All Chapters of 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜: Chapter 21 - Chapter 30

62 Chapters

第一部 第21話 夜会の始まり

 同じ夜会へ向かっているのに、今夜の私は、もう何も知らずに破滅へ歩く令嬢ではなかった。 ロザリー・モンフォール伯爵夫人の春の慈善夜会を迎えるまでに、私たちはできる限りの準備を整えた。もっとも、そのほとんどは誰にも気づかれてはならない支度だった。毒の名を口にすれば、リディアは警戒する。夫人が急に身支度の手順を変えても、同じことだった。 だから私は、夫人が普段使っている香油に似せた替えを用意した。白薔薇の甘さに、ごく薄く薬草めいた青さが混じる、あの香油とほとんど同じ匂い。瓶も、栓も、首に結ぶ細いリボンも変えない。違うのは、中身に眠り実の油が含まれていないことだけだった。 本来なら、香油は身支度のたびに肌へ薄く重ねられ、夜会が始まる頃には夫人の身体を静かに蝕んでいるはずだった。首筋、手首、髪の内側。香りをまとうための所作が、そのまま毒を入れる手順になる。前の私は、それに気づけなかった。 夫人には、いつもと同じ瓶を、いつもと同じ手順で使ってもらうよう頼んである。侍女の前では何も知らないふりをし、髪を梳かせ、首筋へ香油を落とされても、決して表情を変えないように。医師は隣室に控えさせてある。名目は年配の来客への配慮。モンフォール家の執事には、夫人の具合が悪くなった時、客を遠ざける手順だけを伝えてある。 アウルはそれらを、驚くほど静かに、しかも早く整えた。私は前の夜の記憶を頼りに、夫人が倒れる場所、杯が置かれる卓、リディアが動きやすい位置を何度も頭の中でなぞった。 同じことが起きる。ただし、結末だけは変える。 そう心に刻んで、私は鏡の前に立っていた。 今夜のドレスは、仮面夜会でまとった濃紫とはまるで違っていた。淡い藤色の絹が幾重にも重なり、裾へ向かうほど白くほどけていく。胸元は大きく開きすぎない形で美しく整えられ、鎖骨の下には真珠を連ねた飾りが静かに光っていた。透ける薄布の袖には小花を思わせる刺繍が散り、腰から流れる生地には金糸の飾りが細く揺れる。男の目を引くための装いではない。けれど、春の夜会にふさわしい華やかさと、顔を上げて広間へ入っていくための凛とした強さが、その一着には確かにあった。 鏡の中で、銀の髪はゆるやかな波を残したま
Read more

第一部 第22話 知っている夜

 広間へ入った瞬間、音楽と香の匂いが一度に押し寄せた。 高い天井からは水晶の燭台が幾つも下がり、壁際には春の花を模した飾り布が波のように垂れている。慈善の名目にふさわしく、中央には寄付品を飾る台が置かれ、細工箱や刺繍布、銀器が客たちの目を楽しませていた。華やかで、柔らかく、善意の仮面を被った夜会。 この広間を、私は知っている。 前の私は、同じ灯りの下でロザリー夫人と向かい合った。夫人の声は甘く、言葉は棘を含み、私はそれに耐えきれず、社交の微笑みを崩した。飲み物を渡したことも覚えている。杯の縁に残った果実酒の香り、夫人の手袋の白さ、周囲の視線。数刻後、夫人が倒れ、私はその手で毒を盛った女として名を呼ばれた。 何も知らず、何も持たず、ただ流されて破滅へ落ちた夜だった。 けれど今は違う。「大丈夫?」 アウルが低く尋ねる。彼の手が背に添えられたまま、ほんの少し私を覗き込んだ。「ええ。大丈夫よ」 そう答えながら、私は広間の奥へ視線を向けた。 同じ場所に戻ってきただけ。けれど今度は、何も知らずに破滅へ向かう私ではない。隣にはアウルがいて、夫人を死なせないための準備も、私自身を冤罪から守るための手立てもある。過去と同じ広間に立っているのに、足元の感触だけがまるで違っていた。 彼はその意味を知らない。知らなくていい。私が何を覚えているのか、どこから戻ってきたのか、それはまだ誰にも渡せない秘密だった。 広間の奥で、ロザリー・モンフォール伯爵夫人が客たちに囲まれていた。淡い薔薇色のドレスをまとい、白い首筋には真珠が幾重にも重なっている。社交界の華と呼ばれるにふさわしい笑みを浮かべ、扇の動きひとつで周囲の夫人たちの声を操っているように見えた。 自分の身近に毒を置かれているかもしれないと知りながら、夫人は今夜、何も知らない女主人の顔で広間に立っている。わずかな強張りも、怯えも、客たちに悟らせてはいない。その胆力だけは、認めざるを得なかった。 私が夫人を救う理由を、美しい情で飾るつもりはなかった。夫人が死ねば、私はまた犯人にされる。だから死なせない。その計算は、今も私の中に冷たく残っている。 夫人の視線が一瞬こちらへ流れた。扇の陰で、彼女の口元がほんのわずかに動く。打ち合わせ通り、落ち着いているように見えた。私も会釈だけを返し、すぐに視線を外した。親しげにしす
Read more

