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All Chapters of Asymmetry: Chapter 11 - Chapter 20

51 Chapters

11話

「本条さん、ついていってあげなさい。今日は大した仕事も入ってないし、今から行くといい」「でも……!」「所長命令です、行ってきなさい」 所長命令と言われれば、千夏は首を縦に振るしかない。「……分かりました、行ってきます」  “所長命令”という言葉を使えたことに感動している幸男に留守を任せ、千夏は成也と一緒に外出した。 そして現在、事務所から少し離れた場所にある紳士服店にようやく辿り着く。店内に入るとスーツを着こなした中年男性が、爽やかな笑顔で出迎えてくれる。「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか?」「自分達で選ぶから大丈夫」 成也はしっしっと犬でも追い払うような仕草をすると、奥に進んでいく。「ちょっと……! すいません、よく言っておきますので」 千夏は店員に頭を下げると、成也の後を追う。「末安さん、あんな非常識な態度取ったら失礼じゃないですか」「あれが純粋な厚意だったらね。でもあの人は商売人だよ? こっちに知識がないのをいいことに、高いスーツ売りつけてくるかもじゃん。それに、俺はプロが選んだスーツじゃなくて、先生が選んだスーツを着たいからさ」 そう言って手近なスーツを手に取り、自分の身体にあててみせる。「どう? 似合う?」 成也が手に取ったのはグレーのダブルスーツで、美形の彼によく似合ってはいるが千夏は小さく唸る。「似合ってますけど、うーん……、もっとくっきりした色がいいんじゃないですか? これとかどうです?」 千夏は紺色のシングルスーツを見つけると、成也に手渡す。成也は近くに鏡があるのを見つけると、身体にあてがってみる。「色はこっちの方がいいかもね。でもちょっとリーマンぽくてやだな。あ、あれがいいな。中にもう1枚あるやつ」「中にもう1枚?」 千夏もスーツに明るいわけではない。似合うかどうか見ることは出来ても、ざっくりしたことを言われても、なんのことか皆目見当もつかない。「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか?」「中にもう1枚着るやつが欲しいんだけど、どこらへんにあるの?」 女性店員が声をかけてくると、成也は同じ言葉を彼女にも言う。それを見た千夏は、もう少しまともな説明ができないのかと頭を抱える。「ベストのことですかね?」「そうそれ!」 女性店員が自信なさげに言うと、成也は指を鳴らしながら彼女を指さす。あまり
last updateLast Updated : 2026-06-02
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12話

「お説教終わった? はやく選んでよ」「もう、人の話はちゃんと聞いてください」「敬語使えってんでしょ? やだよ、ずっと敬語使ってたら疲れるし。所長にはちゃんと使うし、お客さんの前では先生にも敬語使うつもりでいるけどさ、そうでない時は楽にさせてよ」 彼の言い分は分からなくはないが、だからといって甘やかすつもりはない。上司や先輩には敬語を使う。それは社会人として最低限のマナーだからだ。「ダメです。私はあなたの先輩なんですよ? 上司だけでなく先輩にも……」「選んでってば。ここで説教されるだけで1日が終わるなんて嫌だよ?」 返ってきた皮肉でここで何を言っても無駄だと悟った千夏は、渋々スーツ選びに専念することにした。紺色が似合っていたのは確かだが、単色は少し物足りない。(これいいかも) 千夏が見つけたのは、ストライプの入った紺色のシングルスーツ。隣には同じ色のダブルスーツがあったが、これは貫禄のある人間が着るものだと勝手に思い込んでいるため、シングルスーツにした。「これなんてどうですか?」「お、いいね。さっそく試着してみる」 成也はスーツのサイズを確認すると、試着室に入った。千夏は試着室の前に立ち、幸男から連絡が来ていないかスマホを確認する。あったのは人気俳優が不倫したという速報くらいで、幸男からは何も来ていない。「どう? 似合う?」  試着室のカーテンが開き、スーツを着た成也が出てくる。中は着てきた黒いパーカーだが、それでも様になっていて、千夏は思わず見とれてしまう。「あれ? 先生もしかして見とれちゃってる?」 急に顔を覗き込まれて我に返り、千夏は咄嗟に後ずさる。後ろにあるマネキンにぶつかりそうになるのを、成也が千夏を抱き寄せて阻止する。「あっぶなー……。ま、先生のいい反応見れたからいいけど。見とれるほど似合うならこれにしよっと」「なっ……べ、別に見とれたわけじゃありません!」  ニヤつきながら試着室に戻る成也に、千夏は顔を真っ赤にしながら声を荒らげる。怪訝そうな目で見てくる店員の視線に気づき、千夏は慌てて頭を下げた。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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13話

