ホーム / ミステリー / Asymmetry / チャプター 121 - チャプター 130

Asymmetry のすべてのチャプター: チャプター 121 - チャプター 130

153 チャプター

121話

「お腹減ったぁ……」 そう言って雪花菜が取り出したのはチャック付きの銀色の袋で、カブトムシのイラストと外国語が書いてある。「あの、雪花菜さん、それは……」「あ、食います?」 雪花菜は封を切ると、取りやすいように開けて千夏に向ける。なんとも言えない異臭に顔をしかめながら中を見ると、大量のカブトムシが入っていた。全身に鳥肌が立ち、悪寒が走る。「いやああぁっ!? な、な、なんてもの食べてるんですか!?」「好き嫌いしちゃダメっすよ」 そう言いながら雪花菜はバリボリと音を立てながらカブトムシを食らう。銀髪の巨乳美女がカブトムシを貪るのは、視界の暴力でしかない。 千夏は両手で目を覆い、幸男は口元を押さえて目を逸らした。(悪食《グラトニー》ってそういうこと……) 何故呼び方にグラトニーが入っていたのか謎だったが、今なら理解できる。「だから、一般人の前でそんなもの食べるなって前から言ってるよね?」「香ばしくて美味いのにー」 お茶と菓子受けを持ってきた成也は、生ゴミでも見るような目で雪花菜を見下ろす。「いいからしまって。先生の前だから口で注意するけど、蹴り飛ばしたいの我慢してるの、分かるよね?」「相変わらず短気っすよねー」 雪花菜はカブトムシをしまうと、成也が持ってきた菓子受けから煎餅を取ってバリボリ食べる。カブトムシを食べていた時の咀嚼音を思い出し、千夏は顔をしかめる。(そういえば、グラトニーってユーチューバーがいたような……) 千夏は前にネットニュースで知ったユーチューバーのことを思い出した。ネット配信者に興味はないが、銀髪に銀色のサイバーサングラスをかけている女性の写真が気になって、記事を読んだことがあった。 記事によればグラトニーは胸元が大きく開いた黒のワンピースを着ており、過去の珍味を求めて未来から来たアンドロイドというおかしな設定で活動している。食用虫の他に、コウモリやトカゲなど、常人が食べないゲテモノ料理を食べる動画をアップロードしているという。
続きを読む

122話

「はぁ……、さっそく本題に入ります。マバラには、しばらく先生の護衛をしてもらおうと思います」「それはありがたいですけと、雪花菜さんだってお忙しいんじゃないですか?」「いんや、むしろちなっちゃんといた方が記者と接触できるし、うちとしてはそっちのが仕事になるかなって。それに、送り迎えする時しかちなっちゃんとは一緒にいないしねー。あとは事務所の前でボケーッとしてるんで」「ちなっちゃんって……。まぁ、いいですけど……。あの、報酬の方は……」「それなら俺が払っといたよ。といっても、報酬が届くのは数日後になるけど」 成也は面倒くさそうに言うと、スマホを千夏の前に置く。通販サイトの購入履歴が表示されており、食用の虫や爬虫類などがズラリと並んでいる。「うぅ……。末安さん、それ全部でいくらでしたか? 立て替えさせてください」 食用虫の写真に口元をおさえながら言うと、幸男が成也のスマホを持って注文履歴を流し読みした。「ざっと2万円といったところかね。私が立て替えよう」「でも……」「守ってもらうのは本条さんだけではないからね。事務所も守ってもらうことになるのなら、私が払うべきだ」 違うかね?と言われてしまえば、千夏はこれ以上口出しできない。「てゆーか、ちなっちゃん休ませないんすか?」 雪花菜の言葉に、一同が固まる。裁判中の騒動などで疲労困憊していた3人は、そこまで頭が回らなかった。「確かに、先生はちょっと休んだほうがいいかもね」「うむ、すまんな、本条さん……。すっかり忘れていたのだよ」「いえ、私も休もうなんて考えてませんでしたから……。でも、私が休んだら、事務所に記者が押しかけた時どうするんですか? それに、私が家にいる間、雪花菜さんにいてもらうのも申し訳ないというか……」 もし千夏を休ませて雪花菜を彼女につけた場合、事務所は記者の対応に追われるだろう。千夏も雪花菜にマンションの前で見張りをさせるのは気が引ける。かといって、部屋に入れると気疲れしてしまう。「あのー。もっとシンプルに考えれば? うちは事務所を守る。で、ちなっちゃんは休んでホテルかどっかに行けばいいんじゃないっすか? したら事務所も守れて、ちなっちゃんも休めるし」(なんで気づかなかったんだろう……) 一同は、がっくりと肩を落とす。いくら疲れているとはいえ、ここまで頭が回らないのは少し
続きを読む

