撮影初日。スタジオの空気は、異様だった。誰も大声を出さない。スタッフ同士の会話も、必要最低限。まるで嵐の前の海のような静けさが広がっている。理由は、全員が分かっていた。今日、藤崎優と雪城沙羅が、本格的にぶつかる。助監督が小声で呟いた。「現場の温度……低すぎません?」ベテランの照明技師が苦笑する。「違うな。これは低いんじゃない」少し間を置き、言った。「張り詰めてるんだよ」遠くで扉が開く音。視線が一斉に向く。雪城沙羅だった。白ではなく、黒のパンツスーツ。長い髪を後ろで一つに束ねている。一歩、また一歩。ヒールの音だけが響く。その姿は、まるで戦場に現れた女王。若いスタッフが思わず息を飲む。「……オーラが違うな」沙羅は誰にも視線を向けない。ただ真っ直ぐ、セットへ向かう。すでに役に入っている。けれど、沙羅の胸の奥には、昨夜から消えないものがあった。――藤崎優との濃厚なラブシーン。あの台本を読んだときに感じた動揺を、沙羅は誰にも見せなかった。見せるわけにはいかなかった。私は女王。藤崎優にいまだ心を乱されているなど、誰にも知られてはいけない。まして、ひかるには絶対に知られてはいけない。沙羅は、自分から優を奪い返すつもりだった。優を弄び、昔と同じように自分の魅力に抗えなくさせる。そう思っていた。――私が優を追い詰める。そのとき、反対側の扉が開いた。藤崎優。ざわめきが、さらに小さく広がる。復帰してまだ日が浅い。だが現場の誰もが理解していた。この男、以前より、遥かに恐ろしい。優はゆっくり歩いてくると、監督に軽く会釈した。無駄な挨拶はしない。それだけで分かる。完全にスイッチが入っている。そして優は、沙羅を見る。ほんの一瞬。それだけだった。だが沙羅には分かった。――見ている、自分のことを。そして、何を考えているのかも分からない。五年前なら、もっと分かった。夫婦だった頃なら、視線だけで互いの感情が読めた。だが今の優は違う。感情を見せない。それが、かえって恐ろしかった。沙羅と優。距離、五メートル。視線がぶつかる。火花は散らない。だが。空気が震えた。先に口を開いたのは沙羅だった。「久しぶりね」穏やかな声。だが温度はない。優も淡々と返す。「ああ」それだけ。
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