All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 111 - Chapter 120

156 Chapters

第111話 条件

FJエンターテインメント本社、最上階。磨き上げられた黒い床に、天井から落ちる静かな光が反射している。足音さえ吸い込まれてしまいそうなほどの静寂の中、久遠ひかるは重厚な扉の前に立ちながら、小さく息を吸った。胸の奥がわずかに波打つ。緊張しているのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、ここへ来るまでの道のりが、決して穏やかなものではなかったということだ。エントランスへ入る瞬間、報道陣に囲まれた。「事務所倒産について一言!」「不正を知っていたのでは?」「主演は降板ですか?」無数のマイク。無数の視線。フラッシュの光が瞬きのように弾ける。逃げ場はなかった。それでも、ひかるは足を止めなかった。前だけを見て歩いた。だが、不思議と恐怖はなかった。昨日、あの言葉を聞くまでは。「主演は久遠ひかるのままで」胸の奥に、まだ微かな余震が残っている。救われたはずなのに、安堵だけでは終わらない。むしろ、心の奥に触れてはいけない場所を揺さぶられた感覚だった。ひかるは橘に促され、扉を入った。広い執務室。窓の向こうに広がる都市の景色。曇り空の下、無数のビルが静かに立ち並んでいる。そして、藤崎優。デスク越しに書類へ目を落としている。顔を上げない。まるで、彼女が入ってきたことなど些細だと言うように。そこにいるのは、かつて自分が知っていた男ではなく、徹底して感情を削ぎ落とした経営者だった。「座ってください」事務的な声。五年前、あの夜に聞いた声とは別人のようだった。ひかるは静かに腰掛ける。沈黙。ペンが紙を走る音だけが響く。時計の秒針すら聞こえそうなほど、空気は張り詰めていた。この距離。手を伸ばしても届かないほど遠い。かつては、こんな沈黙さえ苦しくなかったのに。やがて優は書類を閉じ、視線を向けた。その目に、感情はない。何も映していないようで、すべてを見透かしているようでもある。「単刀直入に言います」一枚の契約書が差し出される。「あなたを、FJエンターテインメントが専属で受け入れる」ひかるの指先が、わずかに強張る。分かっていた。それでも、実際に言葉にされると重い。まるで運命を突きつけられているようだった。「ただし、条件があります」来た。ひかるはまっすぐに優を見る。逃げない視線。もう逃げるつもりはない。優は一拍
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第112話 炎上

それは、あまりにも静かに始まった。ドラマの撮影初日。スタジオに入った瞬間、久遠ひかるは空気の違和感に気づいた。視線。止まる会話。逸らされる目。慣れているはずだった。だが今回は、質が違う。腫れ物に触るような遠慮と、好奇心が混ざっている。マネージャーが小声で言った。「気にしないでください。すぐ収まります」ひかるは何も答えず、台本を開いた。震えはない。もう、折れることはない。そう思ったときだった。スタッフの一人が慌てて駆け込んでくる。「プロデューサー!マズイです!」現場がざわつく。タブレットの画面を覗き込んだ誰かが、息を呑んだ。「……トレンド1位だ」嫌な予感が、背筋をなぞる。マネージャーのスマートフォンが震え続けている。やがて観念したように、画面をひかるへ向けた。見出しが躍っていた。『久遠ひかる 人気俳優・真柴涼真と極秘交際か』一瞬、意味が理解できなかった。「……は?」かすれた声が漏れる。記事には、昨夜の写真が掲載されていた。レストランの前。確かに、真柴涼真と並んで立っている。だがそれは……ドラマの顔合わせの帰りに、偶然店が同じだっただけだ。会話もほとんどしていない。なのに。記事は断定調だった。『倒産騒動の裏で熱愛発覚!!』『スポンサーは激怒か!?』『倫理観に疑問の声』ひかるの指先が、わずかに冷える。熱愛。今、このタイミングで。悪意しかない。「違います」はっきりと言った。だが、その声は雑踏に溶ける。遠巻きに見ていた共演者の一人が、小さく呟く。「やっぱり問題多いな……」聞こえていた。全部。そのとき、プロデューサーのスマートフォンが鳴る。顔色が変わった。「……はい。ええ……分かりました」通話を切る。沈黙。そして、重い声。「スポンサーの一社が、降りる可能性があるそうです」空気が凍る。誰もひかるを見ない。だが分かる、原因は自分だ。胸の奥が、ぎゅっと縮む。それでも。ひかるはゆっくり顔を上げた。「撮影を続けましょう」驚いたように、何人かが目を見開く。「私のことで現場を止めるわけにはいきません」声は、驚くほど静かだった。折れていない。むしろ、芯が強くなっている。だがその頃。FJエンターテインメント本社では、まったく別の空気が流れていた。「発信元は
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第113話 消えない名前

