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All Chapters of Asymmetry: Chapter 21 - Chapter 30

51 Chapters

21話

「入院費も治療費も、すべて私が払っています。これが私に出来る償いですから」「すいません、余計なことを聞いてしまって」 浩二の心情を察し、心を痛めた千夏は、成也の代わりに謝罪する。お前も謝れと目配せするが、成也は室内を見回して気づかない。「いいんです、気にしないでください。それに、今日おふたりがお見舞いに来てくれただけで私は嬉しいんです」「はぁ……」 手ぶらの見舞いが何故嬉しいのか分からず、千夏は生返事をする。それに気づいたのか浩二は小さく笑い、口を開いた。「脳死状態でも聞こえていると、昔聞いたことがあるんです。聴覚から刺激を与えるのはいいことだとも。本当かどうかは分かりませんが、私は本当だと信じています。きっとふたりの声は、楓にとっていい刺激になったでしょうから」 浩二は穏やかな笑みを浮かべているのにも関わらず、千夏は得体の知れない恐怖を覚えた。「もしそれが本当なら、お役に立てて嬉しいです。奥様にもお話を伺いたいので、ご自宅の住所を聞いてもいいでしょうか?」 成也は何も感じないのか、手帳を広げながら住所を尋ねる。「あぁ、そうですよね。ちょっと待っててください」 浩二は名刺ケースから自分の名刺を1枚出すと、裏側に手早く住所と電話番号を書いて成也に手渡す。「ありがとうございます。調査もしないといけないので、お暇させていただきます。ね、先生」「え? えぇ、そうね。病室まで押しかけてすいませんでした。楓さん、はやくよくなるといいですね」 いきなり話を振られて驚きながらも成也に話を合わせると、浩二に一礼した。「いえ、こちらこそありがとうございます。調査、頑張ってくださいね」「はい、失礼します」 最後にもう一度、今度は成也の頭を掴んで一緒に一礼させると、病室を出た。「もう、どういうつもりですか? 勝手にあれこれ質問したり、病室から出ようとしないでください」「ごめんね、もうあれ以上あそこにいるのはしんどいからさ。お説教よりもさ、ごはん食べに行こうよ。俺おなか空いちゃった。それに、お互い気づいたこと話した方がいいだろうし」 明るい声音と裏腹に、陰りのある彼の表情に、千夏はこれ以上説教する気になれなかった。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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22話

 病院を出ると、千夏はこのまま昼食を食べてから岸本家へ行くことを、幸男に電話で伝えた。幸男はゆったりした口調で、塩分と水分の補給を忘れないようにと言って電話を切った。「所長さん、なんて?」「どちらも許可をもらいました。それと、塩分と水分をちゃんと補給するように、とのことです」「保護者みたいだね。さってと、どこがいいかな? 俺としては食べられればなんでもいいけど」 幸男の伝言を聞いて苦笑すると、成也は近くの飲食店を見回した。といっても、この近くにはファミレスと蕎麦屋しかないのだが。「ではあそこのファミレスでいいですか?」「うん、いいよ」 おなかをさすりながら返事をすると、成也はチラリと病院を見上げた。千夏もつられて同じ方向を見ると、ちょうど楓の病室があるあたりだ。「なんかなぁ……」 成也は表情を曇らせて呟くと、ファミレスへ向かって歩き出す。「あ、ちょっと待ってくださいよ」 千夏は慌てて彼の隣に並んだ。 ファミレスに入ると冷房が効いていて、ふたりの汗がすぅーっと引いていく。昼時だというのに客が少ない店内を見ていると、中年女性のウエイトレスが好きな席にどうぞと声をかける。「奥の席でいい?」 成也が指さしたのは1番奥にある、出入口から見づらい席。これから話す内容が内容なだけに、彼なりに考えたのだろう。「えぇ、いいですよ」 ふたりは席に座ってメニュー表を開く。「俺は決まったけど、先生は?」 成也が声をかけたのは、メニューを開いて10秒経つか経たないか。「早いですね……。ちょっと待ってください」 千夏はパラパラとメニュー表をめくり、オムライスを見つけると顔を上げる。「決まりました」「まとめて注文するから教えてよ」 彼の気遣いに少し驚きながらも料理を伝えると、成也は呼び鈴を押した。先程のウエイトレスが少しめんどくさそうな顔をしながら来る。「オムライスとドリンクバーふたつずつで」「オムライスとドリンクバーがふたつですね、少々お待ちください」 ウエイトレスは軽く一礼すると、厨房へ姿を消した。「先生、何飲みたい?」「え、取ってきてくれるんですか?」「だって先生、だいぶ暑さにやられてるでしょ?」 成也の言う通り、暑さに弱い千夏はだいぶやられてしまい、正直飲み物を取りに行くのすら億劫だ。暑さが苦手だと言うと「名前に夏って入ってる
last updateLast Updated : 2026-06-02
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23話

