誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―의 모든 챕터: 챕터 71 - 챕터 80

156 챕터

第71話 飲み込まれる者

次に撮影されるのは、物語の中でも重要な意味を持つ、夫婦の回想シーンだった。現在の冷え切った関係とは対照的に、まだ二人の間にかすかな温度が残っていた頃――そんな過去を描く場面である。セットには、重厚感のあるダイニングが再現されていた。長い年月をかけて使い込まれたように見える広いダイニングテーブル。磨き上げられた木目が照明を柔らかく反射し、その上には整然と並べられたカトラリーと、湯気を立てる料理が置かれている。壁には落ち着いた色合いの絵画が飾られ、天井のシャンデリアが穏やかな光を落としていた。静かな生活の象徴のような空間だった。スタッフが息を潜める中、監督が小さく手を上げる。「……本番、いきます」空気が張り詰めた。広いダイニングテーブルを挟み、玲子と蒼一が向き合う。二人の距離は決して遠くない。だが、その間には目に見えない隔たりが横たわっているようだった。「最近、お忙しいのね」玲子の声は穏やかだが、逃げ場がない。柔らかな響きなのに、言葉はまるで細い刃のように蒼一へ向かう。責めているわけではない。問い詰めているわけでもない。ただ事実を述べただけ――それなのに、なぜか胸の奥を静かに追い詰める力があった。蒼一はナイフとフォークを置く。金属が皿に触れる微かな音が、やけに大きく響いた。「会社が成長している証拠だ」感情を抑えた返答。経営者としての誇りすら感じさせる声音だった。玲子は一拍だけ間を置く。その沈黙が、この家で積み重なってきた時間を物語っているかのようだった。「家庭よりも?」一瞬の沈黙。現場の空気がわずかに震える。優がゆっくり視線を上げる。その目には、言葉にできない感情が揺れていた。責任、葛藤、そして説明できない疲労――いくつもの感情が重なり合い、簡単な言葉では表せない深みを生んでいる。「……君は、何も心配しなくていい」それは優しさなのか、それとも距離を置くための言葉なのか。観る者によって解釈が分かれる、絶妙な響きだった。ひかるが微かに笑う。その笑みは完璧だった。社長夫人としての品格を崩さず、感情を表に出しすぎない。だが、ほんのわずかに滲む影が、この女性の孤独を雄弁に物語っている。「心配なんてしていないわ。だってあなたは――私の夫だもの」誇りと孤独が同時に滲む声。夫であることは揺るがない事実。だからこそ信じるしかない―
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第72話 支える者、燃える者

「――はい、オールアップ! 本日の撮影は以上です!」助監督の張りのある声がスタジオに響いた瞬間、緊張に包まれていた空気が一気にほどけた。スタッフたちは肩を回し、機材の電源を落としながら、それぞれに安堵の表情を浮かべている。その中心にいたのは、やはり藤崎優と久遠ひかるだった。監督がまっすぐ二人の元へ歩み寄る。「いやあ……今日のシーンは本当に良かった。夫婦の距離感、あの絶妙な温度……鳥肌が立ったよ」ベテランの照明スタッフも頷く。「カメラ越しでも伝わるんですよ。言葉にしなくても感情が流れてくるっていうか……あれは簡単にできることじゃない」「このドラマ、間違いなく代表作になりますよ」称賛の言葉が次々に重なっていく。ひかるは少し照れたように微笑み、優はいつもの落ち着いた表情で「ありがとうございます」と短く頭を下げた。その少し離れた場所――暗がりに近い位置で、結城美緒はその光景を見つめていた。胸の奥が、じり、と音を立てる。まただ。今日も二人だけが褒められている。自分の演技だって悪くなかったはずだ。むしろ手応えはあった。それなのに、誰も自分の名前を口にしない。爪が掌に食い込む。(笑って……祝福しているふりをしなさい)心の中で自分に言い聞かせながら、美緒はゆっくりと表情を整えた。しかし視線だけは、どうしても鋭さを帯びてしまう。――負けたくない。嫉妬の炎は、静かに、だが確実に燃え上がっていた。その頃、優は荷物をまとめていたひかるに声をかけた。「ひかる、このあと時間あるか?」「え? はい、大丈夫ですけど……」「少し付き合え。うまい店を見つけたんだ」突然の誘いに、ひかるの表情がぱっと明るくなる。「行きます!」即答だった。二人が向かったのは、スタジオから少し離れた場所にある落ち着いた和食店だった。派手さはないが、柔らかな照明と静かな空間が心を緩めてくれる。個室に通され、温かいお茶が運ばれてくる。ようやく一息ついたところで、優がひかるをまっすぐ見た。「……最近、いろいろ騒がれているだろ」その一言で、ひかるの指先がわずかに止まる。先日の噂。忘れようとしても、完全には消えてくれない影。優は続ける。「気になっていた。大丈夫か」問い詰める口調ではない。ただ静かに、相手の言葉を待つ声だった。ひかるは小さく息を吐く。不思議と、
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第73話 揺らぐ主役

