All Chapters of 死に戻り令嬢は冤罪を覆し、幼馴染の王子に溺愛される 〜銀の令嬢の甘く危険な事件簿〜: Chapter 31 - Chapter 40

62 Chapters

第一部 第31話 ほどける夜

 アウルの手が、私の背へ回る。 ドレスの留め具に触れた指先が、すぐには動かなかった。薄い布越しに、彼の迷いが伝わってくる気がした。さっきまであれほど熱を帯びていたのに、その一線の前で、彼はまた私の返事を待っている。「アス」 名前を呼ばれて、私は彼の肩に置いた指へ力を込めた。「……うん」 返事になっているのか分からないほど小さな声だった。けれど、それ以上うまく言えなかった。 アウルの呼吸が、耳元でわずかに乱れた。「そんなふうに返事をされたら、本当に困る」「……困らせたいわけじゃないのに」「君のそういうところが困るんだよ」 背の紐がひとつ、静かにほどかれた。 家名や礼儀や人目のために整えていた令嬢としての形が、少しずつ解かれていくようだった。紐がほどけるたびに、指先が私の背へかすかに触れる。そのわずかな感触だけで、呼吸が浅くなった。肌に直接触れられているわけではない。それなのに、これから触れられるのだと身体の方が先に分かってしまう。 もうひとつ、紐がほどける。 肩のあたりが軽くなり、胸元を支えていた形まで緩みかけた。私は反射的に両腕で自分を隠した。隠したつもりだったのに、腕の下で押さえきれない柔らかな膨らみがかえって意識されて、頬が一気に熱くなる。 アウルの視線が、そこで一瞬だけ止まった。 いつもの余裕のある目ではなかった。琥珀色の瞳の奥で、抑えていた熱が揺れる。けれど彼はすぐに私の顔を見て、重ねた私の手にそっと触れた。退かせるのではなく、震えを包むような触れ方だった。「無理に見ない」「……でも、見たいのでしょう」 自分で言ってから、顔を伏せたくなった。 アウルの喉が、小さく動いた。「見たいよ」 正直すぎる答えだった。 私は息を止めた。すると彼は、私の指先に唇を落とす。手袋を外した素肌に触れる唇は熱く、たったそれだけで、押さえていた力が抜けかけた。「でも、怖がらせたいわけじゃない」「怖く
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第一部 第32話 眠れない夜の薬草

 どれほど時間が過ぎたのか、分からなかった。 長い夜の熱が、少しずつ静けさへ戻っていく頃、暖炉の火はまだ消えていなかった。けれど、先ほどよりもずっと低く、赤い光だけが寝台の端に揺れている。 私はアウルの腕の中で、息を整えることも忘れたまま、しばらく動けずにいた。 身体の奥に、まだ知らない熱の名残がある。恥ずかしさも、満たされたような重さも、どちらも消えてくれない。顔を上げる勇気がなくて、私は彼の胸元に額を寄せたまま目を閉じていた。 アウルの指が、乱れた髪をゆっくり梳く。 何度も、何度も。 彼の手は私の髪から肩へ、背へと慎重に触れていた。いつもの飄々とした気配は、ほとんど残っていない。何かを言おうとして、言葉にできずにいるような沈黙が、私たちの間に静かに落ちていた。「……アウル」「うん」「見ないで」 小さく言うと、彼が低く笑った。「今さら?」「今さらでも、恥ずかしいものは恥ずかしいの」「うん。知ってる」 知っている、と言いながら、彼は私を離さなかった。むしろ、抱く腕がほんの少し強くなる。からかわれているはずなのに、その腕の中はひどく温かかった。「幸せだよ、アス」 ぽつりと落ちた声に、私は目を開けた。 顔を上げると、アウルは私を見ていた。普段なら冗談にしてしまうような言葉を、今は逃げずにそのまま差し出してくる。その表情を見た瞬間、胸の奥が甘く痛んだ。「……そんな顔で言わないで」「どんな顔?」「分からないから、困るの」 アウルは答えず、私の額に口づけた。 穏やかな沈黙が落ちる。外の世界は遠く、今は暖炉の火と彼の鼓動だけがある。事件の後始末も、社交界の噂も、王家へ戻る道のことも、この一瞬だけは扉の外に置いておける気がした。 しばらくして、私はふと思い出した。「……そういえば」「うん?」「あの薬種店で買った紙包み、結局何だったの?」 アウルの指が
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第二部 第33話 ふたりの家