「ね、先生。今度はネクタイ選んでよ。あとタイピンも」  成也は試着室から出てくると、ネクタイコーナーを指さしながら言う。「ネクタイくらい自分で選んでくださいよ、スーツ選んであげたんですから」 素っ気なく言って顔を背けると、スーツの裾を軽く引っ張られる。成也を見上げると、瞳を潤ませて千夏を見つめている。「ダメ……?」 わざとらしく、あざとく、こてんと小首を傾ける成也に、千夏は盛大なため息をついた。「いつもそうやって女性を誑かしているわけですか」「ははっ、手厳しいなー。今までの女の子はみんなこれで言うこと聞いてくれたんだけど」 千夏の冷めた目をものともせずにひとしきり笑うと、急に真面目な顔をする。先程の困り顔よりも、凛々しい顔をされた方が心臓に悪い。「真面目な話さ、先生の助手やるんだからちゃんとしたネクタイ選ばなきゃいけないでしょ? 俺ひとりじゃちゃんと選べる自信ないからさ、選んで欲しいんだよね」 そう言われると、彼ひとりに選ばせるのが不安になってきた。今までまともに働いたことがなさそうな成也のことだ。ビジネスマンというより、ホストがつけてそうなネクタイを選んでもおかしくない。「……仕方ないですね」「ありがと、先生」 上機嫌な成也と一緒にネクタイコーナーに行くと、色ごとに分けて陳列されている。「へぇ、ネクタイってこんなにあるんだね。ほら、赤だけでもこんなにあるよ」 成也は感心したように言いながら、2種類の赤いネクタイを手に取る。ひとつは無地の深紅で、もうひとつは明るめの赤に白のストライプが入っている。「ストライプが入ってる方はまだしも、そっちの無地のやつは軽薄に見えるからやめておいた方がいいですよ」「どっちも買う気ないよ。でもなんとなく選ぶ基準は分かったかも。ありがと。先生的にはどれがいい?」「そう、ですね……」 千夏は寒色系のネクタイを見ていく。暖色系も悪くはないが、弁護士という職業を考えると落ち着いた色を選びたいと思った。もっとも、成也は弁護士ではなく助手なのだが。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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14話

「これなんてどうですか?」 千夏が手に取ったのは、無地の深緑のネクタイだ。程よい重厚感と品が感じられる。「へぇ、大人っぽいチョイスだね。ね、ネクタイって何本か持ってた方がいいのかな?」「ネクタイは男性がつけるものなのでよく分かりませんが、所長は何本か持ってましたね。たぶん、仕事用に2、3本、葬儀があった時のために黒いのを1本持っていれば困らないかと思いますが……」「そっか、じゃあ黒いの含めてあと2本買っとこ」 成也は黒無地のネクタイを見つけて手に取ると、不思議そうな顔をして千夏を見る。「もう1本、選んでくれないの?」「また私が選ぶんですか? 今更ですが、予算はどれくらいなんです? ワイシャツも何枚か買うでしょうから、結構すると思いますけど……」 今まで値段を気にしていなかったことに気づき、千夏は質問を投げかける。大手ショッピングモールなどならまだしも、ちゃんとした紳士服店なら安くても5万円はするだろう。偽ドラッグで荒稼ぎしていたのだからそれくらい持っていたとしてもおかしくはないが、それはあくまでも成也が無駄遣いをしていなければの話だ。成也のことはあまり知りはしないが、どう見ても貯金しているタイプには見えない。「大丈夫、これがあるから」 成也が手帳型のスマホケースから出したのは、クレジットカードだ。「働いてもいないのに、どうしてカードなんて持ってるんですか」「ひっどいなー。今日からこうして働いてるのに。まー真面目に答えると俺ってほら、顔がいいじゃん? 養わせてーって言ってくれるおねーさまがいちゃうわけ。ちなみにあのマンションも、おねーさまが借りてくれてる」「最低ですね」 いくら偽ドラッグで荒稼ぎしているからって、成也があんなにいい部屋に住めるとは思ってはいなかったが、改めて本人からこうして聞くと不快だった。「うわぁ、傷ついた……。でもさ、自立しようと俺なりに頑張ってるんだからそこは評価してよ、先生。ここで働いて初めての給料貰ってから、おねーさまにちょっとした恩返しして出るつもりでいるんだからさ」「へぇ、意外と律儀なんですね」 成也が胸を押さえながら下手な演技をすると、千夏は感心したように言う。女性を食い物にしているイメージしかなかったため、彼の口から恩返しというワードが出るとは露ほども思っていなかった。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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15話

