All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 名前を呼ばれる側へ

 その夜。 俊哉と玲奈は、食事を終え、並んでスマートフォンを眺めていた。 何気なくスクロールしていたニュースサイトで、玲奈の指が止まる。 「……え?」 画面を見つめたまま、玲奈は声を漏らした。 俊哉も覗き込む。 そこに、大きく踊る見出し。 ―― 「久遠(くおん) ひかる電撃復帰!!」 ―― 芸能ニュースのトップ。 数枚の写真。 そこに映るのは、かつてスクリーンで輝いていた女優の姿。 玲奈の顔から、血の気が引いた。 「……同姓同名、だよね?」「いや、あいつは『くどうひかる』だ。くおんなんて変わった苗字じゃない」 だが、本文を読み進めた俊哉の指が止まる。 「十五歳でデビュー。突然の活動休止。七年の沈黙――」 見覚えのある経歴。 ありえないはずの、名前。 俊哉は、スマートフォンを握りしめたまま、言葉を失った。 この家で、何も持たず、価値もない存在だと思っていた女。 自分の手の中にあると思っていた女。 ――久遠ひかる。 その名前が、再び世に出た瞬間だった。 画面の向こうで、確かに、ひかるは息を吹き返していた。 翌朝。 俊哉は、コーヒーを淹れる手を止めたまま、テレビ画面を凝視していた。 朝のワイドショー。 芸能ニュースのコーナーで、例の名前が再び大きく取り上げられている。 ――久遠ひかる。 司会者が、わずかに声を弾ませて言った。 「今回の復帰、実は“ある人物”の強い後押しがあったそうです」 画面が切り替わる。 映し出されたのは、白髪が混じる紳士的な男性。 仕立ての良いスーツに身を包み、穏やかながらも威厳のある眼差し。 俊哉の背中に、じわりと冷たい汗が滲んだ。 「……嘘だろ」 隣で、玲奈がソファから身を乗り出す。 テロップが表示される。 ―― 映画プロデューサー/東条 謙一郎(とうじょう けんいちろう) ―― 芸能界に疎い人間でも、その名だけは知っている。 数々の国際映画祭を制し、 “本物しか世に出さない”と評される、業界の頂点に立つ男。 俊哉は、喉がひくりと鳴るのを抑えられなかった。 「……まさか」 ナレーションが続く。 「東条氏は、久遠ひかりさんについて、こう語っています」 映像が切り替わり、東条謙一郎が静かに語る。 『彼女は、才能を失ったのではありません。 ただ、一度
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第12話 支払うべき代償

 俊哉のもとに届いた一通の書類は、あまりにも簡素な、薄い封筒だった。 企業からの請求書にしては装飾もなく、差出人の住所すら無駄に主張してこない。 それなのに、手に取った瞬間から、嫌な予感だけが胸の奥に広がっていった。 だが、その中身は、彼の人生を大きく傾かせるには十分すぎた。 差出人は―― 東条謙一郎 事務所 その名前を視界に入れた瞬間、俊哉の指先がかすかに震えた。 無意識のうちに、唾を飲み込む。 逃げ場のない現実が、紙という形をとって、目の前に突きつけられている。 手が震えるのを抑えながら、俊哉は書類に目を走らせた。 まず最初に記されていたのは、誓約書だった。 Kurosaki Creative Works 代表取締役 黒崎俊哉様 ――久遠ひかる氏との過去の関係、及び私生活に関する一切を、 第三者に口外しないこと。 違反した場合、社会的信用の失墜を含む相応の措置を受け入れること。 文字は淡々としている。 感情も、威圧的な言い回しもない。 だが、その静けさが、かえって恐ろしかった。 「……脅しか?」 喉から絞り出した声は、ひどくかすれていた。 自分の声が、こんなにも弱々しいものだったのかと、俊哉は内心で愕然とする。 だが、続くページを見た瞬間、俊哉の顔色はさらに悪くなった。 ――御請求書。 紙の上に並ぶ項目は、あまりにも事務的だった。