CARDINAL(カーディナル) ― 裏切られた前世を返上し、今生は私が主役 ― のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

67 チャプター

第21話 王子、焼き菓子作りに再挑戦する

ローゼンは決意した。非常に。とても。ものすごく。決意した。負けられない。絶対に。何にとは言わない。だが負けられない。「殿下」側近が声をかける。「なんだ」「何をなさっているのでしょう」ローゼンは真顔で答えた。「焼き菓子を作る」側近は頭を抱えた。またである。最近の王子は厨房によく出没する。料理長から苦情が来る日も近い。王宮厨房。ローゼンは腕まくりをした。前回。サンドイッチは失敗した。惨敗だった。歴史的大敗北だった。しかし。今回は違う。焼き菓子である。材料を混ぜるだけ。簡単だ。たぶん。おそらく。きっと。料理長は不安しかなかった。一時間後。何かが完成した。「どうだ」ローゼンが聞く。料理長は見た。焼き菓子だった。ちゃんと焼き菓子だった。奇跡だった。「殿下」「なんだ」「前回より百倍良いです」「そうか」ローゼンは少し嬉しかった。ちょろかった。翌日。学院。中庭。ルピナス達は今日も集まっていた。「ダリアー!」「なんですの」「ケーキ!」「知っていますわ」「マーガレットー!」「なんですの」「ケーキ!」「意味が分かりませんわ」平和だった。その時。ローゼンが現れる。しかも。紙袋を持って。ダリアが嫌な予感を覚えた。マーガレットも覚えた。フジだけは平然としていた。「ルピナス」「なに?」「作った」ルピナスは紙袋を受け取る。中を見る。焼き菓子だった。しかも。普通に美味しそうだった。「え?」ルピナスが固まる。「本当に作ったの?」「ああ」「一人で?」「料理長が三回止めた」「止められてるじゃない」ローゼンは黙った。事実だった。ルピナスは焼き菓子を一つ食べる。もぐもぐ。もぐもぐ。沈黙。全員が見ている。判決の時間だった。そして。ルピナスが言った。「美味しい」ローゼンが固まる。「本当か」「本当よ」「本当に?」「本当に」ローゼンは天を見上げた。少し泣きそうだった。ダリアは呆れた。マーガレットも呆れた。王子が焼き菓子でここまで喜ぶとは思わなかった。その時だった。フジが一つ食べる。全員が見る。フジは数秒考えた。そして。「前回より良い」と言った。ローゼンは感動した。人生で初めて。フジに褒められた
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第22話 フジ、無意識に宣戦布告する

フジは何も考えていなかった。本当に。全く。一ミリも。考えていなかった。だから問題だった。昼休み。中庭。いつもの場所。ルピナス。ダリア。マーガレット。フジ。そしてローゼン。最近では五人でいるのが当たり前になっていた。「ルピナス」フジが呼ぶ。「なに?」「これ」小さな箱を差し出した。ルピナスは受け取る。開ける。固まる。「え?」ダリアも覗く。「え?」マーガレットも覗く。「え?」ローゼンも覗く。「え?」箱の中には。花の形をした焼き菓子が並んでいた。しかも。一つだけ。紫色の砂糖細工で飾られている。ルピナスは瞬きをした。「綺麗」「そうか」フジは頷く。「ルピナスの花だ」沈黙。ダリアが固まる。マーガレットが固まる。ローゼンが固まる。当のフジだけが平然としていた。「フジ様」ダリアが聞く。「なんだ」「今なんと?」「ルピナスの花だ」「その前ですわ」「綺麗か?」「違いますわ」ダリアは頭を抱えた。重症だった。こちらも。かなり。重症だった。ルピナスは嬉しそうだった。「ありがとう!」「どういたしまして」笑顔。自然な笑顔。そして。ローゼンの心に何かが刺さった。グサッ。かなり深く。「なぜだ……」本日一回目。マーガレットは思った。これは駄目だ。完全に駄目だ。フジ本人に自覚がない。それが一番危険だった。その時。ルピナスが言った。「フジ」「なんだ」「私もお返し作る!」フジは少し驚いた。「お返し?」「そう!」「気にしなくていい」「するの!」即答だった。フジは少し考えた。そして。「楽しみにしている」と答えた。ローゼンの心に。さらに何かが刺さった。グサッ。二本目だった。「殿下」マーガレットが小声で言う。「なんだ」「頑張ってくださいまし」「そうか」同情されていた。ついに。完全に。同情されていた。その時だった。ルピナスが突然立ち上がる。全員が見る。ルピナスは満面の笑みだった。「よし!」「なんですの?」ダリアが聞く。ルピナスは高らかに宣言した。「フジへのお返し大作戦よ!」フジは少し笑った。ローゼンは少し泣きそうだった。ダリアとマーガレットは思った。もう付き合えばいいのではないだろうか。ただし
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第23話 ルピナス、お返し作りで大惨事を起こす