「先生、俺のことただのクズ男と思ってるでしょ?」「ええ、もちろん。そんなことよりはやく買い物済ませて事務所に戻りましょうよ。あ、ワイシャツと靴は自分で選んできてくださいね、待ってますから」 千夏は一方的に言うと、しっしっと追い払う仕草をする。成也はその手を掴み、ワイシャツコーナーへ行く。「ちょっと、選ばないって言ってるじゃないですか」「選んでくれなくてもいいから、そばにいてよ。あ、買い物かご持ってきてもらえる? さすがにこれ以上手だけで持つのキツいからさ」 そう言って千夏の手をパッと離すと、千夏は成也に抗議の目を向ける。「立ってる者は親でも使え、他人ならなお使えってよく言うでしょ」 千夏が口を開く前に、成也が先回りをする。「よろしければ、レジでお預かりしましょうか?」 ふたりの会話を聞いていたのか、先程の女性店員がにこやかに声をかけてくる。「あ、ホント? ありがと」  成也は店員に持っている商品をひとつずつ手渡す。「スーツはサイズの方は大丈夫でしたか?」「うん、バッチリだよ。あとは靴とワイシャツとタイピン買えば完璧……って、タイピン選んでなかったね。じゃ、それよろしく」 ネクタイピンを選んでいないのを思い出した成也は、店員に手を振りながら千夏の手を引き、ネクタイ売り場に戻る。「あそこまで行ったら、ワイシャツ選んでからでもよかったんじゃないですか?」「後回しにするとまた忘れちゃいそうだからさ。ね、どういうのがいい?」 成也は照明でキラキラ輝くネクタイピン達を指さしながら、千夏に選ばせようとする。「もう、どうしてなんでもかんでも私に選ばせようとするんですか? 着るのは末安さんなんですから、自分で選べばいいじゃないですか」 いい加減うんざりした千夏は、苛立ちを隠すことなく言い返す。これが彼氏ならさぞがし楽しいのだろうが、成也は彼氏でもなければ、想いを寄せている相手でもない。それどころか詐欺まがいの行為を働いた犯罪者で、キスで女性を惑わす女の敵だ。しかも千夏の職場を梨花から聞き出し、幸男をどう言いくるめたのか、こうして就職している。成也の何もかもが気に入らなかった。「好きな子に選んでほしいから」「殴っていいですか?」「弁護士先生が暴力で解決しちゃうのはよくないんじゃないかなー?」 煽り文句に舌打ちすると、千夏は成也に背を向けて
last updateLast Updated : 2026-06-02
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16話

