All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話 叫び声の行方

スタジオの奥で、シャッター音が止んだ。 張り詰めていた空気が、ふっと緩む。「今日は、ここまででいい」 カメラマンの一言で、スタッフが静かに動き出す。 相沢玲奈は何も言わず、肩にかけていたタオルを取り、鏡の前に立った。 モニターに映る、自分の姿。 ライトを浴び、完璧に作り込まれているはずなのに、どこか鈍く見えた。「……正直さ」 背後から、カメラマンの声が落ちる。「彼氏と、やりすぎなんじゃないか?」 玲奈の指が、わずかに止まった。「体のライン、前と違う。崩れてきてるぞ」 責める調子ではなかった。 仕事としての、冷静な指摘。 それが、かえって胸を抉る。(……俊哉のせいだ) そう思った瞬間、腹の奥が熱くなる。「……気をつけます」 絞り出した声は、自分でも分かるほど硬かった。 スタジオを出ると、外の空気がやけに重い。 携帯を取り出すまでもなく、誰からの連絡もないことは分かっていた。「……最悪」 吐き捨てるように呟いた、そのとき。「玲奈!」 聞き慣れた声。 だが、今日は異様に荒れている。 振り返ると、黒崎俊哉がスタジオの入口に立っていた。 息が上がり、目だけが落ち着きなく動いている。(……また、何の用よ) 玲奈の胸に、苛立ちが一気に込み上げた。「何しに来たの」 吐き捨てるように言う。 俊哉は、一瞬だけ躊躇したように視線を彷徨わせ、それから言った。「話がある。どうしてもだ」 その視線が、玲奈ではなく、スタジオの奥を探していることに、彼女はすぐ気づいた。(……あの女に?) 答えは、分かりきっている。「今じゃなくてもいいでしょ」「今じゃなきゃダメなんだ!」 声が荒れ、スタジオの壁に反響する。「また、あの女の金の話?」 玲奈の声には、怒りが滲んでいた。 今日、体のラインが崩れたと言われたのも、 仕事がうまくいかなくなっているのも、すべてこの男のせいだと思えてならない。「そうだよ!」 俊哉は一歩踏み出し、叫んだ。「どうしても、ひかると、金の話をしたいんだ!」 その声は、抑えきれず、通りへと漏れ出した。 ちょうどその頃―― 撮影を終えた藤崎 優は、スタッフと別れ、スタジオの外に出たところだった。「……今の、何だ?」 足を止める。 男の叫びと、聞き覚えのある名前。(ひかる……?) 同
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第42話

 俊哉の、叫ぶような声が響いた瞬間。 それまでスタジオの廊下やロビーを満たしていたざわめきが、嘘のように静まった。 スタッフの足音が止まり、誰もが無意識に、声の主へと視線を向ける。 二階の廊下にいた藤崎 優も、異変を察し、手すり越しに玄関ホールを覗き込んだ。 そこにいたのは――先日のオーディションで、篠原夕季を派手に引っぱたき、その結果、彼女を合格させ、自分は選ばれなかった相沢玲奈だった。 そして、その玲奈と激しく言い争っている、見知らぬ男。「痴話げんかか……でも、さっき、ひかるの名前が出ていたが…」 藤崎 優は眉をわずかに寄せる。 声の荒さ、距離感、感情のぶつけ方。 どれも、よくある男女の揉め事に見えなくもない。 だが、そこに「ひかる」という名前が混じったことで、無視できない違和感が残った。「だ~か~ら~。私には関係ないって言ってるでしょ!会いたければ、自分でコネを探しなさいよ」 玲奈は、露骨に相手を見下すような口調で、俊哉を突き放す。 その声には、苛立ちと、焦りと、そして自分の立場を守ろうとする必死さが滲んでいた。 俊哉は顔を真っ赤にし、感情を抑えることもなく、玲奈の腕を強く掴んだ。「俺がこんなことになったのは、お前にも原因があるだろう!利用価値が無くなったからって、その態度は何だよ!!俺はひかると話をしたいんだ。お前の知り合いに連絡しろ!!」 その言葉は、完全に周囲を意識していなかった。 怒りだけが先走り、場の空気など、目に入っていない。 