All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 61 - Chapter 68

68 Chapters

第61話 三人目の共犯者

結城美緒が指定したカフェは、駅から少し離れた場所にある、落ち着いた雰囲気の店だった。昼下がりの柔らかな光が大きな窓から差し込み、店内には静かなジャズが流れている。その一角のテーブルに、相沢玲奈と黒崎俊哉は先に着いていた。約束の時間が近づくにつれ、玲奈の苛立ちは目に見えて増していく。腕時計を何度も確認し、爪先で床を小刻みに叩く。指定された時間になっても、美緒は現れない。玲奈はカッカして、アイスコーヒーをグイッと飲んだ。氷が音を立て、グラスの中でぶつかり合う。俊哉はそんな玲奈を横目で見ながら、ため息をつきそうになるのをこらえていた。感情を露わにする玲奈とは対照的に、彼はどこか冷めた空気をまとっている。そのときだった。「遅れてごめんなさい」柔らかな声とともに、美緒が現れた。息一つ乱していない。まるで遅刻など些細なことだと言わんばかりの落ち着きだった。そのまま自然な動作でテーブルの向かいに座る。玲奈がアイスコーヒーを一気に飲み干すのを見て、美緒は小さく首を傾げた。「冷たい物は、モデルさんにはよくないわよ」まるで親切な助言のように聞こえるが、その声音にはどこか余裕が滲んでいる。玲奈の顔が一瞬で真っ赤になった。「アンタ、ホントに上から目線よね!」椅子から立ち上がりそうな勢いでいきり立つ。だが美緒は、その言葉をまるで聞こえなかったかのように受け流した。視線をわずかに横へ動かし、玲奈の隣に座る俊哉へ向ける。そして静かに問いかけた。「あなたたち、ホントに付き合ってたの?」俊哉は言葉を使わず、両手を広げて見せた。それは肯定したのと同じだった。美緒は軽く頷くと、どこか申し訳なさそうな表情を作る。「あの時はごめんなさい。私が選ばれるなんて思わなかったの……」そう言ってから、玲奈を上目遣いで見上げた。「玲奈さんだって、候補に挙がってたんでしょ?でも、久遠ひかるさんが……」そこまで言って、わざとらしく言葉を切る。沈黙が落ちた。玲奈は、「ハッ?」とおかしな声を出したあと、すぐにその意味に思い至る。「まさか……私も候補に挙がってたのに、あの女が落としたってこと!?」声が店内に響き、近くの客がちらりと視線を向けた。美緒は肩をすくめ、困ったように微笑む。「だって…オーデションの時、私、負けたかもって思ってたから…」そう言いながら、じっと
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第62話 沈黙という強さ

「ひかるさん。私、ひかるさんが悪く言われているのを聞くのが嫌です!!」篠原夕季が目に涙を溜めて、ひかるを見て言った。声は震えていたが、その言葉には迷いがなかった。怒りと悔しさと、そして何より、ひかるを守りたいという真っ直ぐな感情が滲んでいる。ひかるはちょうど衣装を脱ぎ終え、私服に着替えたところだった。撮影の熱気がまだ肌に残っている。鏡の前で髪を整えながら振り返ると、夕季の真剣な瞳と目が合ってしまった。逃げ場のない、真正面からの視線だった。「夕季ちゃん……」ひかるは小さくその名を呼んだ。もちろん、ネットニュースの件は知っていた。今朝、マネージャーから淡々と説明を受けたばかりだ。どの記事がどれだけ拡散され、どんな見出しが躍っているのかも、すべて聞いている。驚きはなかった。むしろ――来たか、という感覚に近かった。しかし、ネットニュースに書かれていることは、ほとんど事実だったため、否定も肯定もせず、噂が消えるのを待つ方がいいと思っていた。ひかるの事務所の方針も同じだった。活動復帰から一線を走り続けている、ひかるに嫉妬した誰かの仕業だろうと分析し、ここで騒げば火に油を注ぐだけだと判断したのだ。噂は燃える。だが、燃料がなければ、いずれ消える。それが大人の選択だった。ひかるは柔らかく微笑むと、夕季の頭をそっと撫でた。まだ少し汗の残る髪が指先に触れる。「夕季ちゃん、ありがとう。でもね、こういうことは、これからいくらでも起こるわよ。インターネットって、簡単に噂を流すことができるでしょ?だから、変に否定したりしない方がいいのよ」穏やかな声だった。まるで天気の話でもするかのように落ち着いている。夕季は唇を噛んだまま、何も言えない。ひかるは続けた。「夕季ちゃん、今日のレッスンの時間は?そろそろ行かなきゃダメでしょ?」その一言で、話題をそっと終わらせる。守られているのは、自分ではなく夕季の方なのだと、夕季は気づいた。「……はい」名残惜しそうに頷くと、何度も振り返りながら部屋を出ていく。扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。静寂が戻った。夕季の気配が完全に消えたのを確認してから、ひかるは大きなため息を吐いた。そして、用意されていた椅子にゆっくりと腰を下ろす。肩の力が抜ける。誰もいない場所でだけ、見せる顔だった。ネットニュースに
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第63話 毒を落とす女たち

