All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 踏み出す人、見送る人

「まって、待って、美緒ちゃん!!」 夕季が慌てて声を上げたが、その制止は一歩遅かった。 結城美緒は迷うことなくひかるの隣の椅子に腰を下ろし、身体ごと正面から向き合う。「ひかるさん、夕季ちゃんにも、今度の8話のオーディションを受けさせてあげてくださいよ」 屈託のない声。 だが、その視線は強く、逃げ場を与えない。 ひかるは一瞬、言葉を探すように、美緒と夕季の顔を交互に見た。「ええ、夕季ちゃんがやりたいなら」 そう言って、静かに頷く。 拒む理由はなかった。 夕季がどれだけ現場で必死に学び、耐えているかを、ひかるはよく知っている。 すると美緒は満足そうに立ち上がり、軽やかに夕季の元へ戻ってくる。「ひかるさんもOKだって」 そう言って、夕季の顔を覗き込むように見た。 夕季は胸の奥がきゅっと締めつけられた。 嬉しいはずなのに、どこか置いて行かれた気がしてならない。「美緒ちゃん…私、自分でひかるさんに言いたかったのに」 ひかるの方へ目を向けられず、美緒の顔だけを見て言う。 声は小さく、言い訳のようでもあった。「そんな消極的な態度じゃ、前に出られないわよ。特に、私たち、中途半端な年齢じゃない。今、頑張らなかったら、ひかるさんの年齢の時には、完全に『バイプレイヤー』じゃない」 美緒は、目の前の皿に乗ったパスタを、フォークでくるくると巻きながら言った。 淡々と、しかし迷いなく。 夕季はその言葉に俯いた。 反論はできなかった。 確かに、いつまでもひかるの付き人をしていられる時間は、自分にはないのかもしれない。自分が付き人をしている、『久遠ひかる』は、15歳でデビューしてから、スター街道を走っていた。活動休止していたとはいえ、復帰した瞬間から、話題をさらっていける、本物のスタ―だった。それなら、自分は……? 今、夢を掴まなければ、美緒の言う通り、主役を張る位置には行けない。 夕季は小さく息を吐き、軽く頷く。「美緒ちゃんありがとう。私やってみる」 そう言って立ち上がり、「ひかるさんにも話してくるね」 その背中を、美緒は無言で見送った。 その視線が一瞬、冷たく細められたことに、夕季は気づかなかった。 食事は一次会でお開きとなった。 撮影は中休みだが、結城美緒にはレッスンがある。 脚光を浴びたばかりとはいえ、まだ新人。 休
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第32話 夜のドライブ

「あれ、優さんだけ?みんなは帰ったんですか?」 店の外に出て、ひかるは思わず足を止めた。 駐車場に残っていたのは、車にもたれかかる藤崎 優ひとり。 夜風に混じって、微かに煙草の匂いが漂う。 ひかるが驚いて聞くと、藤崎 優は何も言わずに煙草の火を消し、灰皿に押し付けた。 そして、助手席のドアを開ける。「ひかる、ちょっと付き合え」 突然の言葉に、ひかるは首を傾げる。 けれど、その声に強さはなく、どこか昔と変わらない軽さがあった。「また優さんの気まぐれですか?」 そう言って、くすっと笑い、素直に助手席に座る。 藤崎 優はドアを閉め、自分も運転席に乗り込むと、短く言った。「シートベルト」 ひかるは慌ててシートベルトを引っ張ったが、途中でロックがかかり、動かなくなった。「あ……」 焦って何度か引き直すひかるを見て、藤崎 優は小さく笑う。「慌てなくていいよ」 そう言って、ひかるの前に手を伸ばした。 近づく気配に、ひかるは一瞬だけ息を止める。 優はシートベルトを軽く緩め、そのままひかるの体に沿わせるようにして、カチリと留めた。「ありがとう」 ひかるは照れたように言い、すぐに前を向いて背筋を伸ばした。 車が走り出す。 しばらくは二人とも無言だった。 ひかるは、優がどこへ向かっているのかわからなかったが、不安はなかった。 窓の外を流れる夜景が、ただ綺麗だった。 うつ病を患い、俊哉と一緒に過ごした四年。 そこに、仕事を続けながら無理を重ねた三年を合わせると、七年。 