All Chapters of 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜: Chapter 41 - Chapter 50

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第二部 第41話 湿らせる手

「自然に湿ったのではありません」 私はマリウスへ向き直った。「あの絵の裏だけが湿っていました。あの状態を保つには、誰かが何度も触れたはずです。絵の設置や手入れに関わった者を集めてください」 マリウスはすぐに動いた。王宮から絵が届いた時に付き添ってきた額装係、設置を手伝った者、数日前に額の状態を見に来た補助の者。呼び集められた数人が、庭へ続く回廊に並ぶ。 私は一人ずつ見た。顔の青ざめ方、手の位置、視線の行き先。怯える者は多い。けれど、知らない毒に怯えている者と、見られたくないものを隠している者では、目が動く先が違う。 エレーヌは少し離れたところに立っていた。彼女は私でもアウルでもなく、絵の下にあった小卓を運び出す使用人を見ている。天板の端に残った小さな輪染みへ、目が止まった。まるで、そこに何かがあったと知っているように。 だが、彼女の手に湿った道具はない。水差しは盆の上に置かれたままで、蓋も開いていなかった。 その時、額装係の一人が庭の方へ半歩動いた。王宮から派遣された者だと名乗っていた中年の男だった。彼は革袋を胸の前に抱え、その口を指で押さえている。中身を落としたくないというより、中を見られたくない手つきだった。視線は布に包まれた絵の表ではなく、裏側が置かれている位置へ向いている。 昨日の小卓の輪染み。今朝の水差し。絵の裏だけの湿り。そして、革袋を押さえる指。「アウル」 私は男から目を離さず、彼の名だけを呼んだ。 それだけで、アウルは動いた。護衛が左右から男の腕を押さえる。男は一瞬遅れて逃げようとしたが、足がもつれ、革袋が床に落ちた。中から湿った布片、小さな陶器の瓶、毛先の黒ずんだ短い刷毛が転がる。瓶の口から、談話室で嗅いだものより濃いカビ臭さが立ち上がった。「これは何だ」 アウルが問うと、男は喉を鳴らした。目は私ではなく、回廊の奥を探している。誰かの助けを待つ人間の目だった。「私は、手入れを頼まれただけです。裏を乾かすな、と。絵を長持ちさせるためだと聞かされました。湿らせておけばいい、それだけだと」「誰に頼まれた」
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第二部 第42話 署名のない紙

 毒の絵が離宮から運び出されても、談話室の扉は閉じられたままだった。 廊下を通るたび、私はその扉の前に立つ護衛の横顔を見た。いつもなら磨かれた真鍮の取っ手には布が掛けられ、扉の下には換気のための細い隙間が作られている。中では窓が開け放たれ、湿った風が古い紙と木の匂いを外へ追い出しているはずだった。 使用人たちは声を潜め、茶器を運ぶ手つきにもわずかな強ばりが残っている。誰も騒がない。マリウスがそうさせないのだろう。けれど、銀盆が卓に置かれる時の小さな音や、廊下の角で交わされる短い目配せに、あの絵がここにあった事実は残っていた。 医師は私とアウルの脈と顔色を見て、しばらくは温かいものを取り、部屋を移して休むようにと言った。悪い空気に当たったのだろうとは口にしたが、それ以上のことは慎重に濁した。けれど、談話室を離れてから頭の重さが少しずつ引いていること、胃のあたりの不快感が薄れていることは、私自身の体が一番よく分かっていた。 アウルも同じだった。顔色はまだ完全には戻らない。けれど、こめかみに指を当てる回数は減っていた。食事も、昨日よりは少し多く口にしている。 頭の重さが引いていくほど、あの絵が本当に私たちを弱らせていたのだと分かってしまう。楽になっているはずなのに、気持ちは少しも軽くならなかった。 午後、私たちは談話室ではなく、庭に面した小さな書斎に移っていた。窓は開けられ、薄いレースのカーテンが外気にゆっくり動いている。暖炉には火を入れていない。卓上には医師の残した薬湯と、取り上げた品を包んだ布が置かれていた。 マリウスが静かに入ってきた時、アウルは椅子の背から身を起こした。いつものように脚を組み、余裕のある姿勢を取っている。それでも、肘掛けに置いた指先が一度だけ強く曲がったのを、私は見逃せなかった。「取り調べの報告です」 マリウスは深く一礼し、封をした紙束と小さな革袋を卓へ置いた。革袋は、額装係の男が抱えていたものだ。今は乾いた布で二重に包まれ、口は固く縛られている。「男は、依頼主の顔も名も知らぬと繰り返しております。受け取ったのは金貨と、絵の裏の手入れを記した紙だけ。場所と日時は指定されていましたが、紙
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第二部 第43話 一人で抱えないで