・家政婦業務一式・拘束時間:1日平均14時間・期間:4年間・換算基準:久遠ひかる氏の当時の出演ギャラ相当(1日400万円)そして最下段………請求金額合計:5,840,000,000円上記金額を、久遠ひかる氏に、家政婦代として、支払うこととする。但し、休業中のギャラ換算として、七百五十九億二千万円は、割引とする。 数字を理解するまでに、数秒かかった。 俊哉は紙面をなぞり、指折り計算していた。 理解した瞬間、頭の奥がぐらりと揺れる。 合計金額を見た瞬間、俊哉は椅子から立ち上がれなくなった。 「……ご、ご、ごじゅうはちおくだと!!ふざけるな!!」 掠れた声が、誰もいない部屋に落ちる。 だが、ふざけてなどいなかった。 “家政婦扱いしていた時間すべてが、仕事だった” “無償で使い倒していたと思っていた女は、プロだった” それを、感情ではなく、数字で突きつけられただ
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第13話 見捨てられる側

 オーディション会場は、張り詰めた空気に包まれていた。 壁に設置された時計の秒針の音が、やけに大きく響く。 玲奈は背筋を伸ばし、何度も深呼吸を繰り返しながら、自分の番号が呼ばれるのを待っていた。 ――今日は違う。 ――今日は、絶対に掴む。 そう言い聞かせなければ、足が震えてしまいそうだった。 これまで何度も落ちてきた。 「才能はあるけど、華がない」 「もう少し様子を見たい」 そんな言葉に、何度心を削られたかわからない。 ふと、審査員席に目をやった瞬間、玲奈は一瞬、目を見開き、息を詰まらせた。 中央に座っている女。 あまり派手ではない服装。 化粧も控えめ。 アクセサリーも、ほぼ身につけていない。 なのに――なぜか、目が離せなかった。 派手さも、威圧感もない。 だが、そこに「いる」だけで、空気が静まっている。 (……あれが、“華がある”ってこと……あの女が?) 胸の奥に、ざらりとした感情が湧き上がる。 自分は、ここに立つために必死で努力してきた。 なのに、あんな女が、涼しい顔で審査員席に座っているなんて。 自己アピールの時間がおわり、やがて休憩時間になった。休憩に立った、その女を追いかけ、玲奈もスタジオを出る。目当ての人物を見つけると、玲奈は、わざとその女の前へ歩み寄った。 ヒールの音を、少しだけ強めに鳴らして。 「やっぱり地味ですね、元カノさん。審査員席に座ってるなんて…身の程知らずもいいとこですね」 ひかるは、驚いた様子もなく、静かに玲奈を見る。 その目は、値踏みするでも、見下すでもない。 ただ、そこにあるだけだった。 「そんな服装で、審査員なんて。どんな実力があるのかしら。あなたの活躍が、今から楽しみね」 悪意を込めた言葉だった。 言い返されることを、どこかで期待していた。 でも―― その瞬間。 「ひかる?」 低く、よく通る声が、廊下の空気を切り裂いた。 振り返った玲奈の視界に映ったのは、信じがたい光景だった。 今をときめく超人気俳優―― 天城蒼真(あまぎそうま)。 ひかると同じ28歳。 15歳の頃、同じ養成学校に通い、学生向けの人気ドラマで何度も主演を務めた二人。 恋人役も多く、画面越しでも伝わる距離の近さに、何度も熱愛の噂が立った。 そして今―― 彼は、芸能界の頂点に立つ
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第14話 本当の名前

 インタビューは、穏やかな雰囲気で始まった。 スタジオの照明は柔らかく、ひかるの表情を優しく照らしている。復帰後初の長時間インタビューということもあり、観客席にも、テレビの前にも、期待と緊張が入り混じった空気が漂っていた。 「この7年間、何をされていたんですか?」 インタビュアーの問いかけは、慎重でありながらも核心を突いていた。 ひかるはすぐには答えず、ほんの一瞬、遠くを見るような目をしてから、静かに微笑んだ。 「3年療養した後、お掃除のアルバイトと、家政婦をしていました」 ――その言葉に。 テレビ越しに見ていた俊哉は、思わず息を呑んだ。 手にしていたグラスが、かすかに震える。 