LOGIN無実の罪で処刑された——その首が落ちる瞬間、私は前世を思い出した。私は、証拠で真実を暴く科学捜査官だったのだ。 気づけば時は、処刑のひと月前。婚約者に殺人の濡れ衣を着せられ、神判で裁かれる、あの運命の前に巻き戻っていた。誰が私を陥れ、どう死んでいくのか、私はもう知っている。 もう黙って死んだりしない。神が間違えるというなら、人の手で——証拠と真実で、すべてを覆してみせる。私を見捨てた婚約者には、こちらから引導を。 そんな私に、なぜか甘く絡んでくる幼馴染の王子。「君は、こんなに面白い女だったか?」 二度目の人生、銀の令嬢の甘く危険な事件簿が、いま幕を開ける——
View Moreあと数えるほどの時間で、私の首は石畳に落ちる。誰ひとり殺してなどいないのに。
大聖堂の鐘が朝を割って鳴った。膝をつかされた処刑台の板から、冷えた震えが体の芯まで這い上がってくる。その震えが恐怖なのか寒さなのか、もう自分でも分からなかった。
夜の湿り気を残した石畳には、早くから集まった人々の靴跡が黒く重なっていた。広場を囲む窓からは何人もの顔が覗き、祈りの声に混じって、私の名が低く囁かれる。ステラート侯爵令嬢、殺人犯、神に見捨てられた女。その言葉はざわめきに溶けても、耳の奥に冷たく残った。
両手首は後ろで縛られていた。縄の下で指先は冷えきり、動かそうとしても爪の先がかすかに震えるだけだった。審問の夜から着替えることも許されなかった白いドレスは裾が汚れ、銀の髪も肩のあたりで乱れている。母が生きていたなら、この姿をどれほど悲しんだだろうと思いかけて、私はすぐに考えるのをやめた。
今ここで私のために悲しんでくれる人がいるのかどうか、確かめる勇気はなかった。
「アストレア・ステラート」
神官の声が、石の広場の上をまっすぐに渡った。大聖堂の正面階段に立つ彼の祭服は、白地に金の刺繍が施され、袖口から覗く指先まで清められているように見えた。背後には聖印を掲げる助祭たちが並び、香炉から上がる煙が、朝の冷たい空気の中で薄くほどけている。礼拝堂で嗅ぐはずの香の匂いは、この朝だけは喉に貼りつく苦いものに変わっていた。
「そなたは神前において裁かれた。主の御心はすでに示されている」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がゆっくり冷えていった。私は誰も殺していないと、審問の間で何度も訴えた。冷たい石室で声が掠れても、知らないものは知らないと答え続けた。けれど神判が下されたあとでは、触れた覚えのない品は凶器となり、見たこともない血痕は罪の印となった。私の弁明だけが、神の前で見苦しい言い逃れとして退けられた。
広場の前列には、貴族たちのための囲いが設けられていた。黒い柵の向こうに、見慣れた茶色の髪がある。セドリック・ドラクロワ。幼い頃から私を知り、婚約の日には少し緊張した指で私の手を取った人。その人が今、私の婚約者としてではなく、証人のひとりとして立っていた。
「ドラクロワ公爵家嫡男、セドリック・ドラクロワ」
神官が名を呼ぶと、セドリックは静かに一歩前へ出た。上等な濃灰の外套の裾が石段に触れ、金の飾り鎖がかすかに鳴る。彼は礼儀正しく頭を下げ、顔を上げた時も、貴族の子息として少しの乱れもなかった。ただ、手袋をはめた右手だけが外套の端を掴み、布地に浅い皺を作っていた。
「そなたは、被告アストレア・ステラートの婚約者であるな」
「はい」
その声は、私の知る低さのままだったのに、広場に響くと遠い他人のもののように聞こえた。私は顔を上げ、彼の横顔を見つめた。幼い頃から私を知る彼だけは、私が誰かを殺めるはずがないと証してくれる。愚かだと分かっていても、その望みをまだ捨てられなかった。
「神前で問う。そなたはこの娘の潔白を証するか」
広場が静まった。セドリックは一度だけ私を見た。灰色の瞳の奥に何かが揺れたように見えたが、彼はすぐに視線を外した。
「いいえ。私は、彼女の潔白を証することはできません」
問いかけたい言葉は、ひとつも声にならなかった。幼い頃から私を知るあなたが、なぜ私を見捨てるのか。唇が震えるだけの私の前で、セドリックはもうこちらを見ず、外套の端を掴む指だけを強く握り込んでいた。
「神は示された。罪はこの娘にある。血をもって清めよ」
助祭たちが聖印を掲げ、群衆の祈りが広がった。誰も私の言葉を求めていない。触れた覚えのない証拠も、届かなかった弁明も、神の名の前ではすでに意味を失っていた。