  私は椅子を少し寄せた。衣擦れの音が、静かな部屋で小さく響く。アウルはこちらを見ない。窓の外の庭を見ている。曇り空の下で、葉の色はいつもより鈍い。「アウル」 名を呼ぶと、彼はようやくこちらへ顔を向けた。唇には笑みがある。けれど、目の奥に疲れが残っていた。「一人で抱えないで」 言葉は短くした。慰めを重ねても、彼は受け取る前に冗談で包んでしまう気がしたからだ。 アウルは何か言いかけて、やめた。指先が紙から離れ、卓の上でわずかに止まる。私はそこへ自分の手を重ねた。彼の手は温かいのに、指の先だけが冷えている。「私も一緒に狙われたのよ。だから、一緒に考えさせて」 アウルの琥珀色の目が、静かに私を見る。からかう言葉は出てこなかった。少しの間、彼は私の手の下にある自分の指を動かさずにいた。「君にそんなことを言わせたくはなかったな」「言わせたくなくても、もう言ったわ」 アウルは小さく息を吐いた。紙を押さえていた指が、今度は私の手を包む。「一人で考える癖は、簡単には抜けない」「知っているわ。だから、隣にいるの」 彼はそれ以上言わなかった。けれど、重ねた手を引くことはなかった。むしろ、包む指に少しだけ力が入った。 それから、決めるべきことを一つずつ確認していった。 談話室は当面閉鎖する。換気を続け、壁や家具を改め、絵が掛けられていた場所の周囲は誰も触れない。王宮から届く品は、たとえ正式な手順を経たものでも、すぐには居室へ入れない。封蝋、運び手、添え状、箱の内側、布や香り。確認できるものは、すべて一度マリウスを通す。使用人の出入りも記録に残し、外部の職人や補助人員は、離宮の者だけで対応しない。 品を止めても、人の招きまで止められるとは限らない。そう思ったが、まだ口には出さなかった。今はまず、足元を固める方が先だった。 アウルは短く指示を出し、マリウスは一つずつ頷いていった。いつも冷静な家令の顔にも、今日は固さが残っている。エレーヌは扉近くで控え、必要な品を書き留めていた。その横顔は静かで
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第二部 第44話 届いたドレス

 次に差し出されるものが、また疑う理由のない形をしていないとは限らない。 そう思った数日後、その予感は白い封筒と、白地に金の紐を掛けた大きな箱の形で離宮へ届いた。 王宮からの品は、すぐに私たちの前へ運ばれなかった。毒の絵のあとで決めた通り、まず別室でマリウスが封蝋、箱、添え状、布の内側まで改めた。毒の匂いはない。針も粉も、湿りもない。ただ、封筒には甘い香水がごく薄く移っている、と報告を受けた。 そうしてようやく、小さな書斎の卓へ置かれた。 封筒も箱も、白と金で整えられていた。礼儀正しい祝いの装いに見えるのに、その色だけが妙に強く残る。窓から差し込む午後の光を受けて、金の紐が細く光った。 封筒の表には、アストレア・ステラート侯爵令嬢へ、と丁寧な筆跡で記されている。アウルの名はない。「私宛てなのね」 そう口にすると、マリウスが静かに頷いた。「差出人は、ベネディクト王太子殿下です」 マリウスの声はいつも通りだったが、封筒を見る目には固さがあった。 アウルは窓際に立っていた。毒の絵の件から少し顔色は戻ったものの、まだ完全ではない。けれど、王太子の名が出た瞬間、彼の背筋がかすかに伸びた。具合の悪さを隠す時の姿勢ではない。戦う相手を見た時の立ち方だった。 私は封を開けた。香水は甘いのに、紙を押さえる指先だけが落ち着かなかった。 数日後、王宮で小さなお茶会を開くこと。婚約への祝いを改めて述べたいこと。今後の親交を深めたいこと。文面は礼儀正しく、どこにも不審な言葉はない。何も知らない者が読めば、王太子が元第一王子の婚約者を公に遇しようとしている、穏やかな招きに見えただろう。 けれど、毒の絵も祝いの品として届いた。 私は招待状を卓へ置き、隣の箱へ目を向けた。白地の大きな箱は、招待状と同じ色で整えられている。マリウスが目で確認を求め、アウルが短く頷いた。 蓋が開けられると、薄紙の奥から白いレースが現れた。 私は手を伸ばし、レースの端を持ち上げた。袖の向こうに自分の指が透ける。肩を覆うはずの布は低く落ちる仕立てで、胸元は昼の茶会に
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第二部 第45話 王宮のお茶会