 「アス、まだ降りないで」  馬車の扉が開いた瞬間、アウルがそう言った。  踏み出しかけていた足を止める。膝の上に置いていた母の手鏡を抱え直すと、布の下の冷たさが指先に移った。ステラート侯爵家を出る朝からずっと握っていたせいで、手のひらには少しだけ跡が残っている。  外から差し込む光の向こうに、白い石段が見えた。王家の離宮。今日から私が眠る場所。  正式な婚儀は、まだ先だった。けれどアウルは、私を侯爵家に残すことを最後まで嫌がった。王家へ戻るために動き出せば、私の周りも騒がしくなる。君を守ると言っておきながら、遠くに置くなんてできない。そう言った時、彼はいつものように笑っていたけれど、指先だけは私の手を強く握っていた。  だから私は、ここへ来た。  後ろの馬車には、衣装箱も、薬草の小箱も、読みかけの本も積まれている。客として訪ねてきたのなら、こんなに荷物はいらない。そう思った途端、胸の奥が落ち着かなくなった。 「降りないでって……どうして?」  問い返すと、扉の外に立つアウルが、少しだけ目を細めた。黒髪が風で揺れ、琥珀色の瞳に午後の光が入る。迎えに来た彼は、いつもよりきちんとした上着を着ていた。黒と金の装いは王族らしく整っているのに、襟元だけが少し緩くて、そこがひどく彼らしかった。 「君を迎える日だから」
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第二部 第34話 離さない夜

 寝室へ続く小さな談話室に入ると、昼間の広間よりもずっと静かだった。低い寝椅子と丸い卓、壁際の燭台、窓辺に引かれた厚い布。扉が閉まる音がしただけで、離宮の広さが少し遠のいた気がする。 私は丸卓の上に薬草を広げた。乾いた葉を指先で崩すと、青く穏やかな香りが立つ。強い薬草で無理に眠るのではなく、眠ってもいいのだと身体に思い出させるような茶にしたかった。 湯を注ぐと、香りがゆっくり広がった。アウルは寝椅子に腰を下ろし、私の手元を見ている。昼間より少し黙っているせいか、目の下の疲れがよく分かった。「熱いから、少しずつ飲んで」「うん」 素直に頷く声が、なぜか幼く聞こえた。杯を渡すと、彼はひと口だけ飲み、目を伏せる。「苦くない」「苦い方がよかった?」「いや。君に気を遣われている味がする」「そんな味、ある?」「あるよ。俺を眠らせようとして、でも縛りつけようとはしていない味」「お茶にそこまで言われると困るわ」「俺も困ってる。こんなふうに大事にされたら、君の前で格好をつけられなくなる」 胸の奥が小さく跳ねた。私は向かいの椅子に座ろうとしていたのに、足を止めてしまう。アウルが隣を空ける。言葉で呼ばれたわけではないのに、そこへ座るしかなかった。 肩が触れる。彼は杯を卓に置き、私の手を取った。昼間のように見せるための触れ方ではなかった。指先をゆっくり絡め、しばらく何も言わない。その沈黙が、不思議と苦しくなかった。「眠れそう?」「君がいれば」「もう、すぐそういうことを言う」「仕方ないだろう。本当のことなんだから」 悪びれない声だった。けれど、杯を持つ指は少しだけ緩んでいて、昼間よりもずっと素直に見えた。「今日は、ずっと落ち着かなかった」「あなたが?」「うん。君を迎える支度をしている間、何度も部屋を見に行った。花の位置も、便箋も、寝椅子の布も、全部どうでもいいはずなのに、ひとつもどうでもよくなかった」「…&hel
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第二部 第35話 灰色の箱