123話

「……では、本条さんは2週間、有給休暇を取るように。流石に全額負担は無理だが、ホテル代は一部負担しよう。雪花菜さん、本条さんをホテルまで送って欲しいんだが、いいかね?」「あいさー」 雪花菜はゆるい敬礼をすると、バッグからスマホを出して何かを調べだした。「ちなっちゃん、どんなホテルがいい? てか、予算どんくらい?」「すいません、雪花菜さん。ホテルに行く前に、母を迎えに行っていいですか? 色々と話したいこともありますし、母のところにも記者が行ってたら大変ですし……」「あー、それは心配っすね。ちな、ママンどこ住み?」「隣町です」「ではタクシーを呼ぼう。少し待っていたまえ」 幸男はゆっくり立ち上がってのっそりと自分のデスクまで歩くと、電話帳を捲りだした。「あ……」 情に流されないようにと母の由紀恵と連絡を取れないよう、スマホの電源をしばらく切っていたことを思い出す。急いで電源を入れると、由紀恵からの不在着信とメールが大量に来ている。その膨大な数に、罪悪感が一気にこみあげて来た。「やっちゃった……」「どうしたの? 先生」「裁判に集中するために、ずっとスマホの電源切ってたんです……。母と連絡を取ると、情に流されそうで……。でも、母もずっと不安だったはずですよね……」 どう謝罪しようか考えていると、由紀恵から着信が入った。千夏は成也達に断りを入れるのも忘れ、電話に出る。「もしもし、お母さん。ごめんね、今そっちに行くから」『もう、ずっと心配してたんだから。そっちにマスコミとか来てない?』 由紀恵の言葉に、冷や汗が流れる。 もうすでに由紀恵の元へマスコミが行っていたら? それを見た近隣住民が噂をしていたら? 何故そんな可能性に気づけなかったのかと、自己嫌悪に陥る。「私は大丈夫だけど、お母さんは?」『今は藍子のところにお世話になってるから大丈夫よ』「叔母さんのところね、分かった。今行くから」『気をつけてね』「うん、ありがとう。それじゃあ」 電話を切ると安堵の息をついた。「もう少しでタクシーが来るはずだよ、それまでゆっくりしていたまえ」  どうやら幸男も電話が終わったらしく、腹を揺らしながらこちらへ歩いてくる。「ありがとうございます、助かります」 千夏は幸男に一礼すると、由紀恵からのメールを読んでいった。
続きを読む