レッスン場に顔を出した夕季は、扉を開けた瞬間、思わず足を止めた。室内にはまだ人の気配が残っている。床には汗の匂いがわずかに漂い、鏡には踊ったばかりの身体の余韻が映っているようだった。そして——そこに、結城美緒と相沢玲奈が一緒に居るのを見た。一瞬、胸がざわつく。どうしてこの二人が並んでいるのか、直感的に嫌な予感がした。すると、結城美緒が夕季に気付いて手を振る。まるで旧友にでも会ったかのような、親しげな笑顔だった。「美緒ちゃん、久しぶり……元気だった?」夕季はそう言いながらも、無意識に玲奈の顔を覗き見た。玲奈はタオルで首元の汗を拭きながら、ゆっくりと夕季へ視線を向ける。その目は、まるで品定めでもするかのように冷たかった。「あなた……まだ居たの?もう辞めてくれたかと思ってたわ」その一言で、夕季の胸の奥に、あの日の記憶が蘇る。オーディションの後の廊下——突然、頬を殴られた衝撃。周囲のざわめき。何が起きたのか理解できず、ただ立ち尽くした自分。右頬が、じん、と疼いた気がした。「相沢さんも、レッスンだったんですか?お久しぶりです」夕季は違和感を押し込み、何もなかったように振舞う。ここで怯めば、負けだと本能が告げていた。二人の間に流れる険悪な空気を感じ取ったのか、結城美緒が軽やかに割って入る。「夕季ちゃんは今からなんでしょ?玲奈さん。お邪魔になっちゃうから、私たちは行きましょう。夕季ちゃん、また」そう言って、自分の荷物を手に取ると、そのまま歩き去ろうとした。——が、数歩進んだところで、不意に立ち止まる。ゆっくり振り返り、思い出したように言った。「そういえば、夕季ちゃん」夕季も、その声音に反応して振り返る。美緒の表情は柔らかい。だが、その瞳の奥に、どこか底知れない光が揺れていた。「あなた知ってた?久遠ひかるさんの、今の噂」夕季は小さく頷く。もちろん知っている。嫌でも耳に入ってくるのだ。だが——それが何だというのだろう。夕季は次に美緒が何を言うのか、黙って待った。美緒はほんの少し声を潜める。「あの噂。ほとんど事実なんですって。しかも、玲奈さんの彼氏を誘惑して、家に入り込んでたそうよ」その言葉が落ちた瞬間、夕季の手が止まる。呼吸が浅くなる。ゆっくりと顔を上げ、美緒と玲奈の顔を交互に見た。「どういう意味?」かすれた声だっ
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第64話 揺れる信頼

