All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話 代役

 事故から五日が経った。 久遠ひかるは、まだ入院している。 命は助かった。 それだけでも奇跡だと医師は言った。 だが、復帰の目処は立っていない。 頭部外傷、全身の強い打撲。 さらに精神的ショックも大きい。 医師は、はっきり告げた。「しばらく仕事は無理でしょう」 その言葉を聞いたとき、優の胸には安堵と痛みが同時に広がった。 生きている。 それだけでいい。 何度そう自分に言い聞かせても、心の奥では別の声がする。 ――もし、あの事故でひかるを失っていたら。 考えたくない。 だが、考えずにはいられなかった。 五年前、一度手放した。 そして今度は、失いかけた。 だからこそ、もう二度と同じことは繰り返したくなかった。 だが、その現実が、容赦なく業界を動かした。 撮影中だった連続ドラマ、『愛していると言わせない』は、まだ第一話の撮影途中だった。 異例の事態に、制作会議は荒れていた。「放送延期は無理です!スポンサーが降ります!」「CGでどうにかならないのか?」「無茶言うな!」 怒号が飛び交う。 誰もが焦っていた。 ひかるがいない。 だが、放送日は待ってくれない。 プロデューサーが重い声で言った。「……代役を立てます」 空気が止まる。 誰もが分かっていた。 久遠ひかるの代わりなど、いない。 それでも番組は止められない。 そして翌朝。 ニュースが解禁された。【速報】人気女優・久遠ひかる、事故によりドラマ降板。代役に雪城沙羅、緊急決定。 その記事を、優は無言で見つめていた。 タブレットを持つ手が、ゆっくりと止まる。 ……早すぎる。 決定までが、異様に早い。 ひかるの容体が分かってから、まだ五日しか経っていない。 それなのに、代役の決定から発表までが、まるで最初から用意されていたかのように進んでいる。 胸の奥に、小さな違和感が生まれた。 だが優は、その違和感だけで誰かを疑うような男ではない。 ――偶然だ。 そう思おうとした。 思わなければならない。 今の自分は、ひかるを守る立場にいる。 感情だけで動けば、判断を誤る。 指先で画面をスクロールする。 すると、すでにネットは燃えていた。【雪城沙羅!?格が違いすぎるだろ】【むしろ豪華になってない?】【久遠ひかる可哀想……】【いや代
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第122話 名前

病室は、静かだった。規則的に鳴る心電図の音だけが、時間を刻んでいる。白いカーテンが、わずかに揺れる。外は曇天。昼だというのに、光は弱かった。久遠ひかるは、まだ眠っている。顔色は戻りつつあるが、事故の爪痕は消えていない。額に巻かれた包帯が、現実を突きつけてくる。優は、ベッドの脇に立っていた。椅子には座らない。いつ目を覚ましてもいいように、そんな無意識の緊張が、彼を立たせたままにしている。視線を落とす。細い指。点滴の管。この手が、もう動かなくなる可能性があった。その事実を思い出すだけで、胸の奥が鈍く痛む。そのときだった。指先が、わずかに動いた。優の呼吸が止まる。まぶたが震える。そして―――ゆっくりと、開いた。「……ひかる」声が低くなる。自然と。焦らせないように。だが。ひかるの瞳は、何かに怯えるように揺れていた。焦点が定まらない。呼吸が浅い。突然、彼女の指が優の袖を掴んだ。力は弱い。だが、必死だった。唇が震える。声にならない空気が漏れる。優は身を屈めた。「大丈夫だ。ここは病院だ」ひかるの瞳が、ゆっくり優を捉える。その瞬間、涙が滲んだ。だが次の言葉は、優の予想を完全に裏切った。かすれた声。壊れそうなほど小さい。「……ゆきしろ……さら……」空気が、凍った。優の思考が止まる。「……雪城?」ひかるの肩が跳ねた。まるで、その名前自体が恐怖であるかのように。指の力が強くなる。「いたの……」「何が?」ひかるは息を吸うたびに、体を小さく震わせる。