All Chapters of CARDINAL(カーディナル) ― 裏切られた前世を返上し、今生は私が主役 ―: Chapter 41 - Chapter 50

69 Chapters

第41話 ブラックローズの目的

高い塔の上から、ブラックローズは静かに庭を見下ろしていた。風が黒い外套を揺らす。月明かりの下、仮面の奥の口元だけが薄く笑っていた。「面白い」低く漏れた声は、夜の闇に溶ける。下では三人がまだ立ち尽くしている。ルピナス。ローゼン。フジ。運命に抗う者たち。本来なら交わらないはずの糸が、今は複雑に絡み合っていた。その歪みこそが、美しかった。「だが、まだ足りない」ブラックローズは指先で古びた懐中時計を弄ぶ。それは止まっていた。前世の処刑の日刻で。ルピナスが死んだ瞬間で。あの時から、世界は止まっている。少なくとも彼にとっては。「お前が死んだことで、世界は完成したはずだった」仮面の奥で目を細める。ルピナスの死。ローゼンの絶望。王国の崩壊。すべてが必要だった。あれはただの復讐ではない。もっと大きな目的のためだった。だが。ルピナスが戻った。時間を巻き戻した。そのせいで全てが狂い始めた。本来壊れるはずだった王子は壊れず。本来孤独なはずの令嬢には仲間ができ。本来傍観者だった騎士が恋を知った。歪み。誤差。異物。許せなかった。「だから正さなければならない」その時だった。闇の中から一人の男が現れる。白い髪。冷たい目。黒い法衣。王国の宮廷魔導師、ヴァルハイトだった。「随分楽しそうだな」ブラックローズは振り返らない。「予定が狂っただけだ」ヴァルハイトは鼻で笑う。「お前の計画はいつも回りくどい」ブラックローズの声が低くなる。「必要なことだ」ヴァルハイトは塔の下を見る。ルピナスの姿を。「記憶は戻り始めている」「知っている」「放置すれば全部思い出すぞ」ブラックローズは懐中時計を握り締めた。金属が軋む。「その前に終わらせる」ヴァルハイトは目を細める。「本当に殺せるのか」その問いに、ブラックローズは沈黙した。一瞬だけ。その一瞬をヴァルハイトは見逃さなかった。「やはりな」冷たく笑う。ブラックローズの手が止まる。「お前はまだ、あの女を」「黙れ」その声には初めて感情が滲んだ。怒りだった。殺気だった。ヴァルハイトは肩をすくめる。「愛か執着か、どちらでもいい」その目が鋭く光る。「だが忘れるな。あの女が生きる限り、世界は壊れない」その言葉に、ブラックローズは再び下を
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第42話 失われた記憶の断片

その夜、ルピナスはまた眠れなかった。月明かりが天井を淡く照らし、静かなはずの部屋の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。ブラックローズの言葉。ローゼンの告白。フジの決意。すべてが胸の中で渦を巻いていた。前世の真実が少しずつ形を変えていく。裏切られたと思っていた記憶。それがもし、誰かに歪められていたものなら。今まで抱えてきた憎しみは何だったのか。「分からない」ルピナスは額を押さえた。考えれば考えるほど、頭の奥が痛む。その時だった。突然、視界が揺れた。ぐらりと世界が歪む。息が止まる。床が遠くなる感覚。頭の中に、何かが流れ込んできた。知らないはずの光景。暗い石牢。冷たい床。鉄格子越しの光。前世の記憶だった。ルピナスは声も出せず、膝をつく。断片が次々と流れ込む。泣いていた。自分が。牢の中で、一人で。処刑を待ちながら。絶望していた。憎んでいた。ローゼンを。世界を。その時。足音が響く。石畳を叩く重い音。一歩ずつ近づいてくる。あの日の足音。忘れていたはずの音。鉄格子の向こうに立った影。ローゼンだった。顔色は真っ青で、目は赤かった。今にも壊れそうな顔だった。「ルピナス」震える声。あの日、自分は背を向けた。見たくなかった。最後に裏切った男の顔なんて。でも。今は見える。その時の彼の顔が。泣いていた。「逃げろ」低い声。震える手で鍵を差し出していた。「今ならまだ間に合う」記憶の中の自分が振り返る。信じられなかった。なぜ今さら。なぜそんな顔をするのか。怒りが勝っていた。「遅いわ」吐き捨てた声。あれほど冷たかった。ローゼンの顔が歪む。それでも彼は諦めなかった。「頼む」王子が。あの誇り高い男が。膝をついていた。その姿に、今のルピナスの呼吸が止まる。あの時、自分は見ていなかった。見ようとしなかった。「生きてくれ」その声が響いた瞬間。視界が真っ黒に塗り潰された。誰かの魔力だった。黒い薔薇が咲き乱れる。ブラックローズ。あの男が記憶を消した。その瞬間。ルピナスは現実へ引き戻される。「はっ……!」息を荒げる。全身が汗で濡れていた。震えが止まらない。思い出した。全部ではない。でも、確かに。ローゼンは裏切っていなかった。あ
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第43話 ルピナス、涙の再会