 アウルは、見送りには来なかった。 薄情だからではない。白いドレスをまとった私を見れば、彼はきっともう一度だけ行くなと言う。その声を聞いたあとで馬車へ乗ることを、彼も私も避けたのだ。 最後に交わした言葉は昨夜のままだった。必ず帰ってくると私が告げ、彼はそれを約束として受け取った。馬車へ乗る前、私は手袋越しに左手をそっと握った。昨夜のアウルの声が耳の奥に戻る。必ず帰ってきて、と言った時の、低く抑えた声だった。 鏡の前で身支度を終えた時、侍女たちは誰も余計なことを言わなかった。外套の内側で、肌に触れるレースがいつもより頼りない。歩くたびに肩口が冷え、胸元を隠そうとしても、布の薄さが贈り主の意図を思い出させる。 私は手袋をはめた指を一度だけ握り、部屋を出た。 廊下にはエレーヌが控えていた。彼女は私の姿を見ても、わずかに目を伏せただけで表情を乱さない。けれど、外套の合わせ目を整えてくれる指は、いつもより慎重だった。「お苦しくはありませんか」「大丈夫よ。ありがとう、エレーヌ」 彼女は静かに頷き、私の後ろへ下がった。護衛は二名。どちらも離宮でマリウスが選んだ者で、王宮の作法にも通じている。過剰に見えない人数で、けれど、何かあればすぐ動ける者たちだった。 馬車が離宮を出ると、車輪の音が石畳に細く続いた。向かいに座るエレーヌは、膝の上で侍女用の手袋を揃えたまま、窓の外と私の顔を交互に見ていた。彼女が何も言わないことが、かえって私を落ち着かせた。護衛の馬の蹄の音は、馬車の左右に一定の間隔で続いている。 王宮へ近づくほど道幅が広くなり、街路樹の枝まで整えられていく。白い城壁が見えた時、外套の下でレースが肌に触れた。私はその感触を意識しすぎないよう、膝の上で手袋の指先を揃えた。 王宮の門は、晴れた空の下でまぶしいほど白かった。王太子の私的なお茶会という名目なら、婚約者であるアウルを同席させない理由はいくらでも立てられる。招待状に彼の名がなかった時点で分かっていたことなのに、門を前にすると、その礼儀正しさが作り物めいて見えた。 門をくぐる時、振り返りたいとは思わなかった。振り返れば、離宮に残した
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第二部 第46話 閉じる扉

「アウレルも、君をよく送り出したね」 ベネディクトは椅子を勧めながら言った。「それはもう、心配しておりました」 私は微笑んだまま答えた。招待状にアウルの名を入れなかったのはそちらでしょう、とは言わなかった。けれど、声の端にそれが少し滲んだことくらい、目の前の人なら気づいたはずだった。 ベネディクトは少しだけ目を細め、声を立てずに笑った。「それは心配するよね。婚約者を一人で送り出すんだから」 柔らかな言い方だった。けれど、一人で、という言葉だけが、白い卓の上に少し長く残った。「彼は昔から、大事なものを隠すのが下手だった」 何気ない言葉に聞こえた。けれど、私は茶器の縁へ落としていた視線を上げた。ベネディクトの微笑みは変わらない。アウルをよく知っている者の親しさにも、わざと傷口を指で押すような無遠慮さにも聞こえる。どちらとして受け取るべきか決められないまま、茶器の薄い湯気だけが二人の間をゆっくり上がっていた。 毒の絵について触れるなら、ここしかない。そう思った時、背後で衣擦れの音がした。「恐れ入ります。ご随行の侍女の方には、控えの間をご用意しております」 王宮の侍女が、エレーヌへ向かってそう告げた。 エレーヌはすぐには動かなかった。私の斜め後ろで、ほんのわずかに足を止めている。私も振り返りたい衝動を抑えた。王太子の前で、侍女を離したくないと露骨に示すことはできない。「私の侍女は、こちらに控えさせていただいても?」 できるだけ穏やかに言った。 ベネディクトは困ったように眉を下げた。「もちろん君が不安なら構わない。ただ、王宮では客人の侍女にも休める場所を用意するのが礼だ。長旅で疲れているだろうし、茶会の間くらいは王宮の者に任せてくれないかな」 言葉だけなら親切だった。断れば、こちらが王宮のもてなしを疑うことになる。 エレーヌが静かに頭を下げた。「控えの間におります。お呼びがあれば、すぐに参ります」 その言い方で、彼女も理解していると分かった。どの扉から出る
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第二部 第47話 死んだことに