「お掃除と、家政婦ですか!?」 インタビュアーが、思わず声を上げる。 驚きは、演技ではなかった。 「あの、人気絶頂だった久遠ひかるさんが?」 スタジオの空気が、一瞬止まる。 かつて彼女は、スクリーンの中心にいた女優だった。 『君と見る最後の夏』 『透明な恋の行方』 『月影に溶けるキス』 どれも大ヒットした恋愛映画だ。 インタビュアーは、視聴者の気持ちを代弁するように続ける。 「これだけの代表作があって、若者の青春そのものと言われた女優さんが……家政婦、ですか」 ひかるは、取り乱すことなく、上品に微笑んだ。 「ええ。あるご家庭で、家政婦をしていました」 その言葉が放たれた瞬間、俊哉の背中に、冷たい汗が流れ落ちる。 偶然のはずがない。 だが、口に出されない分、余計に重かった。 「そのご主人様は……気づかなかった?」 インタビュアーの声には、純粋な驚きが混じっていた。 「あの『久遠ひかる』が、目の前にいて、ですよ?」 「ええ。まったく」 ひかるは、くすっと笑った。 どこか懐かしむようで、どこか突き放したような笑みだった。 「私も本名を名乗っていましたので」 その一言に、俊哉の喉が鳴る。 記憶の奥で、自分が何度も呼んだ名前が、鈍く反響した。 インタビュアーが、身を乗り出す。 「本名……ですか?」 ひかるは、軽く首を振った。 まるで、大したことではないと言うように。 「ええ。久遠と書いて、くどうと読むだけです。 くどう ひかる。それが本名です」 スタジオに、小さなどよめきが走る。 “芸名ではなかった”という事実に、驚
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第15話 糧(人間の本性を垣間みた)

 インタビューは、終盤に差しかかっていた。 穏やかな空気の中で交わされてきた質問が、ここで一段、踏み込んだものへと変わる。 「それで、そのお宅の方は、まったく気づかなかった……と?」 慎重な問いだった。 だが、インタビュアーの視線は鋭く、ひかるに逃げ場を与えない。 ひかるは、静かに頷いた。 「ええ。全く」 声のトーンも、表情も、先ほどまでと何一つ変わらない。 あまりにも穏やかで、あまりにも淡々としていた。 「そこでは、嫌なことはありませんでしたか?」 少し踏み込んだ質問に、スタジオの空気が張り詰める。 テレビの向こうで見ている視聴者の多くが、同じ疑問を抱いていた。 ――人気女優だった過去を隠し、 ――名もない“家政婦”として暮らす日々。 そこに、何もなかったはずがない。 ひかるは一瞬だけ視線を落とした。 ほんの数秒、言葉を選ぶような沈黙。 テレビの前で、俊哉は無意識に身を乗り出していた。 その沈黙が、やけに長く感じられる。 やがて、ひかるは顔を上げ、静かに口を開いた。 「いいえ。嫌なことはありませんでした」 スタジオが、しんと静まり返る。 「ただ……」 ひかるは、言葉を選ぶように続けた。 「人間の本質を、垣間見ることができました」 インタビュアーの眉が、わずかに動く。 「……本質、ですか?」 「ええ。昼間、表ではどんなに立派でも、夜、家に帰れば本性が現れる―― それを、毎日体験させてもらいました」 言葉は淡々としていた。 感情を乗せないからこそ、その一言一言が鋭く胸に刺さる。 俊哉は、画面から目を逸らせなかった。 「とても、勉強になりました」 「いい演技の勉強になりましたよ。これからの久遠ひかるを楽しみにしていてくださいね」 ひかるは、自嘲気味に微笑む。 その瞬間―― 俊哉の脳裏に、いくつもの光景が鮮明によみがえった。 夜、ソファにふんぞり返り、 スマートフォンを見ながら、命令口調で投げた言葉。 「飯、まだ?」 「これ、片付けといて」 「疲れてるんだから、空気読めよ」 そして、ひかるの目の前で玲奈とキスをし、ひかるに聞こえるように、玲奈と  の情事に耽っていたことを思い出していた。 それらすべてが、 “本性”として、突きつけられている気がした。 インタビュアーが、慎重に言葉