「誰よりも、君だけを」の第1話の撮影が無事に終わり、現場にはどこか達成感に似た空気が漂っていた。次の撮影は来週の月曜日から。束の間の休息となる週末の土曜日だった。その日、久遠ひかるが所属する事務所の社長・白鳥可憐は、ある場所へと足を運んでいた。東条謙一郎の事務所——。業界に名を知らぬ者はいない、大物プロデューサーの牙城とも言える場所だ。エントランスに足を踏み入れた瞬間、可憐は小さく息を呑んだ。自分の事務所も決して小さいわけではない。だが、ここは規模も格も違う。磨き上げられた大理石の床、静かに光を反射するガラスの壁、行き交う社員たちの無駄のない動き。そのすべてが、この会社の力を物語っていた。受付を済ませると、すぐに秘書に案内され、エレベーターで上層階へ向かう。到着したのは、ビルのワンフロアを丸ごと使ったオフィスだった。通されたのは、ひと目で“特別”だと分かる豪華な応接室。重厚な木製の扉が静かに閉まる。中央には深い色合いのカーペット、その上に置かれた重厚なテーブル。そして、身体が沈み込むほど柔らかな革張りのソファ。白鳥可憐は、その豪華なソファにポツンと座っていた。広すぎる空間が、かえって落ち着かない。何の話かは、何となく想像がついている。むしろ、それ以外に呼び出される理由が思い浮かばない。—ひかるの噂の件だろう。そう分かっていても、東条謙一郎という人物に直接呼び出されるのは、やはり緊張する。可憐は静かに息を整え、背筋を伸ばした。やがて、控えめなノックのあと、ドアが開く。入ってきたのは東条の秘書だった。「本日はお忙しい中ありがとうございます。東条はまもなく参りますので」一通りの挨拶を交わし、可憐も丁寧に頭を下げる。再びソファに腰かけようとした、そのときだった。もう一度、ドアが開く。空気がわずかに張り詰める。入ってきたのは、今度こそ——東条謙一郎本人だった。年齢を重ねてもなお鋭さを失わない眼光。多くを語らずとも、人を従わせる圧のようなものがある。可憐はすぐに立ち上がった。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」挨拶を交わし、再びソファに腰かける。自然と姿勢が正されていた。東条は秘書から書類を受け取ると、無言のまま目を落とした。ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。どれほどの時間が経ったのか分からない。だが、
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第74話 静かに削られていくもの

