All Chapters of 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜: Chapter 51 - Chapter 60

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第二章 第51話 並んで立つ

 差し出された杯に手を伸ばしかけて、私は指先を止めた。 離宮の朝は穏やかだった。窓の外では庭師が冬薔薇の枝を整え、遠くの回廊を歩く侍女たちの衣擦れが、扉越しにかすかに聞こえる。何も起きていない日の音だった。けれど、銀の茶壺から注がれた琥珀色の茶と、甘く温かい香りが鼻先に届いた瞬間、指が動かなくなった。 私は杯ではなく、卓の木目を見た。離宮の朝食室の卓だ。白い温室にあった冷たい大理石ではない。「お嬢様」 静かな声に顔を上げると、エレーヌが湯気の立つ杯を少しだけ遠ざけていた。代わりに、冷ました白湯の杯を私の前へ置く。以前なら、その先回りを怪しいと思ったかもしれない。私の顔色を見すぎている、私室の近くにいすぎる、と。 今は違った。 盆を置いたあとも、エレーヌは窓の外と扉の位置を一度ずつ確かめた。その視線の動きには無駄がない。けれど、それを恐れる必要はもうなかった。「ありがとう、エレーヌ」「香りの強いものは、しばらく控えます」「ええ。お願い」 エレーヌは深く尋ねなかった。茶の香りで王太子の温室を思い出したのか、と言葉にして確かめようとはしない。ただ、次に私が手を伸ばしやすい位置へ杯を置き直す。その沈黙が、今はありがたかった。 今日は、アウルが選んだ淡い青のドレスを着ている。白ではない。胸元には過度な飾りもなく、袖口には銀糸が控えめに縫い込まれているだけだった。鏡の前に立った時、エレーヌはいつも通り裾を整え、私はようやく、自分の服を着ているのだと思えた。 扉の外で足音が止まる。 エレーヌが視線だけを動かし、私の後ろへ控えた。以前と同じ侍女の位置だったが、今はその背中が少し頼もしい。「入っても?」 扉越しの声に、私の指先から余計な力が抜けた。「どうぞ」 入ってきたアウルは、私を見るなり少しだけ目を細めた。今日の彼の上衣は、私のドレスより少し濃い青だった。近づいた彼が何も言わず袖口の銀糸を見たので、私はそれが偶然ではないと知った。「似合う」 短い言葉だった。けれど、王宮から帰った日の約束を、彼が覚えていたことはそれだけで分かった。「あなたが選んだ色だもの」「なら、俺の目は悪くないな」 いつもの軽口の形をしていたが、声には無理があった。アウルの視線は私の顔を見たあと、茶器の位置へ移る。温かな茶ではなく白湯を選んでいることに気づいたのだろ
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第二章 第52話 味方の茶会