「では、お言葉に甘えて……。冷たいお茶をお願いします」「ん、りょーかい」  成也が席を立った直後、千夏は彼が飲み物に何かイタズラをしないか心配になった。子供が思いつきそうな、ふざけた偽ドラッグを売り捌いていた男だ。ガムシロやレモン汁を混ぜてもおかしくはない。「お待たせ。ちょっと氷入れ過ぎちゃった」「……ありがとうございます」 ごめんね? と笑いかける成也に、抑揚のないお礼の言葉を述べると、恐る恐るウーロン茶をひと口飲む。「あ、普通……」「何それ、俺がなんかするとでも思ったわけ?」「はい」「ひっどいなー」 即答する千夏にひとしきり笑うと、成也は彼女をじっと見る。「先生さ、結構暑がりでしょ?」「なんですか、急に……」 いつものチャラチャラした雰囲気が消え、真剣な目で見られて落ち着かなくなる。観察者の目にそわそわし、目を逸らしたいのに逸らせない。「ねぇ、なんで暑がりなのに髪まとめないの? こんな時期に長袖で、しかもスーツまで着てるのはどうして?」「それ、は……」 普通の人には当たり前の質問が、千夏の胸に刺さっていく。少し寒いくらいに冷房が効いているのに、冷や汗がこめかみから流れ落ちる。「無理に答えなくてもいいよ。ちょっと気になっただけだから」 成也が小さく笑ってコーラを飲むと、緊張が解け、大きく息を吐く。「ねぇ、先生。岸本さんのことどう思う?」「そうですね……。こういう言葉を依頼人に使うのは気が引けますが、少し異常だと思います」 千夏が遠慮がちに言うと、成也は同意するように大きく頷いた。同じことを思っている人間がいることに安堵する。「あの人さ、ちゃんと奥さんのこと見てるのかな?」「岸本さんの話だけを聞けば愛妻家ですけど、本当は楓さんのことをまだ好きでいる気がするんです」「間違いないね。ね、先生。食べ終わったらもう1回楓さんのところ行っていい? 忘れ物を取りに行くついでに確かめたいことがあるんだ」「まぁ、いいですけど……」 先程まで成也に怒っていた千夏だが、無邪気な笑顔を見て、何故か彼を信用してみようと思ってしまった。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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24話