第一部 第23話 倒れる演技

 ロザリー夫人が扇を閉じた時、私はそれが合図だと分かった。 白い指が胸元の真珠に触れる。周囲の夫人たちはまだ笑っていて、寄付品を飾った卓の方からは、銀器の細工を褒める声が聞こえていた。広間に漂う花の香りも、燭台の明かりも、何も変わっていないように見える。それでも私には、その穏やかな表面の下で、すでに夜が別の形へ傾き始めているのが分かった。 私は扇を少し上げた。夫人が倒れることを知っている顔を、そのまま広間に晒すわけにはいかなかった。周囲と同じように息を呑み、突然の異変に動揺した令嬢として振る舞わなければならない。 リディアは、夫人の少し後ろに控えていた。盆を持つ手は、先ほどよりも固い。白い手袋に包まれた指が、銀の縁を強く押さえている。私は夫人の顔ではなく、その指先だけを見ていた。 夫人の唇から、笑みが薄れた。 隣の伯爵夫人が何かを囁く。ロザリー夫人は答えようとして、途中で言葉を飲み込んだ。胸元を押さえる指が、真珠の下の布を少しだけ掴む。肩がかすかに揺れ、薔薇色のドレスの胸元が浅く上下した。 演技だと知っていても、喉の奥が冷えた。 一度目の私は、この変化を本物の異変として見ていた。何が起きたのか分からず、ただ周囲の視線が怖かった。今は違う。夫人は倒れる。リディアはそれを見る。次に、誰かが私を犯人にするために動く。 夫人の手から扇が落ちた。 白い骨組みが床に当たる音が、足元近くまで届いた気がした。次の瞬間、近くで悲鳴が上がる。誰かの袖が私の扇に触れ、杯の中身が揺れて、甘い果実酒の匂いが少し濃くなった。 ロザリー夫人の身体が崩れた。 客たちが一斉にそちらへ動き、広間の空気が乱れる。私は周囲と同じように目を見開き、扇を胸元へ引き寄せた。けれど、視線だけはリディアから離さなかった。 彼女は盆を抱えたまま、女主人へ駆け寄ろうとした。顔色は変わっている。指先も震えている。忠実な侍女としてなら、何も不自然ではない。 それでも、踏み出す直前、リディアの息がわずかに整った。 張っていた肩が緩む。強く握られていた指が、盆の縁から少し離れる。女主人が倒れた直後に見
Read more