次の瞬間―― 俊哉は、怒りに任せるように、玲奈を押し倒した。「いった~い!!何するのよ!!あんたが悪いんじゃないの!だからあの『家政婦』も、相手にしてくれないのよ!!」 玲奈はすぐに立ち上がり、服についた埃を払うと、周囲の視線をものともせず吐き捨てる。「もう、連絡してこないでね!!」 そう言い放ち、踵を返して玄関ホールを出て行った。 残された俊哉は、そこに居た全員から向けられる白い目にも気づかず、ただ玲奈が去った方向を睨みつけていた。 やがて、居心地の悪さを感じたのか、舌打ちをひとつ残し、仕方なくその場を去っていく。 藤崎 優は、その一部始終を黙って見ていた。 だが、玲奈が吐いた『家政婦』という言葉が、胸の奥に小さく引っかかって離れなかった。(……家政婦?) ひかる
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第43話

 家に帰ってきた俊哉は、靴を脱ぎ捨てるように玄関へ上がった。 ネクタイを乱暴に緩めながら、先ほどの玲奈の言葉を思い出し、奥歯を強く噛みしめる。 ――だからあの『家政婦』も、相手にしてくれないのよ!!「……っ」 胸の奥に、じくじくとした怒りが残っていた。 屈辱だったのか、それとも図星を突かれたことへの苛立ちだったのか、自分でも分からない。ただ、どうしても腹の虫がおさまらなかった。 苛立ちのまま、家の中を見回す。 すると、いたるところに玲奈の私物が置いてあることに、改めて気づいた。 リビングのテーブルには、色とりどりのマニキュアが何本も並び、無造作に転がったキャップが光を反射している。 寝室のクローゼットを開ければ、玲奈の洋服が何着も掛けられ、華やかな色がやけに目についた。 そして浴室にも――見慣れないボトルや、美容器具が整然と並んでいる。 その光景が、なぜか俊哉の神経を逆撫でした。 俊哉は、玲奈の物を、手当たり次第に手に取り、ゴミ袋に詰め込んでいった。 ハンガーから服を引き剥がし、テーブルの上の小物をまとめて放り込み、浴室の棚からも容赦なく掴み取る。 ガサガサ、と袋の擦れる音だけが部屋に響く。 全てを回収した頃には、額に汗が滲み、シャツが背中に張りついていた。 荒い呼吸のまま、物のなくなったリビングを見渡す。 妙に、広く感じた。 玲奈が来る前は、ひかるがいつも清掃し、整頓し、ひかるの物はどこに置いてあるのかわからないほどだった。 ………そもそも、ひかるは私物など持っていたのか。 俊哉の眉がわずかに寄る。 生活費は渡していた。 だが、それは、自分の食費と、自分の洗面などの道具を買い替える程度の、最低限の金額しか渡していなかった。 その頃の俊哉は、それを、悪いとも考えていなかった。 むしろ――十分だと思っていた。 では、ひかるはどうやって、あの二年間の生活を維持していたのだろうか。 そこで初めて、俊哉の脳裏に、ひかるの姿が浮かぶ。 着古したTシャツ。 髪はいつも縛っているか、自分で切ったような、不揃いな髪型。 手も荒れていた。 洗剤か、熱湯か。 理由など考えたこともなかった。 俊哉は、そのボロボロな身なりを嫌い、外で、若くてきれいな女たちと遊んでいた。 この家に連れてきたのは、玲奈が初めてだったが、俊哉に
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第44話 近づく足音

 夜は、妙に静かだった。 久遠ひかるは、自宅マンションの窓辺に立ち、街の灯りをぼんやりと眺めていた。高層階から見下ろす道路には、途切れることなく車のライトが流れている。それなのに、音だけが遠い世界の出来事のように感じられた。 今日一日、胸の奥に沈んだ違和感が、まだ消えない。 ――どうしても、ひかると、金の話をしたいんだ! あの叫び声。 聞き間違えるはずがない。 黒崎俊哉の声だった。 思い出したくもないのに、記憶は容赦なく蘇る。 二年間。 長かったのか、短かったのか、今となっては分からない。 ただ、あの家で過ごした時間は、色を失っていた。 朝、まだ暗いうちに起きて掃除をする。 