死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜

死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜

last updateLast Updated : 2026-06-08
By:  葉月うみUpdated just now
Language: Japanese
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無実の罪で処刑された——その首が落ちる瞬間、私は前世を思い出した。私は、証拠で真実を暴く科学捜査官だったのだ。 気づけば時は、処刑のひと月前。婚約者に殺人の濡れ衣を着せられ、神判で裁かれる、あの運命の前に巻き戻っていた。誰が私を陥れ、どう死んでいくのか、私はもう知っている。 もう黙って死んだりしない。神が間違えるというなら、人の手で——証拠と真実で、すべてを覆してみせる。私を見捨てた婚約者には、こちらから引導を。 そんな私に、なぜか甘く絡んでくる幼馴染の王子。「君は、こんなに面白い女だったか?」 二度目の人生、銀の令嬢の甘く危険な事件簿が、いま幕を開ける——

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Chapter 1

第1話 処刑の朝

 あと数えるほどの時間で、私の首は石畳に落ちる。誰ひとり殺してなどいないのに。

 大聖堂の鐘が朝を割って鳴った。膝をつかされた処刑台の板から、冷えた震えが体の芯まで這い上がってくる。その震えが恐怖なのか寒さなのか、もう自分でも分からなかった。

 夜の湿り気を残した石畳には、早くから集まった人々の靴跡が黒く重なっていた。広場を囲む窓からは何人もの顔が覗き、祈りの声に混じって、私の名が低く囁かれる。ステラート侯爵令嬢、殺人犯、神に見捨てられた女。その言葉はざわめきに溶けても、耳の奥に冷たく残った。

 両手首は後ろで縛られていた。縄の下で指先は冷えきり、動かそうとしても爪の先がかすかに震えるだけだった。審問の夜から着替えることも許されなかった白いドレスは裾が汚れ、銀の髪も肩のあたりで乱れている。母が生きていたなら、この姿をどれほど悲しんだだろうと思いかけて、私はすぐに考えるのをやめた。

 今ここで私のために悲しんでくれる人がいるのかどうか、確かめる勇気はなかった。

「アストレア・ステラート」

 神官の声が、石の広場の上をまっすぐに渡った。大聖堂の正面階段に立つ彼の祭服は、白地に金の刺繍が施され、袖口から覗く指先まで清められているように見えた。背後には聖印を掲げる助祭たちが並び、香炉から上がる煙が、朝の冷たい空気の中で薄くほどけている。礼拝堂で嗅ぐはずの香の匂いは、この朝だけは喉に貼りつく苦いものに変わっていた。

「そなたは神前において裁かれた。主の御心はすでに示されている」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がゆっくり冷えていった。私は誰も殺していないと、審問の間で何度も訴えた。冷たい石室で声が掠れても、知らないものは知らないと答え続けた。けれど神判が下されたあとでは、触れた覚えのない品は凶器となり、見たこともない血痕は罪の印となった。私の弁明だけが、神の前で見苦しい言い逃れとして退けられた。

 広場の前列には、貴族たちのための囲いが設けられていた。黒い柵の向こうに、見慣れた茶色の髪がある。セドリック・ドラクロワ。幼い頃から私を知り、婚約の日には少し緊張した指で私の手を取った人。その人が今、私の婚約者としてではなく、証人のひとりとして立っていた。

「ドラクロワ公爵家嫡男、セドリック・ドラクロワ」

 神官が名を呼ぶと、セドリックは静かに一歩前へ出た。上等な濃灰の外套の裾が石段に触れ、金の飾り鎖がかすかに鳴る。彼は礼儀正しく頭を下げ、顔を上げた時も、貴族の子息として少しの乱れもなかった。ただ、手袋をはめた右手だけが外套の端を掴み、布地に浅い皺を作っていた。

