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All Chapters of Asymmetry: Chapter 1 - Chapter 10

51 Chapters

1話

 うんざりするほど暑い昼下がり、真夏だというのにスーツを着こなした若い女性が、玉のような汗を拭いながらアスファルトを踏みしめていく。彼女の名は本条千夏。ナチュラルブラウンのミディアムロングが良く似合う、見るからに真面目そうな女性だ。背は低いものの、顔立ちは小動物のように愛らしい。「なんでこんなに暑いかな……」 ため息混じりに呟いたところで目的地である喫茶店が見え、自然と早歩きになっていく。 最終的に小走りで喫茶店の前まで行くと、少し重たい木製のドアをゆっくり押した。涼し気なベルの音が来客を知らせる。「千夏ちゃん、こっちよ」 奥の席でそわそわしていた中年女性は、千夏を見るなり手招きする。千夏が中年女性の前に座るのとほぼ同時にお冷が運ばれ、千夏はそれを一気に飲み干した。冷たい水はするすると体内を流れ落ち、猛暑の中を歩いてきた千夏の身体を少しだけ冷やしてくれる。  千夏はウエイトレスにアイスティーを頼むと、叔母である藍子を見つめる。静かな美貌を称える色白の顔は、悩ましげな表情を浮かべ、ただでさえ白い頬が更に色をなくして青白くなってしまっている。「お久しぶりです、叔母さん。梨花ちゃんのことで相談があると言ってましたが……」「そうなの、まずはこれを見てほしいんだけど……」 そう言って藍子はスマホを操作し、千夏の前に置く。彼女の愛娘である梨花が、若い金髪の男とキスをしようとしている写真だ。男は顔立ちは整っているが、服装や身につけているアクセサリーからして不良っぽい。あんなに真面目だった梨花も彼に影響されたのか、ギャルのような格好をしている。1度も染めたことの黒髪や真面目そうな顔立ちとはあまりにも不釣り合いでアンバランスだ。(梨花ちゃんがこんなになっちゃうなんて、ショックよね……) 藍子の夫は梨花がまだ小学4年生の頃に事故で亡くなってしまった。それ以来、藍子が女手一つで彼女を育ててきたのだ。寂しい思いをさせないようにと時間を作り、どうしても外せない仕事があれば千夏の家に預け、ひとりの時間を減らしていった。そこまでして可愛がっていた娘が、不良男とよろしくやっているのは、母親として相当ショックだろう。 千夏も梨花を妹のように可愛がってきただけあって、写真を見た瞬間ショックを受けたが、それに比べれば、実際に現場を見てしまった藍子の動揺や悲しみは計り知れない。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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2話

「この男は誰なんですか? バイト先の先輩ってことはないですか?」「それはないわ。梨花が働いてるのはファミレスだし、そんな派手な髪じゃ働けないと思うんだけど……」 藍子の言う通り、派手な金髪はファミレスで働くのに相応しくない。面接するまでもなく帰されるだろう。「最近バイト頑張ってると思ったら、こんな格好しだして……。時々帰りが遅くなるからおかしいと思ってこっそりつけてみたら、この男にお金渡してキスしてたの。それと、何か貰ってて……」 話しているうちに藍子は徐々に俯いてしまう。 危険ドラッグのバイヤーかもしれない。 ここまで話を聞いて、千夏はそう思った。きっと藍子も同じことを考えているのだろう。「梨花ちゃんは、男から何を貰ったんですか?」「分からない……。いくら問い詰めても見せてくれないし、カバンの中を見ても怪しいものは入ってなくて……。麻薬かもって思って警察に行ったんだけど、証拠がないからって相手にしてもらえなかったわ……」 藍子はため息をつくと、アイス珈琲をひと口飲んで口を湿らせる。「やっぱり、この写真じゃ動いてくれないですよね……」「えぇ……、動画を撮ったつもりだったけど、写真だったの……」 そう言って藍子はスマホに視線を落とす。何の事情も知らない人がこの写真を見たところで、少女が悪い男に騙されているとしか思わないだろう。不良男に入れこんた少女を助けるほど、警察もそこまでお人好しではない。「あの、私の仕事は……」「弁護士の仕事じゃないのは百も承知よ。でも、他に頼れる人がいないの……」 藍子は千夏の言葉を遮り、彼女の手を握りながら必死に訴える。お人好しの千夏がこんな叔母を放っておけるわけもなく、気がつけば首を縦に振っていた。「分かりました、私が何とかします」「ありがとう……! お礼は絶対にするから」「そんな、お礼なんていいですよ。それより、知ってる限りのことを話してください」 今にも泣きそうな藍子の肩をさすって落ち着かせると、彼女から話を聞いた。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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3話