七年もの間、こんなふうにドライブに連れて行ってもらったことはなかった。 夜の街を、ただ眺めるだけの時間も、ひかるには贅沢だった。 ひかるはふと、優の方へ体を向ける。「優さん、どこに向かっているんですか?」 優はハンドルを握ったまま、ニヤッと笑った。「そこ」 そう言って、前方のネオンを指さす。 ひかるが目を凝らすと、ハンバーガーショップの看板が見えた。「……え?」 そのまま車はドライブスルーへ入り、バーガーセットを購入した。 次に向かったのは、夜景の綺麗に見える公園の駐車場だった。 車を停めると、優は後部座席から、先ほど買った袋を取り出す。「ひかるはこっちだろ?」 そう言って、袋からハンバーガーを取り出し、ひかるの手に持たせてくれた。 ひかる
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第33話 夜景の下で、心の奥が暴かれる

「優さんはお父さんみたいだよ」ひかりはクスっと笑い、オレンジジュースを一口飲んだ。氷が溶ける音が、やけに大きく耳に残る。「おなかいっぱい!! おいしかったよ、優さん」その笑顔は、昔と何も変わらない。無邪気で、疑うことを知らない笑顔だ。だからこそ、優は胸の奥がわずかに軋むのを感じた。「お父さんじゃなくて、お兄さんと言え」そう言って苦笑しながら、ひかるから包み紙を受け取り、袋に戻す。何気ない動作のはずなのに、手のひらに妙な力が入っていた。「はい、お兄さん」ひかるは楽しそうに言い直し、ドアに手をかける。「ねぇ優さん、ちょっと外に出てもいい?」夜の空気は冷たく、肌を刺すようだった。優は無言でコートを脱ぎ、ひかるの肩に掛ける。「寒くないか?」革の重みと、優の体温。そこに混じるタバコとムスクに混ざった、大人の男の匂い。ひかるの胸が、理由もなくざわついた。「これ、重いよ」返そうとするが、「風邪をひいたら困る」低く短いその声に、逆らえなかった。夜景は美しかった。けれど、ひかるの目には、どこか現実感がなかった。まるで、自分だけがこの場所に存在していないような感覚。夜景を見ている間、二人は黙っていたが、不意に優が沈黙を破った。「ひかる……この七年の間に、何があった?」優の声は静かだったが、逃げ道を塞ぐ響きがあった。ひかるは視線を落とし、指先を握りしめる。「……家政婦してた」それが嘘だと、自分でもわかっている。それでも、そう言うしかなかった。「それは、マスコミ向けの話だろ」優は目を閉じ、次に目を開いた時には、完全に覚悟を決めた目をしていた。「ホントは、何してたんだ?」その視線に射抜かれ、ひかるは息を吐く。長い間、胸の奥に沈めてきたものが、浮き上がってくる感覚。十五歳でデビューし、光の中に立たされた日々。天城蒼真と並び、称賛を浴びる一方で、「期待に応えなければならない」という圧が、常に背中にあった。成長するにつれ、求められる役は変わっていった。キスシーンや、ベッドで抱き合うなど。自分の気持ちは関係なく、大人の世界にどんどん足を踏み入れなければならなかった。断れない空気。当然のように課される「次の段階」。女優なのだから。売れているうちに。今しかないから。そう言われ続け、自分の感情を後回しにする
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第34話 壊れたことに、気づけなかった夜

車のドアが閉まる音がして、ひかるは一人になった。優の車が遠ざかっていく赤いテールランプを、ぼんやりと見送る。夜風が冷たい。コートの中に残る、優の体温と匂いが、やけに生々しくて――胸の奥が、ぎゅっと縮こまった。(……なんで、あんなこと話しちゃったんだろ)誰にも言わなかった。言えなかった。自分でも、きちんと形にできなかったこと。けれど、あの夜景の前では、「隠す理由」より「もう疲れた」という感情の方が、勝ってしまった。歩きながら、ひかるは過去を思い出す。それは、はっきりした“きっかけ”があったわけじゃない。ただ、少しずつ。確実に。十五歳でデビューした頃は、楽しかった。