雨の夜だった。細かな雨粒がフロントガラスを絶え間なく叩き、ワイパーが規則正しくそれを押し流していく。滲んだ街の灯りは水彩画のように揺れ、現実と記憶の境界さえ曖昧にしていた。撮影を終えた久遠ひかるは、車窓に流れる光をぼんやりと眺めていた。炎上騒動から三日。現場は、何事もなかったかのように回っている。スタッフの態度も柔らかくなった。スポンサーも戻った。監督も以前と変わらぬ口調で演技の指示を出す。すべてが、元通り。……元通りのはずなのに。胸の奥に、小さな棘のような違和感が残っていた。取り除こうとすると、かえって存在を主張する、そんな厄介な感覚だった。マネージャーがバックミラー越しに言う。「今日はもう報道陣いませんね」「そう……」短く答える。声が思ったよりも乾いていた。そして、不意に聞いた。「藤崎社長は……何か言っていましたか?」マネージャーは少し驚いた顔をした。ひかるの方から彼の名前を出すことは、ほとんどなかったからだ。「いえ。いつも通り、“問題が解決したならそれでいい”とだけ……」ひかるは視線を落とした。らしい、と思う。助けたことすら、伝えない。恩を感じさせない。貸しを作らない。まるで最初から、何も起きていないかのように処理する。……ずるい人。心の中だけで呟く。そうでもしなければ、胸の奥がわずかに揺れてしまうから。そのとき、車が赤信号で止まった。交差点の大型ビジョンが、突然切り替わる。ニュース速報。『人気女優・久遠ひかる 新たな疑惑』空気が凍った。運転手が思わず音量を上げる。画面に映し出されたのは、五年前の写真だった。少し若いひかる。そして隣には、藤崎優。距離の近い、親密そうな一枚。ざわめくアナウンサーの声。「当時、既婚者だった藤崎優さんとの関係が……」そこで映像が切り替わる。ホテルのエントランスを、二人が並んで歩く姿。記憶が、ひかるの心臓を掴んだ。息ができない。「……嘘」かすれた声が漏れる。もう終わったはずだった。風化したはずだった。なのに、どうして、今さら……『略奪愛ではないかとの声も上がっています』『当時の妻との関係悪化の原因は』「消して!」思わず叫んでいた。運転手が慌てて画面をオフにする。だが遅い。もう見てしまった。封じ込めていた記憶が、音を立てて開いていく。あの頃、まだ何
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第114話 雨の交差点