「そなたは、被告アストレア・ステラートの婚約者であるな」

「はい」

 その声は、私の知る低さのままだったのに、広場に響くと遠い他人のもののように聞こえた。私は顔を上げ、彼の横顔を見つめた。幼い頃から私を知る彼だけは、私が誰かを殺めるはずがないと証してくれる。愚かだと分かっていても、その望みをまだ捨てられなかった。

「神前で問う。そなたはこの娘の潔白を証するか」

 広場が静まった。セドリックは一度だけ私を見た。灰色の瞳の奥に何かが揺れたように見えたが、彼はすぐに視線を外した。

「いいえ。私は、彼女の潔白を証することはできません」

 問いかけたい言葉は、ひとつも声にならなかった。幼い頃から私を知るあなたが、なぜ私を見捨てるのか。唇が震えるだけの私の前で、セドリックはもうこちらを見ず、外套の端を掴む指だけを強く握り込んでいた。

「神は示された。罪はこの娘にある。血をもって清めよ」

 助祭たちが聖印を掲げ、群衆の祈りが広がった。誰も私の言葉を求めていない。触れた覚えのない証拠も、届かなかった弁明も、神の名の前ではすでに意味を失っていた。

 処刑人が近づき、重い靴音が湿った木板を鳴らした。髪を払われ、首筋が朝の空気に晒される。私は目を閉じようとして、できなかった。視界の端には、こちらを見ないセドリックの姿だけが残っていた。

「最後に祈れ」

 神官に促されても、祈りの言葉は出てこなかった。救いを求めても扉は開かず、真実を訴えても誰も聞かなかった。胸の底に沈んでいたものが、刃の気配が近づくほど、恐怖とは違う熱を帯びていく。

 誰を憎めばいいのかも分からない。それでも、奪われたものすべてを忘れないと心に刻んだ。群衆の祈りが遠のき、香の匂いも縄の痛みも薄れていく。最後に見えたのは刃ではなく、こちらを見ないまま立ち尽くすセドリックの横顔だった。