第一部 第24話 仕込む手

 リディアが控えの間へ入っていくのを見届けた時、私は扇を閉じる指に力を込めた。 広間のざわめきは、まだロザリー夫人が運ばれていった奥の間へ向かっている。誰かが医師の名を呼び、誰かが祈りの言葉を落とし、春の花を飾った慈善夜会の空気は、ほんの少し前とは違う熱を帯びていた。その混乱のすぐ脇で、控えの間へ続く扉は半分だけ閉じられている。隙間から漏れる灯りは細く、そこに人がいると知らなければ、誰も気に留めないほどだった。 アウルの手が、私の背に触れた。止めるためではなく、支えるための手だった。「行ける?」 耳元に落ちた声は、私だけに届く低さだった。「ええ」 私は頷いた。足は竦んでいない。けれど、喉の奥には処刑台の朝に似た冷たさが戻っていた。一度目の夜会で、私はこの扉の向こうを見ていなかった。夫人が倒れた広間で動けずにいて、いつの間にか私の荷物から毒瓶が見つかったと言われた。触れた覚えのない小瓶が、私の罪の証として掲げられた。 今は、それを置く手を見に行く。 アウルは夫人へ向かう人波の端を避け、私を広間の壁際へ導いた。視線は奥の間へ運ばれるロザリー夫人に集まり、控えの間へ続く扉の前だけが、不自然なほど静かだった。 扉の手前には、モンフォール家の使用人がひとり立っていた。アウルがほんのわずかに目を向けると、その男は声を出さずに顎を引いた。こちらの動きを見ても騒がない。夫人側で信用できる者だと、私はその短いやり取りで理解した。 控えの間の扉は、完全には閉じていなかった。 扉の隙間から、中を覗く。 リディアは外套掛けの前にいた。灰色の衣服は影に紛れ、白い手袋だけが燭台の灯りに浮かんでいる。彼女は並んだ外套に迷うことなく手を伸ばし、銀糸の縁取りが入った私の外套を引き出した。 その手つきに、探す間はなかった。 胸の奥が、硬く鳴った。私の荷物がどれか、あらかじめ知っていた動きだった。女主人が倒れた混乱の中で偶然目についたのではない。そこへ向かうために、この部屋へ来たのだ。 リディアの指が、外套の内側を少し開く。もう片方の手が腰元へ滑り、衣服の内側から小さな瓶を取り出した。手のひらに隠れるほどの濃い硝子瓶。中身までは見えない。けれど、その大きさも形も、一度目に私の荷物から見つかったものとよく似ていた。 隣で、アウルの腕がわずかに動いた。 藍色の袖が扉の方へ
Read more

第一部 第25話 罠を罠で返す

 私とアウルは、先に広間側へ戻った。彼は私の背を支えたまま、何事もなかったように人の流れの端へ立つ。私は扇を開き、顔の下半分を隠した。心臓は速い。けれど、視線はぶれていなかった。 広間では、セドリックが数人の客のそばにいた。 茶色の髪は乱れていない。灰色の瞳は心配そうに奥の間の方へ向けられている。けれど、彼が口を開いた時、その声は周囲の耳へ届くよう、ほんの少しだけ低く整えられていた。「先ほど、アストレア・ステラート嬢がロザリー夫人と話していたのを見た」 私の指先が、扇の骨を押さえた。「何か杯を勧めていたようにも見えたが……いや、今は軽々しく言うべきではないな」 言い切らない。だからこそ、聞いた者の中に疑いだけが残る。 小瓶が私の荷物から出る前に、まず私が夫人へ近づいていたという言葉を置く。順番まで、一度目と同じだった。広間の空気が、わずかに向きを変える。はっきり私を責める者はいない。けれど、誰かの視線が私を掠め、別の誰かが扇の陰で名を囁く。夫人が倒れた直後の不安は、形を求めている。そこへセドリックが、私の名を静かに落とした。 実際には、私は夫人に杯など渡していない。 それでも、一度目はこうして作られたのだろう。誰かが見たような気がした。誰かが言っていた。誰かが私を疑っていた。曖昧な言葉が重なり、やがて神判の前では動かしがたい証言の顔をした。 そこへ、リディアが戻ってきた。「お待ちください」 震えを含ませた声が、広間に落ちた。彼女は私の外套と手袋入れを抱え、客たちの間を縫うようにして進み出る。顔色は青ざめて見えた。けれど、私にはそれが本物の恐怖なのか、作られた震えなのか、もう簡単には信じられなかった。「奥様の近くで……不審なものがないか、確認しておりましたら」 リディアはそこで言葉を切った。周囲の視線が彼女の手元へ集まる。私の外套。私の手袋入れ。私の名札。 彼女の手が、外套の内側へ滑り込んだ。 そして、濃い色の小瓶を取り出した。「アストレア様のお荷物から、こんなものが……」 広間
Read more