 小さな灰色の箱から、どうしても目を離せなかった。 アウルの腕は、まだ私の腰に回っている。薄い掛布の中で、素肌に触れるシーツは少し冷たく、彼の胸の温度は昨夜の名残をそのまま閉じ込めているようだった。身じろぎすれば、ほどけた髪が肩を滑り、腰に置かれた腕が眠ったまま私を抱き寄せる。 それでも、視線は小卓の上へ戻ってしまう。 あんな箱、昨夜もあったかしら。寝室に入った時、私は水差しと燭台くらいしか目に入っていなかった気もする。アウルに抱き上げられていて、部屋の隅々まで確かめる余裕なんてなかった。けれど、灰色の蓋も、細い白い紐も、どうしても記憶の中に見つからない。 差出人の名も、紋章もない。 窓は閉まり、鍵も下りている。床に泥の跡も、カーテンの乱れもない。おかしいと決めるには早いのに、一度気にしてしまうと、小卓の上の箱だけが妙に静かに見えた。 背後で、アウルの呼吸が少し変わった。「……アス」 眠りを含んだ低い声が、耳元に落ちる。 振り返ろうとして、掛布が肩から滑りかけたことに気づき、慌てて押さえた。アウルはまだ目を閉じたまま、私の髪に頬を寄せる。起きたばかりの熱い息が首筋に触れて、私はほんの少し肩を縮めた。「起きたの?」「今、起きた」 掠れた声でそう言うと、彼の腕がゆっくり私を抱き寄せた。眠っている時よりも近い。腰に回る指先が掛布の上から私を確かめるように動き、背中に触れる胸の温度が少しずつはっきりしてくる。私はそれだけで落ち着かなくなって、返事の代わりに掛布を握った。 唇が肩口に触れ、そこから胸元へ落ちる。薄い掛布の下で、私は思わず息を詰めた。「アウル、待って……」「待つのは、あまり得意じゃない」 眠そうな声なのに、楽しんでいるのが分かる。胸元にもう一度、柔らかく唇が触れた。昨夜のことが一気に戻ってきて、顔まで熱くなる。「朝から、そんな……」「朝だから、少しだけ」「意味が分からないわ」
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第二部 第36話 知らなかった家の音

 朝食のあと、アウルは離宮の中を少しだけ案内してくれた。昨日は緊張と荷ほどきで見落としていた場所が、思ったより多い。南の回廊には庭へ出る扉があり、雨の日でも歩ける細い硝子張りの廊下が続いている。小さな読書室には古い本の匂いがこもり、窓辺の椅子には柔らかな布が掛けられていた。 廊下を歩く間、アウルは当然のように私の手を離さなかった。「歩きにくくない?」「少し」「じゃあ、もっとゆっくり歩く」「そういう意味ではなくて」「離すつもりはないよ」 朝からずっとそんな調子だった。 使用人たちは目を伏せて礼をしてくれるけれど、すれ違う時のわずかな間に、どう反応すればいいのか迷っている気配があった。昨日来たばかりの私が、主に手を引かれて歩いているのだから、当然だと思う。私もまだ慣れなくて、誰かの衣擦れが近づくたびに指先に力が入ってしまう。 アウルはそれに気づくと、わざと親指で私の手の甲を撫でた。「余計に恥ずかしいわ」「じゃあ、慣れるまで続ける」「慣れないかもしれないでしょう」「それなら、ずっと続けられるね」「……そういうところよ」「どこ?」 涼しい顔で訊かれて、私は答えるのを諦めた。 昼前、私室へ戻ると、エレーヌが花瓶の水を替えていた。「お戻りなさいませ、アストレア様」 淡い栗色の髪を低く結い、いつものように静かに礼をする。手元には白い花と、淡い紫の小花。選び方は悪くない。けれど彼女が顔を上げた時、視線が私の髪でほんの一瞬止まった。 今朝、アウルがくれた銀の髪飾り。 昨日は紫水晶のブローチだった。今日もまた、飾りを見るには少しだけ長い。私が見返すと、エレーヌはすぐに目を伏せた。「髪飾りが珍しい?」「いえ。とてもお似合いでしたので」 エレーヌはそう答え、花瓶の水を替える手を静かに動かした。所作は丁寧で、失礼なところは何もない。けれど私は、彼女の視線が髪飾りだけでなく、私の髪や
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第二部 第37話 緑の絵