「わたし……目が覚めたとき……」言葉が途切れる。喉がうまく動かない。優は、ナースコールに伸ばしかけていた手を止めた。今、聞かなければならない。本能が告げている。ひかるの瞳が揺れる。記憶を辿るように。そして。「……まだ生きてたのね、って……」優の背筋に、冷たいものが走った。病室の温度が、数度下がったように感じる。「間違いないのか」声が低くなる。ひかるは、ゆっくり頷いた。「耳元で……笑ってた……」そこで限界だった。涙がこぼれる。呼吸が乱れる。優はすぐにナースコールを押した。医師が駆け込んでくる。「刺激を与えすぎないでください。まだ安静が必要です」優は何も言わず、一歩下がった。だが。瞳の奥では、何かが完全に変わ
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第123話 安らかな眠りを

朝の光が、静かに病室へ差し込んでいた。昨夜の雨が嘘のように空は晴れている。だが、久遠ひかるの胸の奥に残る不安は、少しも晴れていなかった。目が覚めてから、最初に確認したのは扉だった。警護員が立っている。それだけで、わずかに呼吸が楽になる。けれど同時に思い知らされる。自分は今、「守られなければならない状況」にいるのだと。視線を横に動かす。優がいる。窓際に立ち、電話で短く指示を出していた。低い声。無駄のない言葉。仕事の顔。その背中を見ていると、不思議と恐怖が遠のく。この人が側にいる。それだけで世界が保たれている気がした。電話を切った優が振り返る。視線が合う。ほんのわずかに表情が緩む。「気分はどうだ」「……少しだけ」声はまだ弱い。それでも、昨日より確実に生気が戻っている。優は椅子を引き寄せ、ベッドの横に座った。距離が近い。ひかるは小さく息を飲む。五年前なら、この距離は当たり前だったのに。今は違う。触れたら壊れそうな均衡の上にいる。そのときだった。コンコン、と控えめなノック。警護員が扉を開けると、入ってきたのは看護師だった。「おはようございます。お届け物です」腕に抱えていたのは、花。真っ白な花束だった。ひかるの呼吸が止まる。看護師は微笑みながら言う。「差出人のお名前が無いんです。でも、とても綺麗なので……」優の視線が鋭くなる。「誰が受け取った」「一階の受付に届いていました」優は花束を受け取った。ずしりと重い。白だけで統一されている。百合。カラー。胡蝶蘭。嫌な静けさをまとった花だった。ひかるの指先が震え始める。「……やめて」かすれた声。優はすぐ気づく。恐れている。花を。優は花束を少し離した。そのとき、小さなカードが落ちた。拾い上げる。開く。優の瞳が、ゆっくり細くなる。「優さん……?」数秒の沈黙。そして優はカードを裏返した。ひかるから見えないように。だが遅かった。黒いインクで書かれた文字が、一瞬見えてしまった。安らかな眠りを。ひかるの顔から血の気が引く。「いや……」呼吸が乱れる。モニターの音が速くなる。優は即座にナースコールを押した。「落ち着け。もう見なくていい」花束を警護員へ渡す。「処分しろ。すぐにだ!!」警護員の表情も強張っ
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第124話 車を見つめる女

病院の廊下は、夜になるほど静まり返る。昼間なら聞こえていた看護師たちの足音も、患者や見舞客の話し声も、今はほとんどない。白い照明だけが、長い廊下を淡々と照らしている。静かすぎる。まるで、この場所だけ時間から切り離されてしまったようだった。だが――。藤崎優の胸の奥だけは、嵐のように騒いでいた。事故以来、何度も自分に言い聞かせてきた。偶然かもしれない。まだ何も分かっていない。証拠がない以上、誰かを疑うことはできない。そう思おうとしていた。だが、そのたびに脳裏に浮かぶ。事故現場。ほとんど残っていなかったブレーキ痕。姿を消した運転手。そして、あまりにも早く病院へ現れた雪城沙羅。何かがおかしい。