月曜日の朝。都内のスタジオには、まだ早い時間だというのに、多くのスタッフが行き交っていた。機材を運ぶ音。台本を確認し合う声。照明の角度を調整する金属音。ドラマ『誰よりも、君だけを』第二週の撮影が始まろうとしていた。久遠ひかるは、誰よりも早くスタジオに入った。週末、白鳥可憐から詳しい話は聞かされていない。だが——長年この世界にいる彼女には分かっていた。何かが動いている。それも、あまり良くない方向に。「おはようございます」いつも通り、穏やかな声で挨拶する。だが返ってきたのは、どこかぎこちない「おはようございます」だった。視線が合わない。一瞬だけ目を向け、すぐ逸らすスタッフ。ひかるは気付かないふりをした。こういう空気に、いちいち反応してはいけない。それが、長く生き残るための術だった。控室へ向かい、ドアを開ける。そして、ほんのわずかに動きが止まった。——部屋が変わっている。以前まで使っていた主演用の広い控室ではない。鏡も小さい。ソファもない。簡素な椅子が二脚だけ置かれている。壁に貼られた紙にはこう書かれていた。【久遠ひかる 様】間違いではない。だが、主演の待遇ではなかった。ひかるはゆっくりとドアを閉めると、静かに息を吐いた。(……そう)それだけだった。怒りも、悲しみも表に出さない。ただ現実を受け入れる。バッグを置き、台本を取り出した時だった。廊下の向こうから、華やかな笑い声が聞こえてくる。「えっ、本当に?ありがとうございます!」結城美緒だった。スタッフに囲まれながら、以前ひかるが使っていた控室へ入っていく。ドアが開いた瞬間、中の豪華な鏡が見えた。一瞬だけ、沈黙。だが次の瞬間、ひかるは台本に視線を落とした。今、自分がやるべきことは一つだけ。演じること。それ以外は、すべて雑音だ。ノックの音がした。「ひかるさん……」篠原夕季が、不安そうな顔を覗かせる。「控室の件、私……」「いいのよ」ひかるは微笑んだ。「椅子があるだけ十分だわ」その言葉に、夕季の目が揺れる。強がりだと分かるからだ。だがひかるは続けた。「それより台本。変更が入っているはずよ」夕季は慌てて資料を差し出す。ページを開いた瞬間、空気が止まった。赤字だらけだった。玲子の台詞が削られている。重要だったはずの
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第75話 仕組まれた現実

その日の撮影は、朝からどこか張り詰めた空気に包まれていた。スタジオの隅で、スタッフがひそひそと何かを話している。誰かがスマートフォンの画面を覗き込み、小さく息を呑む。視線が流れる先は——久遠ひかる。本人に聞こえないと思っているのか、声は抑えられているが、完全に消えているわけではない。「……出たね、第二弾」「今度は決定的じゃない?」「もうイメージ戻らないだろ……」篠原夕季は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。嫌な予感がする。慌ててスマートフォンを取り出し、ニュースサイトを開く。そして、次の瞬間——指先が凍りついた。『大女優・久遠ひかるの裏の顔——黒崎俊哉の“元愛人”だった過去』大きな見出し。断定的な文字。「疑惑」ではない。元愛人。まるで事実であるかのように書かれていた。記事の中には、どこから入手したのか分からない写真まで掲載されている。黒崎のオフィスビルから出てくるひかる。マンションのエントランスで並んで歩く後ろ姿。どれも説明などいくらでもつく写真なのに、悪意のある文章が添えられるだけで、意味が変わる。——人は、見たいものしか見ない。夕季の喉が震えた。「ひかるさん……」顔を上げると、当の本人が数メートル先を歩いている。まだ知らないのかもしれない。そう思ったが、その期待はすぐに消えた。スタッフの一人が、気まずそうにひかるへ頭を下げながら通り過ぎたのだ。あの態度。もう現場全体に広がっている。夕季は駆け寄った。「ひかるさん!あの……これ……」スマートフォンを差し出す手が震える。ひかるは無言受け取り、画面に視線を落とした。数秒。表情は動かない。驚きも、怒りもない。ただ静かに記事を読み終えると、スマートフォンを夕季へ返した。「……よくできているわね」それだけだった。夕季は思わず声を荒げる。「よくできてる、じゃありません!!こんなの、完全に事実みたいに書かれてます!」ひかるは廊下の窓越しに外を見た。冬の光が、硬く差し込んでいる。そして、ゆっくりと言った。「既成事実にするつもりなのよ」夕季の息が止まる。否定ではない。状況の理解だった。ひかるは続ける。「第一弾で“疑惑”を流す。次に“関係者の証言”。そして今回は“元愛人”。段階を踏んでいるわ」その声は、異様なほど落ち着いてい
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第76話 美緒の“笑顔の刃”