 事務所につくと勢いよくドアを開けた。「所長、お話が……」 来客に気づき、千夏は咄嗟に笑みを作り、頭を下げる。客人は不思議そうに千夏を見上げ、頭を下げ返す。「おぉ、おかえり、本条さん。末安さんはどうしたのかね?」「彼はまだ買い物をしています。お茶、淹れますね」「はははっ、意外と凝り性のようだね。お茶はいいから、依頼人の話を聞いてほしい」 幸男はソファから立ち上がると、千夏に座るように促した。千夏はそれに従い、客人の向かいに座る。「初めまして、笹塚法律事務所所属の本条千夏と申します」 千夏はポケットから名刺ケースを出すと、自分の名刺を客人の男に差し出した。客人も名刺を差し出そうとしたところで事務所のドアが開き、成也が入ってくる。真夏だと言うのに長袖のワイシャツにベストを着て、千夏が選んだ深緑のネクタイを締めている。これで髪が落ち着いた色だったら完璧だったろうに。 成也は千夏と客人を見つけると、一礼した。「初めまして、本条先生の助手兼雑用係の末安成也です。外、暑かったですよね。今冷たい飲み物持ってきますね」 爽やかな笑顔を客人に向けると、成也は給湯室へ消えた。「あの、今の方は……」 男は訝しげな目を給湯室に向けると、その目を今度は千夏に向ける。どんなに態度がよくても、派手な金髪の人物がいるのだ、冷ややかな目を向けられても仕方ない。しかもそれが今から依頼をしようとしている弁護士の助手を名乗るのだから、尚更だろう。「心配はいりません。髪色はアレですが、優秀な人材ですから」 成也のフォローをしたのは、千夏ではなく幸男だ。依頼人は生返事を返すと、不安そうな顔で俯く。きっとここに来たことを後悔しているのだろう、と千夏は思う。成也はやはりクビにするべきだとも。「お待たせしました、麦茶をどうぞ」 成也は氷の入った麦茶をそれぞれの前に置くと、菓子受けを中央に置いて千夏の隣に座る。「はぁ、どうも。自己紹介が遅れました。私は岸本浩二といいます」 浩二はふたりに名刺を手渡す。名刺には彼の名前と連絡先、そして“岸本製薬会社社長”という肩書きが書かれている。「製薬会社の社長さんですか。まだお若いのにご立派ですね」 成也は尊敬の眼差しを浩二に向ける。「先代に押し付けられた形なんですけどね」 照れくさいのか、浩二ははにかみながら言うと、今度は深刻そうな
last updateLast Updated : 2026-06-02
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17話

「今日こうしてここに来たのは、私の身の潔白を証明し、妻に離婚を考え直してもらうためです」「中を拝見してもよろしいでしょうか?」「はい」 千夏が確認を取ると、浩二は重苦しく返事をする。封筒を開けると数枚の写真が入っている。どれも浩二とフチなしメガネをかけた女性が一緒にいる写真だ。1枚目はふたりで街中を歩く写真、2枚目は談笑しながら外食をしている写真だ。ガラス張りのレストランの窓際で食べているのを外から取ったらしい。 ふたり共スーツを着ていることから、仕事中に盗撮されたものだろう。この女性は会社か取引先の人間だろうと、千夏は推測した。 3枚目は2枚目と同じく談笑しながら外食をしている写真だが、ふたり共私服で、座っている位置が逆だ。ふたりの奥に窓があることから、同じレストラン内で盗撮されたものだろう。 4枚目はラブホテルに入ろうとしている写真だ。女性の方は今までの写真と違って胸元が大きくあいた黒い服に、スリットが入ったワインレッドのスカートをはいている。メガネもかけていないので分かりにくいが、間違いなくほかの写真と同じ女性だ。「最初の2枚の写真はともかく、3枚目と4枚目の写真は身に覚えがないんです。昨日、いきなり妻にこの写真をつきつけられて、離婚してくれって言われて、何がなんだか……」 浩二は絶望しきったかのように頭を抱える。「落ち着いてください。調査をしますので、話を聞かせてくれませんか?」 千夏がなだめるように言うと、浩二はゆっくり顔を上げる。「はい、分かりました……。えっと、どこから話せば……」「まず、この女性は誰ですか?」 成也は安っぽい手帳を開きながら、浩二に質問する。千夏はそんな彼を睨みつけるが、成也は浩二をまっすぐ見ているせいか気づいていない。ここで喧嘩しては依頼人と信頼関係を築くのは不可能だと思い、成也を注意したいのをぐっとこらえる。「この人は河合美奈子さんといって、私の秘書です。彼女は少し気難しいところもありますが、とても優秀な秘書なんです」「疑っている訳ではなく参考に聞きたいのですが、2枚目の写真では随分楽しそうにしていますけど、なんの話をしていたのか思い出せますか?」 成也の鋭い質問に、千夏は悔しいと思いながらもよくそこに気づいたと感心する。千夏は写真を見た時から、この女性から証言を得ることしか考えていなかった。「
last updateLast Updated : 2026-06-02
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18話