そう感じながらも、確証がなかった。だからこそ、優は苛立っていた。ひかるが眠っている病室の前で、何もできない自分自身に。そのときだった。警備責任者の高城(たかぎ)が、低い声で言う。「社長……例の映像が届きました」優は顔を上げた。胸の奥で、何かが小さくざわめいた。「……映像?」高城は黙って頷き、タブレットを差し出した。優も無言で受け取る。指先に、わずかな力が入った。これで何かが分かるのか。それとも――。また何も掴めないままなのか。そんな不安を押し殺すように、再生ボタンを押した。画面に映ったのは、事故現場近くのコインパーキング。時間は……事故の前日、午後八時三十四分。街灯に照らされたアスファルト。数台の車。そして。白いセダン。優の呼吸が、止まる。画面を見つめたまま、瞬きすらできなかった。「……これだ」あの事故の日。ひかるを襲った車。画面の中に映る白いセダンを見た瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちていく。偶然であってほしい。そう願う自分と、もう偶然ではないと理解している自分。その二つが、激しくぶつかっていた。高城が映像を拡大する。車の少し後方。そこに、一人の女が立っていた。帽子を深くかぶり、サングラスをかけて傘を差している。顔は、はっきりとは見えない。それでも。でも、分かる。分かってしまう。立ち姿。肩のライン。首の角度。身体に染みついた、あの独特の存在感。優は、その姿を知りすぎていた。何年離れていても。何年会っていなくても。忘れられるはずがない。優の喉が、ひくりと震
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第125話 女王のつくり方

雪城沙羅は、昔から負けることを知らない女だった。いや。正確には、負けないためなら、何でもしてきた女だった。デビュー当時。現場には、自分より遥かに格上の大女優たちが並んでいた。主演。看板。視聴率を持つ女たち。スタッフが彼女たちに向ける笑顔。共演者たちが交わす会話。現場に入った瞬間から、誰が中心なのかが分かる。その中で沙羅に与えられるのは、端役ばかりだった。台詞は数行。名前すら覚えられない役。撮影が終われば、誰の記憶にも残らない。悔しかった。唇を噛みしめた夜も、一度や二度ではない。自分だって、ここにいる。自分だって、もっとできる。そう叫びたかった。けれど、沙羅は泣かなかった。泣けば、負けたことになる。弱いと思われたら、そこで終わる。だから、代わりに観察した。誰が不安を抱えているのか、誰が年齢に怯えているのか、誰が椅子を奪われることを恐れているのか、誰が、自分より若い女優を怖がっているのか、沙羅は、誰よりも静かに人を見ていた。そして、静かに追い詰めた。直接ではない。噂。比較記事。週刊誌への小さな火種。ほんの少し、誰かの耳元に言葉を落とす。それだけで、人は勝手に疑い始める。自分は嫌われているのではないか、自分はもう必要とされていないのではないか、次に選ばれるのは、あの子ではないか。精神は、刃物よりも簡単に人を壊す。沙羅は、それを知っていた。だから、手を汚しているという感覚すらなかった。自分が直接何かをしたわけではない。そう思えば、眠ることもできた。やがて……。一人が引退した。また一人が休養に入った。そして気づけば。スポットライトは、沙羅だけを照らしていた。誰もが彼女を見る。誰もが彼女の名前を口にする。いつしか。……雪城沙羅の時代。そう呼ばれるようになった。その言葉を聞いたとき、沙羅は鏡の中の自分を見つめながら思った。やっと―――やっと、ここまで来た。誰にも奪わせない。この場所だけは。そう誓った。相手役の俳優たちも、いつしか同世代に変わっていた。その中に、藤崎優がいた。初めて共演したとき、沙羅は確信した。……この男は、自分と並ぶために生まれてきた。男らしくて、美しい。そして、野心がある。だが、どこか冷静。周囲に流されない。媚びない。そ