第一部 第26話 運命を覆す

「答えられないのなら、その小瓶を誰の許しで取り出したのか、ここで改めて聞こう」 アウルの声は、広間の燭火を揺らすほど大きくはなかった。それなのに、リディアの肩は目に見えて強張った。彼女は私の外套と手袋入れを抱えたまま、逃げ場を探すように視線を彷徨わせる。白い手袋の指が小瓶の首を握り込み、濃い硝子の中で液体がわずかに揺れた。 周囲の客たちは、まだ誰も口を挟まない。けれど沈黙は、決して静かではなかった。扇の骨が閉じられる音、絹の裾が床を擦る音、誰かが息を飲み込む気配。そのすべてが、リディアの次の言葉を待っていた。 疑いの視線が、また私の肌へ戻ってくる。ロザリー様が倒れ、私の荷物から小瓶が出た。たったそれだけで、人は望む形に物事を並べ替える。喉の奥がわずかに強張った時、背に添えられたアウルの手が、ほんの少しだけ力を込めた。 その温度で、私は今いる場所を見失わずに済んだ。 リディアの唇が震えた。「わ、私は……奥様をお守りしようとしただけです。この毒が、アストレア様のお荷物から出たのです。奥様を殺した毒が」 言葉が落ちた瞬間、広間の空気が薄くなった気がした。 私は扇を握る指に力を入れた。今、リディアは気づいていない。自分が何を口にしたのか。 ロザリー様は倒れ、奥の間へ運ばれた。それだけだ。医師も司祭も、誰ひとりとして死を告げていない。広間にいる者たちが知っているのは、女主人が突然意識を失ったという事実だけだった。 アウルが、わずかに首を傾けた。「殺した?」 低い声だった。 その一言だけで、リディアの顔から血の気が引いた。「誰が、夫人が亡くなったと言った?」「そ、それは……その、倒れられたのですから、毒であれば……」「毒であれば、必ず死ぬと?」 アウルの腕が、私の背を支えたまま離れない。彼の体温は変わらないのに、声だけが冷えていく。私はその横顔を見上げた。黒髪の影に隠れた琥珀色の瞳は、リディアの言葉を一つも逃していなかった。「君は医師より早く、ここにいる誰より早く、夫人の死を知っていたらし
Read more

第一部 第27話 縋る声

「香油なら、他の侍女も触れます。私は奥様にお仕えしていただけで、瓶を整えることも、支度を手伝うことも、侍女として当然のことでございます」 リディアは、まだ侍女の礼儀の形にしがみつこうとしていた。「他の侍女も、瓶に触れることはあったでしょう。けれど、特注の香油を受け取りに行った者は限られる」 私は、控えていたアウルの従者へ視線を向けた。彼が静かに進み出て、封をされた薄い帳面と、小さな紙片を差し出す。私はそれを受け取らず、ロザリー夫人の家令へ示した。ここで私がすべてを握っているように見せるより、モンフォール家の場として明かされた方がよい。 家令が封を開き、低い声で読み上げた。「白薔薇に青い薬草を合わせた特注香油一瓶。支払い名義、ドラクロワ公爵家嫡男セドリック・ドラクロワ様。受け取りは若い侍女。紋章を外した小箱で持ち帰りを希望。特徴は、灰色の外套、白い手袋、栗色の髪を結い上げた女」 リディアの白い手袋が震えた。「それだけで私だと決めつけるのですか。灰色の外套など、いくらでもございます。白い手袋も、侍女なら誰でも……」「では、月眠りの実の油を買い求めた女については?」 アウルが言った。彼の声は広間の端まで届いたが、無駄に場を煽るものではなかった。「少量ずつ、複数回。白い手袋に灰色の外套。モンフォール家の侍女服に似た衣を着た女。薬種商は、顔を隠した女が、眠り薬として使うのだと説明したと証言している。香油商の証言と合わせれば、偶然と言い切るには少し苦しいね」「そんなもの、私ではありません。誰かが私に似せて……」「あなたはいつも、わたくしの私用金を管理していたわね」 ロザリー夫人の声だった。 夫人は家令の持つ別の帳面へ視線を落とした。その横顔には、怒りよりも深い疲れがあった。長く側に置いた者に裏切られた人の顔を、私は初めて間近で見た。「わたくしの私用金から、少額の使途不明金が何度も出ていた。宝石や衣装ならすぐに分かる額ではない。菓子、香料、針子への急な支払い、慈善箱への寄付。そういう細かな名目で、少しずつ。管理を任せていたのは、あなたね」
Read more