124話

 タクシーが事務所前に停まると、千夏は後部座席に、雪花菜は助手席に乗った。運転手に藍子のアパートの住所を伝えると、由紀恵に今向かっているとメールする。 お喋りの印象があった雪花菜だが、アパートに着くまで黙っていた。そのおかげで溜まっていたメールを読むのに集中することができた。「お客さん、着きましたよ」「ありがとうございます」 千夏だけタクシーから降りると、藍子の部屋のインターホンを押した。玄関ドアはすぐに開けられ、梨花が出迎えてくれる。以前は成也の悪影響でギャルのような服装をしていたが、今は彼女らしい清楚系の服に戻っている。「久しぶり、梨花ちゃん。お母さんは?」「今荷物まとめてるよ。ところでチナ姉、聞きたいことがあるんだけど……」 梨花が声をひそめたので、千夏は耳を彼女に貸した。「成也くん、どうしてる?」「あぁ、末安さんなら優秀な助手として働いてるよ。最初はどうしようかと思ったけどね」「そっか、よかった」 嬉しそうに言う梨花を見て、彼女が成也からキスを買っていたことを思い出す。まだ成也に好意があってはいけない。そう思った千夏は、梨花の耳にそっと口を寄せる。「もうあんなのに騙されちゃダメだからね」「分かってるって」「ふたりとも、何こそこそ話してるの?」 訝しげな顔をした藍子が、様子を見に玄関まで来た。「藍子さん、お久しぶりです。最近学校どうしてるの? って話してただけですよ。母を匿ってくれてありがとうございます」 まさか例の偽ドラッグバイヤーの話を藍子にするわけにもいかず、咄嗟に誤魔化した。「いいのよ、あなたの母親でもあるけど、私の姉でもあるんだから。さ、上がって。お茶でも飲んでいってよ」 藍子の申し出はありがたいし魅力的だが、雪花菜とタクシーを待たせているので首を縦に振るわけにはいかない。何より、千夏にそんな心の余裕がない。「そうしたいのは山々なんですけど、タクシーを待たせてあるので……」「あら、残念ね……いやぁっ!?」 藍子が悲鳴を上げながらこちらに倒れて来そうにになるのを、小柄な身体でなんとか支える。「あ、ありがとう、千夏ちゃん……」「いえ、一体何が……」「ごめんね、藍子。悪気はないのよ」 おっとりした声に藍子の後ろを見ると、大きな旅行カバンを2つも持った由紀恵が立っている。「姉さん、危ないじゃないの! 相
続きを読む

125話

 後部座席にふたりで乗ると、運転手に予約してあるホテルを伝える。 助手席にいる雪花菜は相変わらず静かで、由紀恵は彼女の存在に気づいていないようだ。「お母さん、助手席に座っているのは、馬服雪花菜さん。ホテルに着くまで、私達を記者から守ってくれてるの」「え? あら、お人形さんみたいで可愛らしいわね。ありがとう、雪花菜ちゃん」 運転席の後ろに座る由紀恵は助手席を覗き込むと、笑いかけながら礼を述べる。雪花菜は小声でどうもと言うと、ペコリと頭を下げる。 雪花菜がどうやって守ってくれるのか話そうか考えたが、聞かれてもいないのに本人を前にあれこれ話すのは気が引けたのでやめた。「どうして連絡くれなかったの? お父さんのニュースが流れてから何回も電話したし、メールも送ったのに。今まで何してたの?」 由紀恵は千夏の手を握り、心配と怒りが入り混じった目を向ける。「本当にごめんなさい……。ここじゃ話せないから、ホテルで話すね」「絶対よ?」 その言葉に千夏が頷くと、由紀恵は陰鬱な顔を窓の外へ向けた。 気まずい無言は、ホテルに着くまで続いた。千夏は料金を払ってタクシーから降りると、念の為辺りを見回す。記者どころか人っ子ひとりいないことに安堵する。「雪花菜さん、ここまで守ってくれてありがとうございました。この後はどうするんですか?」「いいっていいって。うち、結局一緒にタクシー乗っただけだし? とりまテキトーにぶらぶらしようかなって。出かける時は連絡してくれたら護衛しに来るんで」 雪花菜は名刺を千夏に渡すと、その場から立ち去った。「千夏、行きましょう」 由紀恵は物憂げな顔でホテルを見上げながら言う。「そうね……」 千夏は今まで起きたことをどう話そうか考えながら、チェックインして部屋に行く。 ふたりが使う部屋は風呂とトイレが別になっているツインルームで、料金の割には少し広い。窓際にはふたり掛けのテーブルセットがある。千夏は備え付けの電気ポットでお湯を沸かす。(そういえば、私何にも持ってきてなかった……) 仕事用のカバンしか持っていないのを今更ながら思い出しながら、何を買いに行くか考える。「千夏、そこに座って」 由紀恵は荷解きもせず、椅子に座る。千夏は鉛を詰められたような重い気持ちを抱えながら、由紀恵の前に座った。「それで、何があったの? もしかして、
続きを読む

