All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 141 - Chapter 150

156 Chapters

第141話 本番一秒前

撮影初日。スタジオの空気は、異様だった。誰も大声を出さない。スタッフ同士の会話も、必要最低限。まるで嵐の前の海のような静けさが広がっている。理由は、全員が分かっていた。今日、藤崎優と雪城沙羅が、本格的にぶつかる。助監督が小声で呟いた。「現場の温度……低すぎません?」ベテランの照明技師が苦笑する。「違うな。これは低いんじゃない」少し間を置き、言った。「張り詰めてるんだよ」遠くで扉が開く音。視線が一斉に向く。雪城沙羅だった。白ではなく、黒のパンツスーツ。長い髪を後ろで一つに束ねている。一歩、また一歩。ヒールの音だけが響く。その姿は、まるで戦場に現れた女王。若いスタッフが思わず息を飲む。「……オーラが違うな」沙羅は誰にも視線を向けない。ただ真っ直ぐ、セットへ向かう。すでに役に入っている。けれど、沙羅の胸の奥には、昨夜から消えないものがあった。――藤崎優との濃厚なラブシーン。あの台本を読んだときに感じた動揺を、沙羅は誰にも見せなかった。見せるわけにはいかなかった。私は女王。藤崎優にいまだ心を乱されているなど、誰にも知られてはいけない。まして、ひかるには絶対に知られてはいけない。沙羅は、自分から優を奪い返すつもりだった。優を弄び、昔と同じように自分の魅力に抗えなくさせる。そう思っていた。――私が優を追い詰める。そのとき、反対側の扉が開いた。藤崎優。ざわめきが、さらに小さく広がる。復帰してまだ日が浅い。だが現場の誰もが理解していた。この男、以前より、遥かに恐ろしい。優はゆっくり歩いてくると、監督に軽く会釈した。無駄な挨拶はしない。それだけで分かる。完全にスイッチが入っている。そして優は、沙羅を見る。ほんの一瞬。それだけだった。だが沙羅には分かった。――見ている、自分のことを。そして、何を考えているのかも分からない。五年前なら、もっと分かった。夫婦だった頃なら、視線だけで互いの感情が読めた。だが今の優は違う。感情を見せない。それが、かえって恐ろしかった。沙羅と優。距離、五メートル。視線がぶつかる。火花は散らない。だが。空気が震えた。先に口を開いたのは沙羅だった。「久しぶりね」穏やかな声。だが温度はない。優も淡々と返す。「ああ」それだけ。
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第142話 雪城沙羅という女

都内高級マンションの最上階。床まで届く大きなガラス窓の前に、雪城沙羅は静かに立っていた。眼下には、宝石を散りばめたような夜景が広がっている。無数の光が瞬き、車のヘッドライトが流れるたび、まるで都市そのものが呼吸しているかのようだった。だが、彼女はそれを見ていない。視線は、手元のタブレットに落ちていた。そこに映し出されているのは、撮影現場の写真。中心にいるのは――久遠ひかる。スタッフに囲まれ、監督に称賛され、すべての光を一身に浴びて立っている女。誰もが自然と彼女の方へ身体を向け、言葉を待ち、笑顔を向けている。まるで、そこだけ空気が違う。“主役の空気”。沙羅の指先が、わずかに震えた。「どうして……この子なの?」低い声が、静まり返った部屋に落ちる。その声は驚くほど感情を抑えていた。けれど、その奥底では、何かが軋み、崩れ、そして黒く燃えていた。どうして―――。なぜ、またこの女なの?一度消えたはずだった。自分の前からいなくなったはずだった。それなのに、戻ってきた。しかも以前より強く。以前より眩しく。そして―――優の視線まで奪って。かつて、その場所にいたのは自分だった。脚光。賞賛。特別扱い。それが当たり前だった。努力して手に入れたのではない。気づけば、そこに立っていた。誰もが自分を中心に世界を回してくれる。そんな錯覚すら抱いていた。そして、その世界の中に――藤崎優がいた。優は、最初に自分を見つけた男だった。まだ無名で、オーディションに落ち続けていた頃。帰り道の電車で、悔しさを噛み殺していたあの夜のことを、沙羅は今でもはっきり覚えている。そのとき優は言ったのだ。「君は売れる」迷いのない声だった。慰めではなく、確信に満ちた響き。その一言で、世界が変わった。景色の色が変わり、未来が輪郭を持ち始めた。――この人は、私を本当に見ている。自分の価値を、自分より先に見つけてくれた人。だから、気づけば愛していた。雪城沙羅は、藤崎優を本気で愛していた。今でも。そこだけは、何年経っても変わらなかった。けれど――。優の視線が変わった日を、沙羅は忘れていない。自分の方を見ることは、もうないのだと悟った日を。あの日。優が初めて、久遠ひかるの芝居を見た日。モニターを覗き込む優の横顔は、まるで少年
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第143話 視線の主