台本を覚えるのも、撮影現場も、「すごいね」「天才だね」と言われることも。天城蒼真は、いつも隣にいた。同じ年で、同じように売れて、同じように「期待」を背負わされていた存在。だから、疑わなかった。疑うという選択肢すら、なかった。キスシーンも、ベッドシーンも、「仕事だから」と言い聞かせた。大人になるということは、感情を置いていくことだと、どこかで思い込んでいた。けれど――十九歳の、あの言葉。「ロストバージンも俺としないか?」冗談のような口調。軽い笑い。周囲に誰もいないタイミング。その瞬間、ひかるの中で“安全だったはずの場所”が、音を立てて崩れた。(……あ、違う)そう思ったのに、「違う」と口にできなかった。否定したら、すべてが壊れてしまう気がした。仕事も、関係も、自分の立ち位置も。それから、少しずつおかしくなった。眠れない夜。食事が喉を通らない日。笑顔を作るのが、以前より少しだけ苦しくなる。「大丈夫?」と聞かれても、何が大丈夫じゃないのか、自分でもわからなかった。気づいた時には、自分の気持ちよりも“期待に応えるひかる”を優先する癖が、染みついていた。逃げるように、芸能界から離れた。俊哉の家に行ったのも、守ってほしかったからじゃない。考えなくて済む場所が、欲しかっただけだ。実際、俊哉からプロポーズは受けたが、俊哉は自分を家政婦代わりにしただけだった。だが、家政婦という肩書きは、便利だった。感情を持たなくていい。女優であることを、思い出さなくていい。けれど、心は回復しなかった。ただ、止まっていただけだった。(私
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第35話 沈黙の向こう側

天城蒼真は、マネージャーから差し出されたタブレットを受け取り、その企画書の表紙を見た瞬間、指を止めた。――久遠ひかる。文字として見ただけなのに、胸の奥が、わずかに軋んだ。「次のクールの話です。話題性は十分ですし、“七年ぶりの共演”ってだけで、スポンサーは食いつきます」マネージャーの声は、いつも通り淡々としている。だが蒼真は、すぐに返事ができなかった。ひかる。先日、オーディション会場に会いに行ったときは、ほとんど会話を交わさなかった。偶然通りかかったときに、嫌味な女に絡まれているところを、助けた形になったが、そのあと、ひかるは、無言で蒼真の腕から逃げて行った。最後に同じ現場に立ったのは、彼女が二十歳になる直前だった。その頃の彼女を思い出そうとすると、決まって浮かぶのは――よく笑っていた顔、ではない。言葉数が減り、目を合わせなくなり、「大丈夫です」と言いながら、どこか遠くを見ていた姿。(……あの時)蒼真は、ふと、自分が口にした“あの言葉”を思い出してしまう。冗談のつもりだった。軽口の延長だった。そう、自分では思っていた。「ロストバージンも俺としないか?」その瞬間の、ひかるの表情。一瞬、固まって、それから、何も言わずに笑った。否定も、怒りも、なかった。だから蒼真は、深く考えなかった。(……考えなかった、じゃないな)考えないようにしていた。その後、ひかるは活動を休止した。表向きの理由は、体調不良。心の不調。ありがちな説明だった。一方で、自分はどうだったか。主演作は途切れず、賞も、CMも、海外作品の話も来た。“天城蒼真”という名前は、常に成功と一緒に語られていた。……それなら、ひかるは?同じ年にデビューし、同じ現場で戦って、同じように期待されていたはずの彼女は――七年間、姿を消していた。(俺は、何も失ってない)その事実が、今さらのように、重くのしかかる。ひかるが壊れていった過程を、蒼真は“見ていなかった”わけじゃない。見ていた。ただ、自分に関係のないこととして、視線を逸らしていただけだ。沈黙。笑顔。「大丈夫」という言葉。あれは、拒絶できなかった沈黙だったのかもしれない。蒼真は、企画書を閉じた。「……少し、考えさせてください」マネージャーが驚いた顔をする。だが蒼真は
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第36話

