All Chapters of 虚飾の檻 ~余命僅かな私は、私を憎む夫が隠した真実を追う~: Chapter 71 - Chapter 80

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第七十一話

「まさか……」 口から零れた言葉は、自分でも聞き取れないほど小さかった。 もし、紗良さんの臓器が――。 そこから先を考えるのが怖かった。 けれど、頭の中では嫌でも答えが形になろうとしている。 紗良さんが事故に遭い紫苑医科大学附属病院へ運ばれた。 そこで母が手術に関わり、紗良さんは亡くなった。 そして同じ頃、私は大きな手術を受け、生き延びた。 偶然。そう言い聞かせようとしても、もうできなかった。 手の中の紙がかすかに震える。「千影様」 藤崎さんの声に顔を上げる。「……何ですか?」「もうひとつ、お伝えしなければならないことがあります」 その声音に、胸が強く締め付けられた。 これ以上、まだ何かあるのだろうか。「佐伯様が意識を取り戻されました」「え……?」 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。「佐伯さんが……?」「はい」 藤崎さんが静かに頷く。「今のところ容体は安定しているそうです。まだ長時間のお話は難しいようですが、意思疎通は可能だと」「よかった……」 身体から力が抜けた。 思わず胸元を押さえる。 あの日。 佐伯さんは私に何かを伝えようとしていた。 けれど、その直前に倒れた。 このまま二度と目を覚まさないのではないか。 そんな不安がずっと胸の奥に残っていた。「本当に……よかった」 安堵したのも束の間だった。 藤崎さんはまだ何か言いたそうにしている。「それと、先ほど紫苑医科大学附属病院へ伺った際、朝霧美玲様ともお会いしました」「……お母さんに?」「はい」 心臓が再び大きく鳴った。「どうして……?」「佐伯様の容体を確認するためです。それから、玲司様より榊原慧一郎について調べるよう申し付けられていましたので、その件についても少しお話を」「お母さんに、榊原さんのことを?」「はい」 藤崎さんは僅かに間を置いた。「千影様が榊原慧一郎について調べていることも、お伝えしました」「……それで?」「朝霧美玲様は――千影様と話がしたいと」「…………」 思わず息を呑んだ。 母が私と話をしたい? あれだけ過去のことを語ろうとしなかった母が。「佐伯様も同じことを仰っていました」「佐伯さんも……?」「はい。榊原慧一郎という名前をお伝えしたところ、明らかに反応が変
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第七十二話

紫苑医科大学附属病院へ着いた私は、藤崎さんに案内されるまま病棟へ向かった。 病室の前で足を止める。 「こちらです。それでは、私は車に戻ります。何かあれば連絡をください」 藤崎さんが静かに告げる。 「……ありがとうございます」 返事をしながらも、すぐには扉へ手を伸ばせなかった。 母と最後に会った日の光景が脳裏に蘇る。 病室で大声を上げて暴れ、取り乱していた姿。 何かに怯えるように叫び続ける母を、私はただ見ていることしかできなかった。 あの時と同じだったら。 そう思うと、胸の奥がざわつく。 それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。 意を決して扉を開けた。 「失礼します」 病室の中には二人いた。 ベッドの脇に置かれた車椅子に座っている佐伯さん。 そして――。 「……お母さん」 窓際にいた母が、ゆっくりとこちらを振り返った。 一瞬。 母の表情が固まった。 「千影……?」 掠れた声。その直後だった。 「千影……!」 母が駆け寄ってくる。 「え……」 突然、身体を抱き締められた。 強く。まるですがりつくように。 「ごめんなさい……」 「お母さん……?」 「ごめんなさい……千影……本当に、ごめんなさい……」 肩口が温かく濡れていく。 母は泣いていた。 嗚咽を漏らしながら、何度も謝っている。 「私のせいで……あなたにまで……迷惑をかけて……」 「…………」 思っていた姿とは、あまりにも違った。 怒鳴り声もない。 怯えながら暴れる様子もない。 ただ。私にしがみつき、泣いている。 「お母さん……」 気づけば、私の目にも涙が浮かんでいた。 いろいろなことがあった。 母が私に何かを隠していたことも知っている。 そのせいで私は傷ついた。 玲司との関係も。紗良さんのことも。 何も知らされないまま、私はずっと振り回されてきた。 それでも。目の前で泣いている母を、突き放すことはできなかった。 「……もういいよ」 「千影……」 「もう……大丈夫だから」 私も母の背中へそっと腕を回した。 母の身体は、驚くほど小さく感じた。 しばらく。私たちは何も言わずに抱き合っていた。 やがて母が落ち着き、私はベッド脇の椅子
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第七十三話