撮影スタジオの空気は、張り詰めていた。体調も戻りつつあり、ひかるは再び、他のドラマの撮影現場に立っていた。久しぶりの現場だった。大型照明の熱。スタッフたちの慌ただしい足音。台本をめくる乾いた音。遠くで聞こえる機材の移動音。そのすべてが、以前と何も変わらない。変わってしまったのは、自分のほうだった。ひかるは静かに立っていた。衣装は、役柄に合わせた淡いグレーのドレス。派手さはない。けれど、ひかるが身につけるだけで、それは舞台衣装のように見えた。「本番いきます!」監督の声が響いた。カメラが回る。ひかるはゆっくり息を吸った。怖い。ほんの一瞬、胸の奥でそう思った。事故以来、車の音を聞くだけで身体が強張ることがある。急に背後から近づいてくる気配に、心臓が跳ねることもある。そして今も。大勢の人間に囲まれているはずなのに、どこかに危険が潜んでいるような気がしてならない。けれど――そんなものを、誰にも見せるわけにはいかなかった。私は女優だ。カメラの前で怯えている姿など、誰にも見せない。怖いなら、怖いまま演じればいい。ひかるは胸の奥で震える感情を、静かに押し込めた。相手役の俳優が台詞を言い終える。ひかるはゆっくりと顔を上げた。その瞬間――スタジオの空気が変わった。悲しみ。怒り。諦め。そして、かすかな希望。複雑に絡み合う感情を、ひかるはただ“目”だけで表現する。誰も息をしない。ひかる自身も、演じている間だけは事故のことを忘れていた。違う。忘れたのではない。恐怖さえも、役の感情に変えていた。「……カット!!」監督が立ち上がった。「いい……いいよ久遠さん!今の最高だ!」スタッフの間から小さなどよめきが起きる。ひかるは微かに息を吐いた。戻ってこられた。その実感が、胸の奥に小さな灯りをともした。――私はまだ、ここに立てる。そう思った、そのときだった。背中に、冷たいものを感じた。ぞくり。身体が勝手に反応する。――見られている。事故のときにも感じた、あの視線。ひかるは反射的に振り返った。だが、そこには機材を動かすスタッフしかいない。気のせい……?いや、違う。女優として培ってきた本能が告げている。あの夜と同じ視線だ。ひかるは何でもないような顔を作りながら、周囲を見渡した。する
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第144話 掘り起こされる過去