 藍子から相談を受けてから数日後の夕方。藍子から聞いた話を元に、梨花のバイト先であるファミレスから少し離れたところにあるコンビニで、立ち読みするふりをしながら窓の外を見る。藍子の話によれば、梨花は夕方にバイトが終わるとその足で路地裏に行くらしい。(そろそろね……)  腕時計と外を交互に見ながら待っていると、梨花が目の前を通り過ぎる。 写真のようにギャルのような格好をし、浮かれ気味に歩く梨花は恋する乙女そのものだ。それを見た千夏は危険ドラッグではなく、クズ男に騙されているのではないかと考え直す。 梨花が完全にコンビニを通り過ぎてから、千夏は外に出て彼女を尾行する。浮かれている梨花は千夏の素人尾行に気づくことなく、路地裏に入った。「いよいよね……」 千夏は小声で呟き、気合を入れるように短く息を吐くと、スマホで動画を撮りながら路地裏を覗いた。写真で見た男が梨花から数千円受け取ると、小さな何かを渡した。それが何かは分からないが、ふたりの手の間で一瞬だけ光る。 男は梨花を抱き寄せ、梨花は男の首に腕を回してキスをする。それも軽く触れるようなものではなく、ねっとりとしたディープキス。くちゅくちゅと水音が聞こえ、時折梨花の甘い吐息が零れる。(高校生相手になんてことを……!) 怒りに身を任せ、千夏はふたりの前に出て男を睨みつける。「何をしてるの!」「んん?」「チナ姉!?」 千夏が怒鳴ると男は面倒くさそうに、梨花は目を見開き彼女を見る。「梨花ちゃん、その男から貰ったものを渡しなさい!」「でも……」「いいから!」 千夏が声を荒らげると、梨花は震えながら先程貰ったものを渡した。細長い何かを包んだ銀紙は、先に疑っていたせいか、どうしても危険ドラッグに見えてしまう。「薬物かどうか検査します、ついてきなさい」「え……」 千夏の言葉に梨花は愕然とするが、男はニヤニヤ笑っている。「おねーさん警察?」「いいえ、弁護士です」「弁護士に捜査権利や逮捕権利なんてあったっけ? ま、やましいことはないからいいけどね。ここじゃなんだし、場所変えよっか」 そう言って男はふたりの手を引く。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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4話