佐伯さんが少し悲しげな表情を浮かべた。 「紗良さん自身が断ったの」 「紗良さんが?」 「ええ」 「どうして……?」 佐伯さんは静かに答える。 「玲司君の妹でいたかったから」 「……玲司の?」 「紗良ちゃんはそう言っていたそうよ」 佐伯さんは少しだけ視線を落とした。 「朝霧家の養子になれば、自分は今までの自分ではなくなってしまう気がするって」 「…………」 「玲司君と過ごした時間も、星見の丘で暮らしたことも。全部、自分にとって大切だからって」 胸が締め付けられる。 玲司にとって。 紗良さんは妹だった。 そして。紗良さんにとっても、玲司は兄だった。 血が繋がっていなくても。 二人にとっては、それが家族だったのだ。 「だから……断ったんですね」 「ええ」 しばらく沈黙が落ちる。 私はそこで、もうひとつ。 ずっと気になっていたことを口にした。 「だったら……どうして私は?」 「え?」 「どうして私は、お母さんに引き取られたの?」 母の指先が止まる。 「双子だったんですよね」 「…………」 「どうして、私だけだったの?」 責めたいわけではなかった。 それでも。聞かなければならなかった。 どうして私が選ばれたのか。 どうして紗良さんではなく、私だったのか。 「佐伯さんは……知ってるんですか?」 「それは……」 佐伯さんが言い淀む。 視線を母へ向ける。 母はしばらく俯いていた。 やがておずおずと顔を上げる。 「……私が決めたの」 「お母さんが?」 「ええ」 母は小さく息を吸った。 「あの頃の私は……仕事ばかりだった」 ぽつりと言葉を落とす。 「病院のことで頭がいっぱいで……自分がちゃんと子供を育てられるか、自信がなかった」 「…………」 「二人とも迎えるなんて、無責任なことはできないと思った」 「だから、一人だけ?」 「ええ」 母は苦しそうに頷く。 「私は……病気でもう子供を産めない身体になっていた」 初めて聞く話だった。 「そう、だったの……?」 「だからなのかしらね」 母が僅かに笑う。 けれど、その目には涙が滲んでいた。 「子供への憧れが、とても強かったの」 「…………」 「いつか自分にも家族ができた
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第七十四話

何も聞こえなくなった。 目の前にいる母の姿も佐伯さんの姿も全てが遠く感じる。 ――紗良ちゃんの臓器は、あなたに移植された。 ただその言葉だけが何度も頭の中で繰り返されていた。 私は紗良さんから臓器の提供を受けて生きていた。 「…………」 自分が重い病気だったことは知っている。 幼い頃から肝臓を患い、一時は命すら危ぶまれていたことも。 そして移植を受けたからこそ、今こうして生きていられることも。 母から何度も聞かされてきた。 だからずっと私はどこかの誰かに命を救ってもらったのだと思っていた。 名前も知らない顔も知らない。 ただ、その人の善意によって私は生きているのだと。 それがまさか—— 「紗良さん……だったの?」 もう一度確かめる。 母は涙を滲ませながら頷いた。 「……ええ」 「私に臓器を提供してくれたのが……本当に?」 「そうよ」 「…………」 胸元を押さえる。 苦しい呼吸が浅くなっていく。 玲司が妹のように愛していた少女。 そしてつい最近になって知った、私の双子の姉妹。 その紗良さんの身体の一部が。 今も私の中にある。 「どうして……」 掠れた声が零れる。 「どうして紗良さんが、私に……?」 母はしばらく何も答えなかった。 やがて。 「私はね」 小さな声で話し始める。 「事故が起きる前から、紗良ちゃんと何度か会っていたの」 「……お母さんが?」 「ええ」 驚いて母を見る。 「あなたには黙っていたけれど」 「どうして……?」 「最初は私のほうから会いに行った。でも、そのうち紗良ちゃんのほうからも、あなたのことを聞いてくるようになったわ」 「私の?」 「どんなふうに暮らしているのか。どんな性格なのか。元気にしているのか」 母が寂しそうに笑う。 「それで、あなたが病気だということも知った」 「…………」 私は自分の腹部へ手を添えた。 そこにある傷も。 何のための手術だったのかも。 私はずっと知っている。 「紗良ちゃんは、あなたが移植を必要としていると知って自分がドナーになれないかと言ったの」 「……え?」 思わず母を見た。 「紗良さんが……自分から?」 「ええ」 「私に?」 「そうよ」
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第七十五話

