Todos los capítulos de 「君は俺の花だ」妹に婚約者を奪われた私を、冷徹華道家が溺愛して離してくれません: Capítulo 71 - Capítulo 80

107 Capítulos

第71話 あなたを探していた

「美羽ちゃん……帰ろう」「……っ」 拓真が美羽の手を会場の外へと引いていく。 美羽は何か言おうとしていたけれど、澪を軽く睨むと拓真についていった。 美羽と拓真が去ったあとも、展示会場には静かなざわめきが流れていた。 けれど澪だけは、その音が遠く聞こえていた。 胸の鼓動が、まだ落ち着かない。「……」 どうして私は、あんなことをしたんだろう。 考えても答えは出ない。 美羽が綾人へ近付いたその瞬間、身体が勝手に動いていた。嫌だと思った。美羽が、綾人さんに触れることが。でも、どうして……?「……綾人さん」 澪は少し申し訳なさそうに振り返った。「さっきは、ごめんなさい」 綾人は静かに澪を見る。「急に間に入ったりして……」 澪は困ったように俯いた。「自分でも、どうしてあんなことをしたのか分からなくて……ご迷惑お掛けしました」 そして小さく続ける。「妹に、ただ紹介してって言われただけなのに……」 しばらく沈黙が流れた。 やがて綾人は、小さく首を横へ振る。「謝る必要はない」「でも……」「俺は助かった」 澪は思わず顔を上げる。「それより、まだ教えていなかったな」 綾人は静かに視線を特別展示のほうへ向けた。「……え?」「俺の作品のテーマだ」 澪は小さく目を瞬かせた。 そういえば、何日も気になっていた。 それなのに、美羽たちのことで、すっかり頭から抜けてしまっていた。「来い」 綾人は短くそう言うと、歩き出した。 澪も慌ててその後を追う。     ◇ 特別展示スペース。 綾人の作品の前には、今日も多くの人が立ち止まっていた。「本当に綺麗ね」「静かな作品なのに、惹き込まれるわ」 そんな、感嘆の溜息が混ざる声が聞こえてくる。 澪も改めて作品を見上げた。 白い花。 柔らかな緑。 優しく包み込むような空間。 見るたびに胸が温かくなる。「綾人さん。この作品のテーマは……?」 澪は作品から目を離さないまま尋ねた。「ああ」 綾人も自分の作品を静かに見つめる。そして、少しだけ目を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。「この作品のテーマは――……」 瞬間。喧騒が、ふっと鳴りやむ。「『澪』」 綾人が澪のことを真っ直ぐに見る。「わ、私……?」「ああ」 あまりにも迷いのない返事だった。 澪は言葉を失う
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第72話 気持ちが動く夜

 華道展を後にした帰り道。 車の中には、静かな時間が流れていた。 窓の外では夕暮れの街並みがゆっくりと流れていく。 けれど澪は、その景色をほとんど見ていなかった。 頭の中に浮かぶのは、今日、綾人から聞いた言葉ばかりだった。――俺は、思い出してほしくて、お前を探していたわけじゃない。――もう一度笑って生きていてくれれば、それでよかった。 胸の奥が、じんわりと温かい。 それなのに、少し苦しい。 そんな不思議な気持ちだった。「……疲れたか」 静かな声に、澪ははっと我に返る。 隣に座る綾人が、穏やかにこちらを見ていた。「あ……少しだけ」 澪は少し照れたように笑う。」「そうか」 それ以上は何も聞かない。 綾人は静かに前へ視線を戻した。 その沈黙が、今日は不思議といつも以上に心地良い。 心臓が、いつもよりもトクトクとうるさいのに。 以前の自分なら、何か話さなきゃと焦っていた。 でも今は違う。 言葉がなくても落ち着く。 そのことに、澪は自分でも気付かないまま、小さく目を細めた。     ◇「お帰りなさいませ!」 神宮寺家へ戻ると、いつものように使用人たちが出迎えてくれた。「華道展、お疲れさまでした」 芹香と桜が頭を下げた。「澪さま! どうでしたか?」 ひまわりが目を輝かせながら駆け寄ってくる。 澪はそれにふわりと笑った。「たくさんの人が見てくださいました」「やっぱり! 絶対そうだと思ってました!」 ひまわりは自分のことのように嬉しそうに拍手をする。「ありがとうございます」 そう笑って答える澪だったが、その笑顔を見た佐伯は少しだけ首を傾げ、一歩近付いた。「澪さま」「はい?」「何か……ございましたか?」「えっと……」「ああ……いえ」 佐伯は優しく微笑んで、軽く首を横に振る。「嬉しそうでもあり、少しだけ考え込んでいらっしゃるようにも見えましたので」 その言葉に、澪は思わず目を瞬かせた。「そんな顔、していましたか?」「ええ」 佐伯は穏やかに頷く。 澪は、そっと自分の頬に手を当てた。ほんの少し、いつもより熱をもっているような気がした。     ◇ その夜、自室へ戻った澪は、ベッドへ腰を下ろした。 部屋は静かだった。胸元のお守りを、そっと握る。「……綾人さんも、持っている……ってこと……?
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第73話 悪魔のささやき