朝の空気は冷たかった。昨夜ほとんど眠れなかったルピナスは、ぼんやりと庭園を歩いていた。足元に落ちた露が、靴先を濡らしていく。胸の奥が痛い。思い出してしまったからだ。あの日の牢獄。ローゼンの震える声。差し出された鍵。膝をついた姿。「生きてくれ」あの言葉が何度も頭の中で響いている。今まで信じていたものが全部ひっくり返った。裏切られたと思っていた。見捨てられたと思っていた。だから憎んだ。拒絶した。傷つけた。でも違った。本当に目を逸らしていたのは、自分の方だった。「最低……」ルピナスは小さく呟いた。胸が締めつけられる。今さら思い出しても遅い。もう何度もローゼンを突き放した後だ。どんな顔で会えばいいのか分からない。その時だった。前方の回廊から足音が聞こえる。顔を上げる。ローゼンだった。ルピナスの呼吸が止まる。向こうも止まった。お互いに言葉が出ない。風だけが二人の間を通り抜ける。ローゼンは少しだけ目を伏せた。昨夜の話の続きを考えていた。ルピナスがどう思ったのか。怖かった。もしまた拒絶されたら。今度こそ立ち直れない気がしていた。「ルピナス」先に名前を呼んだのはローゼンだった。その声を聞いた瞬間、ルピナスの目に涙が溢れた。ローゼンの瞳が揺れる。「どうした」駆け寄ろうとした足が止まる。触れていいのか分からない。その迷いが、前世とは違った。ルピナスは唇を震わせた。「思い出したの」ローゼンの息が止まる。「牢のこと」その一言で全て伝わった。ローゼンの顔が青ざめる。ルピナスは涙を拭えないまま続けた。「あなた、来てた」声が震える。「私を逃がそうとしてた」ローゼンの瞳が赤くなる。あの日を思い出す。助けられなかった夜。守れなかった絶望。今でも夢に見る。「ルピナス……」名前を呼ぶ声が掠れていた。ルピナスは首を振る。「ごめん」その言葉にローゼンが固まる。「ずっと、あなたを憎んでた」涙が落ちる。「全部あなたのせいだって思ってた」ローゼンは何も言えない。言葉が出ない。ただ、その謝罪があまりにも痛かった。「違ったのに」ルピナスの肩が震える。「私、何も知らなかった」その瞬間。ローゼンはもう堪えられなかった。ゆっくりと一歩踏み出す。そして。ルピナスを抱
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第44話 フジ、初めて嫉妬を知る