「ちょっと……!」 突然のことに驚きながらも声を上げると、男は面倒くさそうに振り返る。「カラオケに行くんだよ。ここじゃ暑いし、検査もできないでしょ?」「確かにそうだけど……」 不安に思いながら、カバンに触れる。危なくなったら催涙スプレーをかけて逃げればいい。そう自分に言い聞かせ、梨花と共に男について行く。 カラオケ店につくと千夏は水を、ふたりはそれぞれ好きなジュースを持って部屋に入る。千夏は男を奥に座らせ、自分達は出入口に座った。これで男が妙な真似をしても逃げられる。「警戒心強いねぇ、おねーさん。ま、それが賢明だと思うけどね。でもさ、こんな確実に捕まるようなところで、犯罪しでかすほどバカじゃないよ?」 軽口を叩く男を睨みつけると、千夏はカバンから薬物検査キットを引っ張り出す。 梨花から受け取った物を開けてみると、白い粉末と小さなストローが入っていた。(これでドラッグじゃなきゃ、なんだっていうの?) 苛立ちながらも粉末を水に溶かし、スポイトで吸って検査キットに数滴垂らす。これで青に変色すればドラッグということになる。「どれくらいかかるか知らないしせっかく来たんだから、1曲歌って待ってるよ」 男はデンモクを操作し、曲を入れる。流れてきたのは最近流行りのJ-POP。思ったよりも力強い歌声に思わず聞き入りそうになるが、今はそれどころじゃない。 検査キットと説明書を交互に見ながら変色するのを待った。 だが、結果は千夏の期待を裏切り、男が歌い終わっても変色しなかった。「どうだった?」「薬物じゃない……」「だから言ったじゃん、違うって」 男はニヤつきながら言うと、コーラを飲み干した。「じゃあなんだっていうの?」「知りたい? どうしよっかなぁ?」 楽しげに勿体ぶる男に苛立ちを抑えきれなくなり、千夏は男の胸倉を掴んだ。「あの……!」 梨花は怯える目でふたりを見上げながら声を張る。「あーそうだ、今回はおねーさんに取られちゃったしこれ返すよ」「え?」 男は千夏の手を振りほどくと、彼の言葉に目を丸くした梨花の手に数枚の千円札を握らせた。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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5話

(どういうつもり?) 男の行動に困惑していると、彼は千夏に向き直って胡散臭い笑顔を浮かべる。「おねーさんは俺とデートしよっか。いくらカラオケでも、大声出したらメーワクになるしさ。君はカラオケ楽しむといいよ」 男は千夏の腕を引き、梨花に手を振って部屋を出た。「どこに行くつもり?」「俺の家。ネタばらししなきゃ、おねーさんも納得しないでしょ?」 男の言葉に絶句し、カバンの上から催涙スプレーに触れる。「そんな怖い顔しないでよ。俺、処女を抱くつもりはないから」「……は?」 殺意を覚えて睨みつけるも、男は相変わらずニヤニヤしたままだ。「おねーさん真面目すぎて恋愛出来ないタイプでしょ。てか、男に興味無い感じ? ちなみにさっきの子も似たりよったりかな。安心して、あの子も処女のままだから」 初対面の、それも薬物所持容疑の男にズケズケと言われたくないことを言われ、怒りのあまり身体が震える。「怒らないでよ、言いふらしたりしないから」 気がつけば千夏の右手は、男のみぞおちにあった。「ぐっ……!? はは、おねーさんいいモンもってるね……ったた……」 男は身体をくの字に折りながらも黙ろうとしない。そんな男に、千夏は拳を振り上げる。「悪かったって、黙るよ」 男は両手を上げて降参と言うと、沈黙を守ったまま、彼女を自宅まで案内した。 男の家は高級マンションの最上階だ。高級感溢れる空間に緊張しながら彼の部屋に入ると、緊張の糸は一気に緩んだ。「何これ……」 脱いだ服もゴミも区別がつかないほど散らかっており、広々とした部屋はゴミ屋敷と化している。不用心にも窓を開け放しているおかげが、悪臭がしなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。「汚いところだけど狭くはないからあがって」 靴を脱ぐと、千夏はつま先立ちで上がる。潔癖症ではないが、こういう部屋を見ると、昔テレビで見たゴミ屋敷を掃除する番組を思い出す。ダニがたくさん住んでいる埃だらけで、沸いた虫にまみれた小物を拾おうとする住人にぞっとしたものだ。 そんな千夏に気遣うことなく、男は小部屋のドアを開ける。スペースからして衣装部屋なのだろうが、そこに衣類は一切なく、小さなテーブルと大きめの収納ボックスがあるだけだ。この部屋だけはきちんと片付いており、千夏はようやく足の裏全体を床につけることが出来た。「この中にあの粉の
last updateLast Updated : 2026-06-02
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6話