「そうなんですね。河合さんとドッグカフェに行ったことはありますか?」「ドッグカフェどころか、休みの日に会ったことすらありませんよ。犬を飼えないのは少し寂しいですけど、私は妻を愛してます」 後半語気を強めて言うと、浩二は落ち着くために麦茶をひと口飲んだ。その言葉に嘘があるとは思えず、千夏は改めて写真を見る。美奈子とラブホテルに入ろうとしている浩二も嬉しそうに見えてしまい、自分の未熟さに嫌気がさす。「奥様とは、結婚してどれくらいになるのですか?」「そうですね……、あと5ヶ月半くらいで4年になります。お見合いで結婚したのですが、好きになってしまえばそんなの関係ありません。月に1度は日帰り旅行をしますし、半年に1回は妻の行きたいところに1週間旅行してます。彼女が好きそうな宝石や花を時々買って喜ばせたり……。こんなに尽くしてきたのに、こんな……」 成也の質問に最初は幸せそうに話していた浩二だが、また頭を抱えてしまった。彼が妻を溺愛しているのは、先程の話でこちらが恥ずかしくなるくらいよく分かった。それほど溺愛している妻に身に覚えのない写真を突きつけられ、離婚を切り出されるのは、相当辛いだろう。「奥様は専業主婦ですか? それとも何かお仕事はされていますか?」「妻を働かせるだなんてとんでもない。彼女は専業主婦ですよ。細かいところまでよく見ていて、私にはもったいないほどよく出来た妻です」 不倫疑惑を晴らしたことは何度もある千夏だが、ここまで惚気られたのは初めてだ。「奥様から、この写真を誰から受け取ったのか聞きましたか?」 成也は気難しそうに手帳に何か書くと、顔を上げて質問をする。「それが、分からないんです……。手紙が来てないかポストを確認してたら、これがあったみたいで……」「そうですか」(だとしたら、岸本さんを失脚させたい誰かの仕業?) 千夏が写真の送り主について考えていると、浩二は時計を見てあ、と声を漏らした。「どうしました?」「すいません、ちょっとこれから用事がありまして。何か分かったら連絡ください」「すいません、最後に1つだけいいですか?」 立ち上がろうとした浩二を呼び止めたのは成也だ。「なんでしょう?」「岸本さんの1日の流れを教えてくれませんか? 大まかでかまいませんので」 タイミングがタイミングなだけに嫌な顔をされるのではないかと
last updateLast Updated : 2026-06-02
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19話