 モンフォール家へ向かう馬車の中は、冬の朝の光で思ったより明るかった。 窓の外では、石畳の端に残った薄い霜を、車輪が細く砕いていく。通りを行く人々は外套の襟を立て、店先に吊るされた冬飾りだけが、白い息の中で小さく揺れていた。 向かいではなく、今日は隣にアウルが座っている。御者台の後ろにはエレーヌも控えていた。ロザリー様からの招きは婚約祝いの茶会という形を取っているけれど、私たちが聞くべき話は祝いだけではない。「寒い?」 アウルが私の手元を見て尋ねた。手袋の上からでも、指を重ねていたことに気づいたのだろう。「少しだけ。冬の馬車は、思ったより冷えるわね」「俺の外套、半分貸そうか」「馬車の中で?」「膝掛けよりは温かい」 冗談めかした声に、私は思わず彼を見た。アウルは涼しい顔をしている。けれど、私の手に触れる指先は控えめで、からかうためだけの距離ではなかった。「エレーヌに見られるわ」「今さら?」「今さらでも、見られるものは見られるの」 そう言うと、扉の向こうから小さく布の擦れる音がした。エレーヌが聞こえないふりをしているのだと分かって、私は顔を伏せた。 アウルは笑わなかった。ただ、私の手袋の上に自分の手を重ね、外套の陰に隠すようにしてくれた。指先の冷えが少しずつ薄れていく。甘やかされているのに、甘やかされていると認めるのはまだ落ち着かない。けれど今日は、その温かさを振り払う気にはなれなかった。「ありがとう」 小さく言うと、アウルの視線がこちらへ向いた。「どういたしまして。素直なアスは珍しいね」「返して」「外套?」「今の感謝よ」「受け取ったものは返せないな」 あまりにも当然のように言うので、私は返す言葉を失った。抗議のために唇を開きかけたけれど、馬車がちょうどモンフォール家の門をくぐり、冬薔薇の咲く庭が窓の向こうに広がった。 ロザリー様の屋敷は、以前訪れた夜会の華やかさとは違い、朝の光の中で穏やかに見えた。刈り込まれた常緑の生垣は霜を乗せ、石段の脇には淡い色の冬薔薇が控えめに咲いている。派手ではないが、よく手を入れられた庭だった。 出迎えた使用人たちは深く礼をした。視線は礼儀正しく、余計な詮索はない。案内された客間には暖炉の火が入り、窓辺の厚いカーテンは半分だけ開けられていた。外の冷たい光と暖炉の色が混ざり、室内を柔らかく照ら
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第二章 第53話 三つの不運

 ロザリー様の話は、一つずつ確かめるように進んだ。どこまでが屋敷の者から出た話で、どこからが社交界の噂なのか。誰が直接見て、誰が人づてに語ったのか。夫人はその境目を曖昧にしなかった。 私は茶杯に口をつけず、聞いた順に頭の中で並べていく。 一件目は、中立を保ってきた老伯爵の転落だった。深夜、屋敷の裏側にある階段の下で倒れているのを、朝方の下働きが見つけたという。その階段は客も当主も普段は使わない場所で、夜に灯りを持って通るような用もない。伯爵は足を折ったが、命は助かっている。ところが意識が戻ってからも、なぜそこにいたのかを話したがらない。呼び鈴は鳴っておらず、その時間に伯爵を見た使用人もいない。 二件目は、王太子側に近いと見られていた子爵の落馬だった。狩りの最中、ほんの短い間だけ一行から離れ、その後、森の浅い斜面で見つかった。亡くなっていたため、本人から話を聞くことはできない。目撃者はなく、馬はしばらくして一頭で戻った。馬体に大きな傷はなく、激しく暴れた様子もはっきりしないという。 三件目は、別の家の当主の急な熱だった。倒れてから屋敷は面会を断り、医師も限られた者しか入れていない。病名は外へ伝わってこない。ただ、急な高熱であること、当主本人の姿を見た者がほとんどいないことだけが広まっていた。 階段、落馬、熱。並べるほど、形はばらばらだった。同じ毒が使われたわけでも、同じ刃物が見えるわけでもない。手口だけを見れば、三つを一つに結ぶほうが不自然なくらいだ。 けれど、起きた家の位置だけは気になる。 王太子に近い家。長く中立を保ってきた家。今は屋敷を閉ざしている家。どれも、王太子の周辺と無関係ではない。「アストレア様は、どれが一番気になりますか」 ロザリー様に尋ねられ、私は顔を上げた。「老伯爵です」 アウルの視線が、私の横顔へ向いた。何かを先に決める目ではなく、続きを待つ目だった。「子爵の狩場は遠く、亡くなってから時間も経っています。急な熱で倒れた当主には、今近づく口実がありません。けれど老伯爵は生きていらっしゃる。話を聞ける可能性があります」「聞ければ、だな」
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第二章 第54話 閉ざされた家の娘

