All Chapters of 「君は俺の花だ」妹に婚約者を奪われた私を、冷徹華道家が溺愛して離してくれません: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話 一歩、一歩

 二週間後の地域文化センターでは、次のワークショップの準備が進められていた。 澪はいつものように花材を並べ、ひとつつひとつ丁寧に状態を確認していく。「白石先生! おはようございます」 田中が嬉しそうに澪に手を振った。「おはようございます」 澪も笑顔で頭を下げる。「今日は、新しくボランティアスタッフさんが来てくださるんですよ」「そうなんですか?」「はい。人数が増えると準備も片付けも助かりますから」 そう話していると、入口のほうから明るい声が聞こえた。「おはようございまーすっ」 澪の肩がぴくりと震えた。聞き慣れた甘い声。嫌な予感に、振り返る体が強張った。「……美羽」 今日も柔らかなワンピース姿の美羽が、にこにこと手を振っていた。「あ、お姉ちゃん! じゃなくって、澪先生」 まるで、ここにいることが当たり前であるかのような笑顔。 田中が嬉しそうに二人を見比べる。「驚きました? 美羽さん、自分からお手伝いしたいって来てくださったんですよ」「本当に助かりますよねぇ」と、無邪気に続けた田中に、澪は小さく笑顔を作った。「……そうですか」 美羽は嬉しそうにバッグの中からエプロンを取り出すと、それを身に着けた。「今日はいっぱい頑張りますね!」 その小首を傾げるように笑った美羽の笑顔から、澪はそっと目を逸らした。     ◇ イベントが始まると、美羽は驚くほどよく動いた。「受付はこちらです」「名札はこちらになります」 笑顔。気配り。丁寧な言葉遣い。 子どもが転びそうになれば駆け寄り、高齢の参加者には椅子を引く。「美羽さん、本当に助かります!」 田中が何度も笑顔になる。「そんな、全然です」 美羽は照れくさそうに
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第102話 澪のための場所

 ワークショップを終え、神宮寺の屋敷へ戻る頃には、空は茜色に染まり始めていた。 玄関の扉を開けると、佐伯が穏やかに一礼する。「お帰りなさいませ、澪さま」「ただいま帰りました」 その声に澪は笑顔で返す。 今日も無事に終わった。 参加者たちも笑顔だった。 田中にも感謝された。 美羽も、誰から見てもよく働いていた。 それなのに、どうしてだろう。 胸の奥だけが、少しだけ重い。 澪はそっと自分の胸元に下がるお守りを握り締めた。     ◇ 夕食を終えたあと、綾人はリビングに飾るための花を生けていた。 静かな空間。 佐伯たちも別の作業をしていて、今、この場には澪と綾人しかいなかった。 花ばさみの小さな音だけが響いている。 澪はその様子を少し離れた場所のソファから見つめていた。「……綾人くん」「どうした」 手は止めないまま、静かな返事が返ってくる。 澪は少しだけ躊躇ってから、口を開いた。「今日も、ワークショップ、楽しかったです」「ああ」「皆さん、とても喜んでくださって……」 そこまで言って、言葉が止まる。 綾人はようやく花から視線を外し、澪を見る。「何かあったな」 その一言だけで、胸の奥に隠していたものが少しだけ揺れた。「……美羽が」 ぽつりと零す。「ボランティアで来ていました。その前は、受講者として」 綾人は静かに、澪の言葉の続きを待つ。驚いた様子はない。「すごく頑張っていて……皆さんにも好かれていて、だから何も言えないんです」 澪は苦笑する。 花を好きになることは悪いことじゃない。 誰かの役に立ちたいと思うことだって。 だからこそ。「私が我慢すればいいだけなのかなって……。お仕事には、私の感情は関係ないですし……」 実家でのこと。これまでのこと。 拓真と美羽の関係。全部、華道には関係がない。 そう紡ぐ澪の声は、少しだけ寂しそうだった。 綾人はしばらく黙っていた。 花器へ一本の枝を添え、角度を整える。 そして、やがて、小さく口を開いた。「楽しめているか」「……え?」「今のワークショップだ」 澪は少しだけ目を伏せた。 考える。 そして、小さく笑う。「……楽しいです。でも、少しだけ……」 少しだけ、前みたいには、笑えていない。 綾人はその答えを聞くと、小さく頷いた。「分かっ
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第103話 お姉ちゃんと妹