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第126話 白い百合

夜の病室は、不自然なほど静かだった。規則正しく上下する胸の動きが、久遠ひかるの命がまだここにあることを証明している。それを確認するたびに、藤崎優は胸の奥で息をついていた。生きている。それだけでいい。今は、それだけでいい。窓の外では、細い雨が降っていた。街灯に照らされた雨粒が、ゆっくりと線を引いて落ちていく。優は、ベッドの横に立っていた。眠るひかるは、驚くほど小さく見える。女優としてスクリーンに映る彼女は、あんなにも強く、大きな存在なのに――。今は、触れれば壊れてしまいそうだった。包帯の巻かれた額。点滴の管。かすかに上下する胸。事故の映像が、何度も脳裏をよぎる。白い車。雨。衝撃。そして、流血。もし、あのとき間に合っていなかったら。もし、ほんの少しでも搬送が遅れていたら。考えるだけで、喉が詰まる。社長としてなら、どんな危機にも冷静に対応できる。相手の出方を読み、先回りし、必要なら切り捨てる判断だってできる。だが。ひかるのことになると、その冷静さが簡単に崩れてしまう。失いたくない。ただ、その一つだけが頭の中を支配する。優は椅子に腰を下ろし、そっとひかるの指先に触れた。冷たい。思わず力を込める。「……スクリーンに、必ず戻ってこい」声に出した瞬間、自分でも驚くほど掠れていた。戻ってこい。女優として。そして――自分のいる、この世界へ。そんな願いを口にすることすら、今の自分には怖かった。ひかるが目を覚ますこと。笑うこと。また演技をすること。そのすべてが、当たり前ではない。だからこそ、祈るような気持ちでひかるを見ているしかなかった。そのときだった。コン、と小さな音がした。病室のドアが、静かに開く。優は振り返る。瞬間。胸の奥に、嫌な予感が走った。入ってきたのは、一人の女。長い黒髪。淡いグレーのコート。手には、白い百合の花束。雪城沙羅だった。一瞬、空気が変わる。温度が、数度下がったような感覚。どうしてここにいる?どうやって入った?面会は拒否している。警備も強化したはずだ。それなのに。沙羅は、何事もなかったかのように立っている。その余裕が、何よりも不気味だった。「……何度言えばわかる。面会拒否だ。しかも、面会時間は過ぎているはずだ」優の声は低い。怒鳴る必要な
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第127話 白を怖がる理由

朝の光が、静かに病室へ差し込んでいた。夜の冷たい空気を少しずつ押し退けるように、カーテンの隙間から淡い光が伸びている。ここ最近、ほとんど眠っていない優は、椅子に座ったまま目を閉じていた。眠っているというより、ほんの一瞬だけ意識を落としている。どうしても、ひかるのそばを離れることができない。離れたくない。昨夜、沙羅が残していった言葉が、頭から消えなかった。――白い車だったそうね。あれは偶然だったのか。それとも。考えれば考えるほど、眠気は遠ざかっていった。そのときだった。微かな違和感に、優がはっと目を開けた。動いた。ひかるの指先が、確かに震えた。一瞬、見間違いかと思った。だが、もう一度。小さく、指が動く。「……ひかる?」優は椅子から身を乗り出した。胸の奥が激しく脈打つ。頼む。今度こそ。目を開けてくれ。次の瞬間。長い睫毛が、わずかに揺れた。ゆっくりと。本当にゆっくりと。瞼が開く。焦点の合わない瞳が天井を見つめ、やがて彷徨い、優を捉えた。数秒。時間が止まる。優は息をすることすら忘れていた。生きている。ひかるが、自分を見ている。それだけで、胸の奥に張り詰めていたものが一気に崩れそうになる。「……優……さん……?」掠れた声。たったそれだけの言葉だった。けれど。その声を聞いた瞬間、胸の奥が激しく揺れる。何度も夢に見た。もう一度、この声を聞きたいと願った。それなのに。実際に聞いた瞬間、嬉しさより先に怖さが込み上げてくる。また何かあったら。