処刑人が近づき、重い靴音が湿った木板を鳴らした。髪を払われ、首筋が朝の空気に晒される。私は目を閉じようとして、できなかった。視界の端には、こちらを見ないセドリックの姿だけが残っていた。
「最後に祈れ」
神官に促されても、祈りの言葉は出てこなかった。救いを求めても扉は開かず、真実を訴えても誰も聞かなかった。胸の底に沈んでいたものが、刃の気配が近づくほど、恐怖とは違う熱を帯びていく。
誰を憎めばいいのかも分からない。それでも、奪われたものすべてを忘れないと心に刻んだ。群衆の祈りが遠のき、香の匂いも縄の痛みも薄れていく。最後に見えたのは刃ではなく、こちらを見ないまま立ち尽くすセドリックの横顔だった。
私はその横顔に向けるように、許さないという言葉だけを喉の奥で強く握りしめた。振り下ろされた刃の気配が首筋に触れた瞬間、世界は白く弾けた。
夜会は、西区の古い邸で開かれていた。 表向きは詩と音楽を楽しむ小さな集まり。門前に掲げられた灯りも控えめで、迎えの者の礼も静かだった。けれど馬車を降りた瞬間、私はこの場所の空気が通常の夜会とは違うことを悟った。招待客は皆、仮面で目元を隠している。名乗る声は低く、笑い声は甘く、香水と酒と燭蝋の匂いが廊下の奥から重なって流れてくる。 広間の灯りは薄く落とされていた。壁際には音楽家が控え、弦の音が会話を隠すように流れている。奥へ続く廊下には厚い緞帳が下がり、その向こうに小部屋がいくつもあるのだろう。男女が二人ずつ、あるいは三人で、その影の中へ消えていく。 私は仮面の下で視線を動かした。 誰が誰を見ているか。どの男が退屈しているか。どの女がわざと目を逸らし、誘う隙を作っているか。場の空気に飲まれず、証拠を見る時と同じように観察すればいい。 それでも、広間へ入った瞬間、いくつもの視線が肌へ触れるのが分かった。胸元、肩、仮面、脚の切れ目。見る場所があまりにも正直で、私は心の中で冷静に数を数えた。こちらを見る男が三人。近づこうとしているのが一人。 その男が杯を持って半歩こちらへ寄った時、アウルが自然な動きで私の前に立った。邪魔をしているようには見えない。けれど男の視線は、アウルの琥珀色の瞳に触れた途端、わずかに泳いだ。「今の人、こちらへ来ようとしていたわ」「だから止めた」「情報を拾えたかもしれないのに」「セドを探す前に、君が余計な男に捕まる方が面倒だよ」 軽い声だったが、アウルは広間から目を離していなかった。男が離れていくまで私の前から退かなかったあと、ようやく半歩ずれて、腰には触れないまま、広間の奥を示した。「先にセドだ。寄ってくる男の相手は、必要になってからでいい」 セドリックは、ほどなく見つかった。 茶色の髪を丁寧に整え、灰色の瞳を柔らかく細めている。仮面はつけていたが、歩き方も、首を傾ける時の癖も、私がよく知るものだった。彼は窓際で、淡い金髪の女に何か囁いていた。女は扇で口元を隠しながら笑い、セドリックの袖口へ指を添える。 宝石
ステラート侯爵邸の衣装室で、私は最後に仮面の紐を結んだ。 侍女たちを下がらせたあとの部屋には、燭台の火が布地のひだを照らす淡い揺らめきと、髪に触れた香油の匂いだけが残っていた。磨かれた鏡の中に立っているのは、侯爵令嬢として社交場へ出る私ではない。紫と金の仮面は目元を覆い、銀の髪も今夜はいつものように清楚にまとめず、片側へ流して背中の線を見せるように整えてある。 名も家も持たない、濃紫の女。 今夜の私は、その顔でセドリックの本性を見に行く。 私は鏡の前で、ゆっくりと片足を引いた。濃紫の裾が割れ、透ける薄布の奥から白い脚の線が覗く。歩幅を戻せば、何事もなかったように隠れる。胸元は鎖骨の下から大胆に開き、普段の夜会服なら決して見せない肌の白さと胸の膨らみの上端を、紫の宝石と細い金鎖が危ういほど華やかに縁取っていた。息をするたび、胸元へ渡した飾り鎖がかすかに揺れ、その小さな動きまで視線を誘うように計算されている。 見せすぎず、隠しすぎない。相手が勝手に続きを想像する余地を残す。そういう装いだった。 私はレースの手袋を指先まで引き上げ、鏡の中の自分を見た。どこへ視線を集め、どこで警戒を緩めさせるか。そのために選んだ衣装だ。美しさも、肌も、髪も、今夜は私を守る鎧ではなく、相手を油断させるための刃になる。 恥じる必要はない。これは捜査だった。証拠を取りに行くための装いにすぎない。 扉の外で、控えめな足音が止まった。迎えの馬車が邸の裏口に回されていることは、先に侍女から聞いていた。表玄関を使わないのは、今夜の行き先にステラート侯爵家の名を結びつけないためだ。「アス、入っていい?」 アウルの声だった。「どうぞ」 扉が開き、アウルが衣装室へ入ってきた。 彼もまた、今夜の場に合わせて装いを変えていた。黒絹の上衣は身体の線に沿って仕立てられ、襟元だけが礼装よりわずかに緩められている。肩から袖口へ走る金糸の刺繍は細く、派手ではないのに、燭台の光を拾うたび鋭く浮かぶ。首元には細い飾り鎖が落ち、黒い手袋に包まれた指先が、手にした仮面の金の縁を軽く押さえていた。 黒と金