「十年前から現在に至るまで。雪城沙羅のすべてを洗い出せ」低く落ちた藤崎優の命令に、東堂は一切の躊躇なく頷いた。「承知しました」それが、どれほど骨の折れる作業になるかは分かっている。雪城沙羅。トップ女優。完璧な経歴。非の打ち所のない成功譚。華やかな受賞歴。数々の主演作。――表向きは―――。だが、東堂には分かっていた。人間の過去は、表に出ているものだけではない。むしろ、完璧すぎる経歴の裏側には、何かが隠されていることがある。東堂はまず、歴代のマネージャーに当たった。だが、多くは口が重かった。「……特に問題のある方ではありませんでしたよ」「プロ意識の高い女優です」「結果を出す人でしたから」模範解答のような言葉ばかりが並ぶ。だが東堂は知っている。本当に“何もない人間”など、この世界には存在しない。まして、十年以上もの間、頂点に立ち続けた人間ならなおさらだ。東堂は相手の表情を見ながら、黙ってメモを取った。質問を終えても、相手の指が落ち着きなく動いている。視線が妙に泳ぐ。言葉と表情が一致していない。――何かある。そう確信した。沈黙は、美徳ではない。沈黙は、隠蔽だ。次に当たったのは、かつて同じ舞台に立っていた女優たちだった。だが、ここでも反応は二極化した。怯えたように話を拒む者。電話を切る者。「もう関わりたくない」と震える声で言う者。そして――金を受け取ったあと、堰を切ったように語り始める者。「私は、主役を降ろされたんです!!」ある元女優は、乾いた笑いを漏らした。その笑いの奥に、何年経っても消えない悔しさが滲んでいた。「理由は“方向性の違い”。でもね、本当は違う。撮影の一週間前に突然よ。代役が誰だったと思う?」東堂は答えを予測していた。「……雪城沙羅ですか」女は頷いた。その瞬間、押し殺していた感情が、堰を切ったように溢れた。「そうよ」声が震える。「私、何年もその役のために準備していたの。台本を何度も読み返して、体重も落として、演技も作り込んで……やっと掴んだ役だった」一度、唇を噛む。「それなのに、一週間前よ」目に涙が浮かぶ。「全部、なくなった」東堂は黙って聞いていた。女は涙を拭いながら笑った。「悔しかった。本当に悔しかった。私より沙羅のほうが才能があったって言われたら、ま
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第145話 英雄と悲劇のヒロイン

指定された場所は、人気のない湾岸エリアだった。夜の海風が冷たい。波が岸壁に打ち寄せる音だけが、暗闇の中に響いている。街灯はまばらで、人の気配もない。まるで、最初から人目につかないように選ばれた場所だった。優は黒いボストンバッグを握りしめていた。中には身代金。その重さが、異様なほど重く感じる。金額の問題ではない。このバッグ一つが、沙羅の命を握っているように思えた。――待っていろ、沙羅。――必ず助ける。そう自分に言い聞かせる。だが、胸の奥では別の声がしていた。――もし、間に合わなかったら?あのとき、沙羅を連れ去られるのを防げなかった。その罪悪感が、今も優の胸を締め付けていた。到着すると、古びた電柱に紙が貼られているのが目に入った。――金を置いて立ち去れば、雪城沙羅を解放する――そして、手書きの地図。沙羅の居場所。警察も事務所スタッフも、優を止めた。「罠です!」「単独行動は危険すぎる!」だが優は聞かなかった。怖くないわけではない。むしろ怖かった。それでも、ここで自分が行かなければ、沙羅がどうなるのか分からない。優はバッグを置いた。そして、地図の場所へ向かって走り出した。嫌な予感が胸を締め付ける。遅かったらどうする。間に合わなかったら。最悪の想像が、頭をよぎる。――死んでいたら?その考えを振り払うように、優は走った。倉庫が見えた。錆びたシャッター。半開きの扉。風に揺れる扉の音が、不気味なほど大きく響いている。優は息を切らしながら、中へ飛び込んだ。そして――息を呑んだ。床に転がされていた。両手両足を縛られ。目隠しをされ。引きずられたのか、服は破れ、土にまみれている。顔も汚れ、あまりにも痛々しい。「……沙羅!!」優は駆け寄った。震える手で縄を解く。目隠しを外す。「もう大丈夫だ」その一言を聞いた瞬間だった。沙羅の瞳から、大粒の涙が溢れた。いつもは誰よりも気丈で、強く、隙を見せない女。その沙羅が――崩れた。「……優……」縋り付くように抱きついてくる。指が震えている。優は何も言わず、ただ支えた。その身体の震えを感じながら、優の胸にも痛みが走った。――怖かったんだ。――俺がもっと早く来ていれば。そんな後悔が、また胸の奥から込み上げる。やがて人が駆け付けても、
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第146話 女王が出来上がるまで