朝日が庭を白く照らしていた。ルピナスとローゼンが抱き合う姿を、フジは遠くから見ていた。動けなかった。足が地面に縫い付けられたみたいだった。胸の奥が痛い。こんな感覚は初めてだった。剣を握る時とも違う。戦場で傷を負った時とも違う。もっと鈍く、もっと深く。静かに心臓を抉るような痛みだった。ルピナスが泣いている。ローゼンの腕の中で。その光景が頭から離れない。フジは拳を握り締めた。爪が食い込む。血が滲むほど強く。なのに痛みは感じなかった。胸の方がずっと痛かったからだ。「これが……嫉妬か」自分でも驚くほど冷静に、その感情を理解した。今まで知らなかった。誰かを欲しいと思うことも。奪われたくないと思うことも。ルピナスは自分のものじゃない。そんなこと、最初から分かっていた。なのに。あの腕の中にいる姿を見るだけで、息が苦しくなる。返したくない。その感情が浮かんだ瞬間、自分で自分に呆れた。ローゼンは前世からルピナスを想っていた。助けようとしていた。守ろうとしていた。その真実を知った今、ルピナスが揺れるのは当然だ。分かっている。分かっているのに。納得できない。「面倒だな」吐き捨てるように呟く。こんな自分は知らない。もっと冷静な男だったはずだ。感情に振り回されることなんてなかった。なのにルピナスだけは違う。笑えば安心する。泣けば苦しくなる。触れれば離したくなくなる。全部、知ってしまった。その時だった。ルピナスがローゼンからそっと離れた。涙を拭いながら、小さく笑う。その笑顔を見て、フジの胸がまた軋む。あんな顔をさせたのは自分じゃない。今朝の彼女を救ったのはローゼンだ。その事実が、どうしようもなく悔しかった。ローゼンが去っていく。振り返りながら、最後にルピナスへ視線を向ける。その目は優しかった。執着ではない。祈るような目だった。フジはその視線の意味を理解する。あいつはまだ諦めていない。当然だ。自分だって諦めない。その時、ルピナスがこちらを見つけた。驚いた顔をする。「フジ」名前を呼ばれる。たったそれだけで胸が熱くなる。ルピナスは少し困ったように笑った。「見てたの?」フジは少しだけ間を置いた。隠しても意味がない。「ああ」短く答える。ルピナスは目を伏せる。
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第45話 ルピナス、初めてフジを意識する

その日一日、ルピナスは落ち着かなかった。授業中も。昼食の時間も。ダリアと話している時でさえ。頭の中に浮かぶのは、今朝のフジの顔だった。――泣くな。たった三文字。それだけなのに、どうしてこんなに胸に残るのか分からなかった。ローゼンに抱きしめられた時とは違う。あれは懐かしさだった。失っていたものを取り戻したような、痛みと安堵が混じる感覚。でもフジは違う。あの言葉を思い出すたび、胸が熱くなる。妙に落ち着かなくなる。「聞いていますの?」ダリアの声で、ルピナスははっと我に返った。「え?」目の前でダリアが呆れた顔をしている。「さっきから三回呼びましたわよ」「ご、ごめん」ダリアはじっとルピナスを見る。そして、ふっと意味深に笑った。「考えているのは、どちらですの?」ルピナスの心臓が跳ねた。「ど、どちらって何よ」「王子か、フジかですわ」即答すぎた。ルピナスは顔を赤くする。「違う!」その反応が答えだった。ダリアは小さく笑う。「分かりやすいですわね」ルピナスは顔を背けた。自分でも分からない。ローゼンのことはまだ整理しきれていない。前世の真実を知ったばかりだ。憎しみは消えた。でも簡単に昔みたいには戻れない。あまりにも失ったものが大きすぎる。それに比べてフジは。ずっと隣にいた。怒っても。笑っても。傷ついても。変わらず、そこにいた。その存在が、どれだけ自分を支えていたのか。今になって少しずつ分かってきた。その時だった。窓の外、中庭を歩くフジの姿が見えた。黒い髪が風に揺れる。ルピナスの視線が止まる。自然に目で追ってしまう。その先で。一人の令嬢がフジに声をかけた。明るい栗色の髪をした美しい令嬢だった。学院でも人気のある伯爵令嬢、セシリア。彼女は嬉しそうに微笑みながら、フジへ何かを差し出している。手作りの菓子だった。ルピナスの胸がざわついた。「……何してるの」思わず呟く。ダリアが窓の外を見て、すぐに理解したように笑った。「あら」セシリアは頬を染めていた。どう見ても好意がある。フジは困ったようにそれを受け取っている。その瞬間。ルピナスの胸が強く締めつけられた。嫌だった。見たくない。どうしてか分からない。でも嫌だった。フジが誰かに笑いかけるのも。誰かに触れら
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第46話 フジ、その手を離さない