 華道展から戻った拓真のマンションの部屋は、重たい静寂に包まれていた。 玄関のドアが閉まる音だけが、やけに大きく響く。 美羽はヒールを脱ぎ捨てるように玄関へ置くと、そのままリビングへ向かい、ソファへ腰を下ろした。 バッグを無造作に置く。テレビもつけない。 部屋には、時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。     ◇「……美羽ちゃん、さっきの、どういうつもり?」 しばらく沈黙が続いたあと、拓真が低い声で口を開いた。 美羽はスマホの画面から目を離さず首を傾げる。「何が?」「華道展で言ったことだよ」 拓真は美羽を真っ直ぐ見た。「俺を澪に返すって……あれは何?」 美羽はようやく顔を上げた。「ああ」 まるで大したことではないように笑う。「だって、本当のことでしょ?」「本当って……」「拓真さん」 美羽はまるで、幼い子を咎めるように小さく肩をすくめた。「今日、お姉ちゃん見た瞬間から、お姉ちゃんしか見てなかったじゃん」 その一言に、拓真は言葉を失った。 反論しようと口を開く。「違う」 けれど、その声には自分でも驚くほど力がなかった。 美羽はそんな拓真を見て、小さく笑う。「違わないよ」「……」「ずっと忘れられないんでしょ? お姉ちゃんのこと」 静かに、けれどどこか甘い響きがある。 拓真は拳を握った。 否定しようとした。 けれど、華道展で見た澪の姿が脳裏へ浮かぶ。 来場者へ笑顔で頭を下げる姿。 作品を嬉しそうに見つめる姿。 そして、自分ではなく、綾人の隣で穏やかに笑う姿。 胸が痛んだ。「……忘れようとはした。澪のことを傷つけたし、今は美羽ちゃんとの関係もあるし」 拓真はぽつりと呟く。「でも今日、分かった」 ゆっくり目を閉じる。「俺は、まだ澪が好きなんだ」 その言葉は、誰へ言い訳するでもない、本音だった。 部屋の中に静寂が落ちる。 美羽はソファから立ち上がると、窓際まで歩いた。 街の灯りが少しずつ増え始めている。「じゃあさ……」 背中を向けたまま、美羽は言った。「取り返そうよ」 拓真は驚いて顔を上げた。 そこには、まだ澪のことが好きだって言ったことを、決して責めない笑みがあった。「……何を」 美羽はゆっくりと口を開く。「お姉ちゃんを」 その笑顔は、どこまでも無邪気だった。「綾人
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第74話 蘇る記憶