 離宮へ戻ったあと、私はロザリー様から預かった覚書を机に広げた。 伯爵家は、ロザリー様からの見舞いも、娘の嫁ぎ先からの使いも、旧知の友人も、すべて断っていた。 夕刻の離宮は静かだった。窓の外では、庭木の枝が風に細く揺れている。エレーヌは少し離れた扉のそばに控え、アウルは私の隣で覚書を見下ろしていた。ろうそくの光が、彼の黒い袖口の金糸に細く反射している。「正面から見舞いを申し込んでも、同じ返事が戻ってくるだけね」「ロザリー夫人の名でも断るなら、普通の見舞いでは難しいだろうな」 アウルは苛立ちを見せず、紙の端を指で押さえたまま、断られた相手の名を順に追っていた。私はその中の一行に視線を止める。「娘君の嫁ぎ先からの使いまで断られているのよね」「ああ」「それなら、伯爵に会えずに一番困っているのは、その娘君かもしれないわ。屋敷の外にいて、父親の様子を確かめられない。けれど嫁ぎ先の立場があるから、無理に門を叩き続けることもできない」 そう考えると、伯爵家の外にいる娘君こそ、誰よりも事情を知りたがっているはずだった。本人の字も言葉も届かないままなら、不安にならないはずがない。 アウルは私の横顔を見た。「伯爵本人が無理なら、娘君から話を聞くしかないな」「ええ。ロザリー様なら、嫁ぎ先にも繋がりがあるかもしれない」「頼んでみる価値はある。君がそこに気づいてくれて助かった」 当たり前のことを言っただけなのに、まっすぐそう言われると少し落ち着かない。私は紙を整えるふりをして、視線を下げた。「まだ、話してくださるかは分からないわ」「彼女が話せるように、席は俺と夫人で整える。アスは、気になるところを聞いてくれ」 アウルは軽く言ったが、最後の一言だけは少しだけ低くなった。守るというより、任せると言われている気がして、私は頷いた。前に出ることと、無茶をすることは違う。私はそう自分に言い聞かせ、覚書へ視線を戻した。 その夜のうちに、アウルはロザリー様へ短い書簡を送った。返事は翌日の昼過ぎに届いた。ヴェルネ伯爵の娘、セシル様はファロー子爵家に嫁いでおり、ロザリー様とは冬の慈善会で面識があるという。ロザリー様の名であれば、余計な噂を立てずに会う席を用意できる。 数日後、私たちは再びモンフォール家を訪ねた。 今度の客間は前より小さく、庭に面した窓のある部屋だった。
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第二章 第55話 暖炉の灰

 セシル様の膝の上で、手袋の指先はまだ固く握られたままだった。話したいことは尽きていない。けれど、どこから話せばいいのか、彼女自身も決めかねている。控えめな暖炉の火が、伏せられた横顔を淡く照らしていた。 私は急がず、少し間を置いた。「事故の前のお手紙に、いつもと違うところはありましたか」「事故の前……」 セシル様は眉を寄せた。すぐには答えず、記憶をたどるように視線を伏せる。その沈黙の間、暖炉の薪が小さく鳴った。「今思えば、ありました」 彼女はそう言って、ゆっくりと言葉を選んだ。 事故の少し前から、伯爵の手紙は短くなっていたという。字は父のものに間違いないが、いつもより線が硬く、季節の挨拶ばかりで中身がなかった。庭の剪定や雪の心配、古い銀器の手入れ。そうした何気ない話はあっても、社交の話が避けられていた。 そして最後に届いた手紙には、しばらく王都の集まりには出ない、と書かれていた。「父は、派手な社交を好む人ではありません。でも、中立でいるために必要な席には必ず出る人でした。誰か一人に近づきすぎず、誰か一人を遠ざけすぎないために」「その伯爵が、自分から集まりを避けると書いてきたのですね」「はい。体調が悪いとは書いてありませんでした。ただ、しばらく控える、と」 事故の日だけを見ていては足りない。私は、セシル様の話を事故の前へさかのぼって考えた。 少なくとも、異変は事故のあとに始まったとは限らない。伯爵はその前から、外との関わりを減らそうとしていた。理由も示さず社交から身を引こうとしていたのなら、転落だけを見ていては足りない。 アウルが静かに口を開いた。「セシル夫人。俺たちは、ヴェルネ伯爵を問い詰めたいわけではありません。伯爵が本当に静養を望んでいるなら、それを乱すつもりもない。ただ、本人の意思かどうかを確かめたい」 セシル様はアウルを見た。彼の立場を意識したのか、少し背筋が伸びる。けれどアウルの言葉は、圧をかけるためのものではなかった。「俺たちだけで見舞いを申し込んでも、
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第二章 第56話 帰りなさい