「王太子殿下より、御婚約のお祝いでございます」 マリウスがそう告げた時、朝食の席にあった穏やかな空気が、音もなく変わった。 白い皿には、まだ温かなパンが残っている。紅茶の湯気は細く上がり、窓から入る朝の光は、卓上の銀器を淡く照らしていた。何も変わっていないはずなのに、私の手の上に重なっていたアウルの指だけが、ぴたりと止まった。「へえ。あの男が」 声は軽い。けれど横顔を見上げると、アウルの目から笑みが消えていた。琥珀色の瞳は、マリウスの手にある書状へ向けられている。私の手を包んでいた親指は、手の甲に触れたまま動かない。 自分を王家から遠ざけ、その座に座った相手。その人から、よりによって婚約祝いが届いたのだ。「……受け取らない、というわけにはいかないのね」「王太子殿下からの祝いを突き返したら、こちらが喧嘩を売ったことになる。せっかくの婚約を、社交界の見世物にはしたくない」 冗談に逃がす余地を残した言い方だったけれど、最後の声は少し低かった。 私は、彼の手に自分の指をそっと重ねた。「なら、まず見ましょう」「怖くないの?」「怖いかどうかは、中身を見てから決めるわ。まだ包みも開けていないもの」 アウルは私の顔を見た。少しだけ黙ったあと、手の力を緩める。「……分かった。開けよう」 マリウスが静かに一礼し、従僕たちへ合図を送った。 運び込まれた包みは、人ひとりほどもある平たい箱だった。厚い布で幾重にも覆われ、白と金の紐で結ばれている。王宮の封蝋が押された書状は、紐の上に添えられていた。 従僕の手が封蝋を避け、結び目をほどいていく。布が外される音が、朝の部屋にやけに丁寧に響いた。アウルは私の隣に立ち、肩が触れるほど近くにいる。いつものような距離なのに、今日はその近さが少しだけ頼もしかった。 最後の薄紙がめくられた瞬間、私は思わず息を止めた。「……綺麗」 現れたのは、風景画だった。 深い森と細い小川、その奥に白い館が描かれている。けれど何より目を引
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 第二部 第38話 眠りの浅い朝

 離宮での暮らしに慣れてきた、と感じたのは、朝の音が少しずつ聞き分けられるようになってからだった。 廊下を渡るマリウスの靴音は、いつも同じ速さで近づいてくる。エレーヌが花瓶の水を替える時は、硝子と盆が触れる澄んだ音がして、厨房からは焼きたてのパンの香りが届く。庭師が庭へ入る頃には、窓の外で枝を払う小さな音が混じった。 最初は借り物のようだった部屋も、少しずつ私の手に馴染んでいった。 談話室の窓際には、小さな卓が置かれるようになった。読みかけの本や、覚書用の紙を広げておくための場所だ。アウルは長椅子の一角を当然のように自分の場所にして、書類を読んだり、読んでいるふりをして私を見たりした。「その目で見られると、手元が狂うのだけれど」 茶葉を量りながら言うと、アウルは書類から顔を上げずに答えた。「見ていないよ」「今、書類が逆さまよ」 指摘すると、彼は少しも慌てずに紙を持ち直した。「君が気づくか試しただけ」「何の試験なの」「婚約者が俺をどれくらい見てくれているか」 私は言い返しかけて、やめた。続ければ、彼の思う通りになる。茶葉の缶へ視線を戻すと、長椅子の方で満足そうな気配がした。「好きにしたら、君の隣へ行くけど」「……お茶が入ってからね」 そう答えた時点で負けた気がした。アウルはそれ以上からかわず、書類を正しい向きに戻した。私の方は、茶葉を匙ですくう手が少しだけ遅れた。 そんな穏やかな日が、数日続いていた。 その朝、アウルはいつもより少し遅れて朝食の席に現れた。「珍しいわね」「寝坊した。婚約者の寝顔を見ていたら、起きるのが遅れた」「そういう嘘は、もう少し眠そうではない顔で言って」 軽口を返しながら椅子へ腰を下ろす彼は、いつもと大きく変わらなかった。黒髪も整えられていて、声にも普段の明るさがある。けれど、紅茶に手を伸ばす前に、こめかみへ指を当てたのが見えた。「頭が痛いの?」「重いだ
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第二部 第39話 香るはずのないもの