雨脚は弱まるどころか、さらに激しさを増していた。フロントガラスを叩きつける雨粒が連なり、まるで無数の糸が夜の街を覆い隠しているかのようだった。タクシーのワイパーが高速で動き続ける。それでも視界は悪い。滲む光。歪む信号。ヘッドライトが水面に反射し、道路は鏡のように輝いていた。「もうすぐ着きますよ」運転手の声に、ひかるは小さく頷いた。スマートフォンの画面には、藤崎優の緊急インタビュー。—すべての責任は私にありますーその一文を、何度も読み返してしまう。胸が締めつけられる。どうして、そこまで。自分を守るために、彼が盾になっている。あまりにも分かりやすく、あまりにも真っ直ぐなやり方で。考えれば考えるほど、分からなくなる。距離を置こうとしたのは、あなたの方だったのに。過去を断ち切るように線を引いたのも、あなたなのに。なのに、なぜ……。「ここで降ります」ビルの少し手前で、ひかるは料金を支払った。これ以上、ビルの近くに車を横付けさせたくなかった。報道陣がいるかもしれないし、優の会社の前で騒ぎを起こすわけにはいかない。ドアを開けた瞬間、強い雨が肩を打つ。冷たい。髪もコートも、一瞬で濡れていく。だが、不思議と頭は冴えていた。むしろ、研ぎ澄まされている。走ろうとした、そのとき。後方から、甲高いブレーキ音が響いた。振り返る。白い乗用車。スピードが落ちない。……滑っている。タイヤが水を切る嫌な音。ハンドル操作を誤っているのが、遠目にも分かった。理解した瞬間、体が動かなかった。逃げなきゃ。そう思うのに、足が地面に貼りついたように動かない。時間だけが異様に引き伸ばされる。光が迫る。世界が白く弾ける。次の瞬間、強烈な衝撃。金属がぶつかる鈍い音が夜の闇に響き、衝突の勢いでひかるの体が宙へ放り出された。だが。痛みは、遅れてきた。体が宙に浮く感覚。重力が消えたような、一瞬の無音。そして、アスファルトへ叩きつけられる。呼吸ができない。肺が空気を求めて痙攣する。「きゃああ!!」「事故だ!!」「誰か救急車呼んで!!」通行人の悲鳴が雨音を切り裂いた。傘を差した人々が足を止め、瞬く間に小さな人だかりができる。倒れたひかるを見て、一人の男が息を呑んだ。「……久遠ひかるじゃないか!?」ざわめきが広がる。「え、本当に!
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第115話 赤いランプ

病院特有の消毒液の匂いが、優の肺を満たしていた。中央総合病院、救命救急センター。白すぎる壁。無機質な照明。磨かれた床に反射する光が、現実感を薄くしている。自動ドアが開いた瞬間、ストレッチャーが目の前を通り過ぎる。血に濡れた髪。青白い顔。緊急手術のため、手術室へ向かう、久遠ひかるだった。「先生!!早く!!」看護師の叫びが、静まり返った空間を切り裂く。優の足が止まる。……嘘だろ。理解が追いつかない。現実感がない。さっきまで、この街のどこかで息をしていたはずの人間が。笑っていたはずの人間が。こんなにも、簡単に壊れてしまうのか。運ばれていく横顔を見た瞬間、胸の奥に激しい痛みが走る。脳裏に、不意にある光景が浮かんだ。まだ売れていなかった頃のひかる。撮影帰り、腹を空かせていた彼女に、優が何気なく買い与えたハンバーガー。「えっ、いいんですか!?」目を輝かせ、両手で包み込むように受け取っていた。包装紙を開く仕草すら子供のようで——そして一口かじると、「おいしい……!」頬を緩ませ、心から幸せそうに笑った。その顔を見て、なぜか胸の奥が温かくなったことを、今でも覚えている。……どうして、今それを思い出す。「ご家族の方ですか!?」医師の声に、はっとする。言葉が詰まる。違う。家族じゃない。もう、何の関係もない。それでも、「……私が責任者です」気づけば、そう答えていた。運ばれていくストレッチャーを、ただ目で追うことしかできない。そのとき、もう一つの記憶が押し寄せる。『優さん!』無邪気な声。振り向くと、いつも少しだけ弾む足取りで近づいてきた。まだ何者でもなかった自分を、まっすぐに見上げる瞳。あの呼び方が、どれほど特別だったのか―――今さら思い知る。ストレッチャーが手術室へ消えていく。扉が閉まる。赤いランプが灯る。手術中。その三文字が、残酷なほど重い。「頭部を強く打っています。出血も多い……正直、予断を許しません」医師の言葉が、遅れて脳に届く。予断を許さない。つまり……最悪の場合もあるということだ。優は壁に手をついた。指先が震えている。視界の奥で、さらに別の記憶が蘇る。激しい雨の夜だった。仕事で追い詰められていたひかるが、ついに感情を抑えきれなくなった夜。自分の腕の中で、小さく震えて
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第116話 優の涙