洗濯機を回し、朝食を用意し、彼を送り出す。 昼は買い物と作り置き。 夜は帰宅時間に合わせて食事を温め直す。 誰にも知られず、誰にも気づかれず。 まるで、自分という存在を消すことが役割のようだった。(……私、どうしてあそこにいたんだろう) 答えは、分かっている。 逃げていたのだ。 すべてから。 女優としての自分からも、天城蒼真からも、そして――自分の弱さからも。 初めて俊哉に声を掛けられたとき、『くおんひかる』ではない、普通の女性として接してくれたのが、嬉しかった。俊哉は、一緒に居る四年間、ひかるを一度も『くおんひかる』だと気づかなかった。その分、気は楽だった。だが……それだけ、俊哉は、ひかるのことに興味がなかったのだ。あの、深夜映画の予告動画が流れていた時、それでも、俊哉は気づかなかった。―俺の初恋だったそう言いながら、ひかるの顔を見ても… スマートフォンが、微かに震えた。 ひかるの肩が、小さく揺れる。 画面を見る。 知らない番号。 だが、その並びを見た瞬間、心臓が一度、大きく跳ねた。 嫌な予感というものは、どうしてこうも正確なのだろう。 しばらく見つめたまま、指が動かない。 やがて振動が止まり、静寂が戻る。 息を吐いた、そのとき。 ――再び、震えた。 今度は、短い通知音。 メッセージだった。『逃げないでくれ。少しだけでいい。話がしたい』 全身の血が、すっと引く。 俊哉。 名前はない。 だが、分かる。 この距離感。 この、一方的な言葉。 昔と何も変わっていない。 ひかるはゆっくりとソファに腰を下ろ
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第45話 善意の重さ

 天城蒼真は、ほとんど衝動的に車を走らせていた。 目的地を決めたのは、ほんの数分前だった。 それまで何度も頭の中で考え、否定し、また考え直していた。 だが、一度浮かんだ思いは消えることなく、胸の奥に重く沈み続けていた。 行き先は決まっている。 久遠ひかるのマンションだ。 昨夜から、考えが頭を離れなかった。 ――ひかると金の話。 ――家政婦。 耳にした断片的な情報。 それらは蒼真の中で結びつき、一つの不安へと変わっていた。 もし、本当に生活に困っていたのだとしたら? もし誰にも頼れず、一人で抱え込んでいたのだとしたら。(その頃、俺は、何をしていた……) ハンドルを握る手に、力がこもる。 信号待ちの間も落ち着かない。 窓の外を流れる景色は見えているはずなのに、まるで視界に入ってこなかった。 七年前。 不用意な一言で、彼女を深く傷つけた。 あの日の光景は、今でも鮮明に思い出せる。 自分は悪気などなかった。 だが、その無神経さが、どれほどひかるを追い詰めたのか。 後になって理解した時には、もう遅かった。 謝罪しても、時間は戻らない。 失われた信頼も簡単には戻らない。 あの日の後悔は、一度も消えたことがない。 だから今度こそ――助けたい。 それだけだった。 恋愛感情なのか。 罪悪感なのか。 償いなのか。 蒼真自身にも、もう分からない。 ただ、彼女が苦しんでいるかもしれないと思った瞬間、じっとしていられなかった。 やがて車はマンションの駐車場へ滑り込んだ。 エンジンを止める。 だが、すぐには降りられなかった。 本当に来てよかったのか。 今さら自分に何ができるのか。 そんな迷いが胸をかすめる。 それでも蒼真は息を吐き、車を降りた。 エントランスを抜け、インターホンの前に立つ。 一瞬だけ迷い、ボタンを押した。 沈黙。 その数秒が、妙に長く感じられる。 帰った方がいいのではないか。 そう思い始めた頃。 だが、すぐに応答が入る。「……はい」 ひかるの声だった。 久しぶりに聞くその声は穏やかで、どこか疲れを含んでいるようにも聞こえた。「俺だ。蒼真だ」 わずかな間。 その沈黙が、蒼真の胸を締めつける。 迷っている。 警戒している。 そのことが、声が返ってくる前から伝わってきた。
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第46話