ルピナスは燃えていた。非常に。とても。ものすごく。燃えていた。理由は一つ。フジへのお返しである。「ダリア!」「なんですの」「お菓子を作るわ!」ダリアは固まった。嫌な予感しかしなかった。「作ったことありますの?」「ないわ!」即答だった。ダリアは頭を抱えた。マーガレットも頭を抱えた。終わった。始まる前から終わった。その日の放課後。カーディナル侯爵家。厨房。ルピナスは腕まくりをしていた。戦闘態勢だった。「お嬢様」料理長が震えた声を出す。「なんでしょう」「包丁の持ち方が逆です」「え?」開始三分だった。先が思いやられる。一時間後。厨房は戦場だった。小麦粉が飛ぶ。卵が飛ぶ。砂糖が飛ぶ。なぜかルピナスも飛んだ。「お嬢様!!」メイド達の悲鳴が響く。料理長は泣きそうだった。二時間後。何かが完成した。ルピナスは満足そうだった。「できたわ!」料理長は見た。丸かった。たぶん。きっと。おそらく。焼き菓子だった。「お嬢様」「なに?」「これは何ですか」ルピナスは胸を張った。「クッキーよ!」料理長は黙った。クッキーだったらしい。翌日。学院。中庭。ルピナスは大きな箱を抱えていた。ダリアが嫌そうな顔をする。マーガレットも嫌そうな顔をする。フジだけが平然としていた。「フジ!」「なんだ」「できた!」箱を差し出す。フジは受け取る。開ける。沈黙。ダリアも見る。沈黙。マーガレットも見る。沈黙。ローゼンも覗く。沈黙。誰も感想を言えなかった。クッキーだった。たぶん。おそらく。きっと。クッキーだった。「どう?」ルピナスが聞く。フジは一枚手に取った。食べる。全員が見守る。判決の時間だった。フジは咀嚼した。数秒。十秒。二十秒。そして。「硬いな」と言った。ルピナスが固まった。ダリアが吹き出した。マーガレットも耐えられなかった。ローゼンまで吹き出した。フジだけが真顔だった。「味は悪くない」「本当?」「ああ」「本当に?」「ああ」「良かった!」ルピナスは満面の笑みになった。フジも少しだけ笑った。その時だった。ローゼンが小さく呟く。「羨ましいな」誰も聞いていないと思っていた。しかし。ルピナスは聞いていた。
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第24話 ローゼン、初めて後悔を知る