「本当に勉強になります。ひかるさんの背中を見ているだけで、毎日が刺激的で……」柔らかな笑顔を浮かべながら、結城美緒は取材記者にそう答えた。スタジオの一角に設けられた簡易インタビュースペース。ドラマ『誰よりも、君だけを』の注目度が上がるにつれ、こうした合同取材も増えていた。記者は満足そうに頷く。「現場の雰囲気も良さそうですね」「はい。緊張感はありますけど、とても温かいです。特に久遠ひかるさんは、やっぱりすごい方だなって。私なんて、まだまだ足元にも及びません」謙虚な言葉。非の打ち所のない受け答え。少し離れた場所でその様子を見ていたスタッフが、小声で言った。「できた子だよな……新人とは思えない」その評価は、決して間違いではなかった。——表向きは。取材が終わり、記者たちが立ち去ると、美緒はふっと息を吐いた。張り付けていた笑顔が、静かに消える。マネージャーが近づいてくる。「完璧でしたよ。さすがです」「当たり前です」美緒は淡々と答えた。だが、その瞳には強い光が宿っている。「……で?」短く促す。マネージャーは周囲を確認し、声を落とした。「スポンサー側には、もう一度伝えてあります。視聴者のイメージを考えるなら、“主役の再検討も必要ではないか”と」美緒は小さく頷いた。驚きはない。すべて、予定通り。「父は何て?」「強くは出ません。ただ、“企業イメージに関わる”という形で圧をかけるそうです。制作側も無視はできないかと」そこで初めて、美緒の口元がわずかに緩んだ。だが、それは勝利の笑みではない。まだ途中だと分かっている者の、冷静な表情だった。「焦る必要はありません。撮影が進めば進むほど、リスクは嫌われますから」主役にスキャンダルがある——その構図が制作の不安になればいい。降板までいかなくてもいい。出番が減るだけでもいい。空いた場所には、必ず誰かが入る。その“誰か”になる準備を、美緒はずっと前からしてきた。ふと、視線を上げる。遠くで、久遠ひかるがスタッフと談笑していた。自然に人が集まる。現場の中心にいる。その光景を見つめながら、美緒は静かに思う。(……悔しい)胸の奥にあるのは、単純な嫉妬ではない。幼い頃から、ずっと知っていたのだ。この世界がどれほど残酷か。美緒の家は裕福だった。だが、父は厳しい人物で、何度もこ
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第77話 優が気付く

都内の一角にある、会員制の静かなラウンジ。重厚な扉の向こうは外界の喧騒とは切り離されたように落ち着いており、低く流れるジャズが空間を満たしていた。藤崎優は、窓際の席に腰掛け、テーブルに広げられた数枚の書類へ視線を落としていた。私立探偵から届いた、追加の調査報告書だった。ゆっくりとページをめくる。そこに記されている名前は、すでに優の中で一本の線として繋がり始めていた。結城美緒——父は中堅ながらも影響力を持つ企業の社長。その会社は、『誰よりも、君だけを』のスポンサーの一社でもある。報告書には簡潔に書かれていた。スポンサー側から制作へ、繰り返し「主役のイメージ」を懸念する声が入っている、と。優は小さく息を吐いた。(やはりな……)次のページ。相沢玲奈。複数の匿名アカウントとの接触履歴。週刊誌記者との不自然な接近。直接的な証拠はない。だが、噂の火元の近くに、必ず彼女の影がある。そして——黒崎俊哉。記事に対して、否定も肯定もしない。沈黙。だが、この場合の沈黙は、世間にとって肯定とほぼ同義だった。優は報告書を閉じた。構図は単純だ。美緒の父がスポンサーとして圧力をかける。玲奈が噂を拡散する。俊哉が沈黙し、過去を“事実らしく”見せる。誰か一人の暴走ではない。意図的に作られた流れだ。そのとき、優の胸の奥に、静かな熱が灯った。怒りだった。だがそれは、激情とは程遠い。表情には一切出ない、深く沈んだ怒り。グラスの水に手を伸ばし、一口飲む。(くだらないことをする……)才能のある女優を、こんなやり方で追い詰めるなど。優の脳裏に浮かんだのは、現場での久遠ひかるの姿だった。カメラが回れば、空気を変える。どれほど騒ぎがあっても、芝居には一切持ち込まない。弱さを見せない強さ。——だからこそ、余計に腹が立つ。そこへ、静かな足音が近づいた。「優さん?」顔を上げると、そこにひかるが立っていた。仕事帰りなのだろう、ラフな装いだったが、それでも目を引く存在感がある。「偶然ね」「本当にな。座るか?」ひかるは微笑み、向かいの席に腰を下ろした。「ここ、よく来るんですか?」「考え事をしたいときだけだ」その言葉に、ひかるは少しだけ首を傾げたが、それ以上は踏み込まなかった。ウェイターが水を置く。短い沈黙。やがて優が口を開いた。
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第78話 崩れゆく男