 週末の朝。 鏡の前で、美羽は髪をゆるく巻き、淡いピンク色のリップを丁寧に重ねた。 白いブラウスに、ふんわりと揺れるスカート。 鏡へ向かってくるりと一回転すると、満足そうに微笑む。「よしっ」 バッグを肩へ掛けた、そのときだった。「美羽、あんた、今日は大学どうしたの?」 リビングから母の声が飛ぶ。「休む」「また?」 母は眉をひそめた。「あんたねぇ、澪がお金を入れてくれなくなって、誰が大学の学費払ってると思ってるの?」 その言葉に、美羽は笑顔のまま、心の中で小さくため息をつく。(はぁ~……うるさいなぁ) 今まで散々、美羽を甘やかしていた母親は、澪がいなくなった途端、現実的なことばかり言い始めるようになった。「今、大学より大事なことしてるの」「はぁ?」 母が怪訝そうな顔をする。 美羽は肩をすくめ、少し困ったような笑顔を作った。「私ね、拓真さんと別れたの」「……え?」 母の目が大きく開く。「ちょっと、どういうこと!?」「だってぇ……」 美羽はため息混じりに眉を下げる。「拓真さん、やっぱりお姉ちゃんのことが好きなんだって」 母は絶句した。「でもね、あの二人もうまくいかなかったみたい」 そう付け加えると、母は力が抜けたようにソファへ座り込む。「そんな……これからの生活が……。いやでも、まだ澪が神宮寺さんと……」 小さくぶつぶつと呟く母を見て、美羽は口元だけで笑った。(結局、お母さんもそこなんだ) 私じゃなくて、お金。 昔から何も変わっていない。(それに、綾人さんはお姉ちゃんとじ
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第104話 境界線

 神宮寺家の離れにある華道教室。 大きな窓から柔らかな陽射しが差し込み、季節の花々が静かに並べられている。「それでは今日は、『夏の風』をテーマに生けてみましょう」 澪が穏やかな笑顔で声を掛ける。 綾人が用意してくれた、初心者で、子どもの門下生を対象にした講習会。 自分もまだ初心者で、教えられる立場ではないかもしれない。 けれど、まずは『花を好きになってもらう』。その気持ちは、私でも教えることができる。「花の向きや形に正解はありません。皆さんが感じた『夏らしさ』を、お花で表現してみてください」「はーい」 門下生たちが一斉に花へ向き合う。 教室には花ばさみの小さな音だけが心地よく響いていた。 澪は一人ひとりの作品を見て回る。「こちらのお花、少しだけ角度を変えてみましょうか」「……あっ」「ふっと軽くなったような感じがしませんか?」「わぁ……」 澪と子どもたちの間に自然と笑顔が広がる。 その様子を部屋の後方から綾人が静かに見守っていた。 腕を組み、何も口を出さない。 ただ澪が教える姿を見つめている。 そんな綾人の隣では、花材出しの手伝いをしていたひまわりも穏やかに微笑んだ。「皆さま、とても楽しそうですね!」「ああ」 綾人は短く頷く。 澪は、誰の作品も否定しない。 その人らしさを見つけて言葉にする。 幼い頃、宗一郎が子どもたちに向き合っていた姿とよく似ている気がした。――おじい様がこの姿を見たら、きっと喜ぶだろうな。 綾人はその瞳を懐かしそうに細めた。     ◇ その頃、一台のタクシーが神宮寺家の門前へ停まった。 美羽は降車すると、目の前に広がる立派な屋敷を見上げる。「すごぉい……」 思わず感嘆の声が漏れる。(やっぱり、素敵) ここが、綾人の家。 未来の自分が暮らす場所。 そう思うだけで胸が高鳴った。 美羽はスカートの皺を整え、髪を軽く直す。 そして、大きな門の横にあるインターホンを押した。 しばらくして、スピーカーから声が聞こえてきた。『どちら様でしょうか』 落ち着いた女性の声。それは佐伯の声だった。 美羽はカメラに向かってぱっと笑顔を作る。「こんにちはぁ、白石美羽ですっ」 可愛らしく小首を傾げる。『……白石美羽さまでございますね』 佐伯の声は変わらず、落ち着いていた。「はい
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第105話 笑顔を守るため