ローゼンは執務室で一人、机の引き出しを開いた。中には一枚のクッキーが入っている。ルピナスから貰ったものだった。少し歪な形。少し焦げている。お世辞にも上手とは言えない。それでも。ローゼンは捨てられなかった。「殿下」側近が書類を持って入ってくる。「何を見ておられるのですか」ローゼンは少し考えた後、クッキーを見せた。側近は固まった。「まだ食べていなかったのですか」「ああ」「なぜです」ローゼンは答えられなかった。なぜだろう。ただ。食べてしまったらなくなる気がした。そんなことを思う自分に少し驚く。昔の自分なら考えもしなかった。「変ですね」ぽつりと呟く。側近は首を傾げた。「何がですか」「以前の俺なら」ローゼンはクッキーを見る。「こんなもの、見向きもしなかった」その言葉に。側近は何も言えなかった。昔のローゼンは王子だった。誰もが褒める。誰もが慕う。誰もが近寄ってくる。だから。誰かが自分のために何かをしてくれることを、当たり前だと思っていた。だが今は違う。ルピナスは近寄ってこない。追いかけても逃げる。話しかけても警戒される。それなのに。時々こうして笑う。クッキーをくれる。褒めてくれる。そのたびに嬉しくなる。不思議なほどに。「殿下」側近が静かに言った。「ルピナス様は昔から変わりません」ローゼンは顔を上げた。「変わったのは」側近は少し迷った。だが続けた。「殿下の方ではありませんか」執務室が静かになる。ローゼンは何も言えなかった。昔。ルピナスはよく自分を見ていた。話しかけてくれた。褒めてくれた。自分を優先してくれた。だが。自分はどうだっただろう。当然だと思っていた。いつまでも続くと思っていた。失うなど考えもしなかった。「俺は……」ローゼンは言葉を失う。もし。もしあの時。もう少しルピナスを見ていたら。もう少し話を聞いていたら。違う未来もあったのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。初めてだった。自分の選択を後悔したのは。学院。昼休み。ルピナスは今日も元気だった。「ダリア!」「なんですの」「ケーキ!」「知っていますわ」「マーガレット!」「なんですの」「ケーキ!」「意味が分かりませんわ」笑い声が響く。フジも少しだけ笑って
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第25話 ダリア、王子の異変に気づく

「殿下?」ダリアは思わず声をかけた。いつもの昼休み。いつもの中庭。いつもの五人。だが。一人だけ様子がおかしかった。ローゼンである。静かだった。あまりにも。普段なら。ルピナスが笑えば見つめる。フジが話せば睨む。焼き菓子が出れば張り合う。だが今日は違った。ぼんやりしている。どこか遠くを見ていた。「気持ち悪いですわ」ダリアが呟く。マーガレットも頷いた。「気持ち悪いですわ」本人に聞こえていた。少し傷付いた。しかし否定する気力もない。ルピナスはケーキを食べながら首を傾げる。「どうしたの?」ローゼンは少しだけ笑った。「なんでもない」嘘だった。昨夜からずっと考えていた。昔のこと。ルピナスのこと。自分のこと。考えれば考えるほど。胸が重くなる。「本当に?」ルピナスが覗き込む。近い。ローゼンは少し息を止めた。昔なら。こんな距離は当たり前だった。ルピナスが自分を見上げることも。笑いかけることも。全部。当たり前だった。でも今は違う。この距離すら。たまたま手に入ったものだ。「……殿下?」ダリアが眉をひそめる。ローゼンの顔色が悪い。マーガレットも気付いた。これはいつもの「なぜだ」ではない。もっと深い。もっと重い。何かだった。その時。フジが静かに言った。「寝ていないな」ローゼンが顔を上げる。「なぜ分かる」「顔色だ」即答だった。ルピナスが少し心配そうに言う。「体調悪いの?」ローゼンは答えられなかった。体調ではない。心だった。前世で。ルピナスが何度も自分に向けていた視線。あの時は気付かなかった。当たり前だと思っていた。失って。ようやく気付いた。それがこんなにも重いものだったなんて。「殿下」ダリアが真面目な声で言った。「何かありましたの?」ローゼンは少し黙った。言葉を探すように。迷うように。そして。ぽつりと呟いた。「……俺は」全員が見る。ローゼンはルピナスを見た。その笑顔を見た。前は自分だけに向いていた笑顔だった。今は違う。皆に向いている。「大事なものを」喉が詰まる。苦しかった。「なくしたのかもしれない」静かだった。誰もすぐには言葉を返せなかった。ルピナスだけが。少しだけ目を伏せた。何かを感じたように。で
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第26話 ルピナス、初めて王子を見つめ直す