 私はその横顔に向けるように、許さないという言葉だけを喉の奥で強く握りしめた。振り下ろされた刃の気配が首筋に触れた瞬間、世界は白く弾けた。

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第1話 処刑の朝
 あと数えるほどの時間で、私の首は石畳に落ちる。誰ひとり殺してなどいないのに。 大聖堂の鐘が朝を割って鳴った。膝をつかされた処刑台の板から、冷えた震えが体の芯まで這い上がってくる。その震えが恐怖なのか寒さなのか、もう自分でも分からなかった。 夜の湿り気を残した石畳には、早くから集まった人々の靴跡が黒く重なっていた。広場を囲む窓からは何人もの顔が覗き、祈りの声に混じって、私の名が低く囁かれる。ステラート侯爵令嬢、殺人犯、神に見捨てられた女。その言葉はざわめきに溶けても、耳の奥に冷たく残った。 両手首は後ろで縛られていた。縄の下で指先は冷えきり、動かそうとしても爪の先がかすかに震えるだけだった。審問の夜から着替えることも許されなかった白いドレスは裾が汚れ、銀の髪も肩のあたりで乱れている。母が生きていたなら、この姿をどれほど悲しんだだろうと思いかけて、私はすぐに考えるのをやめた。 今ここで私のために悲しんでくれる人がいるのかどうか、確かめる勇気はなかった。「アストレア・ステラート」 神官の声が、石の広場の上をまっすぐに渡った。大聖堂の正面階段に立つ彼の祭服は、白地に金の刺繍が施され、袖口から覗く指先まで清められているように見えた。背後には聖印を掲げる助祭たちが並び、香炉から上がる煙が、朝の冷たい空気の中で薄くほどけている。礼拝堂で嗅ぐはずの香の匂いは、この朝だけは喉に貼りつく苦いものに変わっていた。「そなたは神前において裁かれた。主の御心はすでに示されている」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がゆっくり冷えていった。私は誰も殺していないと、審問の間で何度も訴えた。冷たい石室で声が掠れても、知らないものは知らないと答え続けた。けれど神判が下されたあとでは、触れた覚えのない品は凶器となり、見たこともない血痕は罪の印となった。私の弁明だけが、神の前で見苦しい言い逃れとして退けられた。 広場の前列には、貴族たちのための囲いが設けられていた。黒い柵の向こうに、見慣れた茶色の髪がある。セドリック・ドラクロワ。幼い頃から私を知り、婚約の日には少し緊張した指で私の手を取った人。その人が今、私の婚約者としてではなく、証人のひとりとして立っていた。「ドラクロワ公爵家嫡男、セドリック・ドラクロワ」 神官が名を呼ぶと、セドリックは静かに一歩前へ出た。上等な濃灰の外套の裾が石段
last updateLast Updated : 2026-06-03
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第2話 二度目の目覚め
 白く弾けた世界の中で、私はしばらく息の仕方を忘れていた。 首筋に触れたはずの刃の冷たさは、どこにもなかった。大聖堂の鐘も、群衆の祈りも、香炉の苦い匂いも、すべてが遠い水底へ沈んでいく。身体は処刑台の湿った木板に押しつけられていたはずなのに、今は浮いているのか、落ちているのかも分からない。ただ、最後に喉の奥で握りしめた言葉だけが、白い光の中で消えずに残っていた。 その熱が胸の底でかすかに動いた瞬間、心臓が強く跳ねた。 喉に詰まっていた空気が急に戻り、私は水から引き上げられたように息を吸った。肺が痛むほど空気を求め、指先が薄い布を握りしめる。背中には汗が滲み、寝衣の内側を冷たく濡らしていた。私は荒い呼吸のまま目を開け、まず、自分がまだ暗闇の中にいないことを知った。 見えたのは、処刑台ではなかった。 淡い金糸の刺繍が入った天蓋が、朝の光を受けて静かに揺れている。白い薄布の向こうでは窓辺のカーテンが風を含み、磨かれた床に柔らかな影を落としていた。寝台の脇には白磁の水差しが置かれ、銀の受け皿の縁に細い光が留まっている。