126話

「お母さん、すごく長くなる話だし、私自身、まだ整理がついてないから順番がおかしくなったりすると思うの」 そう前置きをすると、千夏は由紀恵に話をした。ひろしがゲレティヒカイトという今は宗教のようになってしまった冤罪被害者の会にいたこと、それをずっと察していたが、勇気がなくて本格的に調べられなかったこと、ゲレティヒカイトを調べるきっかけになった事件があったこと、ゲレティヒカイトのメシアが神代宗介だったこと……。 ひろしに襲われかけたこと以外、話せることをすべて。 千夏は途中で言葉を詰まらせたり、話を戻したりしてしまったが、由紀恵は時折相槌を打ちながら、静かに話を聞いてくれた。「お母さんと連絡取ると、情に流されそうな気がしてスマホの電源ずっと切ってたんだ……。お母さんも不安になってたはずなのに、本当にごめんなさい……」「いいのよ、話してくれてありがとう。千夏は頑張ってたんだね……」 由紀恵は立ち上がり、千夏を抱きしめる。様々な感情が溢れかえり、千夏は母の胸に顔を埋めて泣いた。 娘の苦境を思い、由紀恵も涙を流す。 親子はしばらく抱き合って泣いていた。ふたりが泣き止む頃には電気ポットのお湯も冷めてしまった。「こんなに泣いたの久しぶり」 由紀恵は涙を拭いながら、小さく笑う。「ちょっと、顔洗ってくる」 この歳になって母親の胸で泣きじゃくったのが今になって恥ずかしくなり、誤魔化すように洗面台へ行き、顔を洗った。鏡を見ると涙の跡と泣き腫らした目が写る。「酷い顔……」 小声で自嘲してから戻ると、由紀恵は大きなあくびをしていた。そのあくびが千夏にもうつってしまい、口を両手でおおってあくびをする。「たくさん泣いたから眠くなっちゃった」「言われてみれば、確かに」 心地よい睡魔が押し寄せ、瞼が下がる。「寝ちゃおうか」「うん」「久しぶりに一緒に寝る?」「それは遠慮しておく」 ふたりは笑い合いながらそれぞれベッドに入ると、すぐさま寝息を立てた。
続きを読む

127話

 2週間、ふたりは親子の時間を取り戻すようにふたりの時間を過ごした。最初はビクビクしていたが、4日目に幸男から事務所にマスコミが来なくなったと連絡が来てから、気楽に外に行けるようになった。 ホテルの近くにある店を見て回ったり、思い出話に花を咲かせたり、ゆったりした時間を大いに楽しんだ。  2週間が経ち、ふたりはチェックアウトしてタクシーで由紀恵の住む家に行く。「2週間って長いと思ったのに、あっという間だったわね」「そうだね。こんなにゆっくりしたのは久しぶりだったなぁ」「こんなに長くなくてもいいから、たまにはまとまった休み取って、お母さんの相手してよ。寂しいんだから」 由紀恵は人差し指で千夏の肩をつつきながら、拗ねた子供のように言う。それがおかしくて、千夏は笑う。「あはは、そうだね。今度はちょっと遠いところに旅行行こっか。今回結構お金使っちゃったから、結構先になりそうだけど」 事務所からも少し出してもらっているとはいえ、2週間分のホテル代は安いものではない。千夏の貯金は、あっという間に半分以上消し飛んでしまった。「いつでもいいの。その間、候補いくつか上げとくから、一緒に決めようね」「うん。そうだ、海とか行きたいかも」「海もいいけど、山奥のひっそりとした宿にも行ってみたいわ」 旅行先についてあれこれ話していると、タクシーは由紀恵の家の前で停まった。「あら、もう着いちゃったの」「今度はちゃんと連絡取るよ」「絶対よ?」 荷物を運ぶのを手伝うと、千夏はタクシーに乗って自宅マンションに帰った。2週間ぶりの部屋は、空気が淀んでいて息苦しい。 窓を開けて換気をしながら、軽く部屋の掃除をしてカーペットの上に寝転ぶ。「本当に、色々あったな……」 目を閉じて、慌ただしかった日々を振り返る。常陰将馬の自殺から始まった多忙な日々を。 父親の強姦未遂、慕っていた宗介の変わり果てた現状、弁護人交代……。他にもショックな出来事がたくさんあったが、それ以上に様々な人に支えられ、守られてきた。 特に成也はいつでも千夏に寄り添い、守ってくれた。時には千夏のために怒ってくれることもあった。少し戸惑いもしたが、それ以上に嬉しかった。 きっと成也がいなければ、千夏はここまで頑張ってこられなかっただろう。
続きを読む