中庭には、午後のやわらかな陽射しが静かに落ちていた。木々の隙間を縫って差し込む光は、石畳の上にまだらな影を作り、風に揺れるたび、その輪郭をゆっくりと変えていく。そんな穏やかな景色の中で、ローゼンの言葉だけが不自然に重く、その場に沈んでいた。――大事なものを、なくしたのかもしれない。その一言は、思った以上に深くルピナスの胸に落ちた。彼女は手にしていたティーカップを見つめながら、しばらく言葉を探していた。いつもの自分なら、もっと軽く返していたはずだった。「何を今さら」と笑ってしまえたかもしれない。けれど、その日のローゼンの横顔には、今まで見たことのない影があった。それは、前世で最後まで見せなかった顔だった。後悔。その言葉に似たものが、確かにそこにあった。ルピナスは不意に、自分の胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。それが何なのか、まだ分からない。ただ、無視できない何かだった。「ルピナス様?」ダリアの声で我に返る。「……え?」「珍しいですわね。ぼんやりして」ルピナスは小さく笑って誤魔化した。「少し考えごとをしていただけよ」「王子のことですの?」あまりにも真っ直ぐな問いに、ルピナスは言葉を詰まらせた。図星だった。だが認めるのも癪だった。「違うわ」そう答えた声は、自分でも驚くほど弱かった。マーガレットが静かにルピナスを見つめる。その視線には、以前のような棘がなかった。代わりにあるのは、どこか探るような優しさだった。「でも、少し気になったのでしょう?」その言葉に、ルピナスは否定できなかった。気になった。それは事実だった。前世のローゼンは、もっと堂々としていた。迷いもなく、自分を見下ろしていた。愛されていると思い込んでいた自分を、最後には切り捨てた。あの冷たい瞳を、今でも覚えている。だからこそ。今日の彼が見せた脆さが、妙に胸に残った。「人って、変わるものかしら」ぽつりと漏れたその言葉に、フジが顔を上げた。彼はしばらくルピナスを見つめ、それから静かに言った。「変わる」短い言葉だった。けれど不思議と重みがあった。「変わらないと思っていたものほど、案外簡単に変わる」風が吹いた。テーブルの上の紙片が揺れ、カップの中の紅茶に小さな波紋が広がる。ルピナスはその揺れを見つめた。まるで自分の心みた
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第27話 ローゼン、ひとりで過去を振り返る

夜の王宮は静かだった。昼間の喧騒が嘘のように消え、広い廊下には靴音だけが乾いた音を残していく。ローゼンは一人、灯りの少ない回廊を歩いていた。行き先は決まっていない。ただ、部屋に戻る気になれなかった。胸の中に沈んだままの違和感が、どうしても消えなかったからだ。ルピナスの顔が浮かぶ。今日見せた表情。ほんのわずかに揺れた瞳。あれは何だったのか。考えても答えは出ない。それでも考えずにはいられなかった。やがて足は自然と中庭へ向かっていた。夜露を含んだ草の匂いが、冷えた空気の中に混じっている。空を見上げれば、雲の隙間から細い月が覗いていた。頼りなく、しかし確かに光っている。ローゼンは石造りのベンチに腰を下ろした。静寂が広がる。こうして一人になると、嫌でも思い出す。昔のことを。ルピナスはいつも自分を見ていた。廊下ですれ違えば微笑んでいた。言葉を交わせば、嬉しそうに頬を染めた。それが当たり前だった。自分が王子だからだと思っていた。それ以上でも、それ以下でもない。そう信じていた。だから気づかなかった。あの笑顔の意味を。あの視線の重さを。「……愚かだったな」声に出してみると、その言葉は思っていた以上に重かった。もしあの頃、自分がもう少し立ち止まっていたなら。もしルピナスの言葉に耳を傾けていたなら。もし彼女の努力を見ていたなら。未来は変わっていたのだろうか。分からない。だが今のように、こんなにも遠くなることはなかった気がした。ローゼンはゆっくりと目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、今日の彼女の笑顔だった。自分に向けられたものではない笑顔。フジにも。ダリアにも。マーガレットにも。等しく向けられる笑顔。その光景が、なぜこんなにも胸を締めつけるのか。今なら分かる。欲しかったのだ。あの笑顔を。自分だけに向けてほしかった。けれど、その資格を失ったのは、自分自身だった。手放したのは自分だった。ルピナスは何も変わっていない。変わったのは、自分の方だ。失ってから、ようやく気づいた。それがどれほど愚かなことか。乾いた笑いが漏れる。夜風が頬を撫でた。冷たかった。その冷たさが、少しだけ心地よかった。痛みを紛らわせてくれる気がした。「殿下」不意に背後から声がした。振り返ると、側近が立っていた
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第28話 フジ、ルピナスの変化に気づく