見慣れた壁紙、母の形見の小さな鏡、刺繍途中のまま籠に入れられたハンカチ。どれも、私の部屋にあるものだった。 ステラート侯爵邸の寝室に、私はいた。 けれど、その事実はすぐには身体に入ってこなかった。処刑台の木板の湿り気がまだ背中にある気がした。両手首には縄が食い込み、首筋には朝の冷たい空気が触れているはずだった。私は震える手を首へ伸ばし、喉元から首筋へ何度も指を滑らせた。肌は繋がっている。傷も、血も、刃の跡もない。次に手首を見れば、そこにも縄の痕はなく、ただシーツを強く掴みすぎたせいで、手のひらに浅い痛みだけが残っていた。「私……処刑された、はずじゃ……」 掠れた声が寝室に落ちた途端、首筋が冷えた。 白と金の祭服。聖印を掲げる助祭たち。香炉の煙。石畳に集まった人々のざわめき。途切れ途切れだったものが、目を閉じても消えないほど近くへ戻ってくる。セドリックは黒い柵の向こうに立っていた。灰色の瞳が一度だけ私を見て、すぐに逸らされる。その瞬間の冷たさを思い出しただけで、喉の奥が詰まった。 指先で首筋を押さえる。傷はない。血もない。それなのに、処刑人の靴音が湿った木板を鳴らす音だけは、まだ耳の奥に残っていた。 夢ではない。 そう思った瞬間、額の
last updateLast Updated : 2026-06-03
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第3話 優しい嘘
 セドリック様がお見えです、と告げられた瞬間、首筋に消えたはずの刃の冷たさが戻った気がした。「支度をお願い。あまり待たせては失礼だわ」 声は崩れなかった。侍女が髪に櫛を通し、薄紫のドレスの襟元を整えていく間、私は鏡の中の自分を見ていた。真珠の飾りが控えめに光り、銀の髪は少しずつ令嬢らしく結われていく。前の私は、この装いを選びながら、婚約者に少しでも綺麗だと思われたいと願っていた。何も知らず、何も疑わず、ただ差し出された優しさを信じていた。 最後に髪飾りの金具が小さく鳴った。鏡の中には、前の人生と同じ顔をした私がいる。けれど、その目だけはもう、同じではなかった。 小さな応接室の扉を開けると、セドリック・ドラクロワは窓辺に近い長椅子に腰を下ろしていた。白磁のカップを手にしていた彼は、私を見ると静かに立ち上がり、茶色の髪を朝の光に透かせながら礼を取る。濃紺の上着にはドラクロワ家の紋章を象った銀の留め具が光り、灰色の瞳がこちらを向いた瞬間、彼は昔から変わらない穏やかな微笑みを浮かべた。「おはよう、アストレア。急な訪問になってすまない」 その声を聞いただけで、喉の奥が焼けるように痛んだ。処刑台で、彼は同じ声で答えた。私の潔白を証することはできません、と。けれど目の前の彼は、婚約者として礼を尽くし、幼馴染として私を案じるような顔をしている。「いいえ。来てくださって嬉しいわ、セドリック」 私は微笑んだ。唇の形が崩れないように、目元に余計な力が入らないように、幼い頃から教え込まれた所作に身を預ける。令嬢として椅子に腰を下ろすまでのわずかな間、彼の視線が私の顔から手元へ落ち、すぐに戻るのが見えた。前の私なら気にも留めなかった動きだった。 茶席には、すでに茶と菓子が用意されていた。窓辺の小さな花瓶には白薔薇が一輪挿され、茶の湯気に混じって淡い香りを漂わせている。銀の皿に並ぶ蜂蜜漬けの杏の焼き菓子を見て、前の私は少し声を弾ませた。私が幼い頃から好きだった味を、彼が覚えていてくれたのだと、疑いもせず喜んだのだ。「君が好きだっただろう」 セドリックは皿を私のほうへ寄せた。丁寧な動きだったが、指先はすぐにカップの持ち手へ移り、白磁を小さく鳴らした。その癖まで、今の私にははっきり見えた。処刑台で彼が外套の端を握っていた指を、私は覚えている。「覚えていてくださったのね」
last updateLast Updated : 2026-06-03
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第4話 毒を探して