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第16話 削られていくもの

 最初に失ったのは、時間だった。 俊哉は、仕事よりも玲奈との時間を優先するようになっていた。 昼間から頻繁に連絡を取り合い、打ち合わせの合間に抜け出し、夜はそのまま外泊。 仕事の予定は、いつの間にか「合間に入れるもの」に成り下がっていた。 「今は踏ん張りどころだろ?」 そう言ってくれた古参の取引先の言葉も、今の俊哉には雑音でしかなかった。 《Kurosaki Creative Works》は、もともと俊哉個人の人脈で回っていた会社だ。 彼が動かなければ、歯車はすぐに狂い始める。 締切の遅れ。 連絡の行き違い。 確認不足によるミス。 「最近、黒崎さん、雑じゃない?」 その一言が、冗談めかして、だが確実に増えていった。 一方で、現実的な問題が、確実に迫っていた。 ――久遠ひかるへの賠償請求。 分割とはいえ、月々の支払い額は重かった。 通帳の数字が減っていくのを見て、俊哉は舌打ちする。 「……あいつさえ、黙ってればよかったのに…」 だが、文句を言っても、数字は減る一方だった。 夜は、相変わらず玲奈と遊び歩いていた。 ブランド物や宝飾品をねだられることは減ったが、外食は続いた。 無理をしてでも、以前と同じ生活水準を保とうとした。 「最近、景気悪いの?」 玲奈が、グラスを揺らしながら聞く。 「そんなことない」 即座に否定したが、声に力はなかった。 次に失ったのは、信用だった。 「今回は、見送らせてください」 そう言われたとき、俊哉は一瞬、意味が分からなかった。 「え?」 「黒崎さん、最近ちょっと不安定で……」 遠回しな言葉だったが、要点は一つ。 ――任せられない。 電話を切ったあと、俊哉はしばらく動けなかった。 (なんでだ……俺は、何も変わってない) そう思いたかった。 だが、変わっていたのは、周囲の目だった。 そして、最後に削られ始めたのは――世間だった。 業界内の噂は、早い。 「黒崎、最近ダメらしい」 「女に溺れてるって」 どれも、致命傷ではない。 だが、少しずつ、確実に首を絞めていく。 夜、自室で一人、請求書を眺める。 残高は、また減っていた。 (……ひかる……) 久遠ひかるの名前が、頭をよぎる。 殴っても、怒鳴っても、何も言い返さなかった女。 その女が、有名女優だったなん
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第17話 追い縋る影

 残高が減っていくのを前にして、俊哉は初めて、現実的な恐怖を覚えた。 仕事が戻ればいい。 評判さえ立て直せば、どうにかなる。 だが、時間はかかる。 ――その前に、支払いがある。 東条謙一郎の事務所弁護士から突き付けられた請求書…… 俊哉の脳裏に浮かんだのは、ただ一つの考えだった。 久遠ひかるに、直接会う。 そして、家政婦の給料だと言って請求されている金額を、減らしてもらう。 「話せば、分かるはずだ。アイツはまだ、オレのことを愛しているハズだからな」 そう、自分に言い聞かせる。 だが問題は、居場所だった。 連絡先は、すでに使えない。 事務所に問い合わせる勇気もなかった。 そこで俊哉は、玲奈に目を向けた。 「玲奈、知り合い……いないか?」 「誰の?」 「久遠ひかるだよ。あいつが出入りしそうな場所」 玲奈は、一瞬だけ考え、肩をすくめた。 「テレビ局とか、劇場とか。業界の人に聞けば、なんとなく分かるんじゃない? なに、俊哉。今になって惜しくなったの?」 玲奈は鼻で笑ったが、業界で知り合った人物に聞いてくれた。 その後俊哉は、玲奈のコネを使い、テレビ局や劇場など、ひかるが出入りしそうな場所を、しらみつぶしに当たった。 断られ、無視され、冷たい対応を受けるたびに、胸の奥がざらついていく。 だが、それでも引き下がれなかった。 「俺は、話がしたいだけなんだ」 そう言い訳しながら、俊哉は動き続けた。 そして、ついに―― ひかるが出演するドラマ撮影のスタジオに、本人が現れるという情報をつかむ。 