昼下がりの中庭には、穏やかな風が吹いていた。春の名残を含んだその風はまだ少し冷たく、木々の葉を揺らしながら、石畳の上に細かな影を落としていく。フジはいつもの席で紅茶を口に運びながら、静かにルピナスを見ていた。最近、彼女は少し変わった。それはほんの些細なことだった。笑う回数が減ったわけではない。ケーキを求める勢いが衰えたわけでもない。ダリアを振り回し、マーガレットを困らせる様子も相変わらずだった。けれど、ふとした瞬間。彼女の視線が遠くへ向くことが増えた。まるで何かを考えているように。あるいは、何かを思い出しているように。「ルピナス」フジが声をかける。彼女ははっと顔を上げた。「なに?」その返事はいつも通り明るかった。だが、その奥にほんのわずかな揺らぎがある。フジはそれを見逃さなかった。「最近、考えごとが多い」ルピナスは少し驚いた顔をした。「そう見える?」「ああ」短い返答だった。けれど、それだけで十分だった。ルピナスはティーカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ目を伏せた。「……少しね」風が吹く。カップの表面に映る空が揺れた。「王子のことか」その言葉に、ルピナスの指先が止まった。フジの声は穏やかだった。責めるわけでも、探るわけでもない。ただ、事実を確認するような静かな声だった。ルピナスは苦笑した。「どうして分かったの?」「見ていたから」それだけだった。フジはいつだって、言葉が少ない。けれど、その少なさの中に嘘はない。ルピナスは少しだけ胸が締まるのを感じた。見られていた。気づかれていた。それが不思議と嫌ではなかった。「……変よね」ぽつりと呟く。「前世では、あんな人じゃなかった」その言葉に、フジは静かに眉を寄せた。前世。彼女が時折見せる、その不思議な言葉。冗談のようでいて、決して笑えない重みがある。フジはそれ以上は聞かなかった。ルピナスが話したい時に話せばいい。そう思っていた。「今は違う」ルピナスが続ける。「少しだけ、変わった気がするの」フジは黙って聞いていた。「でも、それが怖いの」その言葉に、フジの手が止まる。ルピナスは遠くを見るように言葉を落とした。「変わったって信じたら、また傷つくかもしれない」その声はかすかに震えていた。フジは初めて知った。
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第29話 ローゼン、初めて身を引こうとする