また、この目が閉じてしまったら。そんな恐怖を隠すように、優は静かに言った。「まだ無理するな」だが。ひかるの瞳に、突然恐怖が走った。視線が横へ滑る。窓際。そこに置かれていたのは、新しい花束。看護師が朝に替えたものだろう。白いガーベラ。その白さを見た瞬間。ひかるの表情が変わった。何かを思い出したように。いや。思い出したくないものを、無理やり見せられたように。「や……」喉が引き攣る。「やだ……」体が震え始める。「ひかる?」優が手を握る。だが、ひかるは怯えた子供のように、その手に縋りついた。肩が小刻みに震えている。「白……」かすれた声。「白が……来る……」その言葉に、優の背筋に冷たいものが走る。白。昨夜、沙羅
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第128話 もう一度、あなたの隣へ

夜が、静かに街を包んでいた。病室の窓に映るのは、深い群青の空と、無数の光。遠くを走る車のヘッドライトが、窓ガラスに一瞬だけ白い線を描いて消えていく。優はカーテンを半分だけ閉め、ベッドの横に立っていた。規則正しく鳴る心電図の音。小さな寝息。久遠ひかるは眠っている。それだけで、優は何度目か分からない安堵を覚えていた。だが、その表情は事故前とはどこか違っていた。儚い。触れれば消えてしまいそうなほどに。少し前までなら、こんな姿を想像することさえなかった。スクリーンの中で笑い、泣き、怒り、見る者の感情まで動かしてしまう女優。誰よりも強く見える。けれど今は、ベッドの上で静かに眠っている。その姿を見ていると、優の胸の奥に、言葉にできない痛みが広がった。優は椅子へ腰を下ろし、長く息を吐いた。そして気づく。自分が――どれほど張り詰めていたのかに。ひかるが目を覚ますまでの恐怖。沙羅への怒り。事故を防げなかった後悔。もっと早く気づけなかった自分への苛立ち。あらゆる感情が、胸の奥に沈殿している。社長としてなら、感情を切り離して判断できる。冷静に状況を分析し、必要な手を打つ。それが自分の強さだと思っていた。だが。ひかるのことになると、その強さが簡単に崩れてしまう。どれだけ冷静になろうとしても。どれだけ先を読もうとしても。頭の中に最後に残るのは、いつも同じだった。絶対に失いたくない。それだけだった。そのとき。ひかるの指が、微かに動いた。優は反射的に手を取る。温かい。その温もりに触れた瞬間、胸が締めつけられる。生きている。今、ここにいる。それだけでいい。「……優さん……?」目を開けてはいない。夢の中なのだろう。それでも名前を呼ばれた瞬間、視界が揺れた。その声が、五年前の記憶を引きずり出す。あの夜。泣きながら、それでも笑おうとしていた少女。自分がどれほど傷ついているのかも隠して、最後まで相手を気遣っていた。「優さんは……私が居なくても大丈夫です……」震える声で、そう言った。あの言葉を思い出すたび、優の胸は今でも痛む。違う。大丈夫なわけがない。あの頃の自分は、そう言えなかった。言ってしまえば、ひかるをもっと苦しめると思った。だから黙った。そして、黙ったまま失った。五年前の後悔は、今
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第129話 崩壊の足音

異変は、放送一週間前に起きた。一本の電話が、制作現場の空気を一変させた。最大スポンサーの一社からだった。「今回は降ります」理由は明確だった。――キャスティングトラブル。主演交代を巡る混乱。現場の緊張。そして、SNSでの炎上。企業にとって、番組への愛着よりも優先されるものがある。“リスク”だ。電話を切った瞬間、局内はパニックになった。「どう責任取るんだ!」「だから言っただろう! 主役は雪城沙羅に決まったんだ。今さら……!」編成が荒れ、制作が怒鳴る。広告部の人間は、顔から血の気が引いていた。その誰もが、心の中で同じことを考えていた。――このままでは、本当に番組が飛ぶ。さらに追い打ちをかけるように、ネットニュースが出た。