 どれほど時間が経ったのか、優には分からなかった。 手術室の前。 無機質な長椅子が並ぶ、白く冷たい廊下。 硬すぎる背もたれの椅子に腰を下ろす気にもなれず、優はただ一人、立ち続けていた。 頭上では、赤いランプが無情に灯っている。 まだ終わらない。 まだ、ひかるは生死の境目にいる。 普段なら、どんな状況でも冷静でいられるはずだった。 会社を背負い、数え切れない決断をしてきた。誰かに感情を悟られることもない。苦しいときほど、平然としていることを自分に課してきた。 だが、今だけは違った。(ひかる……) 心の中で、その名前を繰り返す。 五年間。 優は一度も、この想いを口にしなかった。 愛している。 ずっと、愛していた。 五年前に別れてからも、その気持ちは消えなかった。 むしろ、離れたことで、どれほど自分の中でひかるが大きな存在だったのかを思い知らされた。 自分から手を離したひかるには、会わない。 連絡もしない。 遠くから彼女の活躍を知るだけ。 それでいいと思っていた。 いや――そう思い込もうとしていた。 自分には、ひかるを愛する資格などない。 一度、自分の手で彼女を傷つけた。 だから、今さら自分の気持ちを押しつけることなどできない。 ひかるが幸せなら、それでいい。 そう言い聞かせながら生きてきた。 だが。(もし……ここで、ひかるを失ったら?) その考えだけは、どうしても受け入れられなかった。 胸の奥が締めつけられる。(嫌だ……) 初めて、心の中で幼いほど率直な言葉が浮かんだ。(ひかるを失いたくない) そのとき――― 手術室の扉が開いた。 優の心臓が大きく跳ねる。 医師が出てくる。「……先生」 自分の声とは思えないほど、低かった。 医師は一瞬だけ視線を落とし、それから優を見る。「手術は成功しました」 その瞬間。 肺に溜まっていた空気が、一気に抜けた。 助かった。 その言葉だけが、頭の中で何度も反響する。 助かった。 ひかるは、生きている。 だが――。「ただ……」 優の表情が固まる。「手術中、一時的に心停止を起こしました」 世界から音が消えた。「……心停止……?」「すぐに蘇生できましたが、非常に危険な状態でした」 あと少し遅れていたら。 もし蘇生できなかったら。 
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第117話 眠りの中の声

 深夜二時。 中央総合病院は、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。 人の気配はほとんどない。 照明も落とされ、長い廊下はどこまでも白く、どこか現実味が薄い。 足音さえも吸い込まれてしまいそうな静寂の中で、優はまだ帰っていなかった。 社長室から持ち込ませたノートパソコンは開かれたままだ。 画面には重要な資料が表示されている。 会社の決裁事項。 海外案件。 今後のスケジュール。 普段なら一瞬で判断できることばかりだった。 だが今夜だけは、何一つ頭に入ってこない。 何度、画面をスクロールしても、視線は同じ場所に戻ってしまう。 ガラス越しの、久遠ひかる。 それだけだった。 規則正しく鳴るモニター音。 小さく上下する胸。 生きている。 それだけが、今の救いだった。 優は無意識に拳を握った。 生きている。 何度も心の中で繰り返す。 それなのに、胸の奥に張りついた不安は消えなかった。 医師の言葉が蘇る。「今夜が山です」 つまり、いつ容態が急変してもおかしくない。 その言葉を聞いた瞬間から、優の中では時間が止まっていた。 もし、このガラスの向こうから心拍音が消えたら。 もし、二度とその瞳が開かなかったら。 考えるだけで、呼吸が苦しくなる。 ――俺は、また失うのか。 五年前もそうだった。 大切だったものから逃げた。 自分の気持ちを認めることが怖くて、ひかるを傷つけた。 そして五年経った今も、優は彼女への想いを胸の奥に閉じ込めていた。 社長として。 一人の男として。 何もなかったような顔をして。 だが、今になって思う。 そんなふうに自分を偽ってきた意味など、あったのだろうか。 優は腕を組み、壁にもたれたまま微動だにしない。 ただ、ひかるを見つめ続けていた。 そのとき。 微かな音がした。 最初は空耳かと思った。 だがもう一度。 ……動いた? 優は反射的に立ち上がった。 椅子が床を擦る音が、静かな廊下に響く。 ガラスに手をつき、身を乗り出す。 ひかるの唇が、わずかに震えていた。 看護師が気づき、すぐに医師を呼ぶ。 慌ただしく人が集まる中、優だけが時間から取り残されたように動けなかった。 ――ひかる。 声をかけたい。 名前を呼びたい。 けれど、怖かった。 期待して、また絶
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第118話 微笑む女