夕暮れの回廊は静かだった。昼間の熱をわずかに残した石壁に、傾いた陽が赤く滲んでいる。ローゼンは一人、その長い廊下を歩いていた。足音だけが乾いた音を響かせる。胸の奥が重かった。先ほど見た光景が、まだ頭から離れない。フジの隣で笑うルピナス。あんなふうに自然に笑う彼女を見たのは、いつ以来だっただろう。いや。違う。あんな笑顔を、自分は知らない。前世の彼女も笑っていた。いつだって自分に微笑みかけていた。けれど、それはどこか無理をしていたのかもしれない。今の笑顔は違った。肩の力が抜けていて、誰かに認められるためでもなく、ただ心から楽しそうだった。その違いに気づいてしまった瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。自分は一度も、彼女をあんなふうに笑わせたことがなかったのかもしれない。そう思った。「……情けないな」ぽつりと零れた声は、夕闇に溶けて消えた。ルピナスが自分を見なくなった理由を、ずっと理解できなかった。なぜ避けられるのか。なぜ拒絶されるのか。なぜ昔と違うのか。けれど今なら少しだけ分かる。変わったのは彼女ではなく、自分の方だった。彼女の想いを軽く扱い、努力を当然だと思い込み、その手を振り払った。それなのに今さら、失ったことを惜しんでいる。あまりにも都合がいい。あまりにも愚かだ。回廊の窓から見える中庭に、まだ彼女たちの姿があった。笑い声が風に乗って届く。その中心には、ルピナスがいる。その隣にフジがいる。その距離は、思っていたよりずっと近かった。ローゼンは目を伏せた。あそこに自分が入る余地は、今はない。いや。最初からなかったのかもしれない。自分はただ、彼女の好意に甘えていただけだった。好きだと言われることに慣れすぎて、その重みを知らなかった。今なら分かる。あれほど真っ直ぐ向けられる想いが、どれほど尊いものだったのか。「……しばらく、やめるか」追いかけることを。問い詰めることを。無理に近づこうとすることを。その言葉を口にした瞬間、胸のどこかが裂けるように痛んだ。それでも。これ以上、自分の都合で彼女を揺らしたくなかった。ルピナスがようやく手に入れた穏やかな時間を、壊したくなかった。それが本当に彼女を想うことなら。たとえその隣に立てなくても、見守るべきなのだろう。そう思った。そう思おうとし
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第30話 ルピナス、いないことに気づく

翌日の昼下がり。中庭には、いつものように穏やかな風が吹いていた。陽射しはやわらかく、木漏れ日が石畳の上に揺れている。ダリアとマーガレットは先に席についていた。フジも静かに紅茶を口にしている。そして、その中央でルピナスが辺りを見回していた。「……遅いわね」ぽつりと漏らした声に、ダリアが顔を上げる。「誰がですの?」ルピナスは少しだけ間を置いた。「……別に」その返事が妙に早かった。ダリアは目を細める。マーガレットも小さく笑った。「王子のことですわね」「違うわ」即答だった。だが、その否定にはいつもの勢いがなかった。ルピナスは自分でも気づいていた。探している。無意識に。いつもなら、少し離れた場所からこちらを見ているはずだった。あるいは、何か理由をつけて近づいてくる。そんな気配が、今日はない。それだけのことなのに。胸のどこかが妙に落ち着かなかった。「静かですわね」マーガレットが紅茶を口にしながら呟く。「いつもなら、そろそろ物陰から現れる頃ですのに」「やめなさい」ルピナスは思わず口を尖らせた。けれど、その言葉の裏にある違和感は隠せなかった。いない。それだけだった。たったそれだけなのに。なぜこんなにも気になるのだろう。「ルピナス」フジが静かに呼ぶ。「なに?」「気になるのか」その問いに、ルピナスの指先が止まった。ティーカップを持つ手がわずかに揺れる。気になる。認めたくないけれど、それは事実だった。昨日のローゼンの顔が浮かぶ。あんなに弱い顔をする人だとは思わなかった。前世では、最後まで自信に満ちていた。揺らぐことなんてなかった。けれど昨日の彼は違った。何かを失った人の顔をしていた。「……少しだけ」小さな声で答える。ダリアとマーガレットが目を見開く。ルピナスが素直に認めるのは珍しかった。フジはただ黙って彼女を見つめた。「会わないと気づくものもある」その言葉は静かだった。けれど、妙に胸に残る。ルピナスは目を伏せた。そうなのかもしれない。追いかけられていた時は煩わしかった。鬱陶しいと思っていた。なのに。いなくなると、その空白だけが妙に目立つ。風が吹く。テーブルの上に落ちた花びらが、ひらりと揺れた。ルピナスはその花びらを見つめながら、胸の奥のざわめきを抑えきれず
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