「お待たせしました」 無愛想な中年ウエイトレスはふたりの前に料理を並べると、雑なお辞儀をしてスタスタと厨房に戻る。(あんな接客態度じゃ、客も来ないわけだわ……) チラリと彼女の背中を見ると、千夏はオムライスを頬張った。「ところで末安さん、確かめたいことってなんですか?」「秘密」 人差し指を口元に持ってきて、いたずらっぽく笑う成也を睨みつけると、冗談だよとヘラヘラ笑う。「正確には、確信が持てないから言いづらいっていうかさ。ま、おかしなことはしないよ」「では質問を変えます。忘れ物ってなんですか?」「ボールペン。サイドテーブルにうっかり置きっぱなしにしちゃった」(わざとだな……) 知り合って間もないが、成也がそううっかり忘れ物をする性格でないことは、なんとなく分かる。千夏はモヤモヤした気持ちを抱えたままオムライスを完食し、もう一杯ウーロン茶を飲むと、成也と共に病院へ戻った。 楓の病室に入ると、浩二はまだベッドの横に座っていた。「何度もすみません、末安さんが忘れ物をしたみたいで……」「いえ、いいんです。楓にとっていい刺激になるでしょうから」 千夏が気まずそうに頭を下げると、浩二は穏やかな笑みを浮かべた。「あったあった。一緒に戻ってきてくれてありがとうございます、先生。本当に優しいですよね」(うわっ、胡散臭っ) ボールペンを見せつけるように顔の高さまで持ち上げながら微笑む成也に、鳥肌が立った腕をさする。「すぐに見つかってよかったですね」「はい。ところでこの指輪って……」 「触るな!!!」  成也がおもちゃの指輪に触れようとした途端、浩二は声を荒らげた。驚いて浩二を見ると、顔を真っ赤にして成也を睨んでいる。「……すいません! うちの助手が……」 はやく謝れと目配せをすると、成也は大人しく頭を下げ、謝罪の言葉を述べた。千夏は少し意外に思いながらも、彼が頭を下げたことに安堵する。「今日はもう、帰ってください」 浩二は成也から目を離して楓を見つめると、絞り出すように言った。「すいませんでした」 ふたりはもう一度謝罪すると、病室を後にした。 千夏は病院を出るまで無言を貫き通し、成也は人差し指と親指であごをつまんで考えごとをし、時折小声で何かを呟いた。「末安さん、あなた怒られると分かっていてあの指輪に触りましたね?」 病院か
last updateLast Updated : 2026-06-02
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25話

「外出たとはいえ、ここはまだ病院の敷地内だよ、先生」「うっ……」 千夏が病院に目線を移すと、成也は彼女の唇から指を離して歩き出す。千夏は慌てて隣を歩いた。「ちょっと……!」「ねぇ、先生。間違いなく岸本さんは心の浮気をしてる。というか、楓さんのことしか見えてないよ」「まだ奥さんに会ってないのに、どうしてそんなことが言えるんですか?」「先生、婚約指輪の裏側って何が書いてあるんだっけ?」「えっと、ふたりのイニシャルですよね?」 脈絡のない質問に戸惑いながらも答えると、成也は大きく頷いた。「あの指輪さ、イニシャルが書いてあったんだ。KToKって。浩二から楓へ。もしくはその逆か」「奥さんのイニシャルかもしれませんよ」「なんでそう言い切れるの? 奥さんのイニシャル知らないでしょ?」「あ、そういえば……」 千夏は浩二との会話を思い出す。話の内容は愛妻家そのものではあったが、妻としか言っておらず、彼女の名前を聞いたことがない。「それを確認するって意味にもなるね、奥さんのところに行くのって」「そうですね……」 成也の言葉に気が重くなってくる。「緊張してきちゃった? 大丈夫だよ、先生。さっき怒らせちゃったのはほぼわざとだけど、普段はそんなことしないし、こう見えても人の感情には敏感なんだよねー。今度は怒らせないようにするからさ、安心してよ」 成也はそう言うが、安心できそうにない。気が重いまま、岸本家へ行くことになった。 岸本家は落ち着きのあるブルーグレーの外観で、2階建てだ。庭は広さこそないが、よく手入れされている。どうやら奥方はガーデニングが趣味らしく、色とりどりの花が咲き乱れている。 千夏がインターホンを押すとすぐに玄関ドアが開けられ、ほっそりとした女性が出てくる。淡いオレンジ色のチュニックに、薄いベージュのジーパンと明るい色を着ているが、岸本夫人の顔はそれらに置いてけぼりにされているほど地味な顔立ちだ。化粧こそアイシャドウなどで明るい印象をつけようとしているが、やはり地味な顔立ちが浮いてしまっている。「どちら様でしょうか?」「私は旦那さんに雇われた弁護士の本条千夏と申します。公平な判断をするために、奥様の話を聞かせてくれませんか?」「はぁ、それはかまいませんが、そちらの方は……」 千夏が挨拶をしながら名刺を渡すと、岸本夫人は怪訝そう
last updateLast Updated : 2026-06-02
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26話