中庭に吹く風が、妙に熱かった。ルピナスは息を整えながらフジを見つめていた。さっきまでセシリアと話していた姿が頭から離れない。胸の奥がざわつく。落ち着かない。こんな感情、知らない。フジは少し首を傾げた。「どうした」いつも通りの声。それなのに、今日はその声だけで胸が跳ねる。ルピナスは言葉に詰まる。来たはいいけれど、何を言えばいいのか分からなかった。ただ、見たくなかった。セシリアと笑っている姿を。その理由がもう分かってしまっている。「別に」思わずそっぽを向く。フジはじっと見ていた。その視線が痛い。鋭いくせに、どこか優しい。「嘘だな」短い一言。ルピナスの肩がぴくりと揺れる。「嘘じゃないわ」「顔が怒ってる」その言葉にルピナスは頬を赤くした。怒っているわけじゃない。たぶん。いや、少し怒っていた。自分でも意味が分からないまま。フジは手に持っていた包みを見た。セシリアから渡された菓子だった。それを見た瞬間、ルピナスの胸がまたざわつく。「食べるの?」つい口から出た。フジは一瞬だけ目を細める。そして静かに言った。「いらない」そう言って、その包みを近くの衛兵に渡した。「甘いものは苦手だ」ルピナスの胸が少し軽くなる。その変化に自分で驚く。なんで安心してるの。フジはそんなルピナスを見ていた。分かりやすい。あまりにも。「お前」低い声。ルピナスが顔を上げる。フジは少しだけ口元を緩めた。珍しい笑みだった。「嫉妬してるのか」その瞬間、ルピナスの顔が真っ赤になる。「ち、違う!」即答だった。でも声が裏返る。説得力がない。フジは少し近づいた。ルピナスの心臓が跳ねる。距離が近い。逃げたいのに足が動かない。「ローゼンの時は平気だった」その言葉に、ルピナスの呼吸が止まる。見抜かれている。全部。フジは静かに続けた。「でも俺は嫌なんだろ」その声は低く、逃がさない。ルピナスは言葉を失う。否定したい。でもできない。フジの黒い瞳に映る自分が、全部答えを知っているみたいだった。「……知らない」やっと出た声は弱かった。フジはゆっくりと手を伸ばす。そしてルピナスの手首を掴んだ。熱い。その温度だけで身体が震える。「俺は知ってる」ルピナスが目を見開く。フジの声が落ちる。
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第47話 ローゼン、奪われる痛みを知る

庭園の空気が凍りついた。ローゼンの視線は、ルピナスの手首を掴むフジの手に釘付けになっていた。指先が白くなるほど強く握り締められている。その光景だけで十分だった。理解してしまった。自分が一番恐れていたことを。奪われる。今度こそ、本当に。ルピナスを。胸の奥に鈍い痛みが走る。それは前世で彼女を失った時とは違う痛みだった。あの時は絶望だった。けれど今は。目の前で、少しずつ離れていく感覚だった。それが何より苦しかった。ルピナスも固まっていた。フジの手は熱い。離れない。いや、離してくれない。その温度がまだ腕に残っている。「……離せ」低い声が落ちた。ローゼンだった。いつもよりずっと冷たい。フジは視線だけを向ける。動じない。「断る」短い。あまりにもあっさりだった。ローゼンの眉がぴくりと動く。「彼女が困っている」「そうか?」フジはルピナスを見る。真っ直ぐに。「嫌か」その問いにルピナスの心臓が跳ねた。答えられない。嫌じゃない。むしろ。離されたら少し寂しいと思ってしまった。その沈黙が答えだった。ローゼンの胸が大きく軋む。痛い。何より、その沈黙が痛かった。前なら違った。前なら、ルピナスは真っ先に自分の方へ来た。怒っても。泣いても。最後には。でも今は違う。彼女の世界に、自分の知らない時間が流れていた。その隙間に入り込んだのがフジだ。「……そうか」ローゼンは静かに目を伏せた。理解したくなかった。だが理解してしまう。ルピナスの心は、もう前世だけで動いていない。今を見ている。そしてその今には、フジがいる。その事実があまりにも重かった。ルピナスが慌てて口を開く。「違うの、これは」何を言いたいのか、自分でも分からない。違う?何が?否定したいのか。認めたいのか。全部曖昧だった。ローゼンは苦く笑う。「いや」その笑みは優しかった。でもどこか壊れそうだった。「分かった」ルピナスが息を呑む。その顔が痛いほど大人びて見えた。前世の王子ではない。失って、後悔して、それでも立ってきた男の顔だった。ローゼンはフジを見る。黒い瞳が静かに燃えている。「簡単には渡さない」その声は低く、確かだった。宣戦布告だった。フジも目を逸らさない。「渡すつもりもない」二人
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第48話 ローゼン、新たな出会い