 黒崎俊哉の机の上に、一通の封書が置かれていた。重厚なクリーム色の封筒。差出人の名前を見た瞬間、彼の喉がひりついた。――東条謙一郎法律事務所。 震える指で封を切る。『未払いとなっております家政婦契約費用、月額一千万円につき、早急なお支払いをお願いいたします』 淡々とした文章だった。だが、そこに感情がないことが、かえって残酷だった。「……一千万円、か」 かつては痛くも痒くもなかった金額だ。久遠ひかると共にいた頃、彼の会社は順調に利益を伸ばし、資金繰りに困ることなど一度もなかった。 だが今は違う。 スポンサーは離れ、取引先は契約更新を見送り、銀行の態度も露骨に冷たくなった。 俊哉は、数日前に事務所を解約したばかりだった。 ガランとしたオフィスに最後まで残っていたのは、重役用の椅子と、大きすぎるデスクだけ。 それらを処分したとき、ようやく彼は理解した。――自分は、転落したのだと。 現在の仕事場は、自宅の一室だった。六畳ほどの狭い部屋にパソコンと簡素な机を置き、細々と個人案件を請け負っている。 かつて部下に任せていたような小さな仕事を、自分の手で。 プライドはとうに擦り切れていた。 リビングから、テレビの音が響く。 笑い声。 甲高い、無神経な笑い声。「ねえ俊哉ー、コーヒー淹れてー」 ソファに寝転び、スマートフォンをいじりながら、相沢玲奈が言った。足を組み、菓子袋を床に散らかしたまま。 俊哉のこめかみに、鈍い痛みが走る。「……自分でやれ」「えー? 心狭くない?」 玲奈は唇を尖らせたが、動こうとはしない。 最近の彼女は、オーディションを受ける様子もない。演技のレッスンに通うでもなく、ただ家にいる。 その姿を見るたび、俊哉の胸に黒い澱が溜まっていった。 数週間後。 銀行からの最終通告を受け、俊哉は不動産会社の担当者と向かい合っていた。「……この家を、売ります」 言葉にした瞬間、胸の奥が空洞になった。 成功の象徴だった高層マンション。 夜景が一望できるこの部屋で、彼は多くの人間を見下ろしてきた。 だが今、見下ろされているのは自分だった。 帰宅後、俊哉は玲奈に告げた。「家を売る。もう維持できない」「は?」 玲奈は目を見開いた。「ちょっと待ってよ! 私、こんなところ嫌だけど住んでたのに!」「嫌なら出ていけ」
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第79話 最大の転落