第一部 第28話 演じられた夜会

 重い扉が閉じたあと、広間にはしばらく誰の声もなかった。 客人たちは互いの顔を見合わせている。自分たちが今、殺人未遂の告発を目撃したのか、それとも貴族の夜会にふさわしくない醜聞に巻き込まれたのか、判断しかねているようだった。誰かがこの夜の出来事をそのまま口外すれば、モンフォール家も、招かれた客たちも、無傷では済まない。 その沈黙の中で、ロザリー夫人が静かに扇を開いた。「皆様、いかがでしたでしょうか。今宵は、ささやかな趣向として、ミステリーの演劇をお楽しみいただきました。皆様にも、ご出演者として少しばかりお力添えをいただいた形になりましたわね」 ロザリー夫人はそこで、扇を伏せたまま楽師たちの方へ視線を流した。 その一瞥だけで、壁際に控えていた楽師たちが弓を持ち直す。ほんの一拍の沈黙のあと、軽やかな弦の音が広間に満ちた。先ほどまで途切れていた舞曲が、最初からこの瞬間に合わせて用意されていたかのように、燭台の光の間を滑り出す。 音楽が始まると、人々の表情が少しずつ変わった。誰かが扇の陰で「あら、本当に演目でしたの?」と囁き、別の紳士が困惑をごまかすように小さく笑う。すべてを見ていたはずの者たちでさえ、女主人の堂々とした微笑みと、再び流れ出した音楽に背を押され、今宵の出来事を恐ろしい事件ではなく、凝った趣向の一幕として受け取り直そうとしていた。 ロザリー夫人は、その揺らぎを逃さなかった。「そして、この素晴らしい推理を導いてくださった出演者のお一人、アウレル・サンクテリア様」 アウルの指が、私の背に触れたまま一瞬だけ止まった。 彼が驚いたのが分かった。ほんのわずかに琥珀色の瞳が細められ、唇の端に苦笑にも似たものが浮かぶ。けれど次の呼吸では、もういつもの余裕を取り戻していた。彼は私から手を離し、広間の中央へ半歩だけ向き直る。 拍手が起きた。 最初は控えめだった。だが、夫人が笑みを深めると、それに応えるように音が重なっていく。アウルは藍色の礼装の裾を整え、片手を胸に添えて、あくまで紳士らしく深く一礼した。その所作は優雅で、どこか芝居がかった軽ささえある。彼の立場を知る者たちの視線に、戸
Read more