128話

「そうだ、お礼考えなきゃ」 もう少しゆっくりしたい気持ちもあったが、起き上がって身支度を整えると、外へ出た。「事務所にはお菓子買うとして、何がいいんだろう?」 彼氏どころか男友達すらまともにいたことのない千夏は、男性へのプレゼントに不慣れだ。成也を助手として認めた時は普段使うものだからと手帳と万年筆を贈ったが、正直それ以外に思いつかなかったというのが大きい。「ネクタイとかはなんか違うし、なんかこう、末安さんが普段使いそうなものは……」 いくら悩んでもらちが開かず、ファストフード店に入ってハンバーガーをかじりながら、男性へのプレゼントには何がいいのか調べる。 名入れのボールペンやジョッキ、安眠枕やネクタイなど、どれもピンとこないものばかりだ。 他のサイトを見て喫煙具と書いてあるのを見つける。「そういえば、煙草吸ってたっけ」 成也が煙草を吸っている姿を思い出し、喫煙具について調べてみる。最初はシガレットケースにしようと思ったが、ひとくちにシガレットケースといっても様々な大きさや種類があることを知り、断念した。「これならいいかな?」 喫煙具一覧でジッポライターを見つけると、ジッポライターが売ってる店を探す。雑貨店やシルバーショップなどに売ってることを知り、早速シルバーショップへ足を運ぶ。 ジッポライター売り場はすぐに見つかったが、想像していたよりも種類が多い。有名なアニメキャラが彫られたものや麻雀牌、煙草のパッケージを模したものなどユニークなものもあれば、トランプやドクロ、ヨーロッパ調アラベスクなど、洒落たものもある。それらがガラスケースの中に綺麗に並べられている。 中でも千夏が驚いたのは、キリストや聖母マリアのデザインだ。「どれがいいんだろう?」「プレゼントですか?」 後ろから声をかけられ、驚きながらも振り返るとシルバーアクセサリーを身に着けた長身の男性店員がにこにこしている。首にはいくつものネックレスをつけ、ピアスは耳だけにとどまらず、顔のいたるところにもつけられている。街で見かけたら、黙って引き返していただろう。「あ、はい……。お世話になった後輩にライターを贈ろうかと……」「素敵な先輩ですね。でしたら、名前を入れたりとかどうですか? 全部にできるわけじゃないですけど、このマークついてる商品にはできますんで」 店員は値札の隣に”
続きを読む