 夜も更け、神宮寺家は静かな眠りに包まれていた。 澪の部屋には、穏やかで静かな寝息が響いていた。 今日も一日、子どもたちと花に囲まれ、たくさん笑って過ごした。 そんな穏やかな夜。屋敷の一室には、小さな灯りがともっていた。 綾人の書斎。綾人が腕を組み目を伏せ、椅子に座っている。 そこへ、コンコンと静かなノックが響く。「入れ」 綾人が入室を促すと、入って来たのは相良だった。「失礼いたします」 続いて佐伯、芹香、ひまわり、桜も入ってくる。 全員、綾人自身が「自分のところに来るように」と呼んでいた。 綾人の前に彼らはずらりと並ぶと、綾人は伏せていた目を上げた。「報告してくれ」「はい」 綾人の言葉を受けて、相良が手帳を開く。「本日、白石美羽様が屋敷へお見えになりました」 綾人は表情を変えない。「ああ」 と、ただ短く相槌を打った。 相良は小さく頷くと、報告を続ける。「内容は、『澪さまへお会いしたい』とのことでした」「それは、私がお断りしております」 佐伯が穏やかな口調で相良の説明に補足する。「講習中であること、お約束のないご訪問はお取次ぎできないことをお伝えいたしました」 佐伯はひとつ呼吸を置く。「その後、綾人さまとの面会も希望されましたが、同様にお断りしております」「そうか」 綾人は、それを責めることも、驚くこともしなかった。 まるで、最初からこうなることを予想していたかのようだった。 書斎に静かな空気が流れる。 やがて、ひまわりがおずおずと口を開いた。「また……来ちゃいますかねぇ」 彼女の、いつもの溌剌とした明るさはなく、声には少しだけ不安が滲んでいた。 相良は、手帳を閉じながら静かに頷いた。「本日のご様子から察するに、その可能性は高いかと存じます」「そう、ですよね……」 ひまわりは肩を落とした。 その隣で、「澪さま……また、悲しまれませんか……?」と、桜がそっと両手を握りしめる。 美羽と対峙することになるたび、澪の顔が曇ることを使用人たちは知っていた。 一度だけ明確に、「会いたくないのであれば会わなくて良い」と澪に助言をしたこともあったけれど、澪の不意を突くようにやって来られては回避も難しい。 芹香は今にも鳴き出してしまいそうな桜へ優しく微笑みかける。「だからこそ、私たちがお守りしなけ
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第106話 入門希望者

 翌週も神宮寺家の離れでは、幼い門下生たちを対象にした講習会が行われていた。「先生、この向きで大丈夫ですか?」「はい。とても素敵ですよ」 澪は笑顔で門下生たちの間を歩いていく。 少し前まで胸を締め付けていた不安も、この教室へ場所を移してからは嘘のように穏やかになっていた。 花だけを見られる場所。 綾人が用意してくれた、この教室。 今日も子どもたちの笑顔が咲いている。     ◇ 一方、美羽は自宅のベッドへ寝転びながらスマートフォンを操作していた。「もう……」 神宮寺家へ行っても入れてもらえない。 文化センターも神宮寺家へ移ってしまった。 どうすれば綾人へ近付けるのか。 検索画面へ指を滑らせる。『神宮寺流 華道』『神宮寺流 教室』『神宮寺流 入門』 いくつものページを開いていく。 そのときだった。「あっ……」 画面の一番下に表示された一文に、美羽の目が止まる。『門下生募集』「……これって……」 その文字をタップし切り替わった先、指先でページをスクロールする。『初心者歓迎』『基礎から丁寧に指導』『入門審査あり』『見学可』 そこまで読んだ瞬間、美羽の口元がゆっくりと吊り上がった。「なぁんだ、簡単なことじゃん」 ボランティアでもダメ。 妹でもダメ。 田中の言葉を思い出す。――門下生のかたもいらっしゃるそうで……。 そして、神宮寺家のインターホン越しで言われた言葉。――お約束がないとお取次ぎできません。 だからと言って、約束なんて簡単にできるものじゃない。澪は自分のことを警戒しているのだから、と美羽は苦く笑った。 でも、入れる方法がゼロになったわけじゃない。今、目の前に書いてある。神宮寺家に入れる人と入れない人。その違いは明確で、思っていたよりも簡単だ。「そうだよ、門下生になればいいんだ」 今まで考えもしなかった。だから門前払いされた。 でも、今度は違う。 正式な門下生として申し込めば、誰も断れない。「ふふっ」 美羽は嬉しそうに笑う。「私、ちゃんとルールを守って、会いに行くからねっ」 すぐに申し込みフォームを開く。 名前、住所、年齢をすらすらと入力していく。 最後に表示された項目。『志望理由をご記入ください』 少しだけ考えてから、美羽は指を動かした。『花を通して、人の心を
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第107話 門を叩く資格