「行こう」 短く言うと、俊哉は立ち上がった。 玲奈も、何も言わずについてくる。 その目には、好奇心と、わずかな計算が浮かんでいた。 スタジオの前。 二人は、人目につかない場所で待ち構えていた。 時間が、やけに長く感じられる。 俊哉の胸は、期待と焦りで落ち着かなかった。 ――久しぶりに会えば、 ――少しは、情も残っているはずだ。 そう信じたかった。 だが、その考えが、どれほど浅はかだったのかを、俊哉は考えもしなかった。一緒に居るときには、家政婦呼ばわりし、自分が玲奈といちゃついている所を見せつけ、つかの間の優越感に浸り、黙って家を出たひかるを、探そうともしなかった。しかも、ひかると一緒に居た四年間で、俊哉はひかるを愛
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第18話 再会

 スタジオの裏口は、思っていたよりも静かだった。 撮影の合間なのだろう。スタッフが忙しなく行き交う中で、俊哉と玲奈は、少し離れた壁際に立っていた。 「本当に、来るんだよね?」 玲奈が、小声で言う。 「ああ。間違いない。来たらすぐに捕まえて、金の話をする」 そう答えた俊哉の喉は、ひどく乾いていた。 ――久遠ひかる。 その名前を、頭の中で何度も反芻する。 だが、声に出す勇気はなかった。 やがて、現場の空気が微妙に変わる。 スタッフの動きが、わずかに整い、誰かを迎える準備の気配が走った。 そして―― ひかるが、現れた。 以前と、何も変わっていない。 特に派手な服装でもない。 濃い化粧をしているわけでもない。 それなのに、周囲の視線を自然と集めてしまう存在感。 女優としてのオーラを纏っている。 「あ……」 玲奈が、思わず声を漏らす。 ひかるは、スタッフと短く挨拶を交わしながら、付き人を従えて歩いていた。 その途中で、ふと足を止める。 視線が、俊哉のほうへ向いた。 一瞬。 本当に一瞬だけ、目が合った。 だが、そこには驚きも、戸惑いもなかった。 ただ、「認識した」というだけの、静かな視線。 目の悪い人が、こちらを見ても何の感情を示さないのと同じで、 ひかるは俊哉を見ても、全く感情も示さず、何の反応もしなかった。 俊哉の胸が、どくん、と大きく鳴る。 「ひ、ひかる……」 名前を呼んだつもりだった。 だが、声にならなかった。 ひかるは、何事もなかったかのように、再び歩き出そうとする。 「ひかる!!待ってくれ!」 思わず、声が出た。 周囲のスタッフが、ちらりとこちらを見る。危険を察知したスタッフが、ひかるを守ろうとして走り出す。 空気が、一瞬だけ張り詰めた。 ひかるは、スタッフを手で制し、ゆっくりと振り返った。 そして、穏やかな声で言う。 「……何か、ご用でしょうか?」 その言葉に、俊哉は一瞬、言葉を失った。 ――全くの他人行儀な態度に。俊哉も一瞬呆然とした。 他人行儀……? いや、それ以下だ。 「話が……あるんだ」俊哉はその言葉をひねり出すだけで、精いっぱいだった。 「今から撮影ですので」 ひかるは、表情のない顔でそれだけ言うと、スタッフのほうを見た。 そこには、助けを求める色も、迷い
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第19話 名前を口に出せなくなる瞬間

 スタジオを離れた帰り道、俊哉はほとんど口をきかなかった。 車内には、エアコンの乾いた音だけが流れている。 「……さっきの、なに?」 耐えきれなくなったように、玲奈が言った。 その声には、苛立ちと、見下すような響きが混じっていた。 「完全に無視じゃん。感じ悪すぎ!!」 「……無視じゃない」 俊哉は、ハンドルを握る手に力を込めた。 だが、それ以上の言葉が続かない。 「じゃあ、なに?」 「……仕事中だっただけだ」 嘘ではない。 だが、真実からは、意図的に目を逸らしていた。 玲奈は、ふっと鼻で笑う。 「ふーん。あの女、あれでしょ?」 俊哉の指が、わずかに震えた。 「この前まで家政婦してた、“元カノさん”、でしょ?」 その呼び方。 