 モンフォール伯爵家の夜会まで、残された日数は少ない。 私はステラート侯爵家の紋章を隠すため、簡素な外套のフードを深く被り、侍女には古い礼拝堂へ祈りに行くとだけ告げて邸を出た。祈りに縋るふりをして、向かった先は大聖堂ではない。市場の奥、医師や薬師、時には貴族家の執事までが足を運ぶ薬種店だった。 真実だけを抱えて処刑台へ向かった前の私は、誰にも信じてもらえなかった。だから今度は、祈る前に確かめる。ロザリー夫人の死が本当に毒によるものだったのなら、その痕跡は人の身体にも、器にも、布にも残るはずだった。 馬車を市場の手前で降りると、石畳には朝市の水気がまだ残っていた。野菜籠を抱えた女たちの声、布を広げる商人の呼び込み、焼きたてのパンの香ばしさ。その賑わいを抜けた奥だけ、空気の匂いが変わる。乾いた草、刻んだ根、古い酒精、湿った木箱。薬を扱う店の並びには、日常の温かさと、命を左右する冷たさが同じ棚に置かれているような奇妙な静けさがあった。 薬種店の扉を押すと、鈴が小さく鳴った。薄暗い店内には天井近くまで棚が並び、乾燥させた葉の束、根を刻んだ小瓶、黒い軟膏の壺が整然と置かれている。狭い窓から差し込む光は埃を含んで白く濁り、奥に座る店主の老人は、私を一瞥しただけで帳簿へ視線を戻した。令嬢がひとりで入るには似つかわしくない場所だと分かっていたからこそ、私は少し背を丸め、フードの影を深くした。 ロザリー夫人が倒れた時の光景は、何度も思い出している。 夜会の広間には、磨かれた床に燭台の光が揺れていた。弦楽の音が低く流れ、甘い酒と香水の匂いが混ざって、息をするたび胸の奥に残った。ロザリー夫人は白と薄金のドレスをまとい、主催者として客へ杯を掲げていた。その顔色がいつから悪かったのか、前の私は気づかなかった。ただ、彼女が扇で口元を押さえ、次の瞬間、指先から杯が滑り落ちた音だけは覚えている。 杯は床に当たり、割れなかった。ただ中身だけがこぼれ、濃い赤の酒が絨毯へ染みた。誰かが短く叫び、夫人の身体が傾く。近くにいた貴婦人たちが逃げるように下がり、男たちが支えようとして手を伸ばした。私はその輪の少し外にいて、動けなかった。夫人の唇が紫がかって見えたこと、首元の真珠が乱れていたこと、白い手袋の指先が硬く曲がっていたことを、今なら思い出せる。 あの時の私は、ただ怖かった。けれど今の私
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第5話 再会
「こんなところで、侯爵令嬢が熱心に毒草見物?」 軽く、甘く、人をからかう時だけ少し低くなるその響きを、私は知っている。知っているのに、今ここで聞くはずがないと思ったせいで、振り向くまでにほんのわずかな間が生まれた。 店の薄暗さの中に、黒と金の外套の裾が見えた。乾いた薬草の匂いに混じって、淡い香木の匂いが近づいてくる。私はゆっくり顔を上げ、棚の影に立つ男を見た。 アウレル・サンクテリア。 黒い髪は少し乱れ、狭い窓から差す鈍い光を受けて、ところどころ金の筋を帯びて見えた。琥珀色の瞳は昔よりも深く、笑っているのに底が見えない。埃っぽい薬種店の片隅に立っているだけで、彼の周りだけ王宮の回廊の空気を残しているようだった。「……アウル」 名を呼ぶ声が、自分で思ったよりも少し遅れた。彼はそれに気づいたのか、口元だけで楽しそうに笑う。「久しぶりだな、アス。会いたかった、と言うには、ずいぶん色気のない場所だけど」「あなたこそ、こんな場所で何をしているの」「女の子に贈る香油でも探していた、って言ったら信じる?」「信じないわ」「ひどいな。俺は昔から信用されていない」 アウルは肩を竦め、私の隣へ滑るように近づいた。距離の詰め方が近い。外套の裾が私の袖に触れるか触れないかのところで揺れ、乾いた薬草の匂いの中に、彼の纏う香木の匂いが混じった。 王宮の庭で、私とセドリックとアウレルの三人が走り回っていた頃、彼はいつも少し遅れて現れ、怒られる直前に一番悪戯っぽく笑った。その軽さを前の私は呆れ半分で見ていたはずなのに、今、目の前で向けられると、胸の奥が不意に落ち着かなくなる。 