「……ええ」 「どうして?」 自然と声が強くなった。 「玲司にとって、紗良さんは妹だったんでしょう?」 「わかっているわ」 「だったら、一言くらい……!」 玲司は紗良さんを殺されたと思い込み。 母を憎みそして私まで憎んだ。 その原因が今、目の前にある。 「玲司君には、手続き上の決定権がなかったの」 佐伯さんが静かに口を開いた。 「決定権?」 「その頃には玲司君はすでに星見の丘を出て、久我家の人間になっていた」 「……うん」 「玲司君と紗良ちゃんは、本当の兄妹でもなければ、戸籍上の家族でもない」 私は唇を噛む。 わかっている。 でも、それと気持ちは別だった。 「当時、紗良ちゃんの立場について責任を負っていたのは星見の丘だった」 そこで私は手元の資料へ視線を落とす。 「……榊原慧一郎」 「ええ」 佐伯さんが頷いた。 「当時の施設長よ」 臓器提供の承諾書。 そこに記されていた名前。 「だから、榊原さんが承諾した……」 「そういうことよ」 少なくとも。 そこまでは理解できた。 私は深く息を吐く。 「わかった」 二人を見る。 「玲司に法的な決定権がなかったことも。榊原さんが関わっていたことも」 でも。 「それなら余計にわからない」 母の顔が強張る。 「玲司が調べたんだけど」 私は資料を手に取った。 「当時の手術記録、おかしいところがあるんでしょう?」 「…………」 佐伯さんの表情も変わった。 「記録された時間が合わない。関わった医師の名前にも不自然なところがある。それに……あとから手を加えたような箇所もあるって」 「千影……」 「どうして?」 母の言葉を遮る。 「紗良さんは自分からドナーになるって言ってた」 「…………」 「榊原さんもそれを知っていた」 「…………」 「私は実際に移植を受けて助かった」 資料を強く握る。 「だったら、どうして記録を改竄する必要があったの?」 返事はない。 「ねえ」 胸の奥に嫌なものが広がっていく。 「移植の時、本当は何があったの?」 「…………」 「紗良さんに、何があったの?」 佐伯さんは目を伏せた。 母も唇を固く結んでいる。 「お母さん」 「…………」 「教えて」
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第七十六話

病院をあとにした私は、そのまま墓地へと足を運んでいた。 夜の墓地には人の姿もなく、風が木々の葉を揺らす音だけが静かに響いている。 いくつもの墓石が並ぶ中、私は一つの名前を見つめていた。 ――白峰紗良。 少し前まで私はその名前も存在すら知らなかった。 最初にその名を知ったのは、玲司からだった。 自分には、かつて妹のように大切にしていた少女がいた。 その少女を私の母が死なせたのだと。 玲司が私を憎む理由。 私たちがこんな関係になった原因。 白峰紗良という少女は、私と玲司の今へと繋がる過去に存在していた人だった。 それだけだと思っていたけれど違った。 今度は、私の双子の姉妹だと知った。 玲司だけではなく、私自身の過去にも深く関わっていた。 そして今日さらにもう一つ私は知らされた。 「…………」 そっと自分の腹部へ手を当てる。 私はずっと紗良さんは死んだのだと思っていた。 もう、この世界のどこにも存在しない人なのだと。 なのに違った意味で彼女はずっと私の中にいた。 私が今こうして今日まで生きてこられたのは、紗良さんが自分の身体の一部を、私に与えてくれたからだった。 「……どうしたらいいのよ」 頭の中で何度整理しようとしても。 考えれば考えるほど、ぐちゃぐちゃになっていく。 「私……あなたに何て言えばいいの?」 墓石から答えが返ってくるはずもない。 私が生きていることに罪悪感を抱くこと自体が、紗良さんに失礼なのかもわからなかった。 その時背後から足音が聞こえた。 私はゆっくりと振り返ると、暗い墓地の通路からこちらへ歩いてくる人物の姿を見た瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。 母に聞かれた。 ――あなたには今、頼れる人がいる? ――何かあった時に、あなたを守ってくれる人はいる? その時頭へ浮かんだ人物。 私は病院を出てから、ずっと迷っていた。 本当にこの人でいいのだろうか、と。 だけど、心のどこかが訴えていた。 ——この人でなければ駄目だ—— 「玲司」 名前を呼ぶと、玲司は数歩離れたところで立ち止まった。 いつものように何を考えているのかわかりにくい、冷たい目で私を見ていた。 「……待ってたわ」 「こんな時間に呼び出しておいて、
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第七十七話