 ヴェルネ伯爵家へ向かう馬車の中で、セシル様は何度も窓の外を見ていた。 冬の午前の光は薄く、王都の石畳にはまだ霜が残っている。嫁ぎ先からの先触れも、ロザリー様の添え状もある。けれど、父の家の門が本当に開くかどうかは、まだ誰にも分からない。 膝の上に置いたセシル様の手はきちんとそろえられていたが、馬車の速度が落ちるたび、手袋の指先だけがわずかに動いた。 私は一度声をかけかけて、やめた。大丈夫だと言える材料は、まだ何もなかった。「セシル様」 それでも呼ぶと、彼女は少し遅れてこちらを向いた。視線はまだ窓の外に残っているようで、すぐには私に合わなかった。「今日、必ず会えるとは言えません。でも、セシル様ご自身が来たのに断られるなら、今までとは違います」 セシル様は少しだけ目を伏せ、それから頷いた。「分かっています。けれど、できれば……父の顔を見たいのです」 その声は静かだった。取り乱してはいない。静かに言おうとしている分だけ、指先のこわばりが目立った。 隣に座るアウルは黙って窓の外を見ていた。けれど、セシル様の声が途切れた時、組んでいた指がわずかに動いた。馬車の中の小さな変化を、聞き逃してはいなかった。 やがて車輪の音がゆるみ、馬車は古い石壁に沿って進みはじめた。 ヴェルネ伯爵家の屋敷は、王都の古い区画にあった。重い鉄の門扉には、控えめな紋章飾りだけが付いている。錆はないが、蝶番の周りには冬の湿り気が残っていた。庭は必要な分だけ刈り込まれているものの、季節の花はほとんど見えない。 屋敷の窓には鎧戸が多く下ろされ、開いている窓も内側の厚い布で光を抑えられていて、中の様子はほとんど分からなかった。古い家が冬に静まり返っている、というだけではなかった。 馬車が止まると、エレーヌが先に降り、周囲を一度だけ確かめた。それから私に手を差し出す。「お嬢様」「ありがとう」 石段の前に立つと、冷えた空気で頬が少し痛んだ。セシル様は屋敷を見上げ、ほんの短い間だけ足を止めた。ここは、セシル様が育っ
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第二章 第57話 忘れなさい