アウルの視線が、つ、と私のフードの縁から頬へ、首筋へ落ちた。外套の合わせ目で一瞬だけ止まった気がして、私は何も感じていない顔でフードを少し引き寄せる。「人をじろじろ見ないで。悪い趣味よ」「悪い趣味ねえ。前よりずっと平然とした顔で毒草を眺めている令嬢に言われると、少し自信を失うな」「自信を失うほど繊細だったかしら」「君の前では、わりと」 軽い声だった。軽いはずなのに、返す言葉が一拍遅れたのが悔しかった。アウルの指が、私の頬にかかる銀の髪へ伸びる。触れる寸前、私は自然に一歩引き、その手をかわした。彼の指先は宙で止まり、すぐに何事もなかったように棚の札へ向かう。「逃げるのが上手くなったな、ア
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第6話 ひとりでは
 薬種店から戻ったあとも、黒ずんだ紫の根の色は、目の裏に残り続けていた。 夜になっても眠る気にはなれず、私は自室の机に向かっていた。燭台の炎は窓から忍び込む夜風に細く揺れ、机の上に置いた紙の端へ影を落としている。羽根ペンを取る指には、まだ薬種店の匂いが残っている気がした。私はロザリー夫人の名と夜会の日付を書きつけたあと、前の人生で見た光景を、ひとつずつ紙の上へ戻していった。 前の私は、恐怖で何も見ていなかったと思っていた。けれど、思い出そうとすれば、細部は消えずに残っている。夜会の広間には磨かれた床に燭台の光が揺れ、甘い酒と香水の匂いが混ざっていた。ロザリー夫人は白と薄金のドレスをまとい、主催者として客へ杯を掲げていた。彼女の顔色がいつから悪かったのか、私は気づけなかったが、扇で口元を押さえた短い仕草と、その直後に指先から杯が滑り落ちた音だけは、今でも耳に残っている。 杯は床に当たり、中身の赤い酒が絨毯へ染みた。誰かが短く叫び、夫人の身体が傾く。近くにいた貴婦人たちが逃げるように下がり、男たちが支えようとして手を伸ばした。私はその輪の少し外にいて、動けなかった。夫人の唇が暗く紫がかって見えたこと、白い手袋の指先が硬く曲がっていたこと、首元の真珠が乱れていたことを、今なら思い出せる。 そのあと、私が渡した杯が証拠になった。 銀の盆から取った一杯を、私は確かに夫人へ差し出した。侍従に促され、婚約者の隣で礼を尽くすべき令嬢として、何の疑いもなく手を伸ばした。夫人は微笑み、礼を言い、杯に口をつけた。多くの者がそれを見ていたからこそ、彼女が倒れたあと、その一杯は私を縛る鎖に変わった。 けれど、紙の上に出来事を並べるほど、ひとつの違和感が輪郭を持ちはじめた。 飲み物に毒が入っていたのなら、夫人は杯に口をつけてから倒れるまでの間に、もっとはっきりとした苦しみを見せたはずだった。喉を押さえる、胃を抱える、吐き気に耐える、あるいはその場で呼吸を乱す。毒の種類によって違いはある。前世で扱っていたのは、この世界の薬草そのものではなく、もっと精製された薬品や検査に使う試薬だったし、名も姿も同じとは限らない。けれど、身体に働きかけるものには必ず筋道があり、口から一度に入った毒
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第7話 全部は信じない
 来るかどうかは賭けだった。けれど、彼は来た。 高い窓から斜めに落ちる光の中、黒と金の外套をゆるく羽織ったアウルが、壁にもたれて待っていた。少し乱れた黒髪の影から琥珀色の瞳がこちらを向き、彼はいつものように口元を上げる。「ここを選ぶあたり、昔のことは覚えているんだな。……俺を呼ぶ場所としては、悪くない」「あなたを油断させられるなら、悪くない場所選びね」「言うようになった」 軽い言葉を返しながら、アウルは私の前へ歩み寄った。近づきすぎる前に私が半歩下がると、彼は面白がるように目を細める。その距離の取り方ひとつで、薬種店の記憶が戻るのが悔しかった。「薬種店であなたが買ったものについて聞きたいの。あの黒ずんだ紫の根を知っている。違う?」「いきなりだな。せめて昔話のひとつくらい挟んでくれてもいい」「あなたはあの棚を見て、私に触るなと忠告した。