 ベネディクトは、閉ざされた扉を振り返りもしなかった。 扉の外で鍵がかけられた音を、彼も聞いていたはずだ。けれど、薄い金の瞳は私から離れない。白い卓を挟んだ距離は変わっていないのに、背後の扉までの八歩が、さきほどより遠く感じられた。「怖がらなくていいよ。せっかく綺麗にしてきてくれたのに、そんな顔をされたら困る」 言葉だけは優しい。けれど、その視線はもう隠されていなかった。私の顔を見たあと、肩へ、胸元へ、肌を隠しきらない白いレースへと降りていく。礼儀として留まるべき場所を、彼はひとつずつ踏み越えていた。 私は膝の上で手袋の指先を揃えた。卓上には銀の菓子ナイフがある。右手を伸ばせば届く。けれど、王太子に刃物を向けた瞬間、私の身を守るための行動であっても、後からどれだけ歪められるか分からない。まだ扉の外には、私の声を聞いた者も、彼の言葉を聞いた者もいなかった。 だから、今は言葉を選び、彼が立ち上がるまでの時間を少しでも引き延ばすしかない。「王太子殿下のお招きですもの。失礼のないように整えて参りました」「そう。それは嬉しいな。君は賢いね。自分がどう見えるかを分かっている」 ベネディクトは卓の上に肘を置き、指を組んだ。上品な所作だった。けれど、組まれた指の向こうで、薄い金の目だけが私の身体を測っている。「アウレルが隠したがるのも無理はない。あれは昔から、自分のものを誰にも見せたがらなかったから」「私は、誰かの持ち物ではございません」 声を荒げずに返した。彼を怒らせるためではない。こちらがまだ会話に応じる意思を持っていると見せるためだった。 ベネディクトは小さく声を立てて笑った。硝子張りの温室では、その笑いが思ったよりはっきり聞こえた。「そういうところもいいね。従順なだけの女は退屈だから。少し抵抗するくらいが、こちらも楽しめる」 背中に冷たい汗が浮いた。けれど、私は目を逸らさなかった。逸らせば、相手は怯えを見つけたと思う。怯えを見せることが、今の彼には喜びになる。「殿下は、私と何をお話しになりたかったのですか」「話?」
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第二部 第48話 迎えに来た侍女

 ベネディクトは卓の端を回り込んできた。白と金の上衣が近づくにつれ、甘い香水が濃くなる。花と蜜を混ぜたような匂いが近づき、息を吸うたび舌の奥に甘さが残る。その甘さが、かえって気分を悪くさせた。「その顔で、どこまで澄ましていられるのかな」「王太子殿下」「まだ殿下と呼ぶんだ。いいね。最後まで礼儀正しい令嬢でいてくれると、こちらも楽しい」 彼の手が、私の肩のレースへ向かって伸びかけた。 その時、昨夜のアウルの声が耳の奥に戻った。必ず帰ってきて、と言った時の、低く抑えた声だった。私は手袋の内側で指を一度だけ握り込んだ。 触れられる前に、私は茶器へ手を伸ばすふりをした。袖が卓の端に触れ、磁器が小さく鳴る。音を立てたのはわざとだった。彼の視線が一瞬、茶器へ動く。そのわずかな間に、私は椅子を半分だけ引いた。「お茶をいただいても?」 ベネディクトは私の手元を見たあと、口元を緩めた。「急がなくていいよ。時間はある」 時間はあると思っているのは彼だけだ。そうでなければ困る。私が茶器を戻そうとした時、温室の奥の小扉が静かに開いた。 私は振り向きかけて、すぐに止めた。ベネディクトの反応を見る方が先だった。彼は私へ伸ばしかけていた手を下ろし、苛立ちを隠さない目で入ってきたメイドを見た。だが、それ以上は動かない。王宮の使用人など、自分の邪魔になるものとして数えていない。その傲慢さが、今だけはありがたかった。 白い前掛け。伏せられた顔。盆の上には、新しい茶器と小さな銀の茶壺が載っている。「殿下、お茶が冷めております。新しいものを」「呼んでいない」「申し訳ございません。侍従長より、殿下のお茶は温かいものを切らさぬようにと」 女は深く頭を下げた。声は控えめで、王宮の使用人として不自然なところはない。ベネディクトが短く息を吐き、置いて下がれと命じると、女は静かに盆を卓へ置いた。 彼女は古い杯を下げるために、私の椅子のそばへ回った。盆を傾けないよう膝を折った時、伏せられていた横顔が、ほんの少しだけ私の方を向く。「大
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第二部 第49話 知らないところで