 華道展から数日後。 神宮寺家の朝は、いつもと変わらない。 明るいひまわりの挨拶に出迎えられ、芹香がお茶を淹れてくれる。食欲をそそる美味しそうな匂いのする朝食を桜や佐伯が用意してくれて、それを綾人と一緒に食べる。 穏やかで、賑やかな朝。 朝食を終えた澪が紅茶を口に運んでいると、綾人が静かに席を立った。 そして澪のほうを見る。「澪、今日は予定を変更する」 本当はアトリエに向かう予定だった。綾人の言葉に澪は目を瞬かせた。「何か、お仕事が入ったんですか?」「いや」 綾人は首を横へ振り、続けた。「一緒に来てほしい場所がある」 それだけ言うと、綾人はそれ以上何かを説明することなく、部屋を出て行った。 澪は少し不思議そうな顔で佐伯たちを見る。彼女たちも分からないようで、澪と同じように首を傾げた。     ◇ 綾人が運転する車は都心を離れ、静かな住宅街を抜けていく。 窓の外には、少しずつ緑が増えていった。「どちらへ向かうんですか?」 助手席から尋ねると、綾人はハンドルを握ったまま答える。「もう少しだ」 そうして、それから十分ほど車を走らせてから止まったのは、小さな花屋の前だった。「お花屋さん……?」「ああ」 店内には季節の花々が並び、優しい香りが漂っていた。「好きな花を選べ」「え?」「供える花だが、澪の好きな花でいい」 その言葉で、澪は何となく察した。『供える』ということは、誰かのお墓参りなのだろう。 澪は店内をゆっくり歩きながら、一輪一輪へ目を向ける。 自然と足が止まったのは、白い花の前だった。 綺麗に咲き誇る、白百合。 澪が今、見ていて一番心がときめく花だった。 そして何より、この花を選ぶべきだと心の奥底で誰かに言われているような気持ちになった。「……これがいいです」 澪がそっと一束、花筒から抜き出す。綾人はそれを見て、小さく頷いた。「ああ、それでいい」 その表情は、なぜかどこか嬉しそうだった。     ◇ 花屋を出て、やがて車が到着したのは、静かな墓地だった。 風が木々を揺らし、鳥の声だけが聞こえている。 綾人は慣れた様子で、ひとつの墓石の前まで来ると立ち止まった。 綾人の手が、そっと先ほどの花を供える。 墓石には『神宮寺家之墓』と記されていた。綾人の親族が眠っているのだろう。 澪も綾人
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第75話 追憶から今へ

 その夜、澪は眠りにつくまで、何度も胸元のお守りへ触れていた。 今日、お墓で聞いた話。 綾人の祖父と幼い頃の自分。 花と優しい笑顔。 断片的な記憶は戻ってきた。 それでも、まだ何かが足りない。「……」 お守りを握り締めたまま、澪は静かに目を閉じた。     ◇ ――蝉の鳴き声。 眩しい夏の日差し。 風に揺れる白い花。 幼い自分が笑っている。「綾人くん!」 小さな男の子が振り返った。 少しだけ照れくさそうに笑う顔。 その笑顔が嬉しくて、澪も思い切り笑った。「見て見て!」 摘んできた白い花を両手いっぱいに抱えて走る。「はい!」 男の子――綾人が目を丸くする。「……俺に?」「うん!」 何の迷いもなく頷く。「元気ないから!」 綾人が笑う。 その笑顔が見たくて、毎週華道教室へ通うのが楽しみだった。     ◇ 庭を一緒に歩く。「あれはね、ノリウツギ!」「こっちは百日草!」 一輪一輪、名前を呼ぶ。 綾人は黙って聞いてくれる。「お花にはね、お名前があるんだよ」「お友達のお名前、忘れちゃかわいそうでしょ?」 綾人が少しだけ目を丸くしていた。     ◇ 白い花と押し花。 それを小さい袋に入れて、お守りにした。「はい!」 綾人へ差し出す。「おそろい!」 受け取ってくれる手が、嬉しくて嬉しくて仕方がない。「これね!」 胸へ抱き締める。「ずっと友達だよ!」 綾人は少し照れながら、小さく頷いた。「……ああ」 その返事だけで、庭の草花がいつもより鮮やかに見えた。     ◇「また来週ね!」 華道教室の門の前。 父と手を繋ぐ。 振り返って、大きく手を振る。「約束だよ!」 綾人も小さく手を上げた。「……またな」 その笑顔を見ながら、澪は父と一緒に歩き出す。 それが、最後だった。     ◇ 景色が変わる。 夕暮れ。 車の中。「お父さん!」 笑いながら話している。 父も笑っている。「今日ね!」「綾人くんがね!」 父は優しく相槌を打つ。「そうか」「よかったな」 澪も嬉しくて笑う。 その時だった。 眩しい光。 大きなクラクション。 父の表情が変わる。「澪っ!」 強く抱き寄せられる。 世界が大きく揺れた。 激しい衝撃。 ガラスの割れる音。 何
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第76話 ただいま、おかえり