しかも、同じような匂いのする包みを買っていた」 アウルの笑みは消えなかった。けれど、目の奥だけが少しだけ冷えた。私はその変化を見逃さないよう、正面から見た。「よく見ている」「見なければ、見落とすもの」 アウルは軽く肩をすくめたが、すぐには次の言葉を継がなかった。私はそこで一度、言葉を選んだ。ここから先は、まともに話せば信じられない話になる。未来を見たとは言えない。前の人生の記憶も、処刑台の朝も、この男に明かすわけにはいかなかった。「信じられないかもしれないけれど、聞いてほしいことがあるの」 私がそう言うと、アウルはからかいの言葉を飲み込むように、わずかに顎を引いた。「君がそんな顔で言うなら、聞かないわけにはいかないな」「モンフォール伯爵夫人が、春の慈善夜会で狙われているかもしれない」「狙われている?」 アウルの笑みが、そこで少し薄くなった。私はすぐには答えず、回廊の奥へ視線を流した。誰もいないことは分かっていたが、この話は、声にした途端に形を持つ。「ロザリー夫人を殺そうとしている者がいると、聞いたの」「どこから聞いた
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第8話 仕事の早い幼馴染
 アウルからの手紙が届いたのは、翌朝のことだった。 朝の支度を終えたばかりの机の上に、侍女が銀の盆を置く。封筒には差出人の名がなく、封蝋にも家名を示す紋章はなかった。押されていたのは、見慣れない小さな金の印だけだ。それでも、封を切る前から誰のものか分かった。幼い頃、叱られたあとに私たちはよく旧館の古い書庫の奥へ逃げ込んだ。その時だけ使っていた、子どもじみた符丁が、封の裏に細く記されていたからだ。『懐かしき回廊で待つ』 たったそれだけの文を見つめて、私はしばらく指を止めた。昨日、共闘を決めたばかりだったのに、もう報せが来ている。「……すごく仕事が早くて驚くわ」 椅子の背に身を預けた拍子に、思わず声が漏れた。昔から軽口ばかりで、叱られる時でさえどこか楽しそうに笑っていた幼馴染が、こんなにも早く調査を進めてくるとは思わなかった。薬種店の出入りや仕入れ帳から、彼が何を掴んだのか。封を閉じたあとも、私はその短い文からしばらく目を離せなかった。 昼下がり、旧館の古い書庫へ続く回廊には、高い窓から淡い光が差し込んでいた。磨かれた石床には細長い影が落ち、壁際の燭台にはまだ火が入っていない。埃と革張りの本の匂いが混ざるこの場所へ足を踏み入れると、幼い頃の足音まで戻ってくる気がした。 アウルは窓辺の影に立っていた。黒と金の外套をゆるく羽織り、少し乱れた黒髪を光の端に透かせている。いつものように軽く笑っているのに、私が近づく前から、その琥珀色の瞳はもう報告を終えた男のものだった。「薬種店を洗った」 挨拶の代わりに彼がそう言ったので、私も余計な言葉を飲み込んだ。「何か分かったの?」「出入りは多い。だが、あの棚の奥を触れる客は限られていた。店主は表向き、薬師と医師にしか出さないと言っていたが、仕入れ帳には名を残さない取引がいくつかある」「名を残さない取引……」「高い金を払う客か、名を残せない客だな。君が見た黒ずんだ根は、その取引に紛れている可能性が高い。まだ誰が買ったかまでは辿れていない」 私は薬種店の薄暗い棚と、黒ずんだ紫の根を思い出した。ロザリー夫人の唇に浮かん
last updateLast Updated : 2026-06-05
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第9話 私の知らない贈り物