 インターホンの画面に映る、俊哉の顔を見た時、ひかるは一瞬、絶句した。 血の気が引く、という感覚を、これほどはっきり自覚したのは久しぶりだった。画面の向こうにいる男は、記憶の中よりも少しだけ痩せ、どこか焦燥に取り憑かれたような目をしている。それでも間違えるはずがない。 黒崎俊哉。 過去の象徴のような存在が、今、現実として自分の玄関前に立っている。 しかし次の瞬間、ひかるは振り返り、天城蒼真の顔を見た時に気付いてしまった。 ――どうして、ここが分かったのか。 偶然で辿り着ける場所ではない。胸の奥で、冷たい理解が形になる。 ひかるはインターホンの画面を消し、蒼真に聞いた。「あなた……黒崎俊哉に、私の連絡先を教えたの?」 蒼真は、その表情の暗さに驚いた。問い詰める声ではない。だが、明らかに温度が下がっている。「ひかる。嫌なことは早く終わらせた方がいい。俺が助けになるよ」 その言葉は、ひかるの胸にわずかな苛立ちを生んだ。 見当違い――まさに、その一言だった。 ひかるは大きくため息を吐くと、「あなたは、何もわかっていないわ」そう言い、額を押さえた。 蒼真は言葉を失う。 助けようとしただけだった。 だが、自分がまた彼女を苛立たせていることだけは理解できた。 その間も、俊哉がしつこくインターホンを鳴らしている。 短い呼び出し音が、静まり返った室内に何度も響く。まるで、逃げ道を塞ぐように。 ひかるはゆっくりと息を吸った。 そして、心を決めたように蒼真の顔を見る。 その瞳には、もう迷いはなかった。「わかった。今からこの男と話し合うわ。ただ……今から、蒼真にも、アドリブで演技をしてもらう。」「この男とは、私が話をするから、何を聞いても口を出さないで。私の身が危なくなったら……その時は助けてちょうだい」 蒼真は思わず息を飲んだ。 演技――その言葉が、妙に重く響く。 だが、ひかるの表情はすでに女優のそれだった。感情を奥へ押し込み、状況だけを見据えている。 そしてひかるは、もう一度インターホンに応答する。「はい」 画面に映ったのは、切羽詰まった俊哉の顔だった。「ひかる!!どうしても話がしたいんだ。お前が出て来るまで、俺は帰らない!」 声がわずかに割れている。焦りと苛立ちが滲んでいた。 ひかるは一拍だけ沈黙し、それから静かに言っ
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第47話

 俊哉が玄関ドアの前に立ち、インターホンを押すと、しばらく経ってドアが開いた。 ドアの向こうに立っていたのは、長身の、美形男性だった。背筋がまっすぐに伸び、隙のない佇まいをしている。年齢は自分とそう変わらないはずなのに、纏っている空気がまるで違った。 俊哉は一瞬、気圧されそうになったが、すぐに気持ちを立て直し、「ひかるは?」と聞いた。 男は何も言わず、わずかに脇へ寄ると、俊哉を部屋の中へ誘導するように、奥の部屋へ目を向けた。(なんだ、マネージャーか) 俊哉は、天城蒼真の顔すら知らなかった。芸能界とは縁のない生活をしてきた彼にとって、目の前の男はただの関係者の一人にしか見えない。 靴を脱ぎながら、どこかよそよそしい空気にわずかな居心地の悪さを覚える。 リビングのドアを開けると、半年ぶりのひかるの姿が目に入った。 ソファにくつろぐように座っている。 脚を揃え、背もたれに軽く身体を預けたその姿は、驚くほど落ち着いていた。以前、家で見ていた彼女とはまるで別人だ。「どうぞ」 ひかるの言葉に、俊哉は向かい側のソファに腰掛けた。 その声には感情の起伏がない。歓迎も、拒絶もない。ただ事務的に席を示しただけだった。「久しぶりだな」 俊哉はそう言って、部屋の中を見回す。 どこか探るような視線だった。 その様子を見ながら、天城蒼真もひかるの隣に腰掛けた。ひかるの指示通り、何も言わない。ただ静かに状況を見守る。 何も話そうとしないひかるに、俊哉は落ち着かない様子でキョロキョロと部屋の中を眺めていたが、「何も無いんだな」 そう言った。 蒼真もそう思った。 