「こんな小学生みたいなことして何が楽しいんですか!」「だって普通に働くより稼げるし、皆ドラッグに手を出したと思いながら偽物使ってるから害がないし、皆ハッピーじゃん」 悪びれる様子もなく言うと、男は千夏の顔を覗き込む。「最低!」 平手打ちをくらうも、男はニヤつくだけ。「いいことをして金も稼げていいと思うけど?」「立派な詐欺罪ですよ? もうこんなことやめてください」「そう言われてもさぁ、普通に働くのバカみたいじゃん」 怒ろうと口を開きかけた千夏だが、男の目に悪意はなく、むしろ子供のような純真さが見えた気がして口を閉ざした。「死に物狂いで就職しても、ボロ雑巾のように扱われて、行きたくもない飲み会に連れてかれて、サービス残業させられる可能性があるなんて、俺は嫌だよ。それにさ、イメージでは儲かる仕事だって、案外儲かんないのが世の中でしょ?」 男の言うことは最もである。希望を胸に就職しても、いざ働き始めたらハラスメントの嵐にサービス残業で苦しい思いをする者は大勢いる。弁護士という仕事上、千夏はそういった人間をたくさん見てきた。 だからといって、詐欺まがいの行為を許すつもりはないが。「弁護士だってさ、お金持ちのイメージだけど実際儲からないでしょ?」 これも男の言う通りで、最近では過払い金の仕事で食いつないでいる弁護士が多い。千夏の事務所も、半分近くは過払い金で稼いでいる。「儲かる儲からないの問題ではありません」「じゃあなんでおねーさんは弁護士やってるわけ?」「昔、父は殺人の冤罪をかけられました。父の親友が弁護士で、彼が父の無罪を証明してくれたんです。それでも嫌がらせが続いて大変でしたが、法を盾に私達を守り、酷いことをした人を有罪にしてくれたんです」「それに憧れたんだ?」 男の言葉に、千夏は静かに頷く。当時のことを思い出したのか、優しい顔つきで。「へぇ、ありきたりで安直だね」「あなたに分かってもらおうなんて思いません」 デリカシーの欠片もない言葉に千夏が声を荒らげると、男は煙草を咥えて火をつけた。「人の話は最後まで聞いてよ、弁護士さん。ありきたりで安直だけど、いいと思う。だって、憧れるほどかっこいい大人に出会えたってことでしょ? 俺はそういう人達とは無縁でこの有様だからさ」 男は笑ったままだが、千夏の目にはどこか寂しそうに見える。どう
last updateLast Updated : 2026-06-02
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7話

「おねーさんの勘違いをどうにかしなきゃね。おねーさんは俺が偽ドラッグで儲けてると思ってるんだろうけど、違うよ。これはグリコのおまけみたいなやつで、捨てちゃう子も多いんだ」 男は銀紙に包まれた菓子粉末をつまみあげながら言う。「じゃあ何を売ってたと言うのですか?」「キスだよ」 男は妖艶に微笑み、赤い舌でチロリと唇を湿らせる。色香のあるその仕草に、千夏は思わず息を呑む。「だから女の子としか取引しない。皆俺とキスがしたくて偽ドラッグを買いに来てるんだ。おねーさんも試してみる? 特別にタダで」「結構です」 ピシャリと言うと、男は芝居がかったため息をつく。「あーあ、もったいない。ま、処女で俺とキスしたら他の男と恋できなくなるだろうから正解かもね」 男の過剰なまでの自信に、千夏は呆れ返る。(こんな奴に一瞬でもドキドキしたなんて……) 恥ずかしさと同時に怒りがこみ上げ、体温が上がっていく気がした。「安心してよ、おねーさん。おねーさんにこの仕事バレたんじゃ続けらんないから辞めるよ」「へ?」 こんなにあっさり辞めてもらえると思っていなかった千夏の口からは、間抜けな声が出てしまう。「おねーさんだって辞めて欲しいでしょ? ね、新しい仕事探すから帰ってよ。これ押収していいから」 男はそう言って収納ボックスの蓋を閉めると、千夏に押し付けるように持たせて彼女の背中をぐいぐい押した。「ちょっと……!」「気をつけて帰ってね」 唯一綺麗な部屋から追い出され、千夏は困惑しながらも高級マンションを後にした。「まぁ、いい報告はできる、かな?」 千夏はスマホを取り出し、叔母に電話をかけて今から行くと伝える。 藍子の家は高級マンションからバスと徒歩で20分ほどかかる。バスに15分揺られて5分歩くと、ふたりが住む安アパートについた。205号室のチャイムを押すとすぐに玄関ドアが開き、不安げな顔をした藍子が出迎えてくれる。「いらっしゃい。その箱は……」「危険なものじゃないのでご安心を。梨花ちゃんは帰ってしましたか?」「いいえ、まだ帰ってこないわ。もしかしてあの男に何かされたんじゃ……」 藍子は急にそわそわし始め、目線を宙に泳がせる。「それはありません。きっとカラオケですよ。あの、報告したいのではやく上がらせてほしいのですが……」「ああそうね! そうよね! ごめ
last updateLast Updated : 2026-06-02
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8話