 帳面を閉じたあと、私は店主へ礼を述べ、何事もなかったように奥の部屋を出た。表の店先へ戻れば、侍女が真珠の髪飾りを見ている。私はその隣でいくつか品を選び、主催者への礼にふさわしいものを後日モンフォール伯爵家へ届けてもらうよう手配して、店を後にした。 店の外へ出ると、午後の光は白く、硝子窓に並ぶ宝石の輝きが嘘のように遠く見えた。アウルはしばらく店の扉を見ていたが、私が視線を向けると低く言った。「店主は知らないな」「どうして分かるの」「君がセドリックの名を見た時、指が動かなかった。隠している男なら、帳面を閉じるのが半拍早い」 私は返事をしなかった。彼が何を見ていたのか、そこでようやく分かった。アウルは私の顔色ではなく、店主の指を見ていた。軽く笑うばかりの幼馴染だと思っていた男が、こういうふうに人を見ることを、私はまだ知らなかった。 その足で、私たちは香油商へ向かった。夫人が最近使い始めた香りを探るためだった。店内には花と樹脂の匂いが幾重にも重なり、長くいるだけで頭の奥が甘く痺れそうだった。女主人は私の訪問を歓迎し、春の夜会にふさわしい香りをいくつも並べてくれた。 そこでまた、セドリックの名が出た。「ドラクロワ様も、先日お選びになりましたわ。春の夜会に似合う、甘い花の香りを」「セドリック様が?」 婚約者の名を口にしただけなのに、喉の奥がかすかに冷えた。女主人は小瓶を差し出しかけて、私の顔を見たまま指を止めた。にこやかだった口元が、ほんの少しだけ困った形に変わる。「ええ……お嬢様宛てではなかったのですね」 その一言で、硝子の中の淡い黄金色が、急に冷えたものに見えた。私は香りを確かめるふりをして、瓶には触れなかった。甘く、濃く、肌に長く残りそうな匂い。私の好みではない。けれど、その香りを好む誰かのために、セドリックはこれを選んだのだ。私に知らされることのない贈り物が、硝子瓶の中で淡く揺れていた。「参考になったわ」 私は微笑んだ。自分の声がどこまでも平らに出てくることが、かえって恐ろしかった。 夕刻近く、アウルの手配で、私たちは商人街の
last updateLast Updated : 2026-06-05
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第10話 あなたは、知っていたのね
 アウルはしばらく何も言わなかった。慰めるでもなく、すぐに冗談へ逃がすでもなく、ただ私の手元の紙片を見ていた。やがて、短く息を吐く。「あいつの女癖は、社交場に出るようになってからだ」 低く落とされた声に、私は顔を上げずにはいられなかった。アウルは紙片を見ていた。いつものような笑みはなく、言葉を選ぶように少しだけ沈黙している。「あなたは、知っていたのね」「知っている奴は知っていた。隠すのが特別うまい男じゃない」 淡々とした言い方だった。けれど、そこに面白がる響きはなかった。むしろ、その話を口にすること自体を不快に思っているような低さだった。「……君が、あの男の隣で平気な顔をしているのが、俺はずっと、座りが悪かったよ」 軽口の形をしていたのに、語尾だけがわずかに沈んでいた。その沈み方が何を意味するのか、私にはうまく掬えない。問い返す前に、アウルはもう、いつもの飄々とした顔に戻っていた。 私は笑って流すことができず、紙片を握る指に力が戻る。聞けば傷つくと分かっていた。それでも、知らないままでいる方が、もう耐えがたかった。「あの人……どこまで、女癖が悪いの」 問いを口にしたあと、私は一瞬だけ後悔した。アウルはすぐには答えなかった。こちらの顔を確かめるように見て、低く言う。「言ってもいいのか。聞けば、今より気分が悪くなる」「こうなったら、全部聞くわ。中途半端に知っている方が、よほど苦しい」 アウルは少し間を置いた。裏通りの湿った空気の中で、その沈黙だけが妙にはっきり残る。「あいつは社交場に出るようになってから、そういう話を隠そうともしなかった。酒の席で女の名を出し、誰と夜を過ごしたかまで、得意げに語ることがあった」 声は淡々としていたが、その低さには、その話を口にすること自体を嫌がっているような硬さがあった。 私は息を浅くした。あの穏やかな顔の裏で、彼がそんな話を手柄のように語っていたのだと思うと、胸の奥に残っていたものが音もなく崩れていく。 アウルは一度言葉を切り、視線を横へ逃がした。
last updateLast Updated : 2026-06-06
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