『主演強奪か? 藤崎優、元妻・雪城沙羅を降板させる』コメント欄は、瞬く間に燃え上がった。・「最低な男」・「沙羅の方が格上」・「久遠ひかるってまだ演技できるの?」・「病み上がりだろ」・「現場崩壊するぞ」ひとつひとつの言葉が、刃物のように広がっていく。ひかるがこれを見たら、どう思う?優の胸に、嫌な予感が走った。だが――決断は変わらなかった。「主演は変更しない。久遠ひかるで行く」会議室が静まり返った。誰もが、一瞬言葉を失った。「正気ですか?」制作プロデューサーが、信じられないという顔で言う。「スポンサーが降りたんですよ」「ここで強行したら、本当に番組ごと潰れます」優は、一切表情を変えなかった。胸の奥では、別の感情が激しく渦巻いている。分かっている。自分が何を選ぼうとしているのか。スポンサーを失う可能性もある。番組そのものが失敗する可能性もある。それでも――。ここでひかるを外したら、沙羅に負けたことになる。何より、事故で傷ついたひかるから、もう一度立つ場所まで奪うことになる。それだけは、できなかった。「潰さない。俺が責任を取る」その一言に、反論が止まった。理屈ではない。覚悟だった。だが、現実は甘くない。相手役の真柴涼真のスケジュールは、すでに限界だった。次の映画のクランクインが迫っている。「これ以上延期は無理です」マネージャーの声は冷静だった。「三日後を逃せば、最低でも三ヶ月待ちになります」三ヶ月――。その言葉を聞いた瞬間、優は理解した。三ヶ月も
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第130話 壊れる音

スタジオに、雨の音が響いていた。もちろん本物ではない。巨大な散水装置から落ちる人工の雨。照明に照らされ、一本一本が銀色に光っている。モニター越しに見れば、美しい。だがその中に立つ久遠ひかるの視界は、もう揺れていた。「本番いきます!」助監督の声。カメラが回る。このシーンは、感情の爆発だった。恋人に裏切られた女性が、雨の中で崩れ落ちる。叫び、泣き、縋る。演技力が剥き出しになる場面。本来なら。久遠ひかるが最も得意とする領域。「……どうして」セリフが始まる。声は出ている。表情も作れている。だが。次の瞬間。遠くで、キィィ……金属が軋むような音がした。ほんの小さな音。スタッフの誰も気づかない。だが、ひかるの体は硬直した。体が小刻みに震え、頭の奥で何かが弾ける。白い光。ブレーキ音。迫ってくる車。動かない足。そして……「あなた、まだ生きてたのね」ひかるの目が見開かれた。心臓が跳ね上がる。呼吸が止まる。視界が歪む。雨が―――。あの日の道路に変わる。「……っ」セリフが消えた。ひかるの口から、次の言葉が出てこない。監督が眉をひそめる。「久遠?」ひかるは動けない。肺が縮む。空気が入らない。指先が震える。—逃げたい。そのとき。視界の端に、白が映った。スタジオの入口。白いワンピース。長い髪。微笑む女。それは、雪城沙羅だった。誰も不思議には思わない。ただの見学者として入っているだけだ。それだけなのに、ひかるの喉が引きつる。沙羅は、ゆっくり口だけ動かした。声は出していない。だが、わかる。「ま・だ・い・き・て・た・の?」次の瞬間。世界が反転した。「カット!!」監督が叫ぶ。ひかるが、その場に崩れ落ちた。スタッフが駆け寄る。「過呼吸だ!」「袋!!」紙袋が押し当てられる。だが呼吸は整わない。涙が止まらず、体が小刻みに震えている。その光景を、沙羅は、静かに見つめていた。近くのスタッフに小声で言う。「かわいそうに………代われるものなら、代わってあげたいわ」完璧な善意の声。誰が疑うだろう。善意のような言葉を放つその女が、一番悪意を持っていると。憐みのような視線を向ける―――だがその目は、冷たい。しばらくして、スタジオの扉が乱暴に開いた。藤崎優だった。
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