ここにはもう、半年ほど住んでいるハズだが、ひかるはほとんど何も、物を置いていなかった。 あるのはソファとテレビ。そして、リビングの床に敷いてある、ラグマットくらいだ。 生活の匂いが、ほとんどしない。 まるで、いつでもここを出ていけるようにしている部屋だった。 ひかるは微動だにせず、俊哉の顔をみていたが、やっと口を開いた。「それで…こんな時間に何の用かしら」 その声音の冷たさに、俊哉は一瞬驚いて、顔をあげた。 そこにいたのは、かつて自分に従順だった女ではない。 ひかるは全く笑っていない、無表情だ。 視線だけが、真っ直ぐに俊哉を射抜いている。 俊哉はモジモジとしながら、蒼真の方を見
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第48話

俊哉の口から出た「家政婦代」という言葉は、静まり返ったリビングの空気をわずかに震わせたあと、そのまま床に沈んでいったようだった。 ひかるは何も言わない。 瞬きすら少ないその視線が、俊哉を真っ直ぐに捉えている。 蒼真もまた、黙っていた。だが内心では、状況を理解しきれずにいた。借金の取り立てではない。むしろ、この男は値下げを求めている。 つまり――金を払っている側なのか? ひかるが、ゆっくりと口を開いた。「理由を聞いてもいいかしら」 感情の起伏が感じられない、平坦な声だった。 俊哉はその声に、なぜか責められているような居心地の悪さを覚え、視線を一瞬だけ逸らした。「会社の資金繰りが厳しいんだ。余計な出費は削らないといけない。お前だって事情はわかるだろ」 余計な出費。 その言葉に、蒼真の指先がわずかに動いた。 だが、口は出さない。 ひかるは足を組んだまま、微動だにしない。「余計、ね」 小さく繰り返す。 それだけで、俊哉の喉がかすかに鳴った。「そもそも、お前があんな金額を提示してくるとは思わなかったんだ。昔の関係もあるんだし、もう少し融通を利かせてもいいだろ」 昔の関係。 蒼真の胸に、鈍い違和感が広がる。 ひかるの視線が、ほんのわずかに冷えた。「昔の関係、とは?」 俊哉は苛立ったように息を吐いた。「とぼけるなよ。同じ家に住んでただろ。俺が生活費も出してやってた。行き場のないお前を拾ってやったのは、この俺だぞ」 蒼真の中で、何かが音を立てて噛み合い始める。 生活費。 家政婦代。 同じ家。 昼間に聞いた玲奈の言葉。 ――『家政婦』。 ひかるは、数秒ほど沈黙した。 怒っている様子はない。だが、その沈黙は妙に重く、言葉を挟む余地を与えない。「確認するけれど」 やがて、静かに言った。「あなたが言っているのは、私があなたの家でしていた仕事の報酬のこと?」「仕事って大げさだな。家のことをやるのは当然だろ」 俊哉は軽く言った。 その瞬間、蒼真の奥歯がわずかに噛み締められた。 ひかるは変わらない。「当然、ね」 短く呟く。 そして、視線を外さないまま続けた。「食事の用意。掃除。洗濯。あなたの身の回りの管理。来客の対応。会社関係の書類整理。経費の入力。スケジュールの調整」 淡々と並べられていく言葉。 感情が乗
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第49話

篠原夕季は、『誰よりも、君だけを』のオーディションに合格して以来、ひかるの付き人として過ごす時間を減らしてもらい、その分の時間を、すべてレッスンに充てていた。慣れない演技指導、発声練習、身体表現。どれも簡単ではなかったが、それでも夕季の胸は期待で満ちている。初めて手にした「役」が、彼女の世界を大きく変え始めていた。その日も、夕季はレッスンが行われるスタジオに来ていた。張り切る気持ちが抑えきれず、予定より三十分も早く到着してしまったほどだ。静かな廊下に、自分の足音だけが響く。夕季は小さく息を整え、ドアノブに手を掛けた。スタジオのドアを開けると、まだ前の生徒が残っていた。鏡張りの室内に差し込む白い照明の中、その姿を見た瞬間、夕季の表情がぱっと明るくなる。結城美緒だった。「美緒ちゃん!!」思わず声が弾む。