あの頃。久遠ひかるが活動休止を発表した日。雪城沙羅は一人、車の後部座席でニュースを見ていた。〈人気女優・久遠ひかる、無期限活動休止〉画面の文字を見つめながら、沙羅はゆっくりと息を吐いた。そして、小さく笑った。「やっと……消えた」その言葉を口にした瞬間、胸の奥に溜まり続けていたものが、少しだけ軽くなった。ずっと邪魔だった。どれだけ主演を重ねても、賞を取っても、世間は必ずこう言う。――本物は久遠ひかる。その名前が、喉に刺さった小骨のように引っかかっていた。何度振り払っても消えない。何度自分が頂点に立っても、比較される。そのたびに思った。――なぜ私じゃないの?――なぜ、あの女なの?沙羅は自分の才能を疑ったことなど、一度もなかった。努力もしてきた。誰よりも自分を磨いてきた。だからこそ、許せなかった。自分より先に、誰かが「本物」と呼ばれることが。だが、もういなくなった。これで、自分が頂点。事実、その日を境に周囲の扱いは露骨に変わった。「日本一の女優」「視聴率を持つ女」称賛は雪崩のように押し寄せた。雑誌の表紙。主演オファー。広告契約。賞。金。名声。すべてが沙羅のもとへ集まってきた。――これでいい。――私は勝った。そう思った。だが………。一つだけ、手に入らないものがあった。藤崎優。優と知り合ってから、沙羅は彼を欲しくて仕方がなかった。距離は確実に縮まっていた。食事に行く回数も増えた。現場で視線が合うことも多くなった。優は優しい。だが、それだけだった。決定的に足りないものがある。熱。欲望。独占したいという衝動。それが、彼からは感じられない。沙羅には、それが耐えられなかった。誰もが自分を欲しがる。誰もが自分に近づこうとする。なのに――なぜ、この男だけは違うのか。ある夜、レストランの帰り道。沙羅は思い切って聞いた。「優は……誰かを、本気で愛したことある?」優は少し考えてから答えた。「どうだろうな」曖昧な笑み。それが、妙に腹立たしかった。車窓に映る自分の顔は、美しかった。完璧だった。なのに。なぜこの男は、手を伸ばしてこない?沙羅は窓に映った自分を見つめながら、唇を噛んだ。――どうして私じゃないの?焦りが、じわじわと心を侵食していく。欲しい。この男
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第147話 黒幕

深夜二時。都心の雑居ビルの一室だけに、まだ灯りが点いていた。東堂は、机の上に広げられた資料から視線を外さず、ゆっくりと息を吐いた。——繋がった。最初は、ただの違和感だった。雪城沙羅の過去を調べるうち、必ず同じ名前に行き着く。表には出ない。だが、必ず現場の“少し後ろ”にいる男。制作委員会の資金提供者。スポンサーのスポンサー。局幹部のさらに上。黒川彰人。芸能界の水面下に棲む怪物。東堂は、ある元マネージャーの証言を思い出していた。「逆らった女優が、突然仕事を失ったんです。理由もなく。次に見た時は、もう業界にいなかった」その言葉が、頭から離れなかった。さらに調べる。すると、ぞっとする共通点が浮かび上がった。雪城沙羅と競い、そして消えていった女優たち。多くは精神的に追い詰められ、自ら引退している。だが………。数人は違った。事故。暴漢。硝子片による裂傷。階段からの転落。偶然にしては、出来すぎている。特に一人。将来を嘱望されていた若手女優は、顔に深い傷を負った。二度とカメラの前に立てないほどの。東堂の拳が、無意識に握られる。「……倫理観がないどころじゃない」金さえあれば、何でも可能だと本気で信じている人間。それが黒川彰人だった。そして——。決定的な証拠に辿り着く。十年前の雪城沙羅誘拐事件。捜査資料はすでに閉じられている。だが、東堂は裏ルートから当時の関係者に接触した。その中の一人が、酒に酔った勢いで漏らした。「妙だったんだよ、あの事件。身代金の受け渡し場所、やけに段取りが良すぎてな……まるで芝居だった」東堂は、その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものを感じた。あの事件が、本当に仕組まれていたのなら。優が命を懸けて沙羅を救った、あの夜も。沙羅が涙を流しながら優に縋ったことも。そして、その後の結婚も―――。すべてが一本の線で繋がる。さらに資金の流れを追う。誘拐犯とされる男の口座に、一度だけ振り込まれた大金。差出人不明のダミー口座。だが、その資金の元を辿ると——黒川が関係する投資会社に行き着いた。東堂は椅子にもたれた。間違いない。あの誘拐は、黒川の手引きだ。そして沙羅も——共犯。目的は一つ。藤崎優に“救わせる”こと。命を賭けて助けた女を、男は見捨てられないという、心理を利用
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第148話 接触