 その朝も、アウルは少し遅れて食堂へ入ってきた。 扉が開いた時、マリウスはいつも通り静かに一礼した。白い卓布の上には温かな皿が並び、紅茶の湯気が細く上がっている。アウルは何でもない顔で椅子を引いたけれど、腰を下ろす前に、こめかみへ指を当てた。 その仕草を、この数日で何度も見ていることに気づいて、私は胸の奥が落ち着かなくなった。「今朝は無理に食べなくていいわ。でも、温かいものだけは取って」「休ませるのが上手くなったね」「あなたが無理をするからよ」 責める言い方にはしたくなくて、最後は少し声が柔らかくなった。アウルはそれ以上茶化さず、温かなスープを少しずつ口にした。卓の下で、空いている手が私の指先に触れる。大丈夫だと言いたいのだと分かったけれど、その手つきはいつもより少し力がなかった。 私はその指を握り返した。 ここで問い詰めても、アウルは平気なふりをするだけだろう。だから私は、見えたことだけを心の中で確かめた。頭が重い。食欲が落ちている。眠りが浅い。時々、目を閉じて呼吸を整えている。どれも不眠が続けば起こり得ることだった。けれど、いつもの不眠だけで片づけていいのか、少し迷った。 前世で、死者と証拠を前にしていた時も、最初に引っかかるのはそういう小さな違和感だった。辻褄は合っているように見えるのに、一つだけ説明のつかないことが残る。その小さな引っかかりを流した時ほど、あとで大事な証拠を見落としていた。 だからこそ、いつもなら一つずつ確かめる。けれど今は、紙の上の記録ではなく、目の前でスープを飲むアウルを見ていた。 午後、私たちはいつものように談話室で過ごしていた。 窓の外は朝から薄く曇っていて、昼を過ぎても部屋の中は明るくなりきらなかった。暖炉には小さく火が入れられ、古い書棚の木の匂いと、乾いた紙の匂いがいつもより濃く感じられる。アウルは長椅子で書類を読んでいたが、頁をめくる間隔が長い。時々、文字を追う目が止まり、そのたびにまぶたを伏せた。 私は窓際の卓で覚書を整理していた。紙の端を揃えているうちに、こめかみのあたりが重くなる。強い痛みではない。額の奥に薄い布
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第二部 第40話 緑の毒

 考えすぎなら、それでいい。笑って済ませられるなら、いくらでも恥をかけばいい。 昨夜、そう思いながら書きつけた紙は、朝になっても机の上に残っていた。私はそれをもう一度読み返し、指で折り目をつけてから手巾の中へしまった。紙には、アウルがこめかみへ触れたこと、食事の手が進まなかったこと、私のこめかみまで重くなったことを書き残している。最後に加えたのは、談話室に満ちていた、甘く金属質で、ニンニクに似たかすかな臭いだった。 まだ証拠ではない。けれど、別々の不調として片づけるには、あまりにも同じ場所に寄りすぎている。 私は薄い外套を羽織り、清潔な布を水で湿らせて小さく畳んだ。誰かに知られれば大げさだと笑われるかもしれない。それでも、毒かもしれないものを確かめる時に、念のためを笑う余裕はない。 廊下へ出ると、朝の離宮はまだ静かだった。使用人たちの足音は遠く、窓の外の庭も薄い曇り空の下で湿って見えた。談話室へ向かう回廊を曲がったところで、淡い栗色の髪を低く結ったエレーヌが、壁際に立っているのに気づいた。手には水差しと折り畳んだ布巾を載せた盆を持っている。「おはようございます、アストレア様」「おはよう。こんな時間に?」「談話室のお支度をと思いましたが、昨夜、お加減が優れないようにお見受けしましたので、先に窓を開けた方がよいかと」 侍女としては自然な言葉だった。けれど、昨日も彼女は絵と窓と小卓を見ていた。私の体調にも、アウルの様子にも気づいていた。気遣いと言えばそれまでなのに、見ている場所が多すぎる。 私は盆の上の水差しへ目を落とした。水面は揺れていない。「ありがとう。でも、今は誰も中へ入れないで。マリウスを呼んでくれる?」 エレーヌは一瞬だけ目を上げたが、理由を問わなかった。「かしこまりました」 一礼して下がる時、彼女の視線が扉の取っ手ではなく、その奥の壁へ向いた。絵の掛かっている場所だった。私はその小さな動きを胸に留め、談話室の扉の前に立った。 すぐには入らない。まず扉を細く開け、湿らせた布を口元に当てる。廊下の空気と部屋の空気の違いを、慎重に確かめた。
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