朝の冷たい風が頬を撫でていた。ローゼンは一人、王宮の外れにある古い庭園を歩いていた。昨夜から眠れていない。胸の奥が重い。フジがルピナスの手を掴んでいた光景が、何度も頭に浮かぶ。あの沈黙。あの答え。ルピナスが拒まなかった事実。それだけで十分だった。彼女の心はもう、自分だけのものではない。分かっていた。いつかこうなると。前世の時間を失った代償は、簡単に埋まるものじゃない。真実を知ってもらえた。許され始めてもいる。でもそれと、選ばれることは違う。その現実が痛い。「情けないな」小さく笑う。王子なのに。国を背負う立場なのに。たった一人の女で、こんなにも弱くなる。その時だった。「前を見ないと転びますよ」不意に声が落ちた。ローゼンが顔を上げる。そこにいたのは、一人の女性だった。淡い銀髪を肩で揺らし、静かに微笑んでいる。見たことのない顔だ。年齢はルピナスたちと同じくらい。白い司祭服をまとっていた。王都の神殿所属の治癒術師らしい。その腕には大量の書物が抱えられていた。「あ」ローゼンが避ける前に、その女性は足を滑らせた。書物が一斉に落ちる。ローゼンは反射的に腕を伸ばし、その身体を支えた。女性が目を丸くする。「……危ない」ローゼンの声は低かった。女性はしばらく固まっていたが、やがてふっと笑った。「助かりました」不思議な笑顔だった。ルピナスとは全然違う。穏やかで、静かで、柔らかい。「殿下でしたか」ローゼンは眉をひそめる。「知っているのか」「ええ。有名ですから」そう言いながら、彼女は落ちた本を拾い始めた。ローゼンも無言で手伝う。奇妙な沈黙だった。でも嫌じゃなかった。女性が一冊を抱えながら言う。「失恋ですか?」ローゼンの手が止まる。「顔に書いてあります」その言葉に、思わず苦笑した。初対面でそんなことを言う女は珍しい。「そんなに分かりやすいか」「ええ。ひどく」彼女は迷いなく言った。ローゼンは初めて少しだけ肩の力を抜いた。「……シェリアです」女性が名乗る。「シェリア・ノクス」ローゼンはその名を繰り返した。不思議な響きだった。シェリアは微笑む。「大切なものを失った時、人は前だけを見ろと言われます。でも私は違うと思っています」ローゼンは目を向ける。「ちゃんと悲
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第49話 ルピナス、自分の恋を知る