「外は暑かったでしょ? 待っててね、今麦茶持ってくるから」 藍子は足をもつれさせながら台所へ行く。それだけ気が急いているのだろう。 藍子を待つ間、千夏は室内を見回す。部屋のあちこちに家族写真が飾られ、梨花が絵画コンクールに受賞した時の絵や賞状などが壁にかけられている。家族団らんのこの空間が、少し羨ましい。「おまたせ、水ようかんも食べてね」 小さな丸テーブルの上に、2人分の麦茶と水ようかんが並べられる。夕方とはいえまだ暑い中歩いてきた千夏には、とてもありがたい。麦茶を半分近く一気に飲むと、千夏は藍子をまっすぐ見つめる。「結論から言って、梨花ちゃんが買っていたのは違法物ではありません」「よかった……。麻薬とかじゃないってことよね? 本当によかった……」 藍子は目を潤ませながら胸を撫で下ろし、よかったという言葉を何度も繰り返す。それを見た千夏は、引き受けてよかったと心の底から思った。「ねぇ、麻薬じゃなかったらなんだったの? その箱はなんなの?」「これはあの男から押収したものです」 千夏は箱を開けると、フリスクとラムネをテーブルの上に並べた。藍子はすぐさまそれらを手にし、凝視する。「男はフリスクとラムネをこのすり鉢で粉末状にし、ストローと一緒に銀紙で包んで売っていたそうです。ちなみにお値段は10グラム五千円だそうです」 藍子は驚きの声を上げながら菓子と千夏を交互に見て、菓子を箱の中に戻した。「梨花は、これを麻薬と思い込んでたのかしら?」「それは分かりません。彼の言うことが本当だったら、ほとんどの子は捨ててるようですけど……」「捨てるのにわざわざ買うなんておかしいんじゃない?」 藍子の言葉に、千夏は言葉を詰まらせる。いくら彼女が1度現場を目撃していたとはいえ、男がキスで商売をしているとは言いづらかった。「ねぇ、教えてちょうだい。男はこの偽ドラッグ以外に何か売ってたんでしょ?」「その……キスを売ってたそうです……」「キス?」「はい……」 千夏が真実を伝えると、藍子は目を見開いたまま固まってしまった。気まずい空気が、安アパートの一室に流れる。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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9話