 澪は、そのあと眠れないまま朝を迎えた。 窓から差し込む柔らかな朝日。 胸元には、いつもの白い花のお守り。 昨日までとは違う。 もう全部、思い出している。 華道教室。 綾人の祖父の笑顔。 父と過ごした時間。 毎週、一緒に花を見て笑った男の子。――綾人くん。 その名前を心の中でそっと呼ぶだけで、胸の奥が温かくなった。     ◇ ダイニングでは、いつものように賑やかな朝が始まっていた。「澪さま、おはようございます!」 ひまわりが元気いっぱいに迎えてくれる。「おはようございます」 澪も笑って返事をする。 佐伯がお茶を注ぎ、桜が朝食を運び、芹香が静かにテーブルを整えていく。 変わらない朝。 それなのに、自分だけが違う世界にいるような、不思議な感覚だった。「どうした」 向かいに座る綾人が静かに尋ねてくる。「あ……」 思わず顔を上げる。 綾人の顔を見るだけで、昨日の夢が鮮明によみがえった。 小さな男の子。 照れくさそうな笑顔。 白い花を受け取ってくれた手。「……なんでもありません」 澪は慌てて笑った。 危なかった。 今にも『綾人くん』と呼んでしまいそうだった。     ◇ 朝食を終え、二人はアトリエへ向かうため車へ乗り込んだ。 車内には静かな音楽が流れている。 澪は助手席で窓の外を眺めながら、小さく息を吐いた。 何を話せばいいのだろう。 思い出したことを、すぐ伝えるべきなのか。 それとも――。「眠れなかったか」 不意に綾人が口を開いた。 澪は驚いて振り向く。「……どうして分かったんですか?」「顔を見れば分かる」 それだけだった。 それ以上は聞いてこない。 眠れなかった理由も尋ねない。 その優しさが、昔と少しも変わっていないことを知ってしまって、澪は胸がいっぱいになる。「少しだけ……考え事をしていました」「そうか」 綾人は静かに頷いた。 その一言だけ。だけど、まるで澪の心を見透かしているようだった。     ◇ アトリエへ到着すると綾人が車を停め、エンジンを切った。「行くぞ」 そう言ってドアへ手を掛ける。 開いた扉の先。華道展から戻した、綾人の作品。 『澪』と自分の名前をつけられた、あの生け花。「……っ」 それを見たら、気持ちが溢れて止まらなくなった。澪の手
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第77話 お姉ちゃんの幸せ

 華道展から数日後。 白石家には、以前とは違う空気が流れていた。「もう、本当に嫌になるわ」 朝から母親のため息がリビングへ響く。 洗濯物を畳みながら、大きく肩を落とした。「なんで私がこんなことまでしなきゃいけないの」 ソファへ寝転がっていた美羽は、スマートフォンからゆっくり顔を上げた。「どうしたの? お母さん」「どうしたもこうしたもないでしょ」 母親は不機嫌そうに顔をしかめる。「掃除も洗濯も、買い物も、ご飯の支度も……全部私じゃない」 そう言って流し台を見る。 朝食で使った食器が、そのまま残っていた。「澪がいた頃は、こんなこと全部やってくれてたのに」 そう言いながらも、母は渋々、洗濯物を畳み、掃除機を取り出し、昼ご飯の献立を考え始めた。 以前なら、そんな姿を見ることはほとんどなかった。 全部、澪がやっていたから。「本当に使えない子だったわ」 母親はため息をついた。「突然勝手に出て行って、家のことはどうするつもりだったのよ」 その言葉を聞いて、美羽は何も言わなかった。 でも――。「美羽」「なぁに?」「コップくらい自分で片付けて」「えー?」 思わず美羽から不満の声が漏れる。「どうして私が?」「どうしてじゃないでしょ」 母親は少し苛立ったように言う。「もう大学生なんだから、そのくらい自分でやりなさい」 美羽はゆっくり身体を起こした。 最近、お母さんは変わった。 食べ終わった食器を下げろ。 洗濯物を取り込め。 掃除機をかけろ。 ゴミを捨ててきて。 そんなこと、今まで一度も言われたことなんてなかった。(なんで……)
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第78話 帰って来て