 朝の光が、冷たいガラス窓を白く染めていた。 長い夜が終わった。 だが優には、時間が流れた感覚がなかった。 ほとんど眠っていないはずなのに、不思議と頭は冴えている。 張り詰めすぎた神経が、疲労すら遮断していた。 ICUの前に立ち、優はガラス越しにひかるを見る。 眠ったままのひかる。 小さな胸が、規則正しく上下している。 それだけでいい。 生きている。 それ以外は、何も望まない。 何度そう自分に言い聞かせても、胸の奥にある恐怖は消えなかった。 もし、あの呼吸が止まったら。 もし、もう二度とその瞳を見ることができなかったら。 考えただけで、心臓を素手で握り潰されるような痛みが走る。 ――俺は、こんなにもひかるを愛していたのか。 いや。 違う。 今、突然愛したわけではない。 ずっと前からだった。 五年前。 優は、その気持ちを誰にも見せなかった。 沙羅と結婚していた頃でさえ、自分の本当の感情をひた隠しにしてきた。 仕事を優先した。 感情を抑えた。 そして、自分自身にさえ嘘をついた。 沙羅との結婚が終わったときも、「仕方がなかった」と思い込もうとした。 けれど、本当は違った。 優の心の奥には、ずっとひかるがいた。 誰よりも愛していた。 だからこそ、その事実を認めることが怖かった。 認めれば、これまでのすべてが崩れてしまう気がした。 だから隠した。 ひたすら隠し続けた。 それなのに今――。 ひかるを失うかもしれないという現実を前にして、もう何ひとつ隠せなくなっていた。 その瞬間だった。 背後から、柔らかなヒールの音が響く。 規則正しく、迷いがない。 この病院の誰よりも場に馴染まない音。 優は振り返る。 そして、一瞬だけ空気が凍った。「……久しぶりね、優」 女は微笑んでいた。 一分の隙もない装い。 淡いベージュのコート。整えられた髪。完璧なメイク。 まるでこれからパーティーにでも向かうような姿。 病院の廊下には、とても場違いだった。 ここは、生と死の境界に最も近い場所だ。 そして、そこへ現れたのは――。 雪城沙羅。 五年前、優と離婚した女。 互いに仕事を優先し、感情のすれ違いの果てに終わった結婚。 少なくとも、世間はそう思っている。 優は沙羅を見つめた。 胸の奥に、かつ
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第119話 白い訪問者

