人々で賑わっている。 その中を歩きながら、胸元のお守りへそっと触れた。 ――大丈夫。 そう自分に言い聞かせるように、小さく息を吐く。     ◇ 店内へ入ると、拓真はすでに席についていた。 澪の姿を見つけると、慌てて立ち上がる。「……来てくれて、ありがとう」「こんばんは」 澪は静かに頭を下げ、向かいへ腰を下ろした。 注文を済ませても、しばらく沈黙が続く。 何から話せばいいのか、互いに分からなかった。 やがて拓真がゆっくり口を開く。「……手紙、読んでくれたんだな」「うん」「ありがとう」 それだけ言うと、拓真は一度視線を落とした。 そして、小さく拳を握る。「俺……謝りたかった」 澪は黙って続きを待つ。「あの頃の俺は、本当に最低だった」 苦笑するように笑う。「お前がいて当たり前だと思ってた。毎日『おかえり』って迎えてくれることも。ご飯を作ってくれることも。隣で笑ってくれることも。全部」 拓真はゆっくり首を振った。「しかも、俺は、変化がない毎日に甘えて『つまらない』なんて思うようになってた。だから……美羽ちゃんとあんなこと……」 拓真は苦しそうに目を閉じて、深く頭を下げる。「……ごめんなんて言葉じゃ足りないって分かってる。でも、本当に申し訳ない……」 その一言には、言い訳はなかった。 澪は静かに聞いていた。 怒りも、憎しみも湧いてこない。 ただ、過去の出来事として受け止められている自分に気付く。 少しだけ、時間が流れた。 澪は穏やかな声で口を開く。「……謝ってくれて、ありがとう」 澪の言葉に拓真が顔を上げる。「ずっと苦しかった。拓真のことも、美羽のことも大好きだったし……。私が悪かったのかなってずっと考えてた」 言葉は静かだった。 けれど、一つひとつが自分の心から出てきたものだった。「毎日考えて、それでも答えは見つからなかった」 拓真は何も言えなかった。 澪がこんな風に自分の気持ちを口にするのは、初めてだった。「でもね、今なら分かるの」 澪は小さく笑った。その笑顔は、どこか晴れやかだった。「私が悪かったんじゃない」「……っ!」「拓真も、私も、きっと、あの頃は幸せになる方法を知らなかっただけ」 
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