午前十時。FJエンターテインメント本社の受付に、一人の男が現れた。年齢は五十代半ばほど。グレーのスーツを完璧に着こなし、姿勢に一切の隙がない。名刺を差し出す所作まで、無駄がなかった。受付スタッフが名刺を見た瞬間、表情が固まる。そこに書かれていた名前。黒川ホールディングス 専務取締役篠原 賢一——黒川の側近。最も信頼されている“手”。篠原は受付の女性を見下ろすことも、急かすこともしなかった。ただ、静かに立っている。まるで、この場所に自分が来ることなど当然だと言わんばかりに。数分後。東堂の元へ連絡が入る。「アポイントはないそうですが、“必ず通せ”と」東堂の眉がわずかに動く。来たか。思ったより早い。昨日までの調査が、もう向こうに伝わっている。——こちらが調べていることを、すでに知られている。「社長に伝えろ。俺が先に会う」だが、返ってきた答えは予想外だった。「いえ、“藤崎優本人以外とは話さない”と……」東堂は小さく息を吐いた。完全に、こちらの動きを読んでいる。そしてこれは——牽制だ。「……分かった」東堂は受話器を置いた。嫌な予感がする。これは単なる訪問ではない。黒川という男が、自分たちの存在を見せつけに来たのだ。社長室。ノックの後、東堂が入る。「社長。黒川の側近が来ています」優は書類から視線を上げなかった。「通せ」迷いがない。東堂は一瞬だけ優を見た。止めても無駄だと理解し、黙って頷いた。やがて扉が開く。篠原は一歩入室すると、丁寧に一礼した。「突然の訪問、失礼いたします」声は穏やか。だが、人の感情を感じさせない。優は椅子に座ったまま言う。「要件は?」篠原は微笑んだ。営業用の笑みではない。温度のない笑み。相手を安心させるためではなく、相手との力関係を確認するための笑みだった。「黒川が、ぜひ一度ご挨拶したいと」東堂の空気が張り詰める。挨拶?違う。呼び出しだ。しかも篠原の口調には、優がそれを断るはずがないという確信さえ滲んでいる。この街で、黒川からの誘いを断る人間などいない。——そう思っている顔だった。優は即答した。「断る」一秒の間もなかった。篠原の笑みが、ほんのわずかに深くなる。驚きではない。むしろ、予想通りだという表情。「そう言われると思っており
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第149話 夜景の下で