「外は暑かったでしょう」 岸本夫人はそう言って麦茶と茶菓子を出してくれる。「すいません、奥様のお名前を聞いてもいいですか? 岸本さんから色々なお話を聞かせていただいたのですが、奥様のことをずっと妻と言っていたものですから」「そうでしたか、亮子といいます」 岸本夫人が座ったのを見計らって成也が聞くと、彼女は一瞬顔をこわばらせ、作り笑いをして答えた。「素敵なお名前ですね。亮子さんは何故離婚をしたいのですか?」「えっと、夫から聞いてませんか? 浮気現場の写真が送られてきたからです」 成也が質問しているのを不思議に思ったのか、亮子は小さく首をかしげてから答えた。「写真の送り主に心当たりはありませんか?」「いえ、ありません」 千夏が質問をすると、きっぱりと否定する。千夏はそれに違和感を覚えた。この手の質問は、普通だったら少し考えてから答えるものだ。だが亮子は考える素振りなど見せず、即答した。「そうですか。ところで亮子さんは、楓さんのお見舞いによく同行していると聞きましたが……」「えぇ、そうです。とても可哀想な人ですよ」 千夏の目には、亮子が黒い笑みを浮かべたように見えた。「可哀そう、ですか」「だって、何年も寝たきりなんですもの、可哀そうじゃありませんか」「そうですね、奥様のおっしゃるとおりです」 同意したのは、成也。そして千夏にアイコンタクトを送る。どんな意味が込められているかは分からないが、任せてと言っているように思えた。千夏が静かにうなずくと、成也は小さく笑った。「岸本さんとはよく旅行に行かれているようですが、行き先は誰が決めるのですか?」「夫が決める時もあれば、ふたりで決める時もあります。割合は半々でしょうか」「浮気相手の河合奈津子さんと面識はありますか?」「えぇ、会社に忘れ物を届けに行った時に何度か。とても真面目な印象だったので、まさかあんなことをするだなんて……」 亮子はうつむき、口元をおさえる。離婚を切り出したとは言え、浩二への愛情がまだあることがうかがえた。「なるほど、分かりました。僕からの質問は以上です」「岸本さんは離婚したくないとおっしゃっておりますが、亮子さんの気持ちも考慮した上で話を進めていきたいので、また訪ねることがあると思います」「はい、分かりました」 ふたりは亮子に見送られながら岸本家を後にした
last updateLast Updated : 2026-06-02
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27話