墓地からの帰り道。 玲司が運転する車の窓から見える景色は、すっかり夜の闇に包まれていた。 街灯の明かりが流れるように過ぎ去っていく。 私は助手席に身を預けたまま、窓ガラスにうっすらと映る玲司の横顔を盗み見た。 墓地をあとにしてから、玲司はほとんど口を開いていない。 その表情からも、何を考えているのかはまるで読み取れなかった。 紗良さんが私に臓器を提供したこと。 その事実を告げたときの玲司の反応は、私が想像していたものとはあまりにも違っていた。 もっと激しく怒ると思っていた。 私を責め立てるか、あるいは、母への憎しみを募らせるのではないかと。 けれど、玲司は驚くほど冷静だった。 もしかすると、あの報告書を見た時点で、すでに何かを察していたのかもしれない。 臓器提供の事実が記された報告書。 その中にあった、不自然に黒く塗り潰された部分。 あれを見た瞬間、玲司は私が気づかなかった何かに気づいていたのだろうか。 だとしても、あまりにも静かすぎる。 仮に事前に予想していたとしても、紗良さん自身に臓器提供の意思があったとしても、それですべてが許されるわけではないはずだ。 助けられたかもしれない紗良さんの命を救わず、玲司に知らせることさえしないまま、私への移植が行われたのだとしたら。 そんなこと、簡単に受け入れられるはずがない。 血の繋がりがなくても、法的な家族ではなくても、玲司にとって紗良さんはかけがえのない家族だったのだから。 ましてや、玲司はこれまでずっと、紗良さんを失った悲しみと憎しみを抱えて生きてきた。 それなのに、どうして……。 私はもう一度、玲司の横顔を窺った。 相変わらず前方を見据えたまま、黙々とハンドルを握っている。 それに、もうひとつ気になることがあった。 玲司が妙だと口にしたこと。 榊原さんに話を聞けばわかると言っていたけれど、一体何を確かめるつもりなのだろう。 私が何かを見落としている? それとも、根本的なところで何かを勘違いしているのだろうか。 考えれば考えるほど、疑問ばかりが膨らんでいく。 けれど、どれほど考えても答えは見つからなかった。 「ねえ、玲司……」 意を決して問いかけようとした、その瞬間だった。 「……っ!」
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第七十八話

鼻をつく薬品の匂い。 ここ数週間で何度嗅いだかわからないその匂いに、私はゆっくりと意識を取り戻した。 「……ん……」 重たい瞼を持ち上げる。 ぼんやりとした視界に映ったのは薄暗い室内。規則正しく響く医療機器の電子音。そして、腕には点滴の管が繋がれている。 顔を横に向けると、ベッドのすぐ脇に玲司が椅子に腰掛け、腕を組んだまま目を閉じている。 いつも隙のない姿ばかり見せる彼にしては珍しく、その顔には疲労の色が滲んでいた。 ……ずっと、ここにいたのだろうか? 「玲司……?」 「……目が覚めたか」 小さく名前を呼ぶと、玲司はすぐに目を開けた。 眠っていたわけではなかったのだろうか。 こちらを見つめる眼差しは、いつもと変わらず鋭い。 「ここは……?」 「紫苑医科大学附属病院だ。ちょうど近くを走っていたからな。直接運び込んだ」 「そう……」 短く答え、視線を天井へと戻す。 どうして玲司がまだここに残っているのかもわからない。 病院まで運んでくれたのなら、それで十分だったはずだ。 私のことなど放って、香澄のもとへ向かえばよかったのに。 そんなことを考えながら、何を口にすべきか迷っていると、玲司が不意に口を開いた。 「……高リスクの骨髄異形成症候群」 「…………っ!」 心臓が、どくりと大きく脈打った。 思わず玲司へと顔を向ける。 彼はそんな私の反応を確かめるように、わずかに目を細めた。 「急性白血病へ移行する危険性も高い病気らしいな」 「どうして、それを……」 「お前を診察した医師から聞いた」 ずっと隠してきた、私の病気。 それだけは、この男に知られたくなかったのに。 胸の奥から、冷たいものがじわじわと広がっていく。 病気のことを知られたからといって、今さら何が変わるというのだろう。 余命を告げられたとき、私は確かに絶望した。 どうして私ばかりが、こんな目に遭わなければならないのだろうと、何度も運命を呪った。 けれど、そんな惨めな姿を、この男にだけは知られたくなかった。 どうせ、同情を引くための嘘だと疑われる。 たとえ信じてもらえたとしても、今度は哀れな女だと見下されるだけかもしれない。 私の苦しみも、残された命も、この男にとっては嘲笑うための材料で
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第七十九話