「帰りなさい」 ヴェルネ伯爵の言葉に、客間はしんと静まり返った。 大きな声ではなかった。けれど、セシル様の足はその場で止まった。伸ばしかけた手は宙で行き場を失い、父の名を呼ぼうとした唇だけが、かすかに開いたままだった。 伯爵は杖に体重を預け、扉の前に立っていた。顔色は悪く、片足をかばう姿勢には痛みが残っている。それでも、こちらを見る目ははっきりしていた。少なくとも、意識が曖昧な人の目ではない。「お父様……せめて、お加減だけでも。お手紙もなく、家令からのお返事ばかりで、私は」「帰りなさいと言った」 伯爵の声は先ほどより硬かった。セシル様が息を詰める。家令は伯爵のそばで手を差し出しかけたが、触れてよいのか迷うように指を止めた。 私は伯爵の顔だけでなく、視線の動きも見ていた。 言葉は娘へ向いている。けれど、伯爵は時折、廊下の奥を気にしていた。あの見慣れない従者が立っていた方角だ。従者は近づいてこない。ただ、廊下の奥にいて、こちらを見ているのか、伯爵の背を見ているのか、薄暗がりでははっきりしなかった。 あの従者は、伯爵家のお仕着せを着ていた。けれど、袖の丈が合っていない。仕立て直す間もなく着せられた服に見えた。そして、この家の使用人は、誰一人として彼に目を向けない。目を向けないように動いている、と言った方が近い。あの従者の周りだけ、人の動きが避けて流れていた。 セシル様がもう一歩だけ前へ出ようとした。「お父様、私はただ、お顔を見たかっただけです。どうして……」 最後まで言えなかった。どうして会ってくださらないのか。どうして手紙が途絶えたのか。訊きたいことが多すぎて、どれから口にしても届かない気がしているのだと思う。 伯爵は答えなかった。杖の向きを変え、家令の腕を借りるようにして身体を少し横へ向ける。その動きだけでも痛むのか、口元がわずかにこわばった。 そのまま奥へ戻るのだと思った時、伯爵は振り返らずに言った。「……嫁いだ身だ。この家のことは、もう忘れなさい」 セシル様の肩が小さく震えた。 伯爵は少し間を置いた。廊下に立つ従者の影が、ほんのわずか動いたように見えた。暖炉の火が弱く鳴り、客間の中の誰も言葉を挟まない。「庭の樫のことも、手紙に書くことはない」 その最後の一言だけ、硬さが少し薄れた。娘を突き放すための言葉としては、妙に具体的だ
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第二章 第58話 二人だけの郵便箱

 馬車に戻ると、しばらく誰も話さなかった。 車輪が動き出し、屋敷の重い門が後ろへ遠ざかっていく。窓の外では、冬の庭がすぐに石壁に隠れた。セシル様は背筋を伸ばして座っていたが、膝の上の手が震えている。必死に止めようとしているのが、手袋の縫い目の動きで分かった。「申し訳ありません。せっかくお力添えいただいたのに、何も……」「何も、ではありません」 私がそう言うと、セシル様は顔を上げた。泣いてはいなかった。けれど、屋敷へ向かう時よりも、ずっとこらえているように見えた。「父に、あんなふうに言われたのは初めてです」 彼女の声は細くなった。背筋を伸ばしたまま言うので、かえって膝の上の手の震えが目立った。「嫁いだ身だから、この家のことは忘れろと……父は、本当に私を遠ざけたいのでしょうか」 すぐに否定したかった。けれど、私は見ていないことを断言できない。伯爵の心を知っているわけではない。ただ、見たものはいくつかある。 私は膝の上で指をそろえ、言葉を選んだ。「伯爵は、『帰りなさい』と言う前に、廊下の奥を見ました」 セシル様が瞬きをした。「廊下の奥……?」「見慣れない従者がいた場所です。セシル様が家にいらした頃には、いなかった方ですね」「はい。あの者は、私は知りません」 アウルは黙って聞いていた。私が話すのを遮らない。けれど、こちらの言葉を量るように、窓の外から一度だけ私へ視線を戻した。「それから、伯爵の最後の言葉です。『この家のことは忘れなさい』だけなら、突き放す言葉として分かります。けれど、そのあとに庭の樫のことを言いました」 セシル様の手が止まった。「庭の樫……」「お父様は、手紙に庭の木のことをよく書かれていましたか」「ええ。いつもです。庭の木や、季節の菓子のことばかりで……」 そこまで言って、セシル様は口
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第二章 第59話 油紙の包み