かつて、ひかるが俊哉の家で、名もない家政婦のように扱われていた頃、 玲奈がわざと使っていた言葉だった。 ――元カノさん。 ひかるが見ている前で、俊哉に腕を絡め、キスをしてみせたこともある。 わざと、聞こえる距離で甘い声を落とし、 存在を誇示するように夜の営みを、ひかるに聞かせるように過ごしたこともあった。 そのときのひかるは、何も言わなかった。 視線を伏せ、淡々と洗い物をしていただけだ。 玲奈は、先日のオーディションでは負けたと思ったが、俊哉の隣に居る間は、女としてはひかるよりもずっと上だと自信を持っていた。 「あの人さ、ほんと地味だったよね」 玲奈は、嫌味な口調で続ける。 「なのにさ、今は女優様ですって!!笑える!!」 ――違う。 俊哉は、心の中で否定する。 だが、その否定は、喉の奥で絡まり、声にならなかった。 “久遠ひかる”。 その名前を思い浮かべるだけで、 喉の奥が、ひくりと痛む。 俊哉はもう、玲奈の様には、ひかるをバカにはできなくなっていた。 夜。 事務所に立ち寄ると、若いスタッフが、気まずそうに近づいてきた。 「黒崎さん……次の案件なんですが」 「どうした」 「局のほうから、“今回は別の方で”って」 「理由は?」 スタッフは、一瞬、言葉を選ぶ。 「……最近、名前が出てきてまして」 「誰の?」 問いかけた瞬間、俊哉は悟っていた。 答えを聞く必要すらなかった。 スタッフは、答えなかった。 答えられなかった。 沈黙が、すべてだった。 帰宅す
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第20話 静かな距離

 ドラマの出演シーンを撮り終えたひかるは、控室の鏡の前に座っていた。 ライトを浴び続けた目が、まだ少し熱を持っている。 楽屋のドアが勢いよく開き、付き人の篠原夕季が息を切らせて入ってきた。「ひかるさん! さっきの……あの危ないファン、知り合いですか?」 ひかるは、ゆっくりと振り返り、首を横に振った。 「知らないわ」 それだけで、十分だった。 夕季は安堵と苛立ちが混じった顔で、帰り支度を始める。「ほんと、嫌になりません? ちょっと有名人を見ると、すぐ“知り合いだ”とか言って近寄ろうとする人」 ひかるは、鏡の中の自分を見つめながら、ふっと小さく笑った。「私はまだ復帰したばかりよ。そんなに有名でもないでしょ」 そう言って立ち上がり、バッグを肩にかける。 それは、かつて俊哉の家に並んでいたショッピングバッグではない。 自分の稼ぎで、自分で選んだ、落ち着いた色のブランドバッグだった。 夕季は一瞬目を見開き、思わず言う。「何言ってるんですか。久遠ひかるを知らない人なんて、この国にいませんよ」 ひかるは少し照れたように視線を逸らし、「大げさよ。さあ、帰りましょう」と促した。 帰りの車の中。 窓の外を流れていく街の灯りを見つめながら、ひかるの脳裏に、先ほどの二人の顔が浮かぶ。 俊哉の、追い詰められたような必死な表情。 隣で腕を組んでいた玲奈の、刺のある笑み。 ——不思議と、胸は波立たなかった。 玲奈の嫌味な態度は、先日のオーディションでも感じていた。 だが、それは「気に障る」程度でしかない。 それよりも—— 俊哉の家で、何度も見せつけられた、あの距離の近さ。 無言で耐え続けた時間のほうが、はるかに苦しかった。 —あの頃は、愛していたのだろうか。 そう思おうとして、ひかるはやめた。 考えてもムダだ。 答えはもう、必要ない。 家政婦代として提示された五十八億円。 正直、やりすぎだとも思う。 だが、それは彼女が決めた金額ではなかった。 芸能界という場所では、「常識」が役に立たないことを、ひかるは嫌というほど知っている。 減額して欲しい気持ちも、わからなくもない。 だが、そんなことも知らずに、踏み込んだ俊哉が、少し気の毒に思えた。 それだけだ。 今は、東条謙一郎の映画に集中したい。 下手なスキャンダルは、何
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