篠原夕季は、先ほどの結城美緒の話を聞いてから、胸の奥に重たい石を置かれたような気分になっていた。なぜこんなに落ち込んでいるのか、自分でもよく分からない。だが、心が晴れない。あの、久遠ひかるさんが、そんなことをするような人には見えない。付き人としてそばにいた時間は決して長くはない。それでも夕季は知っている。ひかるがどれだけ芝居に真摯で、周囲に細やかな気配りをする人なのかを。どちらかと言えば、あの、相沢玲奈の方が、他人の恋人を取ったと言われたら、頷ける気がした。玲奈の鋭い視線、突き刺すような物言い。オーディションの日に頬を打たれた感触まで、まだ記憶に新しい。——でも、決めつけるのも違う。そう思う一方で、美緒のあの自信に満ちた口調が、何度も頭の中で再生される。レッスンが終わり、篠原夕季が廊下を歩いていると、向こうから天城蒼真がやってきた。遠くからでも目を引く存在感だった。すらりとした長身に、無駄のない所作。柔らかな雰囲気をまといながらも、長年第一線に立ち続けてきた俳優だけが持つ、揺るがない軸が感じられる。マネージャーらしき人と、何か話しながら歩いてくる。久遠ひかると同期といっても、夕季は話したこともなかったため、廊下の端に寄り、黙って頭を下げた。目を合わせるのも恐れ多い。だが——天城蒼真は、笑顔で眉を上げた。「あれ?キミは、ひかるの付き人の子かな?」思いがけず声を掛けられ、夕季は驚いて顔を上げた。ひかるについて行った現場で、何度か天城蒼真を見かけたことがある。遠くから眺めるだけの存在だった。でも、蒼真が夕季の顔を覚えているとは、少し驚いた。「天城さん……はじめまして。篠原夕季と言います。よろしくお願いいたします」夕季は背筋を伸ばし、丁寧に挨拶した。すると蒼真は、くすっと笑う。「初めましてじゃないけどね。ボクは天城蒼真と言います。よろしく」気さくな声音だった。夕季は急に恥ずかしくなり、視線を泳がせる。「天城さんのことは、もう、ずっと前から……」言葉の続きが出てこない。憧れています、と言うのも大げさな気がして、しどろもどろになってしまう。そんな夕季の様子を見て、蒼真は柔らかく目を細めた。「かわいいな。夕季ちゃんは、女優さんなの?」その一言に、胸がぱっと明るくなる。「はい!……というか、今度の『誰よりも、君だけを』に
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第65話 さらなる追撃

天城蒼真と話したあと、夕季はスキップをしそうな勢いで廊下を歩いていた。胸の奥に溜まっていた重たいものが、すっと取り払われたような気がして、自然と足取りも軽くなる。ついさっきまで、美緒から聞かされた噂のせいで心が沈み込んでいたのが嘘のようだった。あれだけ長く、ひかるさんと一緒に仕事をしていた天城蒼真さんが、「ひかるはそんな女じゃないよ」と言ってくれたことが、答えだった。蒼真の穏やかな声や、迷いのない表情が脳裏に浮かぶ。あの言葉には、根拠のない慰めではなく、確信が込められていた。だからこそ夕季は信じられたし、何より安心できたのだ。「この後は、ひかるさんの撮影現場ね」と、確認しながら、ひかるが仕事をしているスタジオへと急いでいた。バッグの中のスケジュール帳を思い出し、頭の中で今日の流れをなぞる。現場に着いたら、まず差し入れをスタッフに渡して、そのあと控室の準備を手伝って——そんな段取りを考えているだけで、付き人としての責任感が背筋を伸ばした。すると、廊下の自販機の横で、若い女優の卵たちが談笑しているのが見えた。色とりどりのレッスンウェアに身を包み、髪型もメイクもそれぞれに工夫されている。笑い声が弾けるたび、周囲の空気まで明るくなるようだった。みんな、若くてきれいな女性ばかりである。とても華があり、廊下を行きかう男性たちも、自然と笑顔で通り過ぎて行った。中には、わざとゆっくり歩いているのではないかと思える者さえいる。篠原夕季も、その女性たちに、軽く頭を下げながら通り過ぎた。その女性たちの会話が途切れる。一瞬だけ、空気が止まったように感じた。背中に視線が刺さるのが分かる。だが夕季は気にしないふりをして、そのまま前を向いて歩き続けた。そして、少し先の廊下を曲がったところで、声を落とした女性たちの会話が耳に入った。「ねぇ、今のって……」「久遠ひかるの付き人でしょ?」夕季の足が、ぴたりと止まる。鼓動が急に速くなった。「ドラマに出るとかって聞いたけど。あれ、どうなるの?」「中止になるんじゃないかって話してる人がいたよ」胸の奥がざわつく。「あー!それ私も聞いた!!しかも、またネットにのってるよ。今度は寝取られ疑惑!!」「うそ!!」「キャー!ホントだ!!」夕季は、角を曲がったところから、姿を隠して話を聞いていた。壁に背中を預けながら、息を殺す。
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第66話