婚約を破棄する。胸の中でそう繰り返していた時だった。「顔が怖いよ、アス」 窓辺から声がした。アウルは窓枠に軽く肩を預け、いつもの調子で私を見ていた。琥珀色の瞳には笑みの気配があるのに、私の手元へ視線を落とした時だけ、その奥が少し細くなる。「改めてセドリックのことを考えていたら、腹が立ってしまって」「だろうね。紙がかわいそうなくらい握られてる」 言われて見ると、覚書の端に浅い皺が寄っていた。私は少しだけ力を抜いたが、胸の奥の熱までは消えなかった。「あんな人と、早く別れたいの。もう、婚約者として隣に立つのも嫌だわ」 口にすると、その言葉は思っていたよりまっすぐだった。アウルは茶化さず、机のそばへ歩いてくる。衣擦れの音が近づき、彼の指先が蝋燭の光を受けて淡く浮かんだ。「婚約破棄か。今のままだと、相手有責で綺麗に切るには少し弱いね」「そうなのよね」 私は覚書を開いた。宝飾商の記録、花屋の届け先、香油商の請求書、貸し馬車屋の控え。どれもセドリックの不誠実さを疑わせるものではある。けれど、疑いだけで婚約を壊せば、傷を負うのは女の側だ。「贈り物は友人への礼だと言える。貸し馬車は家名を伏せたい所用だったと言える。女の影も、噂だと笑って流せる」「分かっているわ。だから腹が立つの」 私が低く返すと、アウルは机の上の控えを一枚、指で押さえた。「不貞の現場を押さえる?」「現場?」「会っているところだけじゃ弱い。人目を避けて部屋に入るだけなら、あいつはいくらでも言い訳する。だから、言い逃れできないところまで見る」 私は思わずアウルを見た。「……そこまで?」「婚約破棄を相手有責で通すなら、そのくらい必要だよ。出会いを目的にした夜会なら、あいつも油断する。女を部屋に連れ込んで、何をしようとしていたのかまで見えれば、宝石や馬車の記録とは重みが違う」 出会いを目的にした夜会。その言葉が、控え室の空気を少し変えた気がした。表向きの礼儀や家名を薄い仮面で覆い、その奥で男女が互いを選
ロザリー夫人は、最後まで背筋を崩さなかった。 協力します、と告げたあと、夫人は閉じた扇を胸元に添え、ゆっくりと立ち上がった。控え室の扉を開けるために控えていた侍女ではなく、アウルが先に動いた。彼が扉の取っ手に手をかけると、古い金具が小さく鳴り、廊下の冷えた空気が室内へ流れ込む。燭台の火が一度だけ細く揺れ、机の上に広げた紙の端が、風を受けてかすかに震えた。「夜会まで、どうかいつも通りに」 アウルがそう言うと、夫人は一度だけ頷いた。顔色はまだ白かったが、目は逸らされていなかった。「ええ。悟らせないようにいたします」 夫人の声は、震えてはいなかった。ただ、扇を握る指にはまだ白さが残っていた。私はその手元を見て、胸の奥に小さな痛みを覚える。命を狙われているかもしれないと告げられ、それでも夜会で倒れる役を引き受ける。貴族の夫人としての誇りだけではない。あの人は、自分の命を自分で守るために、恐怖を飲み込んだのだと思った。 廊下へ出る前、ロザリー夫人は私を見た。「アストレア様」「はい」「香油の替えの品は、あなたにお任せしますわ」 その短い言葉の重さに、私は深く礼を返した。夫人の命を預かるということは、証拠を扱うこととは違う重みを持っている。前世でどれほど死者の身体や遺留品を見てきても、生きている人を罠の中へ立たせる恐ろしさには、まだ慣れなかった。「必ず、間に合わせます」 私が答えると、ロザリー夫人はそれ以上何も言わず、控え室を出ていった。衣擦れの音と付き添いの足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。扉が閉じる直前、夫人の横顔が細い光の中に一瞬だけ見えた。白い頬、扇を握る指、乱れのない歩み。そのすべてが扉の向こうへ消え、金具の鳴る音とともに、控え室は急に狭くなったように感じられた。 机の上には、香油の受け取り記録と、夫人の私用金の控え、そしてリディアの名が記された紙だけが残った。さっきまで夫人の声があった場所に、蝋燭の燃える音だけが残っている。私はしばらく、その紙の上へ落ちる影を見つめていた。 ロザリー夫人を守る手筈は整った。 完全に安心できるわ