 朝食を食べ終えた澪は、アトリエへ向かった綾人を見送り、佐伯たちと紅茶を飲みながら今日の予定を確認していた。「午後から花材がこちらの屋敷に届きますので、そのあと整理をお願いできますか?」「はい、もちろんです」 穏やかに笑った、その時だった。 テーブルの上に置いていたスマートフォンが、小さく震える。 画面に表示された名前を見て、澪は顔を強張らせた。『美羽』「……」 ほんの少し迷ってから、通話ボタンを押す。「もしもし……?」『お姉ちゃん!』 明るい声だった。 けれど、どこか焦っているようにも聞こえる。『ねぇ、ちょっとだけ帰ってきてくれない?』「え……?」『お母さんがね、最近全然元気なくて』 澪は思わず息を呑む。『家のことも全然回らないし、ご飯もちゃんと食べてないの』「そんな……」『やっぱり、お姉ちゃんがいないと駄目なんだよ』 その言葉が、胸へ刺さる。『……ねぇ、お願い』 少しだけ声が小さくなる。『少しだけでいいから』 電話は、それだけで言うと切れた。     ◇「澪さま?」 佐伯が心配そうに澪の顔を覗きこんだ。 澪はスマートフォンを握ったまま、小さく俯く。「……実家へ、少しだけ行ってきます」 その一言で、部屋の空気が変わる。佐伯たちが顔を見合わせた。「ご実家へ……ですか?」 桜が驚いたように目を丸くしている。「はい」 澪は、困ったように笑った。あまり重いトーンにならないように気をつける。「母が少し体調を崩しているみたいで」 佐伯たちが一瞬黙る。誰もすぐには返事をしない。「澪さま」 佐伯が、諭すような声色で言葉を紡ぐ。「本当に、お戻りになる必要がおありでしょうか」 その問いに、澪は少しだけ目を伏せた。「少し顔を出すだけです」 自分へ言い聞かせるように笑う。「様子を見て、すぐ帰ってきますから」「ですが……嫌な予感がします」 いつも底抜けに明るいひまわりも、不安そうな顔をしている。 珍しく弱々しい声だった。 澪はそんなひまわりや、佐伯たちをゆっくり見て優しく笑った。「大丈夫です」「でも……」「心配してくださってありがとうございます」 深く頭を下げる。「本当に、少し行ってくるだけなので」     ◇ 部屋へ戻った澪は、小さなバッグへ財布を入れる。 スマートフォンにハンカ
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第79話 搾取