「カット!!」スタジオに、監督の声が響き渡った。張り詰めていた空気が、その一言で一気に緩む。大型照明の熱気、機材のわずかな駆動音、スタッフたちの控えめな足音――そのすべてが、撮影の終了を合図に現実の音へと戻っていく。久遠ひかるは、その声を聞いた瞬間、険しい顔から、すっと、いつも通りの優しい顔に戻った。ついさっきまで見せていた感情の激しい表情が嘘のように消え、柔らかな微笑みが浮かぶ。その切り替えの速さは、何度見ても見事だった。撮影スタッフたちは、この、ひかるの、演技に入ると別人になる、この態度を気に入っていた。カメラの前では役そのものになり、カットがかかれば周囲を気遣う穏やかな女性に戻る。そのギャップが、現場の誰からも信頼される理由のひとつでもある。「さすがひかるさん。今の、すごく良かったです!!」と、スタッフたちが声を掛けてくれる。照明担当が親指を立て、助監督も満足げに頷いている。若いスタッフの中には、思わず拍手をしそうになる者もいた。ひかるも笑顔で「ありがとう。お疲れさまでした」と応える。決して偉ぶらず、誰に対しても同じ温度で言葉を返すところが、彼女らしかった。衣装の裾を軽く整え、自分の荷物を持ち、控室へ移動しようと、スタジオのドアを開けたところで、息を切らした篠原夕季と会った。肩で大きく息をし、髪も少し乱れている。普段は落ち着いて行動する夕季が、ここまで取り乱している姿は珍しい。「夕季ちゃん、そんなに急いでどうしたの?」ひかるは驚いて目を見開いて言った。そして夕季の肩に手を掛けて、「控室に冷たい飲み物があるから。さあ、行きましょう」そう言った。声は落ち着いていて、相手を安心させる柔らかさがある。夕季は、膝に手を突き、前かがみの姿勢で息を整えていたが、パッと顔を上げた時には、大粒の涙を流していた。頬を伝う涙は止まる気配がなく、次から次へとこぼれ落ちる。「ひ、ひかるさん……」震える声は、かろうじてそれだけを絞り出した。ひかるは、先ほどよりも、もっと驚いて、夕季を支えて起こすと、「とにかく行きましょう」と、廊下の先の、自分の控室に、夕季を連れて行った。周囲のスタッフが何事かと視線を向けるが、ひかるは気に留めない。ただ夕季の背中を静かに支えながら歩いた。控室に入ると、外の喧騒が嘘のように遮断される。ひかるはすぐに冷蔵庫を開け、よく冷え
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第67話 夕季の決意

