All Chapters of 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―: Chapter 111 - Chapter 113

113 Chapters

第111話 条件

FJエンターテインメント本社、最上階。磨き上げられた黒い床に、天井から落ちる静かな光が反射している。足音さえ吸い込まれてしまいそうなほどの静寂の中、久遠ひかるは重厚な扉の前に立ちながら、小さく息を吸った。胸の奥がわずかに波打つ。緊張しているのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、ここへ来るまでの道のりが、決して穏やかなものではなかったということだ。エントランスへ入る瞬間、報道陣に囲まれた。「事務所倒産について一言!」「不正を知っていたのでは?」「主演は降板ですか?」無数のマイク。無数の視線。フラッシュの光が瞬きのように弾ける。逃げ場はなかった。それでも、ひかるは足を止めなかった。前だけを見て歩いた。だが、不思議と恐怖はなかった。昨日、あの言葉を聞くまでは。「主演は久遠ひかるのままで」胸の奥に、まだ微かな余震が残っている。救われたはずなのに、安堵だけでは終わらない。むしろ、心の奥に触れてはいけない場所を揺さぶられた感覚だった。ひかるは橘に促され、扉を入った。広い執務室。窓の向こうに広がる都市の景色。曇り空の下、無数のビルが静かに立ち並んでいる。そして、藤崎優。デスク越しに書類へ目を落としている。顔を上げない。まるで、彼女が入ってきたことなど些細だと言うように。そこにいるのは、かつて自分が知っていた男ではなく、徹底して感情を削ぎ落とした経営者だった。「座ってください」事務的な声。五年前、あの夜に聞いた声とは別人のようだった。ひかるは静かに腰掛ける。沈黙。ペンが紙を走る音だけが響く。時計の秒針すら聞こえそうなほど、空気は張り詰めていた。この距離。手を伸ばしても届かないほど遠い。かつては、こんな沈黙さえ苦しくなかったのに。やがて優は書類を閉じ、視線を向けた。その目に、感情はない。何も映していないようで、すべてを見透かしているようでもある。「単刀直入に言います」一枚の契約書が差し出される。「あなたを、FJエンターテインメントが専属で受け入れる」ひかるの指先が、わずかに強張る。分かっていた。それでも、実際に言葉にされると重い。まるで運命を突きつけられているようだった。「ただし、条件があります」来た。ひかるはまっすぐに優を見る。逃げない視線。もう逃げるつもりはない。優は一拍
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第112話

それは、あまりにも静かに始まった。ドラマの撮影初日。スタジオに入った瞬間、久遠ひかるは空気の違和感に気づいた。視線。止まる会話。逸らされる目。慣れているはずだった。だが今回は、質が違う。腫れ物に触るような遠慮と、好奇心が混ざっている。マネージャーが小声で言った。「気にしないでください。すぐ収まります」ひかるは何も答えず、台本を開いた。震えはない。もう、折れることはない。そう思ったときだった。スタッフの一人が慌てて駆け込んでくる。「プロデューサー!マズイです!」現場がざわつく。タブレットの画面を覗き込んだ誰かが、息を呑んだ。「……トレンド1位だ」嫌な予感が、背筋をなぞる。マネージャーのスマートフォンが震え続けている。やがて観念したように、画面をひかるへ向けた。見出しが躍っていた。『久遠ひかる 人気俳優・真柴涼真と極秘交際か』一瞬、意味が理解できなかった。「……は?」かすれた声が漏れる。記事には、昨夜の写真が掲載されていた。レストランの前。確かに、真柴涼真と並んで立っている。だがそれは……ドラマの顔合わせの帰りに、偶然店が同じだっただけだ。会話もほとんどしていない。なのに。記事は断定調だった。『倒産騒動の裏で熱愛発覚!!』『スポンサーは激怒か!?』『倫理観に疑問の声』ひかるの指先が、わずかに冷える。熱愛。今、このタイミングで。悪意しかない。「違います」はっきりと言った。だが、その声は雑踏に溶ける。遠巻きに見ていた共演者の一人が、小さく呟く。「やっぱり問題多いな……」聞こえていた。全部。そのとき、プロデューサーのスマートフォンが鳴る。顔色が変わった。「……はい。ええ……分かりました」通話を切る。沈黙。そして、重い声。「スポンサーの一社が、降りる可能性があるそうです」空気が凍る。誰もひかるを見ない。だが分かる、原因は自分だ。胸の奥が、ぎゅっと縮む。それでも。ひかるはゆっくり顔を上げた。「撮影を続けましょう」驚いたように、何人かが目を見開く。「私のことで現場を止めるわけにはいきません」声は、驚くほど静かだった。折れていない。むしろ、芯が強くなっている。だがその頃。FJエンターテインメント本社では、まったく別の空気が流れていた。「発信元
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第113話 消えない名前

雨の夜だった。細かな雨粒がフロントガラスを絶え間なく叩き、ワイパーが規則正しくそれを押し流していく。滲んだ街の灯りは水彩画のように揺れ、現実と記憶の境界さえ曖昧にしていた。撮影を終えた久遠ひかるは、車窓に流れる光をぼんやりと眺めていた。炎上騒動から三日。現場は、何事もなかったかのように回っている。スタッフの態度も柔らかくなった。スポンサーも戻った。監督も以前と変わらぬ口調で演技の指示を出す。すべてが、元通り。……元通りのはずなのに。胸の奥に、小さな棘のような違和感が残っていた。取り除こうとすると、かえって存在を主張する、そんな厄介な感覚だった。マネージャーがバックミラー越しに言う。「今日はもう報道陣いませんね」「そう……」短く答える。声が思ったよりも乾いていた。そして、不意に聞いた。「藤崎社長は……何か言っていましたか?」マネージャーは少し驚いた顔をした。ひかるの方から彼の名前を出すことは、ほとんどなかったからだ。「いえ。いつも通り、“問題が解決したならそれでいい”とだけ……」ひかるは視線を落とした。らしい、と思う。助けたことすら、伝えない。恩を感じさせない。貸しを作らない。まるで最初から、何も起きていないかのように処理する。……ずるい人。心の中だけで呟く。そうでもしなければ、胸の奥がわずかに揺れてしまうから。そのとき、車が赤信号で止まった。交差点の大型ビジョンが、突然切り替わる。ニュース速報。『人気女優・久遠ひかる 新たな疑惑』空気が凍った。運転手が思わず音量を上げる。画面に映し出されたのは、五年前の写真だった。少し若いひかる。そして隣には、藤崎優。距離の近い、親密そうな一枚。ざわめくアナウンサーの声。「当時、既婚者だった藤崎優さんとの関係が……」そこで映像が切り替わる。ホテルのエントランスを、二人が並んで歩く姿。記憶が、ひかるの心臓を掴んだ。息ができない。「……嘘」かすれた声が漏れる。もう終わったはずだった。風化したはずだった。なのに、どうして、今さら……『略奪愛ではないかとの声も上がっています』『当時の妻との関係悪化の原因は』「消して!」思わず叫んでいた。運転手が慌てて画面をオフにする。だが遅い。もう見てしまった。封じ込めていた記憶が、音を立てて開いていく。あの頃、まだ何
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