深夜に近い時間だった。FJエンターテインメントの社長室には、まだ明かりが灯っている。藤崎優はデスクに向かったまま、動かなかった。視線は資料に落ちているが、ページはもう五分以上めくられていない。黒川彰人。その名が、思考に重く居座っていた。スポンサー、業界圧力、メディア操作——。どれも現実的に起こり得る。いや。すでに始まっている。優は小さく息を吐いた。ひかるを守る。そう決めた。それなのに、守ろうとすればするほど、敵の大きさが見えてくる。黒川は金を持っている。人を動かす力もある。そして何より、相手の弱点を見つけ、そこを躊躇なく突いてくる。自分一人なら、どうなっても構わない。だが、ひかるだけは——。そこまで考えたとき。コンコン、と控えめなノック。「……入れ」扉が開き、顔を覗かせたのは久遠ひかるだった。「まだ仕事してたんだ?」その声を聞いた瞬間、優の張り詰めていた意識が、ほんの少しだけ緩んだ。「お前こそ、こんな時間にどうした?まさか、一人で来たのか?」ひかるは首を横に振り、「さっきまで、警備の人が一緒だったよ」そう言い、ひかるは室内に入ると、優の顔をじっと見た。そして、少しだけ眉を寄せる。「優さん……疲れてるね」優は無意識に苦笑した。「顔に出てるか?」「出てる。かなり」ひかるは少し考えるように視線を泳がせた。その仕草が妙に幼い。今や誰もが知るトップ女優。カメラの前では、感情の機微さえ完璧に操る。視線一つで観客を惹きつける“大人の女”。けれど今、優の前にいるひかるは違った。まるで、ずっと昔に戻ったようだった。肩の力を抜いて。少し唇を尖らせて。優の反応を確かめるように顔を覗き込む。そして、唐突に言った。「優さん、たまには一緒にご飯にいきませんか?」優は瞬きをする。予想外の誘いだった。「今からか?」ひかるはにっと笑う。「今から」その笑顔は、どこか企んでいる子どものようだった。優は思わず目を細める。——昔から、こいつはこうだった。何かを隠したいときほど、わざと明るく振る舞う。そして、寂しいときほど子どもっぽくなる。もしかしたら、ひかる自身も気づいていないのかもしれない。ただ優の前では、女優でいなくていい。それだけなのかもしれなかった。二十分後。二人は事務所近くのハン
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第150話 消えない傷

翌日。優がひかるに連れられてやって来たのは、都内でも限られた者しか住めないと言われる高級住宅街だった。広い道路は静まり返り、通り過ぎる車の音さえ、どこか遠く感じられる。整然と並ぶ邸宅の一つ一つが、そこに住む者の格を物語っていた。やがて車がゆっくりと減速し、重厚な門の前で止まる。門扉の奥には、四季を丁寧に閉じ込めたような庭が広がっていた。剪定された木々。淡い色の花々。石畳に落ちる柔らかな影。そのすべてが、ここに流れる時間の穏やかさを示している。だが、車を降りた優の胸には、穏やかさとは正反対の緊張があった。昨日、ひかるから聞いた言葉。——二十年以上前に、芸能界を追われた女優。黒川の影響力。雪城沙羅によって人生を変えられた人間。その人物が、今日会う相手なのだ。門を抜け、庭を進む間、優は無意識に背筋を伸ばしていた。ここはただの邸宅ではない。何か、目に見えない気配が漂っている。ひかるが玄関横のインターホンを押す。静かな電子音のあと、ほどなくして扉が開いた。現れた女性を見て——。優は息を呑んだ。美しい。年齢は五十代前半のはずだが、肌は滑らかで、首筋に皺はほとんどない。整った輪郭に、凛とした気品が宿っている。立ち姿には隙がない。ただそこに立っているだけなのに、視線を引き寄せる。まるで長年スポットライトを浴び続けてきた者だけが持つ重力だった。女優と言われても疑わない。いや——。かつて女優だったと言われた方が、むしろ自然だった。「いらっしゃい」穏やかな声が、柔らかく二人を包む。ひかるが一歩前に出る。「優さん。紹介するね。母の——久遠 美月(くどう みづき)です」その瞬間。優の胸に、かすかな違和感が走った。母親。確かに、目元や微笑んだときの口元に、ひかると重なる面影がある。だが、それだけではない。この人には、何かを知っている者だけが持つ雰囲気があった。美月は静かに優を見つめ、やがて微笑んだ。「あなたが藤崎優さん。話は聞いているわ」その一言だけで、どこか見透かされているような感覚がした。リビングに通されると、天井の高い空間に柔らかな光が差し込んでいた。落ち着いた色調の家具が並び、部屋全体が静かな品格に満ちている。ほどなくして紅茶が置かれた。だが、優はカップに手を伸ばすことができなかった。何
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