 エレーヌの差し出した手を取ったまま、私は白い温室に背を向けた。 小扉の向こうは、王宮の表側とは違う狭い通路だった。装飾のない石壁が続き、冷えた空気が頬に触れる。背後には、椅子にもたれて意識を失った王太子がいる。扉が閉まる音を聞いても、私はすぐには息を吐けなかった。 エレーヌは一度だけ私の手を離し、扉の金具に細い鍵を差し込んだ。短い金属音がして、温室へ戻る道が閉ざされる。彼女は鍵を外套の内側へ滑り込ませると、王宮メイドの白い前掛けを軽く押さえ、先に歩き出した。「こちらへ。足音をお控えください」 声は低く、必要な分だけだった。 私はドレスの裾を持ち上げ、彼女の後に続いた。白いレースが腕に触れるたび、外套の前を少し強く合わせる。さきほどまで王太子の視線に晒されていた布を、少しでも見えなくしたかった。 通路は狭く、二人並んで歩くには窮屈だった。エレーヌは角を曲がる前に必ず足を止め、壁際の小さな覗き窓から先を確かめる。遠くで食器が重なる音や、使用人たちの短い声がした。表の回廊に響く靴音とは違う、王宮の裏側の音だった。 ひとつ目の角を曲がった先で、護衛の一人が壁際から身を起こした。もう一人は反対側の通路を警戒している。二人とも私の姿を見るなり目を見開いたが、声は出さなかった。「正面は使いません。東の搬入口から出ます」 エレーヌが告げると、護衛たちは互いに目を合わせ、すぐに私の左右へついた。「追手は」「まだ騒ぎにはなっておりません。ですが、人目につかない道を選びます」 その返事と迷いのない足取りだけで、彼女がこの道を初めて通るのではないことは察せられた。けれど、私は問いかけなかった。聞くべきことは山ほどある。だが、王宮の壁の内側で立ち止まってよい理由は一つもなかった。 細い階段を下り、厨房近くの通路を抜ける。扉の向こうで誰かが笑う声がした時、エレーヌは私を壁際の影へ寄せ、護衛の一人が前へ出た。笑い声は近づかず、やがて遠ざかる。私はその間、息を細く吸い、白いドレスの裾が床を擦らないよう指で押さえていた。 次の扉の奥には、小さな控え室があった。そこには濃い
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第二部 第50話 見えない手

 馬車が止まる前から、門の内側に立つ人影が見えた。黒い礼装の裾が風に動く。 アウルだった。 いつもの軽い笑みはなかった。髪は少し乱れていて、門のそばで長く待っていたのか、手袋を片方だけ外したまま握っている。琥珀色の目が私の顔を見て、肩を見て、手を見て、傷がないか確かめるように動いた。「アス」 名前を呼ばれて、私は自分から一歩を踏み出した。 エレーヌの手を借りて馬車を降りると、もう迷わなかった。白いドレスは灰色の外套の下に隠れている。近づいた私を、アウルは何も言わずに抱きしめた。 アウルの腕が背中に回り、外套ごと私を包んだ。痛くはない。けれど、すぐには離してもらえないと分かる抱きしめ方だった。私は外套越しに彼の胸へ額を寄せた。王宮の甘い香水ではない。外気を含んだ礼装の布と、離宮の書斎で嗅いだ紙の匂いがした。「ただいま」 ようやく、それだけ言えた。 アウルの手が、私の背中で一度止まった。それから、さらに静かに抱き直される。「おかえり」 声は低く抑えられていた。私に向けられたものではない硬さが、短い返事の奥に残っている。「怪我は?」「ないわ。エレーヌが助けてくれた」 アウルの視線が、私の後ろに立つエレーヌへ移る。彼女は王宮メイドの姿のまま、深く礼をした。「詳細は後ほどご報告いたします」「……君がいてくれてよかった」 アウルはそう言った。短い言葉だったが、そこには王族としての判断ではなく、私を失わずに済んだ男の安堵があった。 彼はもう一度私へ視線を戻した。灰色の外套の下から、白いレースが少しだけ見えている。アウルの目がそこに止まり、抱きしめていた腕にわずかに力が戻った。「これを、もう着ていなくていい」「ええ。帰ってきたら、あなたの選んだ色を着る約束だったもの」 言ってから、頬が少し熱くなった。こんな時に何を言っているのだろうと思ったが、アウルはようやくほんの少しだけ目元を緩めた。「なら、すぐに替
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