第一部 第29話 手を取る夜

 夜会が終わったあと、あの場で捕らえられたリディアが結局どうなったのかを、私は後日ロザリー夫人から聞いた。 楽師たちの弦が何事もなかったように流れ、ロザリー夫人が微笑みひとつで醜聞を演劇へ変えてみせた夜。あの場で私に向けられかけた疑いは、拍手の音に塗り替えられた。けれど、すべてが本当に芝居だったわけではない。リディアが運び出される時に叫んだセドリックの名も、扉が閉じたあとに残った冷えた空気も、今でも思い出せるほど鮮明だった。 リディアは、その後の取り調べでほとんどを白状した。 ロザリー夫人の私用金を少しずつ抜き取っていたこと。帳簿の穴を隠すために、夫人が気づく前に黙らせようとしたこと。香油に月眠りの実の油を混ぜ、少しずつ体を弱らせ、夜会の晩に濃い香油を使わせて倒れるよう仕組んだこと。そして、その罪を私に着せるため、私の荷物に小瓶を忍ばせたこと。 彼女は、私が毒殺未遂の罪で裁かれれば、セドリックのそばから消えると思っていたらしい。私とセドリックの婚約はすでに失われていたけれど、リディアにはそれが見えていなかったのだろう。社交界から追われ、二度と彼の前に立てなくなれば、今度こそ自分が選ばれる。そう信じていたのだという。 一度目の人生でも、彼女は同じことを考え、私を排除しようとしていたのかもしれない。私を罪人にし、セドリックの人生から消す。その先に、自分の望む未来があると本気で思っていたのなら、恋情というものは、時に毒よりも人を狂わせる。 セドリックとの関係についても、彼女は否定しきれなかったらしい。 ただし、セドリックが毒まで知っていたと証明されたわけではなかった。彼は最後まで、香油を買っただけだと言い張った。リディアに頼まれ、夫人への贈り物だと聞かされただけだ、と。 けれど社交界は、裁きの場ほど甘くない。 婚約者だった私を陥れようとし、愛人だった侍女を毒殺犯に変えた男。そういう形で、セドリックの名は囁かれるようになった。誰かが扇の陰で「関わった女を毒婦に変える男」と言ったらしい。その言葉は思った以上に早く広まり、ドラクロワ公爵家は体面を守るため、彼を数か月の謹慎処分にした。屋敷の外へは出さず、招待状にも返事をさせない。そ
Read more

第一部 第30話 甘い綻び

 私は彼を見上げた。 琥珀色の瞳が、私の返事を待っている。急かさない。奪わない。けれど、待っているからこそ、逃げ道を作らずに見つめてくる。 喉の奥が熱くなる。「ええ」 ようやくそう答えると、アウルは一度だけ目を伏せた。安堵したようにも、何かを堪えたようにも見えた。 次の瞬間、彼の腕が私の背に回った。 引き寄せられると、藍色のシャツ越しの体温がすぐ近くにあった。私は思わず彼の袖を掴む。アウルの手が私の髪に触れ、銀の房を乱さないようにゆっくりと梳いた。その丁寧な指先に、胸の奥が静かに熱くなる。「本当に、無事でよかった」 低い声が耳元に落ちた。 その一言で、今まで張りつめていたものが、ようやくほどけ始めた。広間では泣かなかった。リディアを見ても、セドリックを見ても、ロザリー夫人が立っている姿を見ても、私は泣かなかった。 けれど今、アウルの腕の中で、息が少しだけ震えた。「……怖かった」 ようやくこぼれた声は、自分で思うよりずっと小さかった。 アウルは答えなかった。ただ、私を抱く腕に力を込めた。痛いほどではない。けれど、決して離さないという意思だけが、布越しに伝わる。 私は彼の胸元に額を寄せた。 彼の鼓動が聞こえる。私とは少し違う速さで、確かにそこにある。暖炉の火が揺れる静かな部屋で、私は彼の腕の中にいた。 アウルの指が、私の髪に触れた。 乱れかけていた銀の一房を、彼は急がずに耳へ掛ける。その指先が耳朶をかすめた瞬間、これから何をされるのか分かってしまい、胸の奥が跳ねた。 顔が熱い。 見られたくないと思ったのに、アウルは逃がしてくれなかった。顎に添えられた指が、ほんの少しだけ私の顔を上向かせる。燭火を受けた琥珀色の瞳が、すぐ近くにあった。いつものように軽く笑ってはいない。私の反応を見落とさないように、静かに、深く見つめている。「そんな顔をされたら、困る」「……どんな顔をしているの、私」「分かっていないなら、なおさら困る顔」
Read more
PREV
1234567
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status