 澪は、申込書を見つめたまま動けずにいた。『白石美羽』 見慣れた妹の名前。 それが、神宮寺流門下生の申込書へ記されている。「……どうして」 思わず声が漏れる。「驚くのも無理はない」 綾人は澪の向かい側に静かに腰を下ろした。 澪は申込書を握りしめる。「美羽が、ここまで来るなんて思っていませんでした」 華道展にも来た。 文化センターへも通ってきた。 それでもまだ諦めず、今度は門下生として――。 澪の胸の奥がざわつく。「綾人くん、断らないんですか……?」 澪は不安そうに顔を上げた。 静かな部屋に、その問いだけが残る。 綾人はすぐには答えなかった。 窓の外へ一度、視線を向ける。夜の風が庭木を揺らしている。 やがて、ゆっくりと口を開いた。「断る理由がない」 澪は静かに息を飲んだ。「神宮寺流は、学びたい者を最初から拒まない」 落ち着いた声だった。「花を好きになりたいと思う者には、門を開く」 それは、幼い頃に宗一郎が話してくれたことと同じだった。「そう、ですよね……」 花が好きなら来なさい。 上手じゃなくてもいい。 まずは好きになることから始めよう。 そんな教室だった。 だから自分は大好きな場所だったと思い出す。「だから、申し込む資格はある」 綾人は真っ直ぐ澪を見る。「資格は、な」 一拍呼吸を置くように言われたその一言に、澪は少しだけ表情を変えた。「だが、門下生になるには審査がある」「審査……」「ああ。申し込んだら誰でも門下生になれるわけじゃない」 神宮寺流は、誰でも入れるわけではない。 花を学びたいという気持ち。 花と向き合う姿勢。 それらを見極めるための時間があるのだと、綾人は言った。「結果は、そこで決まる」 綾人の声は終始、いつもと変わらない落ち着いたものだった。 澪は少しだけ俯く。「でも……」 美羽は器用だ。 昔から、人に好かれる方法を知っている。 笑顔も、受け答えも、全部上手だった。だから、いつも彼女の周りには人がたくさんいた。 だからこそ、不安になる。「綾人くん」「なんだ」「もし……」 澪は、言いかけて、一度唇を噛んだ。「もし、美羽が門下生になったら……」 そこまで言ったところで、綾人は静かに首を横へ振った。「ならない」 迷いのない声だった。 澪は思
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第108話 見ているもの

 神宮寺家の離れにある華道教室。 朝の柔らかな陽射しが障子越しに差し込み、静かな空気の中に花の香りが漂っていた。 今日は門下生の入門審査の日。 澪はいつもより少しだけ落ち着かない様子で、花材を並べていた。「澪さま、ご安心ください」 後ろから佐伯が穏やかに声を掛ける。 澪はゆっくりと振り返った。「佐伯さん……」「綾人さまは、公平なお方です」 佐伯は優しく微笑む。「花をご覧になります。そして、その花と向き合う人をご覧になります」 澪は小さく頷いた。「……はい。そうですよね」 そうだ。 綾人は決して感情で判断する人ではない。 澪は、そっと胸元にかけられた白い花のお守りを優しく握りしめた。     ◇「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」 綾人の元で働くスタッフが、受験者たちに静かに説明を始める。「本日は実技審査を行います」 教室には十名の受験者。 その中には、美羽の姿もあった。 白いワンピースに淡いカーディガン。 髪も綺麗に巻かれ、誰よりも柔らかな笑顔を浮かべている。「よろしくお願いします」 隣の受験者へも愛想よく頭を下げる。「こちらこそ」 美羽の感じの良さに、周りの空気がほんのりと和らぐ。 澪は後ろでその光景を見つめていた目を、静かに伏せた。     ◇「本日の課題は、『生命』」 綾人の低い声が教室へ響いた。「自由に生けてくれていい」 それだけで、それ以上の説明は一切ない。 受験者たちに与えられたものは、課題テーマだけ。 受験者たちは、教室の隅に置かれた花材へと一斉に向かった。(生命……) 美羽は少しだけ考える。(派手なほうが目立つよね) 鮮やかな花を次々と手に取り、席に戻る。 高さ。 色。 バランス。 見映えだけを考えながら迷いなく切っていく。 不要な葉を指で乱暴にちぎり、床へ一枚落ちていったけれど、美羽は気にも留めなかった。 花ばさみが刃を開いたまま机の上に置かれる。 使わない花材を机の端へ無造作に寄せる。 ガーベラが一本、転がった。 花びらが少しだけ潰れる。 美羽の視線は、ただ手元の作品にだけ注がれていた。     ◇ 一方で綾人は、ゆっくりと受験者たちの後ろを歩いていた。 誰にも声を掛けない。 ただ静かに歩くだけ。 美羽は横目でその姿を見つける
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第109話 花は人を映す