「そうですね……。朝6時半に起きて、8時半に会社についたら午前中は書類を片付けて、昼は外食をします。基本的ひとりですが、時々写真のように、河合さんと一緒の時もあります。午後は新薬開発のために研究室にこもることが多いです。いつも、というわけには行きませんが、6時頃に仕事を終わらせ、幼なじみのお見舞いに行ってから帰宅します。家に着くのはだいたい7時過ぎですかね」 浩二は1日の流れを言うと、残りの麦茶を飲み干した。「これから、その幼なじみのお見舞いにいくつもりなんです」「すいませんが、同行させてもらってもいいですか? もちろん、病室には入りません。調査をするためにも、病院の場所を把握しておきたいんです」 成也のこの質問に、千夏は肝を冷やした。確かに病院の場所を知る必要はあったが、病院の名前を聞けばいいだけの話だ。「いいですよ。よかったら、一緒にお見舞いしてくれませんか?」「でも、私達何も用意が……」「お見舞い品なんて、いいんです。きっと、人が来てくれるだけで嬉しいでしょうから」 千夏が遠慮しようとすると、浩二は目を伏せながら言う。どこか陰りのある表情に、見舞いに行かない方が悪い気がしてしまった。「分かりました。案内、お願いします」「はい」 浩二の返事を聞いた後に、幸男になんの断りも入れていないことを今更思い出し、振り返る。幸男は行ってきなさいとでも言うように、穏やかな笑みを浮かべてゆっくり頷いた。「所長」「あぁ、気をつけて行ってきなさい」 成也が許可を貰おうとすると、幸男は再びゆっくり頷きながら言った。 幸男に見送られながら外に出ると、外は戻ってきた時よりも暑い。(そういえば、お腹空いたかも……) 空腹に気づいた千夏は、場違いだと思いながらも自分のおなかを軽くさすった。1時過ぎなのだから、彼女が空腹を覚えるのも無理はない。朝食が食パン1枚だったのだから尚更だ。「岸本さんの幼なじみは、どんな方なんですか?」「榎本楓といって、私の初恋の人です。2つ年上なのですが、とても面倒見がよかったんですよ」 浩二の話を聞いて、千夏は2つの違和感を覚えた。ひとつは過去形なこと。入院しているということは、まだ生きている。それなのに過去形なのはおかしいと思った。もうひとつは浩二の声音と表情だ。事務所であれだけ妻の惚気話をしていたにも関わらず、まるで楓に
last updateLast Updated : 2026-06-02
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20話

「素敵な幼なじみさんですね」 成也がありふれた褒め言葉を言うと、浩二の表情は曇った。「えぇ、勉強もできて、可愛くて、本当に素敵な幼なじみでした。でも、面倒見が……よすぎたんです……」「どういう、ことですか……?」 ためらいがちに聞いてから、千夏は聞いてしまってよかったのかと後悔する。それでも1度口から出てしまった言葉はどうしようもない。「私が小学5年生の頃、ボールを追いかけてトラックに轢かれそうになった私を突き飛ばして、代わりに楓が轢かれてしまったんです。命は取り留めたのですが、脳死状態でして……」「すいません、余計なことを……」「いいんです」 浩二は哀しそうに笑うと、小さく息を吐いた。それから病院に着くまで無言が続いた。 榎本楓が入院しているという病院は、事務所から徒歩10分ほどの所にある。駅からもあまり近くなく、交通の便がいいとは言い難い。 ナースステーションで面会手続きを済ませると、浩二の案内で病室に入る。楓の病室は個室で、入ってすぐ左に、部屋主に使われたことがないであろうトイレがある。 ベッドに横たわる女性の肌は青白く、皮肉にも彼女の儚げな美貌を際立たせている。浩二は可愛いと言ったが、“美しい”という言葉の方が似合う女性だ。「楓、弁護士の先生と助手の方がいらしたよ。昨日も話したけど、妻が離婚を切り出してね……。でも、きっと先生達がどうにかしてくれるから、心配はいらないよ」 浩二はベッドの脇にある椅子に座ると、彼女の手を握りながら優しく語りかける。千夏はそれを見て違和感は確信に変わる。浩二はまだ、楓に恋をしている。「綺麗な花ですね。花瓶も楓が描かれていてとても素敵です。岸本さん以外にも、お見舞いに来る方がいるんですか?」 成也は百合の花にそっと触れながら聞く。成也の言葉で目線をそちらに移すと、彼の言う通り花も美しいが、花瓶も美しい。薄い黄色や淡い橙色の楓が描かれた花瓶は、病室には不釣り合いなほど立派だ。「見舞いに来るのは、妻と私だけです。昨日まではカスミソウだったから、今日妻が取り替えてくれたのでしょう。楓の両親は、7年前に火事で亡くなってしまったんです」「このようなことを聞くのは心苦しいですが、そうなると入院費は誰が払っているんですか?」 あまりにも図々しい成也の質問に冷や汗を流した千夏は、ヒールで彼の足を軽く踏んだ。成
last updateLast Updated : 2026-06-02
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