夕季の呼びかけに、美緒は持っていたタオルを丁寧にバッグへしまいながら顔を上げた。「あぁ、夕季ちゃん。今日はレッスンの日?」穏やかな声音だった。だが、どこか疲れの色も滲んでいる。レッスン直後なのだろう。夕季は小走りで美緒に近寄った。「美緒ちゃんのおかげで、一歩を踏み出すことができました!」そう言うと、腰を折るほど深くお辞儀をする。美緒は一瞬きょとんとしたあと、プッと吹き出した。「夕季ちゃん、おおげさよ」軽く肩を揺らしながら笑う。その笑顔に、夕季の頬も自然と緩んだ。「でも本当なんです。美緒ちゃんがあの場でひかるさんに言ってくれなかったら、私、ずっと付き人だったかも。だから、ありがとう」再び深く頭を下げる夕季。美緒は少しだけ目を細め、その姿を眺めていた。やがて自分のバッグを肩に掛けると、何気ない口調で言った。「ひかるさんって、言われないと、気が利かなさそうじゃない?だから、直接言ってあげたの。だから、ちゃんと成功させてね」その言葉は冗談めいているのに、どこか妙に引っかかった。「じゃあ、また」短くそう残し、美緒はスタジオを出て行った。ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。夕季はしばらく、その方向を見つめたままだった。最後の言葉が胸の奥に小さく残る。――ちゃんと成功させてね。励ましのはずなのに、なぜか試されているような響きがあった。夕季は首を振る。「さ、練習しよ!」自分に言い聞かせるように呟くと、台本を取り出し、
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第50話

結城美緒が意図的に、この本読みに遅れてきたようには思えなかった。ドアの前で息を整える様子もなく、ただ一歩、室内へ足を踏み入れる。その動作に無駄がない。だが――新人女優であれば、もう少し緊張感を持った顔をしているものだ。会議室に集まった視線を一身に受けながらも、美緒の表情には動揺がほとんど見えない。頬はわずかに紅潮しているが、それが走ってきたせいなのか、それとも別の理由なのかは判別できなかった。「申し訳ありません、遅れました!!」そう言って頭を下げる。角度も、時間も、過不足がない。まるで計算された所作のようだった。しかし次の瞬間には、もう顔を上げている。その目は真っ直ぐで、逃げる気配がない。藤崎 優は、その様子を静かに観察していた。新人が遅刻をすれば、たいていは空気に呑まれる。視線を泳がせ、必要以上に言葉を並べ、焦りを隠そうとして余計に目立つ。だが、美緒にはそれがなかった。堂々としている――。それを、女優としてヨシとする者もいるだろう。現場で怯えない胆力は、確かに武器になる。だが、藤崎 優は、あまり好きなタイプではなかった。胆力と無遠慮は、似ているようでまったく違う。その境界を理解していない者は、現場の空気を壊す。優は台本に目を落としたまま、淡々と口を開く。「席へ」たった一言だった。責めるでもなく、庇うでもない。温度のない声音が、室内に落ちる。美緒は「はい」と短く答え、自分の席へ向かった。ヒールの音が、静まり返った会議室に小さく響く。マネージャーが安堵したように息を吐いたのを、数人のスタッフが気づいていた。美緒が椅子を引き、台本を開く。その指先に迷いはない。優はその横顔を一瞥した。――遅刻した人間の顔ではない。心の中で、そう結論づける。プロの現場では、「理由」よりも「結果」がすべてだ。どんな事情があろうと、開始を待たせた事実は消えない。だが同時に、優の胸の奥に、わずかな違和感が芽生えていた。この女は、ただ図太いだけではない。むしろ――何かを知っている者の落ち着きに近い。「それでは、始めます」進行役の声が響き、本読みがスタートした。最初は地の文の確認。続いて、セリフの掛け合い。優の低く安定した声が室内に広がる。長年第一線に立ち続けてきた者だけが持つ、揺るぎない響きだった。そして、美緒の番が来る
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