 教室を飛び出した美羽は、そのまま一度も振り返らなかった。 庭を抜け、門を抜ける。 神宮寺家の大きな門が背後で静かに閉まる音だけが耳へ届いた。「……っ」 美羽は唇を強く噛み締める。 胸の奥が熱い。 怒りなのか、悔しさなのか、美羽自身、分からなかった。 大通りへ出ると、ちょうど一台のタクシーが近付いてくる。 美羽は勢いよく手を挙げた。 車が止まる。「どうぞ」 運転手に促され、後部座席へ乗り込む。ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。「どちらまで?」 バックミラー越しに尋ねられる。 美羽は窓の外を見つめたまま、小さく住所を告げた。 車が静かに走り始める。 流れていく街並み。 歩道を歩く親子。 花屋の店先に並ぶ季節の花。 どれも目に入っているはずなのに、何も頭へ入ってこなかった。(……話にならない?) 綾人の声が何度も蘇る。『お前は花を見ていない』 その言葉が胸の奥で何度も反響し、美羽は拳を強く握る。(花なんて、綺麗ならそれでいいじゃない) 命? 向き合い方? そんなもの、何が違うというのだろう。 花は花だ。 動物みたいに鳴き声があるわけでも、自らの意志で動くわけでもない。 綺麗だから、ただ価値があるだけ。 そう思ってきた。 それなのに……。「……ふふ」 突然、美羽の口から小さく笑い声が漏れた。 運転手が、怪訝そうな顔でバックミラー越しにちらりと見る。 美羽は気に留めることなく、「そっかぁ……」 と、ぽつりと呟く。「そういうことだったんだ」 綾人は、自分を見ていなかった。 この可愛い服も、誰からも好かれる笑顔も、愛されることを知っている仕草も。 一度だって見ていなかった。 見ていたのは――。「本当にお姉ちゃんだけ、なんだ」 その一言で、胸の中にあった何かが、静かに形を変えた。 最初は拓真だった。 拓真が澪を見ていた。 だから奪った。 今度は綾人。 綾人も、澪を見ている。 だから近付きたかった。隣へ立つのは自分であるべきだと思った。 澪みたいになれば、澪ではなくて自分に価値があると気付いてくれる。こっちを見てくれるはずだと思った。 でも違った。 どれだけ近付いても、どれだけ笑っても、どれだけ着飾っても、綾人の目は、一度も自分を見なかった。「……お姉ちゃんがいるからだ」
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第110話 個展

 神宮寺家のアトリエには、朝の柔らかな陽射しが差し込んでいた。 澪は花瓶の水を替え、一輪ずつ花の状態を確かめていく。 その隣で、綾人が静かに花を生けていた。 その穏やかな空気は、いつもの朝と変わらない。 コンコン、と扉がノックされる。「失礼いたします」 相良が数通の封筒と書類を抱えて部屋へ入ってきた。「綾人様、本日届いたご依頼です」「ああ」 綾人は受け取った書類へ静かに目を通していく。「来月のホテルロビー展示の件です」「こちらは雑誌取材になります」「こちらは企業様からの祝花のご依頼です」 必要なものだけを脇へ避けていく綾人。 その姿を、澪は少し離れた場所から見守っていた。 すると相良が、一番下にあった一通の封筒を手に取る。「それと……こちらは澪さま宛でございます」「私ですか?」 澪は目を丸くした。「はい」 封筒には丁寧な筆文字で、『白石澪様』と書かれていた。「開けてみてください」 相良に促され、澪は慎重に封を切る。 中には一枚の便箋と、数枚の資料が入っていた。 読み進めるうちに、澪の目が少しずつ大きくなっていく。「……個展?」 思わず漏れた声に、綾人も静かに視線を向けた。 便箋には、こう綴られていた。『先日の地域交流センターでのワークショップへ参加させていただきました。作品ももちろん素晴らしかったのですが、私の心に残ったのは、白石先生のお人柄でした。年齢や経験に関係なく、一人ひとりへ同じように目線を合わせ、花だけではなく、その人自身へ寄り添われる姿が忘れられません。もしよろしければ、私が営んでおります小さなギャラリーで、白石先生の初めての個展を開いていただけないでしょうか』 読み終えた澪は、しばらく言葉を失っていた。「このお名前……」 資料に添えられた名前を見て、澪は小さく目を瞬かせる。「あ……っ」 思い出した。 ワークショップへ参加してくださっていた、白髪の優しい女性。 少し耳が遠くて、何度も「もう一度教えていただけますか」と申し訳なさそうに尋ねていた人。 澪はそのたびにしゃがみ込み、目線を合わせながらゆっくり説明した。 完成した作品を見て、とても嬉しそうに笑っていた姿も覚えている。「まさか……」 あの人が、ギャラリーのオーナーだったなんて。「私は、ただ……」 花を好きに
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