「……まさか、医師から何も聞いていなかったのか?」 「それは……」 「それとも、説明を聞いても頭に入っていなかったのか。自分の命に関わることだというのに……ほとほと呆れるな」 その言葉を聞いた瞬間、頭にかっと血が上った。 ……呆れる? 今、呆れるって言ったの? ふざけないでよ。 あなたに、何がわかるというの? 突然、自分の命があと一年もないかもしれないと告げられた私の気持ちが。 これからどうすればいいのかわからず、ただ恐ろしくて、何も考えられなくなった私の気持ちが。 あなたにわかるはずがないでしょう。 だって、あのとき。 私が一人で医師の説明を受け、絶望のどん底に突き落とされていたとき。 あなたは私の傍になんていなかった。 私がどんな思いで病院をあとにしたのかも知らず、香澄と、子どもの誕生日をいわっていたでしょう? 私がどれほど苦しんでいたかなんて、知ろうともしなかったくせに。 それなのに、今さら夫のような顔をして。 どうして、そんなことを言われなければならないの? 「あなたに……!」 抑え込んでいた感情が、堰を切ったように溢れ出そうとする。 あなたに何がわかるの。 今まで私をどんなふうに扱ってきたと思っているの。 そう叫ぼうとしたそのとき、玲司が不意に手を伸ばしてきた。 そして、ベッドの上に置いていた私の左手に、そっと自分の手を重ねた。 「……っ!」 ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。 何をするの。触らないで。 反射的に、そんな言葉が喉元までせり上がってきた。 私の身体に触れる、その手。 私以外の女を抱きしめ、私以外の女に愛を囁いてきた手。 香澄と過ごすために私を蔑ろにし、傷つけ続けてきた男の手。 そんな汚らわしい手で、今さら私に触れないでよ。 ましてや、そこはまだ火傷の傷が癒えきっていない左手だった。 玲司の指先が触れるだけで、香澄に熱湯をかけられたあの日の痛みと屈辱が蘇ってくる。 まるで、塞がりかけた傷口に塩を塗り込まれているようだった。 ……嫌。もう、これ以上傷つけないで。 私は重ねられた手を振りほどこうと、左腕に力を込めた。 けれど、その直後。 「……千影」 玲司が、私の名前を呼んだ。 いつもと違う、その声に。
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第八十話

【玲司side】 千影は念のため、今夜は病院で過ごすことになった。 病院をあとにしてからしばらく経つというのに、ハンドルを握る手は、いまだに小刻みに震えていた。 「……くそっ」 苛立ちを吐き出すように悪態をつき、ハンドルを握り直す。 千影が突然意識を失い、病院へ運ばれてからずっとこうだ。 医師から告げられた病名。 ――高リスクの骨髄異形成症候群。 正常な血液を作ることができなくなり、急性骨髄性白血病へ移行する危険性も高い病気だという。 そして、何より俺を動揺させたのは、そのあとに続いた言葉だった。 治療を受けなければ、余命は一年程度。 医師は一刻も早く治療を開始し、造血幹細胞移植に向けたドナーの探索も進めるべきだと説明した。 だが、その言葉を聞いてから、俺はまともに何を考えていたのかさえ覚えていない。 ただ、病室のベッドに横たわる千影の姿だけが、頭から離れなかった。 青白い顔に以前よりも痩せた頬。 そして、病名を知られたことを恥じるかのように、必死に虚勢を張っていた姿。 ――千影が、死ぬ? その考えが脳裏をよぎった瞬間、胸の奥を冷たい何かが這い回るような不快感に襲われた。 そんなこと、許されるはずがない。 あの女は、俺から紗良を奪った朝霧美玲の娘だ。 紗良の命を犠牲にして生き延びた女。 俺がどれほどの絶望を味わったのかも知らず、何食わぬ顔で幸せを享受してきた女だ。 そんなあいつが、俺への償いも果たさず、勝手に死ぬなど許されるはずがない。 そうだ。俺はまだ、あいつを許していない。 俺と紗良の人生を壊した罪を、あいつにはこれからも背負い続けてもらわなければならない。 だからこそ、こんなところで死なれては困るのだ。 それだけのことだ。 なのに、どうしてだ。 何度そう自分に言い聞かせても、胸の奥を締めつける感覚が消えてくれない。 怒りとも、憎しみとも違う。 もっと得体の知れない、身体の芯から冷えていくような感覚。 まるで、自分の身体の一部を無理やり引き剥がされるかのような――。 「……違う」 思わず声に出して否定した。 これは、復讐すべき相手が、俺の知らないところでいなくなってしまうことへの恐怖。 それ以外の何物でもない。 そうに決ま
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