 伯爵家の裏手から少し離れた道に馬車を止めた頃には、夜はいっそう冷え込んでいた。 御者台の灯りは布で覆い、車内の小さなランプも芯を絞っている。窓の端には薄く霜がつき、吐いた息が白くなって、すぐに消えた。正面から訪ねる口実は、昼のうちに失っていた。今夜ここにいることを、伯爵家の誰かに知られるわけにはいかなかった。 セシル様は私の向かいに座り、膝の上の書き板を両手で押さえていた。そこには、昼間の馬車の中で描いた庭の間取りが残っている。屋敷の裏手、低い生垣、古い温室跡、庭の奥の大きな樫。揺れる馬車の中で描かれた線はところどころ歪んでいたが、樫だけははっきり丸で囲まれていた。 エレーヌは外套を羽織り、侍女服の白い襟元を隠していた。髪もいつもより低くまとめ、夜の中で目立つものをできるだけ減らしている。彼女は書き板を一度だけ見て、すぐにセシル様へ返した。「覚えました」 二度目は求めなかった。 アウルは窓の外を確かめてから、声を落とした。「戻る場所はここだ。道の向こうに見張りを一人置いている。異変の合図がない限り、俺たちはここで待つ。約束の時刻を過ぎても戻らなければ、こちらから動く。——戻る時は、小枝を二度、間を置いてもう一度。それが合図だ」 それ以上は説明しなかった。セシル様が聞けば余計に不安になると判断したのだろう。アウルは、いつもの冗談を一つも挟まなかった。 エレーヌが扉に手をかける前に、私は思わず呼び止めた。「エレーヌ」 彼女が振り返る。「無理はしないで」「はい、お嬢様」 返事は短かった。けれど、彼女は一度だけ、私へまっすぐ目を向けた。「必ず戻ります」 扉が細く開き、冷たい空気が車内へ入り込んだ。エレーヌは音を立てずに外へ出ると、すぐに闇の中へ紛れていった。黒い外套の裾が一度だけ見え、それも屋敷へ続く木立の影に消えた。 扉が閉まると、馬車の中に残った灯りがひどく小さく見えた。 待っている間は、かすかな物音ばかりが大きく聞こえた。 遠くで教会の鐘
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第二章 第60話 二度と来るな

 膝の上の包みに指をかけたまま、セシル様は動けずにいた。 アウルが低く言った。「ここで確かめた方がいい。筆跡が分かるのは、あなただ」 セシル様は頷き、油紙の折り目をほどいた。冷えて固くなった紙が小さく鳴る。中から出てきたのは、一通の手紙と、さらに別に折り畳まれた紙が一枚だった。 セシル様の目が、手紙の宛名で止まった。「……お父様の字です」 声の終わりがかすかに震えた。「間違いありません。月に一度、ずっと見てきた字です。少し震えていますけれど……」 彼女はそこで言葉を切り、封を開いた。手紙の紙は、伯爵家で普段使うような厚い便箋ではなかった。急いで用意したものなのか、折り目も少し歪んでいる。 私は手紙を覗き込まなかった。セシル様が読み進める間、彼女の指と顔色を見ていた。「日付が……」 セシル様が最初に口にしたのは、文面ではなく日付だった。「事故のあとです。お怪我をされた、あとの……」 私は、屋敷で見た伯爵の姿を思い返した。杖に体重を預け、片足をかばい、家令の腕を借りてようやく向きを変えた人。あの体で、冬の庭の奥にある樫まで、一人で行けたはずがない。 つまり、この手紙を樫まで運んだ誰かが、屋敷の中にいる。伯爵の手足になれる者が、少なくとも一人。 私は、玄関で深く頭を下げた家令の姿を思い浮かべた。確かめようはない。けれど、あの屋敷はまだ、伯爵が一人で閉じ込められただけの箱ではないのかもしれなかった。 セシル様の視線が、文字を追って動く。途中で一度止まり、同じところを読み返した。「名を明かさぬ者が、幾度もこの家を訪れた。私に、中立の席を降りろと言った」 セシル様は震える声で、数行だけを声にした。「私は断った。ヴェルネの名を、そのために使うつもりはなかった」 馬車の中で、誰も動かなかった。 手紙には、伯爵が何度も圧力を受けていたこと
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