「そう、キスね……。はぁ、今時の子達が考えることって分からないわね……」「はぁ……」 ようやく出てきた言葉になんと返していいか分からず生返事をすると、ドアの開く音がした。ふたりで振り返ると、梨花が俯き気味で玄関に立っている。「ごめんなさいね、今日のところは帰ってくれる? 色々ありがとう、助かったわ」「いえ……。あの、あまりきつく怒らないでくださいね?」 梨花のしたことは褒められたことではないが、彼女が頭ごなしに叱られるのは可哀想に思えて藍子に耳打ちをする。藍子はぎこちなく微笑み、梨花に手招きをする。 梨花とすれ違って玄関に行き、彼女が藍子の前に座ったのを見届けると、部屋から出た。「悪い男に騙されちゃダメってあれほど言ったでしょ!」 千夏がドアを閉めた瞬間、あの細身の身体から想像のつかない大声が聞こえた。「おぉ怖……。くわばらくわばら……」 玄関ドアに手を合わせると、藍子の怒鳴り声を聞きながらアパートを後にした。 ようやく自宅マンションに帰れたのは夜7時過ぎのこと。千夏はまっすぐソファへ行き、寝転がる。予想外の連続に心身ともに疲れていたせいか、千夏はそのまま眠ってしまった。 翌朝、千夏が目を覚ましたのは7時半。いつもなら朝食を食べ終えている時間だ。「やっば!」 千夏はトースターに食パン1枚沈めると、自室から着替えを引っ張り出して浴室へ行く。昨日炎天下の中歩いて汗をかいたせいで、起きて早々ベタついて気持ち悪かった。ざーっと汗を流して台所に戻ると、こんがり焼けた食パンが顔を出している。髪をふきながら食パンを押し込むと、カバンを肩にかけて家を飛び出した。 なんとかいつもの電車に間に合い、安堵する。電車に揺られて数分歩くと、職場である笹塚法律事務所につく。「おはようございます」「おはよう、本条さん。出勤してきて早々こんな話をするものではないのかもしれないが、そろそろ助手を付けてみないかね? いい人材が昨日転がり込んできたんだが、どうかね?」 この法律事務所の所長である笹塚幸男は、でっぶりとした腹を揺らしながら千夏の前に立つ。「助手、ですか?」「おはようございまーす」 あまりにも唐突すぎる話に困惑していると、底抜けに明るい挨拶が給湯室から聞こえてくる。そちらに顔を向けた千夏は、驚きのあまり絶句した。「本条千夏先生ですね。助手兼雑用係
last updateLast Updated : 2026-06-02
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10話

 炎天下の中、やたら上機嫌な金髪の不良青年と、陰鬱な表情を浮かべたスーツ姿の小柄な女性が歩いている。(どうしてこんなことに……) スーツ姿の女性、本条千夏は大きなため息をつく。「どうしたの? 暑さにやられちゃった?」 長身の彼は少しかがみながら千夏の顔を覗き込む。千夏はため息の原因である成也を睨みつけた。「なんで私があなたのスーツ選びに付き合わなければいけないんですか」「所長命令でしょ」 成也が即答すると、千夏はガックリと肩を落とした。 事の始まりはほんの15分前のこと。「あなたが梨花経由でここに辿り着き、働き始めたのはよくないことだけどこの際よしとして、その髪色と服装どうにかしてください。いくら雑用係だからってそのような格好では困ります」「髪色は自分だけでもどうにかなるけどさ、スーツはよく分かんないんだよね。ダブルだとかなんとかあるみたいだけど。先生一緒に選んでよ。てか今から買いに行こ」「ちゃんと敬語も使ってください。それと、スーツくらいひとりで買いなさい」 ピシャリと言い放つと、成也はすねた子供のように唇を尖らせ、じぃっと千夏を見つめる。 千夏が何か言い返そうとした瞬間ドアが開き、幸男が戻ってきた。「言い合う声が聞こえたが、何を揉めているのかね?」「所長!? 用事があるからって出かけたばかりじゃ……」「おかえりなさい、所長。お茶淹れますね」 あまりにもはやい幸男の帰りに驚く千夏に、すぐに営業スマイルを浮かべてお茶を淹れに行こうとする成也。幸男はそんなふたりを交互に見ると、わざとらしい咳払いをした。「ふたりとも、そこへかけたまえ」 幸男は客用ソファを指さしながら言うと、その向かいに座った。ふたりは顔を見合わせて首を傾げると、幸男の前に並んで座る。「ます私の用事だが、煙草を買いに行っていた」 幸男はセブンスターのBOXを机の上に置きながら言った。千夏は煙草を見て内心ため息をつく。幸男は時々思わせぶりに用事があると言って外出し、近くのコンビニで煙草を買いに行くことがある。この思わせぶりな短い外出には正直うんざりしている。「それで、君達は何をしていたのかね?」「先生が俺に髪を染めてスーツを着ろっていうんです。それは構わないんですが、スーツのことはよく分からないので先生に選んでもらおうと思ったんですけどなかなか頷いてくれなく
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