回廊の影から、ルピナスはじっとその光景を見つめていた。ローゼンが笑っている。隣には、見知らぬ銀髪の女性。穏やかに言葉を交わし、どこか柔らかい空気が流れていた。胸が少しだけ締めつけられる。でも。苦しくない。その感覚に、ルピナス自身が一番驚いていた。少し寂しい。昔、大事にしていた本を誰かに譲る時みたいな。そんな小さな喪失感。けれど、それだけだった。嫉妬ではない。奪われる怖さでもない。むしろ、どこか安心している。「よかった」小さく漏れた声に、自分で驚く。ローゼンが前を向けるなら。新しい誰かと笑えるなら。それはきっと、良いことだ。前世で止まっていた彼の時間も、ようやく動き始めるのかもしれない。その姿を見て、ルピナスははっきり理解した。終わったんだ。あの恋は。確かに愛していた。大切だった。失った時は死ぬほど苦しかった。でも。もう戻りたいわけじゃない。今の自分は、あの頃の自分じゃない。「……終わったんだ」そう口にした瞬間、胸の奥が少し軽くなった。長く縛っていた鎖が外れたみたいだった。その時だった。「何してる」低い声が背後から落ちる。ルピナスの肩が跳ねる。振り返る。フジだった。いつもの無表情。でも目だけが少し鋭い。ルピナスは慌てて視線を逸らす。「べ、別に」フジはルピナスの視線の先を見る。ローゼンとシェリア。すぐに状況を理解した。「気になるのか」その問いに、ルピナスは少しだけ考えた。そして首を振る。「違う」その答えは、驚くほど自然だった。フジは黙る。ルピナスは少し笑った。「不思議ね。少し寂しいのに、嫌じゃないの」フジは静かに聞いていた。ルピナスは遠くを見る。「幸せになってほしいって思った」その言葉で、フジの胸が少しだけ緩む。それは恋の終わりだ。ちゃんと分かった。ルピナス自身が、それを理解したのだと。「そうか」短く返す。でもその声は少しだけ優しかった。ルピナスはふとフジを見上げる。その瞬間。中庭の向こうで、若い令嬢たちがフジを見て騒いでいるのが見えた。「あの人、フジ様よ」「今日も素敵」「話しかけたい」その声が耳に入る。ルピナスの胸がざわついた。さっきとは違う。全然違う。落ち着かない。嫌だ。近づかないでほしい。笑いかけないでほしい。
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第50話 ルピナス、恋を認める

夕暮れの中庭は、茜色に染まっていた。授業を終えた生徒たちが、それぞれ帰路につく中、ルピナスだけは一人、噴水の前で立ち止まっていた。胸が落ち着かない。さっきから何度も、フジの言葉が頭の中で繰り返されている。――俺は?たった三文字。その問いに、自分は答えられなかった。答えられなかったのではない。答えを口にする勇気がなかった。ルピナスは噴水の水面を見つめる。揺れる水面に映る自分は、どこか困ったように笑っていた。「もう、隠せないじゃない」小さく呟く。ローゼンが誰かと笑っている姿を見ても、胸は痛まなかった。少し寂しかっただけ。幸せになってほしいと、本心から思えた。それが答えだった。前世の恋は、ちゃんと終わった。大切な思い出として。心の中にしまえるくらいには。けれど。フジだけは違う。令嬢が話しかけるだけで落ち着かなかった。誰かに笑いかける姿を想像するだけで苦しくなった。自分でも呆れるくらい分かりやすい。「恋なんだ」ようやく、その言葉を口にする。胸の奥が熱くなる。認めた瞬間、不思議なくらい心が軽くなった。逃げ続けていた答えを、ようやく受け入れたから。「何を一人で笑っている」突然、後ろから聞き慣れた低い声がした。振り返る。フジだった。夕陽を背に立つその姿は、どこか眩しく見える。ルピナスは思わず笑ってしまう。「何でもない」「そうは見えない」フジはゆっくり近づいてくる。その距離が縮まるたびに、鼓動が速くなる。こんなこと、前はなかった。隣にいるのが当たり前だったから。失うことなんて考えもしなかったから。「フジ」名前を呼ぶ。それだけで、胸がいっぱいになる。フジは静かに返事をした。「なんだ」ルピナスは少しだけ視線を泳がせる。恥ずかしい。でも逃げたくなかった。「この前……手を離さなかったでしょう」「ああ」「どうして?」フジは少しだけ笑った。本当に少しだけ。「離したくなかった」その答えは真っ直ぐだった。嘘も飾りもない。ルピナスの頬が赤く染まる。やっぱり、この人はずるい。思ったことを、そのまま伝える。だから逃げられない。ルピナスは深く息を吸った。「私ね」声が震える。それでも続けた。「ローゼンが誰かと一緒にいても、大丈夫だった」フジは黙って聞いている。「幸せにな
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