「夕季ちゃん……心配してくれて、ありがとう」ひかるは静かに立ち上がると、篠原夕季の肩にそっと手を置いた。その手は温かく、包み込むような優しさがあった。取り乱していた夕季の呼吸が、わずかに整っていく。篠原夕季は、涙で濡れた瞳でひかるを見つめた。まっすぐで、どこか必死な視線だった。尊敬と不安が入り混じったその表情に、ひかるは胸の奥がわずかに締め付けられるのを感じる。「ひかるさん。このままにして、ひかるさんに何かあったら……私、嫌です」震える声だった。だがそこには、逃げる気配のない強い感情が宿っている。ただの付き人としてではなく、一人の人間として、ひかるを守りたいと思っているのが伝わってきた。ひかるは、夕季の言葉に微笑むと、夕季の向かいの椅子に座り直した。慌てる様子はない。その落ち着きが、かえって彼女の強さを物語っていた。「夕季ちゃんには言っておくわね。私は、そんなに簡単に、潰されるつもりはないわ。でも、お掃除の仕事をしている時に、ある男性に誘われて、その彼のお仕事を手伝っていたのは本当のことなの。そして、その彼に、プロポーズされて、一緒に住むことになったんだけど……」そこまで話すと、ひかるは言葉を切り、少し俯いて考えていた。視線が床に落ちる。普段は見せない沈黙だった。控室の時計の秒針だけが、やけに大きく響く。やがて顔を上げると、また話しだした。その瞳には、過去を真正面から見据える覚悟が宿っている。「その彼の事業が、順調になったころから、彼は私を大切にしてくれなくなった。そして、『お前は家政婦みたいなものだ』と。」その言葉を聞いた、夕季の目が見開かれた。信じられない、という感情がそのまま表情に浮かぶ。思わず何か言いかけたが、言葉にならない。ひかるはなおも続ける。声は静かだが、どこか硬い。「そしてある日、私と彼が住む家に、ある女性を連れて来たんだけど……」再び言葉が途切れる。ひかるはゆっくりと、大きく息を吸った。胸の奥に沈めていた記憶を、ひとつずつ掬い上げるように。夕季は、ひかるが話し始めるまで、急かさずに待った。両手を膝の上で握りしめながら、ただ耳を傾ける。やがて、ひかるが辛い思い出を語るような、自分の恥をさらすような、そんな顔で言った。「私の彼とその彼女は、私の前で愛を語り合って、毎晩、彼らが愛し合う声を聞かされて……」夕季の喉が小
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第68話

バーの中は、静かなざわめきに包まれていた。間接照明だけが頼りの薄暗い空間に、低く流れるジャズ。氷がグラスの中で触れ合う乾いた音が、ときおり耳に届く。藤崎優は、カウンターの端の席に座り、手元の書類から視線を上げなかった。黒縁の眼鏡に、落ち着いた色味のジャケット。普段の彼を知る者が見ても、すぐには気づかないほどの控えめな変装だった。俳優という仕事柄、人に顔を覚えられている自覚はある。だからこそ、こういう場所では細心の注意を払っていた。つい先ほどまで、横の席に座っていた男――事務所専属の私立探偵から報告書を受け取ったばかりだった。探偵は必要以上に語らない男だったが、その報告は十分に具体的だった。優は、ウイスキーのグラスに指を添えながら、もう一度、報告書の内容を頭の中で整理する。今回の、久遠ひかるに関するネットの噂。あまりにも出来すぎている。偶然の炎上とは思えなかった。探偵の調査によって、まず浮かび上がったのは黒崎俊哉の存在だった。経営する会社は資金繰りが悪化し、倒産寸前。そこへ突然持ち上がった「五十八億円請求」の話題は、世間の同情を引くには十分だった。だが、それだけではない。黒崎の周囲を調べるうちに、相沢玲奈という女性の名前が頻繁に出てきた。あの、スタジオの玄関先で、黒崎と大喧嘩をしていた女だ。モデル上がりの女優志望。気が強く、プライドが高い。オーディションに落ちた過去を引きずり、特定の女優に強い敵意を抱いている――。そして、その“特定の女優”こそが、久遠ひかるだった。さらに、もう一人。結城美緒。新人女優。最近になって急速に露出を増やし、なぜか今回の騒動の周辺に必ず現れる人物。優はグラスを持ち上げ、ゆっくりと口をつけた。(黒崎俊哉と相沢玲奈……そこに結城美緒。だが――)問題は、そこへどう久遠ひかるが関わってくるのか、だった。報告書を読む限り、ひかるは確かに黒崎と過去に同居していた。だが、書かれている状況は、世間が想像しているようなものとは明らかに違う。むしろ――利用されたのは、ひかるの方だ。優の視線が、わずかに鋭くなる。(彼女が、自分から誰かに寄りかかるタイプには見えない)長く同じ現場に立ってきたからこそ分かる。久遠ひかるは、静かだが芯の強い女優だ。必要以上に弁明せず、仕事で答えを出すタイプ。だからこそ、今回の沈黙も理解でき
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