Kurosaki Creative Worksのオフィスでは、俊哉が途方に暮れていた。天井の高いこのフロアは、かつては活気に満ちていた。大きなテーブルを囲んで行われる会議、壁一面に貼られたラフ案、締め切り前になると飛び交っていた怒号と笑い声。だが今、そのすべては過去の残骸でしかなかった。この広いオフィスに移ってから、まだ二年も経っていない。それなのに、会社はすでに倒産の淵に立たされていた。毎日、会議や制作を繰り返し、大きな声で締め切りを叫んでいたスタッフたちは、もう誰もいない。デスクの上には、使われなくなったパソコンと、持ち主を失った文房具が静かに残されているだけだった。今、かろうじて出社しているのは、事務員の佐藤美和だけだった。佐藤美和は、いつもと同じ所作で俊哉の前にコーヒーを置くと、「社長。今後のご予定が決まりましたら、早めに教えてくださいね」と、柔らかい声で言った。佐藤美和も、もうKurosaki Creative Worksが倒産の危機にあることは理解していた。自分はいつまでここで働けるのか。社長は給料を払ってくれるのか。そんな不安を抱えながらも、俊哉に何も言われない限りは、出勤し続けようと決めていた。「佐藤さん、ありがとう」俊哉は、ふと口をついて出たようにそう言った。社長から礼を言われることなど、これまでほとんどなかった。佐藤美和は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。そろそろ、このオフィスも閉めるのだろう。彼女は、そう予感していた。俊哉は、広告制作の小さな仕事を請け、自分一人で作成し、納品していた。スタッフが大勢揃っていた頃は、自分は現場を任せきりにし、遊び惚けていた。だが元々、この会社は俊哉が一人で立ち上げた事務所だった。久しぶりに一人で制作に向き合うと、忘れていた感覚が少しだけ戻ってくる。小さな仕事でも、先方から「素晴らしかった」と言われれば、俊哉は素直に嬉しかった。だが、現実は甘くない。小さな仕事の報酬は、それなりの金額にしかならない。今の会社の支出を考えれば、それは焼け石に水のようなものだった。ある日の午後。黒崎アクティブ・ワークスが雇っている税理士が、オフィスへやってきた。佐藤美和がコーヒーを出し、応接室で向かい合って座る。税理士は書類に目を落としたまま、淡々とした
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第37話 新たな扉、そして波乱の予感

 藤崎優と久遠ひかるが出演する新ドラマ『誰よりも、きみだけを』は、放送前から話題を集めていた。 主演が発表された瞬間から、SNSでは大きな反響が巻き起こり、ネットニュースや芸能情報番組でも連日のように取り上げられている。 かつて国民的人気俳優として第一線を走り続けてきた藤崎優。 そして近年、女優として圧倒的な存在感を放ち続ける久遠ひかる。 二人の共演は、それだけで視聴率が保証されると言われるほどの注目作だった。 しかも今回は、単なる恋愛ドラマではない。 愛と裏切り。 嫉妬と執着。 そして赦し。 複雑に絡み合う人間関係を描いた、大人向けのラブサスペンスだった。 藤崎優が演じるのは、若くして大企業のトップに立った男。 圧倒的な才能を持ちながらも、心の奥に孤独を抱える男。 誰にも弱さを見せない冷徹な経営者でありながら、妻だけには本音を見せる。 そんな難しい役柄だった。 久遠ひかるは、その男の美しいが冷たい雰囲気の妻役。 社交界でも名を知られる名家の令嬢。 誰もが羨む完璧な夫婦。 しかし、その内側には誰にも言えない苦しみと寂しさを抱えている女性。 微笑んでいてもどこか寂しげで、視線だけで感情を表現する繊細な演技が求められる役だった。 そして、その夫の若い愛人役としてキャスティングされたのが、結城美緒だった。 人気急上昇中の若手女優。 透明感と妖艶さを併せ持つ彼女の出演は、制作発表の段階から話題となっていた。 純粋さと計算高さを巧みに使い分ける役どころ。 視聴者の心を大きく揺さぶる存在になることは間違いない。 