「怒んないでよ、先生」「いい加減敬語使ってください」「ヤダ」 駄々っ子のように言う成也に、千夏は盛大なため息をついた。この先もこんな調子なのかと思うと、頭が痛くなる。「そんなことより先生、これからどうするの? もう4時半だよ。これから奈津子さんのところに行くには微妙じゃない?」「……事務所に戻って今日のことをまとめます」「そっか」 成也はそっけなく言うと、難しい顔をして千夏の隣を歩く。彼の態度に再び小言を言おうとしたが、暑さで気力が失せてやめた。 事務所に着くと、成也は浮気の証拠写真をじっと見つめる。「どうしたんですか?」「んー、この河合奈津子って人、どっかで見たことあるなーって思って」 そう言って写真を1枚コピーすると、自分の机からカラーペンを数本出して奈津子の瞼を青で、髪を黄色で染めた。「やっぱり……。先生、俺この人知ってる」 成也はペンで別人になった奈津子の写真を千夏に見せた。「うわぁ、ケバいですね……。元の写真の人とは結びつかないのですが」「そりゃあそうだろうね。夜になれば会えると思うけど、どうする?」 本来なら日中に会社を訪ねるべきだが、この姿の彼女でないと聞けない何かがある気がした。「行きます」 千夏が力強く言うと、成也は口角を上げた。 夜7時になると、千夏は繁華街の近くにあるコンビニで、成也が来るのを待った。時々雑誌を探すフリをして外を見ると、成也がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。スーツ姿ではなく、初めて会った時のような不良っぽい服装。ワインレッドの長袖パーカーで隠れた腕に目がいってしまう。(そういえば、末安さんもずっと長袖だな) 千夏はブラウスで隠れた自分の腕を軽く掴みながら、彼にも何か事情があるのではないかと勘ぐるも、軽く頭を振って考えを打ち消す。自分でされて嫌なことを、人にしてはいけない。特にこの手の問題はデリケートだ。 千夏が気持ちを切り替えようと小さく息を吐くと、成也が入店してきた。「やっほ、先生」「ずいぶんふざけた格好をしてますね」「だって、ここらへんスーツで歩いてたら客引きに捕まりそうだし。さてと、行こっか。あ、せっかくだからここで夕飯とか買ってっちゃおうか」「夕飯って……、どこで食べるつもりなんです?」「どこって、ラブホだけど」「はぁっ!?」 あまりにも予想外な返答に
last updateLast Updated : 2026-06-02
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28話

「大声出さないでよ」「あなたがとんでもないこと言うからでしょ?」「そんなに変なこと言ったつもりないけど。たぶんラブホで会うのが、向こうにもこっちにも都合がいいんだよね。ほら」 成也はそう言ってスマホ画面を千夏に見せる。ドルチェというデリヘルのホームページが開かれており、リリィというデリヘル嬢が写っている。リリィは成也がカラーペンでケバくされていた奈津子と酷似している。「確かに似てますけど、本当に奈津子さんがこのリリィさんだという保証はあるんですか?」「ないよ。だからこれから確かめに行くんじゃん。そんなことよりお腹空いたー……。何食べよう?」 成也は当たり前だと言わんばかりに言うと、弁当コーナーへ行ってしまった。千夏は呆れ返りながらも成也についていく。「もし人違いだったらどうするんですか?」「謝ってお金渡して帰るだけだよ」「お金?」「相手はデリヘル嬢だよ? そりゃお金払うに決まってるでしょ。安心してよ、俺が払うからさ。あー、暑いとガッツリ系とか無理。これでいいかな。先生は?」 成也はかがんで下段に置いてあるざる蕎麦を手に取ると、千夏を見上げた。これから調査とはいえ、ホテル街を歩くというのに緊張感のカケラもない成也に気が抜ける。成也からすれば繁華街やホテル街は生活圏なのかもしれないが、生真面目な千夏とは無縁のものだった。「先生緊張してるの? 大丈夫だよ、男女で歩いてれば変な奴に声をかけられることなんてそうはないし、リリィからすれば、接客しないでお金もらえるのはラッキーだろうからさ」「末安さんが言うと妙に説得力がありますね」「ま、ここら辺は歩き慣れてるからさ。リリィとだって、ちょっとした顔見知りだしね。分かったらはやく夕飯選んでよ、奢るからさ」「いえ、自分で買います」 千夏はそう言って冷やし中華と烏龍茶を持ってレジへ並ぶ。「可愛くないの」 後ろで成也がボソッと言ったのが聞こえたが、聞こえないフリをする。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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29話