 スタジオに、妙な静けさが漂っていた。 撮影の合間、本来ならスタッフの声や機材の動く音が絶えないはずの現場が、どこかよそよそしい。視線が合うと、誰もが一瞬だけ言葉を止める。 久遠ひかるは、その違和感に気付いていた。 だが、気付かないふりをしていた。「久遠さん、少しお時間よろしいでしょうか」 振り返ると、そこに立っていたのは東条謙一郎の秘書だった。 秘書について行くと、東条謙一郎本人が待っていた。業界でも知らぬ者のいない大物プロデューサー。普段は現場に滅多に顔を出さない男が、今日はわざわざ来ている。 それだけで、十分すぎるほど嫌な予感がした。「控室でお話しできますか」「はい」 秘書の声に短く答え、ひかるは歩き出す。背筋は伸び、歩幅も一定。どこから見ても、揺らぎのない主演女優だった。 控室のドアが閉まる。 外の音が遠ざかった。 東条は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した後、低く告げた。「単刀直入に言う。主演降板の話が出ている」 空気が、止まった。 だが—— ひかるの表情は変わらない。「理由を、お聞きしてもよろしいですか」「例の週刊誌だ。第二弾の記事が出たことで、スポンサー側が非常に神経質になっている。“企業イメージに影響する可能性がある”と」 ひかるは小さく息を吸った。 やはり、来たか。 黒崎俊哉の元愛人——そんな見出しが躍った誌面を、彼女は昨夜すでに読んでいた。 怒りも、悲しみも、不思議なほど湧かなかった。ただ一つ、胸に落ちた感情がある。(これは、作られている) 偶然ではない。 誰かが意図的に、自分をこの場所から引きずり下ろそうとしている。 東条が続けた。「まだ正式決定ではない。しかし……代役の候補も挙がっている」 言葉の先を、ひかるは待たなかった。「結城美緒さん、ですね」 東条の目がわずかに見開かれる。「……話が早い」「現場の空気を見れば分かります」 美緒は最近、やけに堂々としていた。主演のような顔で中央に立ち、スタッフに笑顔を振りまく。その裏で何が動いているのか——想像するのは難しくなかった。 数秒の沈黙。 東条は、静かに言った。「君は、悔しくないのか」 その問いに、ひかるは少しだけ視線を落とした。 悔しくないはずがない。 この作品のために、どれだけの時間を費やしてきたのか。台本を読み込み
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第80話 優との静かな夜

 その夜、雨が降っていた。 昼過ぎから降り始めた雨は、夜になっても弱まる気配を見せず、スタジオの屋根を叩く音が一定のリズムを刻んでいる。撮影は予定より早く終わったが、現場の空気はどこか重かった。 主演降板の噂は、すでに隠しきれないほど広がっている。 スタッフの何気ない視線。言いかけて飲み込まれる言葉。ひかるはそれらすべてを感じ取りながら、最後まで普段と変わらぬ態度を貫いた。「お疲れ様でした」 静かに頭を下げ、スタジオの外へ出る。 途端に、冷たい雨粒が頬を打った。 傘を開こうとした、そのときだった。「ひかる」 低く、落ち着いた声。 振り返ると、黒いセダンの窓がゆっくりと下がる。その奥に、藤崎優の横顔が見えた。「乗れ。送る」 一瞬、迷った。 だが、断る理由も見つからない。「……ありがとうございます」 助手席に乗り込むと、車内には柔らかな革の匂いが漂っていた。ドアが閉まると同時に、外界の音が遠ざかる。 雨音だけが、微かに届いている。 優は何も言わず、車を走らせた。 ワイパーが一定の速度で動くたび、フロントガラスの向こうの街灯が滲んでは消える。 沈黙。 だが、不思議と居心地の悪い沈黙ではなかった。 言葉にしなくても、何かが伝わっている——そんな感覚。 しばらくして、ひかるが小さく息を吐いた。「……優さん、私、悔しいの。でも泣きたくない」 ぽつりと零れた本音。 優は前を見たまま、すぐには答えなかった。 やがて、短く言う。「泣くな。代わりに、見返せ。」 厳しい言葉だった。 慰める響きはない。だが、その声には揺るぎない強さがある。 ひかるは思わず、横顔を見つめた。 街の光が流れるたび、優の輪郭が浮かび上がる。その表情はいつも通り冷静なのに、どこか熱を秘めているように見えた。「簡単に言いますね」「簡単じゃない。だが、お前ならできる」 即答だった。 迷いが一切ない。 その言葉に、胸の奥がわずかに震える。「どうして、そこまで言い切れるんですか」 優は小さく息をついた。 そして、初めて少しだけ表情を緩める。「俺は、お前の演技に惚れてる」 時間が、止まった気がした。 雨音さえ遠のく。 ひかるの指先が、膝の上でわずかに動く。「……演技に?」「ああ」 優は続ける。「現場に立った瞬間、お前は別人になる
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