さらに制作側は、もう一人―― 「夫に憧れを抱く若い女」という、第8話の一度しか出番はないが、物語の鍵を握る役を用意し、あえてキャリアのない新人に託すことを決めた。 出演時間は短い。 セリフも決して多くはない。 しかし、その人物の登場によって、物語の流れが大きく変わる。 まさに重要人物だった。 新人女優発掘を名目にした、若い女性限定のオーディション。 それは、先日、篠原夕季が「出てみたい」と口にしていた、あのオーディションだった。 夕季にとっては夢への第一歩。 人生を変えるかもしれない大きなチャンスだった。 ひかるは、迷わなかった。 夕季の瞳の奥に宿る情熱を見ていたからだ。 演技経験はほとんどない。
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第38話 相沢玲奈の“失言”

 会場に漂う空気は、安堵とも緊張ともつかない独特のものだった。 長時間にわたる審査を終えたスタッフたちは資料を整理し、審査員たちは改めて候補者のプロフィールを確認している。 すでに合格者は決まっている。 それでも、作品に関わる者たちは、その決定が本当に正しかったのかを最後まで検証する。 それは責任でもあり、覚悟でもあった。 二十名の候補者の中で、夕季は決して目立つ存在ではなかった。 有名な芸能事務所に所属しているわけでもない。 受賞歴があるわけでもない。 演技経験も浅く、肩書きもない。 他の候補者たちが華やかな経歴を並べる中で、夕季のプロフィールは驚くほど質素だった。 だからこそ、多くの人間は最初、彼女に注目していなかった。 だが、二行のセリフを口にした瞬間、空気が変わった。 ――欲しいものを、欲しいと言えない女。 その設定に、夕季の声は、妙に合っていた。 決して大げさな演技ではない。 涙を流したわけでもない。 感情を爆発させたわけでもない。 それなのに、言葉の奥にある切なさが、自然と伝わってきた。 まるで役を演じているのではなく、本当にそういう人生を歩いてきた人間のように。 誰かに憧れて。 手を伸ばしたくても伸ばせなくて。 諦めようとしても諦めきれなくて。 そんな感情が、ほんの短いセリフの中に滲んでいた。 審査員の一人が、資料をめくりながら言った。「彼女、素人に近いですよね?」「ええ。でも、だからこそいい」 その返答には迷いがなかった。 技術だけでは届かないものがある。 経験だけでは埋められないものがある。 そして、この役には、その未完成さが必要だった。 そこに、相沢玲奈が口を挟んだ。「正直、地味すぎません?この子。どう見ても、主役級じゃないし」 その言葉は、何気なく放たれたものだった。 悪意があったのか。 あるいは本当に率直な感想だったのか。 玲奈自身にも分からない。 ただ、自分の感じた違和感を口にしただけだった。 だが、会場にいた全員の耳に、はっきりと残った。 一瞬だけ、空気が止まる。 誰も言葉を返さない。 沈黙の中で、その言葉だけが妙に浮いて聞こえた。「主役じゃないからいいんだ」 藤崎 優が、低い声で言った。 玲奈は一瞬、言葉に詰まった。「え……?」「この役は、“選ば
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第39話 思わぬ“実演”

 篠原夕季の合格が、ひとまず告げられたあとも、審査会場にはまだ独特の緊張が残っていた。 合格者が決まれば終わり、という単純な空気ではない。 むしろ、本当に重要なのはそこからだった。 最終確認――そう呼ばれる時間は、実質的には「異論が出るかどうか」を見極める場だ。 審査員たちは決定事項を再確認し、制作側は配役のバランスを考え、スポンサー側も最終的な印象を確認する。 たったひとつの判断が、作品全体の方向性を変えてしまうこともある。 だからこそ、その時間はいつも静かで、そして重かった。 控え室前の廊下。 夕季は壁際に立ち、両手を前で組んだまま、静かに呼吸を整えていた。 先ほど合格を伝えられたばかりだというのに、まだ現実感がない。 嬉しいはずなのに、胸の奥は落ち着かなかった。 