 夕飯を買ったふたりは繁華街を抜け、ホテル街へ入る。繁華街はキャバクラやホストの客や客引き達で賑やかだったが、ホテル街はカップルや嬢と客らしき二人組がチラホラ歩いているだけで静かなものだ。「こういうところって、もっとガヤガヤしてると思ってました」「ま、皆ホテルに入るか出るかで客引きも何もないからね」 率直な感想を言うと、成也は苦笑しながら答える。「ここでいいかな」 成也が立ち止まったのは上から黄色、オレンジ、赤と派手な外観のホテル。シュロの木が建物前の中央に何本も生えており、その近くに設置されている看板には、カサブランカと書かれている。「ずいぶん派手ですね……」「そうだね。でも部屋は結構綺麗だから気に入ってるんだよね。中に入ったら、先生はエレベーターの前で待っててね」「なんでですか?」「一緒に受付にいたら緊張しちゃうと思ってさ、先生が」「うっ……」 図星をつかれ、千夏は言葉を詰まらせる。千夏にとってラブホテルは未知の世界だ。受付のやり方すら知らないし、調査とためとはいえ、恋人でもない成也とこのような場所に来るのは気恥ずかしくもある。「というわけで、エレベーターの確保よろしくね、先生」「はい……」 千夏が返事をすると成也はホテルに入り、入ってすぐ左側にある受付カウンターで部屋を借りる。千夏は言われたとおりに受付の先にあるエレベーターの前に行くと、ボタンを押した。「2階の204号室だって」 成也が部屋の鍵をぷらぷらさせながら来ると、エレベーターの扉が開く。「お、ナイスタイミング」 成也がエレベーターに乗ると、千夏も遅れて乗る。(なんでこんなに狭いのよ……) ふたり乗ってちょうどいいスペースに、千夏は居心地の悪さを覚える。エレベーターが止まって扉が開くと、千夏は真っ先に出た。「204号室はこっちだよ」 何度も来ている成也は、千夏を部屋に案内する。ドアを開けて中に入ると、小洒落た部屋がそこにある。壁には小さな額縁が6つ並んでおり、ヘッドボード側の壁は青と白で不思議な模様が描かれている。デザインに凝っているのに宿泊料金もシンプルなビジネスホテルと大差ないというのだから、ビジネスホテル代わりにラブホテルを利用する者がいるのもうなずける。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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30話

「予約の電話しとかないとね。先生、先に食べてていいよ」 成也はスマホを操作しながら言うと、電話をかけて耳にあてた。千夏はお言葉に甘えてふたり掛けのテーブルで、できるだけ音を立てないように冷やし中華をすする。成也は手短に予約の電話を終わらせると、千夏の向かいに座ってざる蕎麦を食べ始めた。「リリィは8時頃に来るよ」 時計を見てみると7時20分を回ろうとしている。「あと40分ですか……」「そんな暗い顔しないでよ。これも仕事のためなんでしょ?」「まぁ、そうですけど……。ところでリリィさんとしての奈津子さんとはどういった知り合いなんですか?」 客とデリヘル嬢と考えるのが普通なのだろうが、成也がわざわざお金を出して、女性に性処理をさせる人間だとは思えない。ふたりはもっと違うところで出会ったのではないかと千夏は考えた。「俺ホストやってた時あるんだよね。ほんの数ヶ月だけどさ。リリィはその時のお客さんのひとり。って言っても、俺の客じゃないんだけどさ」「ホストクラブのことはあまり分かりませんけど、常連には担当のホストがついて、その人がずっと接客するんですよね? どうして末安さんがリリィさんのこと知ってるんですか?」「細かいところは端折《はしょ》るけど、リリィは遊び方が派手だったんだよね。だから店では有名だったよ」「派手、といいますと?」 千夏の質問に、成也は一瞬だけ顔を曇らせる。まずい質問をしてしまったのかと質問を取り消そうとしたが、成也は口を開いた。「ホストに行ったことのない先生でも、シャンパンタワーって聞いたことあるでしょ? あれを週1くらいでやってた」「やっぱり高いんですか?」「相場は60万くらいなんだけど、俺が働いてたところは80万くらいだったかな。まぁお酒の種類とか段数とかで変わるんだけどね。あと出勤してきたホスト全員集めることをオールっていうんだけどさ、それも月イチくらいしてたよ。ちなみにこっちは100万以上かかる」 あまりにも高額な値段に、千夏は目眩を覚える。それを一晩で消すなんて正気とは思えない。
last updateLast Updated : 2026-06-02
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