129話

 ガラスケースの隅に、名入れサービスについての説明書きがある。説明書きによれば、イニシャルでもフルネームでもいいらしい。ローマ字、ひらがな、カタカナから選べるそうだ。 説明書きを読み、イニシャルを入れてもらうことに決めたはいいが、肝心のライターが決まらない。名入れできるものだけになってある程度絞りやすくなったが、成也の好みを千夏は知らない。 熟考の末、千夏が選んだのは銀古美の、逆エル字にアラベスクが彫られ、ユリの紋章の飾りがついたライターだ。 店内を見回すと、千夏に話しかけた店員が近くにあるピアス売り場を整頓していた。「すいません、このライターに名入れお願いします」 店員はガラスケースを開けてジッポライターを手に取ると、千夏に見せる。「これで間違いないですか?」「はい、それです」「ではこちらへどうぞ」 レジの隣にある小さな作業場の前に案内され、近くにある丸椅子に座らされる。「彫りたい名前をここに書いてください」 小さなメモ帳とボールペンを渡され、”S,S”と書いて店員に渡す。「側面で大丈夫ですか?」「はい」「すぐに終わりますので、その間よかったらこれを見ててください」 店員はジッポライターのカタログを開き、千夏に手渡した。開いてあったのはギフト用ページで、オイルとセットにプレゼントすることをおすすめしている。 名前を彫っていく音に耳を傾けながら、売り文句を指先でなぞった。(つまり、オイルも買えってことね。でも、オイルもあった方がいいか) 店員の思うつぼだなと思いながらギフトボックスの色を決めていると、音が止む。「こんな感じでいいですか?」 ジッポライターの側面には注文通りの文字が綺麗に彫られている。「はい、ありがとうございます。あの、オイルと一緒に買いたいのですが……」「はい。ギフトボックスは赤、青、白から選べますがどうしますか?」「青でお願いします」「すぐに包みますので店内でお待ちください」 千夏は一生身につけることがないであろうシルバーアクセサリーを眺めながら、ラッピングが終わるのを待つことにした。 こういった店のアクセサリーはいかついデザインが多いと偏見していたが、女性向けの可愛らしいものやシンプルなものがあって、思わず欲しくなってしまうものもあった。 5分もしないうちに店員に呼ばれ、会計を済ませてシルバ
続きを読む

130話

 次に洋菓子店へ行き、クッキーの詰め合わせを買うと、コンビニに立ち寄って通販サイトのショッピングカードを5千円分買った。これは雪花菜へ渡すつもりだ。彼女が好む食用虫を扱っている店が近くにないため、これで買ってもらおうと考えた。 買い物が終わると、千夏は帰宅してゆっくり休んだ。 翌朝、スマホのアラームに起こされ、久方ぶりに慌ただしい朝を迎える。スーツに袖を通すと、気持ちが引き締まった。身支度を済ませてプレゼントを確認し、出勤する。 いつもは煩わしい満員電車も、今日は千夏の心を躍らせた。「おはようございます」「やぁおはよう、本条さん。ゆっくり休めたかね?」 事務所のドアを開けて出勤すると、幸男がつぶらな目を細めて挨拶を返してくれる。「おはよ、先生。久しぶりだね」 成也は給湯室から顔を出して挨拶をすると、すぐに引っ込んでお茶の用意をする。 千夏にとっての日常が帰ってきた気がして、嬉しくなる。「おかげさまでゆっくり休めました。あの後、裁判はどうなったんですか?」「他の弁護士に決まったよ。私でないのは残念だが、そればかりは仕方ないね。信頼できる弁護士なのが、唯一の救いといったところかね」 幸男は寂しそうに笑った。「そうですか……。あの、よかったらこれ、皆で食べてください」 千夏が洋菓子を出した途端、甘党の幸男は目を輝かせる。「おぉ、すまないね。気遣いなどしなくてよかったのに」 そう言いながらも幸男は箱を開け、チョコチップクッキーを頬張った。(相変わらずだなぁ……。落ち込んでられるよりずっといいけど) 嬉しそうにクッキーを消費していく幸男に内心苦笑していると、こちらに近づく足音が聞こえた。振り向くと成也がマグカップを3つ持って立っている。「所長、独り占めしないでくださいよ」「おぉ、すまんすまん。好きなメーカーだったのでつい……」 成也が珈琲を置きながら注意すると、幸男は成也に箱ごとクッキーを渡した。「先生も一緒に食べるでしょ?」 千夏の返事を聞く前に、成也は彼女の机の上にもクッキーを何枚かと、珈琲を置いてくれた。「ありがとうございます」「どういたしまして。それにしても先生がいない間、寂しかったなぁ」「何言ってるんですか」 千夏が苦笑すると、幸男が咳払いをして立ち上がる。「私は用事があるから出掛けてくるよ」 幸男は足早に
続きを読む
前へ
1
...
111213141516
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status