本当に自分でいいのだろうか。 期待に応えられるのだろうか。 そんな不安が次々と浮かび上がってくる。 足元を見つめながら、小さく息を吐いた。 すると――「……あの子、意外と良かったわよね」 少し離れた場所で、スタッフのひとりがそう口にするのが聞こえた。「うん。目立たないのに、目が離せないタイプ」「ああいう子、あとから効いてくるのよ」 その言葉には悪意はなかった。 むしろ純粋な評価だった。 華やかな存在ではない。 けれど、時間が経つほど印象に残る。 そんな女優になれるかもしれないという期待が込められていた。 だが、その声が、はっきりと耳に届いた瞬間―― 相沢玲奈の足が、ぴたりと止まった。「……は?」 振り返った玲奈の表情は、作り笑顔のまま、目だけが冷えていた。 口元は笑っている。 しかし、その瞳には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「今、何て言ったの?」 スタッフたちは言葉に詰まり、視線を逸らす。 誰も玲奈を刺激したくなかった。 空気が悪くなることを避けたかった。 だが、その沈黙こそが、玲奈には肯定のように感じられた。 その様子が、さらに玲奈の苛立ちに火をつけた。「ちょっと。調子に乗らないでくれる?」 玲奈は、一直線に夕季の前へ歩み寄った。 ヒールの音が廊下に響く。 一歩。 また一歩。 その足取りには迷いがない。 夕季は驚いたように顔を上げる。「あ、あの……」「何?自分が選ばれたとでも思ってるわけ?」 低く、刺すよう
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第40話 境目のない場所

 合格の知らせを受けた夜、久遠ひかるの部屋には、久しぶりに笑い声があった。「……本当に、決まったんですね」 篠原夕季は、何度目か分からない確認をしながら、スマートフォンの画面を見つめている。「決まったの。現実」 ひかるはグラスを軽く掲げて、微笑んだ。「おめでとう、夕季ちゃん」 夕季は一瞬、言葉に詰まり、それから深く頭を下げた。「ありがとうございます。……でも、まだ実感がなくて」「それでいいのよ」 ひかるは、どこか懐かしむような目で彼女を見る。「実感なんて、あとから勝手についてくるものだから」 乾杯の音が、小さく響く。 夕季は笑っているのに、右頬を無意識に指でなぞっていた。「……どうかした?」 ひかるの視線に気づき、夕季は慌てて手を下ろす。「いえ。癖、です」 その答えに、ひかるはそれ以上踏み込まなかった。 ただ、その仕草だけが、胸の奥に小さく引っかかった。 数日後。 次の打ち合わせのため、ひかるは久しぶりにオーディション会場だったスタジオを訪れていた。「ひかる」 呼び止められ、振り返ると、藤崎 優が立っていた。「ちょっと時間、いいか」 ひかるは頷き、人気のない廊下へと移動する。「篠原夕季の件だけど」 藤崎 優は、前置きなく切り出した。「……合格の決め手、聞きたくないか?」 ひかるは、一瞬だけ迷い、それから答えた。「うん。何が決め手だったのか、聞きたかった」 藤崎は短く息を吐き、淡々と語り始めた。「審査後、彼女は本番さながらの状況に置かれたんだ」「相沢玲奈が、感情的になって……手を上げた」 ひかるの眉が、わずかに動く。「夕季ちゃんは?」「泣きそうになった。でも、何も言わなかったんだ」 藤崎の声は低い。「ただ、役と同じように、耐えて、立ち去った」 ひかるは、言葉を失った。「……演技、だったんですか?」「いや」 藤崎は、はっきりと首を振る。「だから決めたんだ。あれは、演技じゃない」 沈黙が落ちる。「彼女は、境目がない」「役と現実を、分けてないんじゃない。最初から、同じ場所にいる」 その言葉が、ひかるの胸に深く沈んだ。 ――かつて、自分もそうだった。「……相沢玲奈は?」 ひかるが、静かに尋ねる。「あれは……浮気相手でセリフの無い役ならいいが、実演になると、途端にダメだ」 藤崎
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