第119話 白い訪問者 深夜の病室は、音がほとんど存在しなかった。 規則的に鳴る心電図の電子音だけが、かろうじて「生」を証明している。 ピッ……ピッ…… その音を聞きながら、久遠ひかるは、まだ眠りの底に沈んでいた。 包帯に覆われた額。 腕につながれた点滴。 人工呼吸器は外れたが、呼吸は浅い。 胸がかすかに上下するたび、細い命がここに残っていることだけが分かる。 いつ意識が戻るか分からない。 医師は、そう言っていた。 そして今夜、優は何度もその言葉を思い返していた。 眠れない。 目を閉じれば、手術室の赤いランプが浮かぶ。 もし、あのままひかるが戻ってこなかったら。 その考えだけは、どうしても最後まで考えることができなかった。  ――生きていてくれ。ただ、それだけだった。 優は疲れて鈍くなった頭を振ると、ガラス越しにひかるに呼びかける。 「ひかる、少し外の空気を吸ってくるよ」 そう言うと、優はひかるの病室の前の廊下から離れた。 その時だった。 廊下の奥から、静かなヒールの音が近づいてくる。 コツ…… コツ…… コツ…… 夜勤の看護師が顔を上げた。 一瞬、誰だろうと思う。 こんな時間に面会者が来ることは珍しい。 だが次の瞬間、理解した。 帽子もサングラスもしていない。 それでも隠しきれない存在感。 雪城沙羅だった。 かつて“氷の女王”と呼ばれた女優。 年齢を重ねてもなお、完成された美貌。 白いコートを脱ぐ所作すら、美しい。 その姿には、病院という場所には似つかわしくないほどの静かな威圧感があった。「面会は……」 看護師が言いかけると、沙羅は穏やかに微笑んだ。「少しだけ。眠っているなら、問題ないでしょう?」 声は柔らかい。 それなのに、拒絶しづらい種類の圧があった。 看護師は思わず頷いてしまう。 沙羅は静かに病室へ入った。 扉が閉まる。 音が消える。 そして、空気が変わった。 沙羅は、ベッドの上のひかるを見つめた。 しばらく動かない。 まるで、目の前にある光景を一つひとつ確かめるように。 包帯。 青白い肌。 細くなった腕。 眠っているひかるの姿は、あまりにも無防備だった。 かつてなら、絶対に見せなかった姿。 誰にも弱さを見せず、何度傷つけられても立ち上がってきた女。
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第120話 震える瞳

 朝は来たが、ひかるの中には夜がまだ残っていた。 カーテンの隙間から差し込む光が、やけに白い。 まぶしいはずなのに、温度を感じない。 ひかるはゆっくりと目を開けた。 天井を見つめながら、ここがどこなのか理解するまで、少し時間がかかった。 病院――。 その言葉に辿り着いた瞬間、胸の奥が重くなる。 記憶が途切れ途切れに蘇る。 雨。 ヘッドライト。 迫る白。 叩きつけられたアスファルトの冷たい感覚。 目の前を流れる、自分の血。 そして…… あの女。「あなた、まだ生きてたのね」 胸の奥が強く縮む。 ひかるは息を止めた。 夢ではない。 確かに聞いた。 確かに見た。 あの目。 あの微笑み。 雪城沙羅。 なぜ、ここにいるの――。 考えようとすると、頭の奥が痛む。 それでも、その疑問だけは消えなかった。 ――沙羅は、何をしに来たの? 昨夜の言葉が、何度も蘇る。 まだ何もしない―――。 その言葉の中に含まれていた「まだ」という二文字。 あれは、脅しだった。 ひかるには分かる。 身体は動かない。 立ち上がることもできない。 逃げることもできない。 もし、またあの女が来たら――。 恐怖が遅れて体を支配する。 指先が震えた。 そのとき。 病室の外で足音が止まる。 ひかるの体がびくりと硬直した。 まさか。 また来たの――? 心臓が大きく跳ねる。 扉が開く音。 ひかるは反射的に目を向けた。 そこに立っていたのは。「……ひかる」 低く、震える声。 藤崎優だった。 その瞬間。 張り詰めていた何かが、ふっと緩む。 ――優さん……。 その名前が心の中に浮かんだだけで、胸の奥が熱くなった。 安心した。 それだけではない。 ずっと会いたかった。 でも、会ってしまえば、また何かが変わってしまうと思っていた。 だから五年間、離れていた。 なのに今、自分が一番求めていた人が、目の前にいる。 そのことが、たまらなく嬉しくて。 同時に、涙が溢れた。 優は一歩、踏み出す。 その顔を見た瞬間、胸が締めつけられる。 ひどく疲れていた。 髭も剃らず、ネクタイも緩んでいる。 目の下には、はっきりと疲労の跡が残っていた。 この男がどれだけ眠っていないのか、ひかるには一目で分かった。 ――私
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