 白石家の玄関扉を開けると、どこか懐かしい洗剤の匂いが鼻をくすぐった。「ただいま……」 澪は小さく声を掛ける。 澪は靴を脱ぎながら辺りを見回す。 美羽は言っていた。『お母さんが元気なくて』『家のことも全然回らないの』 だから、もっと暗い空気を想像していた。 けれど、リビングから聞こえてきたのはテレビの音だった。「あ、お姉ちゃん!」 美羽が嬉しそうに駆け寄ってくる。「来てくれたんだ!」 その笑顔に、澪は少しだけ戸惑った。「お母さんは……?」「いるよ?」 美羽がリビングを指差す。 母はソファへ座ったままテレビを見ていた。「あら、帰って来たの? ちょうどよかったわ」 澪を見るなり、母は当然のように言った。「冷蔵庫に食材あるから、夕飯お願い」「……え?」「私、今日は疲れてるの」 その言葉だけだった。 体調が悪そうな様子はない。 熱があるわけでもない。 寝込んでいるわけでもない。 ただ、夕飯を作る気がないだけだと分かる。「お姉ちゃん、お願い!」 美羽も笑う。「久しぶりにお姉ちゃんのご飯食べたいの、良いでしょ?」可愛らしく顔を覗き込んで来る美羽に、澪は少しだけ俯いた。 胸のどこかに、小さな違和感が生まれる。 それでも、「……うん」 その一言しか言えなかった。     ◇ エプロンを身に付け、キッチンに立つ。 冷蔵庫を開ける。野菜を取り出す。包丁を握る。 久しぶりのはずなのに、身体は覚えていた。 手が勝手に動く。 味噌汁と煮物それから焼き魚とサラダ。 何度も作って来た献立。 鍋から立ち上る湯気を見つめながら、澪はふと思う。(私……) 神宮寺家へ来てから、料理を作ったことはほとんどない。 神宮寺家には料理番の人たちがいて、彼らが作ってくれるから。 澪が手伝おうとすると、『澪さまは、お休みください』 そう言って笑ってくれた。 掃除をしようとすれば佐伯たちが、『私どもの仕事です』 洗濯物を持てば、『重たいですよ』 そう言って受け取ってくれる。 誰かの役に立てないことが、最初は申し訳なかった。 けれど、佐伯は笑って言った。『澪さまが笑ってくださることが、私たちには何より嬉しいのですよ』 その言葉を思い出した瞬間。 胸が少しだけ苦しくなった。 この家では違う。 何をやっ
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第80話 私は私の家に

 夕食の後片付けをしたあとも、澪は一人で台所に立っていた。 シンクを布巾で拭く。 乾いた食器を棚へ戻す。 身体は自然に動く。 何年も繰り返してきたことだから。「澪」 リビングから母の声がする。「お茶ちょうだい」「……うん」 返事をして湯を沸かす。湯呑みにお茶を注ぎ、リビングへと運んで、母の前に置いた。 母は当然のように湯呑みを受け取り、テレビへと視線を戻す。 感謝の言葉、ひとつもない。 美羽もソファへ寝転んだままスマートフォンを眺めていた。 静かに胸が痛んだ。神宮寺家では違った。 賑やかな会話が飛び交って、お互いの存在を尊重し合う。 そんな雰囲気に包まれた場所だった。 あの家では、自分が何かをすると、誰かが笑ってくれた。 ここでは違う。 やることが当たり前。 できて当たり前。 誰も、それを疑わない。 その時だった。 インターホンの音が、部屋の中に響く。「あら?」 母が時計を見る。間もなく二十時になろうとしていた。「こんな時間に誰かしら」 そして当然のように言った。「澪、出て」「うん」 澪は玄関へ向かい、ドアノブへ手を掛け、ゆっくり扉を開いた。「……っ」 扉の向こうに立っていた人を見て、息が止まるかと思った。 玄関の向こうに立っていたのは。「……綾人くん」 黒いスーツを身に纏った綾人だった。 柔らかな夜風が、静かに二人の間を吹き抜ける。 綾人は、ただ静かに澪の顔を見る。 その表情を一度確認するように目を細めてから、静かに口を開いた。「迎えに来た」 それだけだった。 どうして来たのかも言わない。 どうして勝手に家を出て、どうして連絡しなかったのかも、何一つ責めない。 ただ、その一言だけ。 けれど、澪の胸は熱くなる。「澪?」 なかなか戻ってこない澪を怪しく思ったのか、母が玄関まで歩いて来た。 そして、綾人の姿を見るなり、その表情が変わる。「あら……!」 一瞬で笑顔になる。「神宮寺先生!」 慌てて髪を整え、笑顔で頭を下げた。「いつも娘がお世話になっております」 澪は目を見開く。さっきまでとは別人のようだった。 まるで、以前、綾人に向けられた視線を忘れたかのような、媚の売り方。 そういえば、テレビで綾人を見たと言っていた。 彼に『価値』を感じたからこその態度だと、澪
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